◆一番星に口付けを
それから暫く、引っ越しの日取りが決まり、お世話になりましたと出てきた春居を待っていたプロデューサーは目をパチクリして彼女を見て、スゥッと息を吸って、吐いて、それからなぜか車の扉を二度ノックしてから彼女を車中に迎えた。ノック。そういえば事務所に入るときもノックをしろと忠告されたような気がするなぁと思考が明後日の方向へ飛んだ瞬間、プロデューサーの声がハーベストを現実に引き戻した。
「お荷物はそれだけ、ですか?」
「あっ、はい!」
「大型家電は古くなっているのでリサイクルに出すとは伺っておりましたが……しかしそれでも……」
バルバトスが驚くのも無理はない。彼女が車に運び入れたのは、三泊用程度のさほど大きくはないキャリーバックにバックパック、それからトルソー一台だけだったからだ。
「失礼ですが、そのキャリーの中には何が入っているのでしょう」
「中身ですか?原稿です」
「……原稿?」
「はい!ライブがある時にたまに配布している近況報告レターに載せているんですけど、漫画とかそういうものです」
「はぁ。他には?」
「他、ですか?」
「ええ。他です」
「鉛筆とか、」
「鉛筆」
「後は、食パン」
「食ぱ……もう一度よろしいですか?」
「食パンです。知りませんか、食パン」
「いえ、食べ物の名前自体は知っておりますよ、ええ、しかし……しかしそれを今問いただしても意味はありませんね、それでは出発しますので、どうぞ」
これ以上聞いても自分が予想した答えは返ってこないだろうと踏んだバルバトスは無理矢理話を打ち切って、後部座席に春居を乗せる。車が出ると流れていく景色は、春居が都会に出てきてから毎日見ていたそれのはずなのに、なぜかなにもかも知らない風景に見える。耳には小さくラジオの音が聞こえてくる。この数日で随分遠いところに来てしまったようだと不思議と笑みが漏れた春居。前を向いたままのバルバトスであったが、それにつられてフッと口の端を緩めた。
「いかがされました?」
「あっ、いえ、その、考えてもいなかったことが一気に起こって現実味がないなって!あっ、すごく嬉しいですよ!」
「そうですか」
「ただ、私が一人でいくら頑張っても何も起こらなかったのに、なんだかなぁ、とも」
「……」
「って、そんなこと言ったらダメですね、」
愚痴なんて、と今度はくしゃりと顔を歪めた春居はそれを隠そうとしてアハッと笑う。
「いつも来てくれてた彼にも申し訳が」
「あなたがこうして活動を続けてくださったからこそ、わたくしもあなたの存在を知ることができました」
「!」
「一芸のーーこと、この芸能という世界は、実力があるだけでは生き残れません。運があるかないか、最も重要なのはそこです」
「です、よね……」
「あなたにはそれがあったのですから、誇りにしてください」
「え、」
「当社は業界トップクラスのアイドル事務所です。以前も申しあげましたが、来ていただいたからには後悔はさせません。これからは事務所でバックアップしますので、あなたは歌うことに専念してください」
「でも私」
「根拠なく自らを卑下するのはおやめなさい。わたくしがスカウトした、その一点を信じてくだされば結構です」
ちょうど赤信号でブレーキがかかると、バルバトスは春居に視線を向けた。そこには迷いも雑念もない。あるのは圧倒的自信、ただそれだけ。春居は思う。どうして自分にそんなに入れ込んでくれるのだろうと。それともそんなことは気にする必要がなく、彼がいうとおり、彼にそれだけ何かを植え付けられた自分を褒めるべきなのか。
信号が青になり、バルバトスはまた前を向く。
「あなたのステージにはきちんとあなたがいらした」
「……!」
「わたくしは、あなたはアイドルとして輝けると確信しております。ただ、まだ荒削りな部分もありますので、レッスン諸々、全てにおいてわたくしの指示にしたがっていただく必要がございます」
「へ?」
「朝は六時に起床、それから朝食、瞑想、ストレッチを行います。その後昼食、ボイストレーニング、休息を挟み、ダンスレッスン、夕食後はリラックスタイム、つまり自由時間となります。就寝は十時です」
「は……はい!?」
「撮影など別途のスケジュールが入る場合もございます。その際はそちらが優先、他、業界マナー講習等の座学は随時行います。ここまではよろしいでしょうか」
「ま、待ってください!ちょっと待って!」
「はい。ご質問ですか?」
「ご質問ですっ!私、っ私、夜行性なので十時に眠るのは無理なんです!それに、それにやりたいこともあって」
「なりません」
「ええーっ!?」
「所属アイドルには常に最善のコンディションでいていただかなければなりません。したがって、規則正しい生活は絶対。それから」
至極スムーズな動作でハンドルを切って、止まった場所はどこかの車庫のようである。エンジン音が止むと、バルバトスは徐に春居の頬をむに、と両手のひらで挟んだ。一瞬何をされたのか理解できなかった春居だったが、その手が肩をなぞって腕の肉を摘んだとき、これが世に言うセクシャルハラスメントだァッ!と固まった。しかし口にされたのは予想しえなかった言葉で戸惑いを隠せない。
「もう少し肉づきを良くしていただかなければ」
「……はぇ?」
「なぜこのような細身であの声量が出るのか不思議でなりません。しかし倒れては元も子もありませんので三食きっちり」
「食べられませんよ!私好き嫌いも多くてとてもじゃないんですが、」
「ふむ。ああ、そういえば、あの差し入れはどうでしたか」
「差し入れ……あっ!とても、とても美味しかったです!あれってすごくいいお店のなんでしょうか?そんなものをいただいてしまって、」
「いえ、あれはわたくしの手作りです。ですから店では売っておりません。なるほど、あれは食べられると」
ええーっ!?と叫ぶ隙を与えず、車から降りたバルバトスはそのまま春居側のドアを開けて彼女も降りるように促す。そして告げる。
「食事の内容についてはわたくしのほうでなんとかいたしますので一旦はご放念ください。さて、こちらが本日からのあなたの宿舎になります。スケジュールは先程ご説明した通りですが、後にミーティングスペースにも貼り付けておきます。中の案内はこのまま行い」
「ま、まって、まってください!ご説明いただいたことは、わかりました、でもあの、それはおいておいても、一人暮らしにしてはここは大きすぎではないでしょうか……?」
春居のこの言葉は最もで、外から見ると小さなアパート丸一軒にしか見えないその建物に疑問が浮かぶばかり。しかしその質問を受けたバルバトスは、何を言っているんだと目を丸くした。
「わたくしと二人ですが」
「……ふ、たり?え?だれとだれが?」
「わたくしと、あなたの二人です」
「はい?」
「送り迎えなどもありますし、あなたを一人にするにはいささか時期尚早です。それからわたくしとあなたはビジネスパートナーであると同時にわたくしはあなたのマネージャーですので、管理はある程度いたします」
「!?」
「それから言い忘れましたが、これからあなたが住むここは魔界の一画です。ずっと暗いので眠りのサイクルも変えられるかと思いますよ」
ぷしゅっ。
これは考えてもいなかったことが一気に押し寄せたせいでショートした春居が発した音である。そんな彼女を抱きとめながら、バルバトスは笑った。
「これがあなたの日常になるまでは、片時も離れるわけにはまいりませんね」
と。
二人三脚は、始まったばかり。
「お荷物はそれだけ、ですか?」
「あっ、はい!」
「大型家電は古くなっているのでリサイクルに出すとは伺っておりましたが……しかしそれでも……」
バルバトスが驚くのも無理はない。彼女が車に運び入れたのは、三泊用程度のさほど大きくはないキャリーバックにバックパック、それからトルソー一台だけだったからだ。
「失礼ですが、そのキャリーの中には何が入っているのでしょう」
「中身ですか?原稿です」
「……原稿?」
「はい!ライブがある時にたまに配布している近況報告レターに載せているんですけど、漫画とかそういうものです」
「はぁ。他には?」
「他、ですか?」
「ええ。他です」
「鉛筆とか、」
「鉛筆」
「後は、食パン」
「食ぱ……もう一度よろしいですか?」
「食パンです。知りませんか、食パン」
「いえ、食べ物の名前自体は知っておりますよ、ええ、しかし……しかしそれを今問いただしても意味はありませんね、それでは出発しますので、どうぞ」
これ以上聞いても自分が予想した答えは返ってこないだろうと踏んだバルバトスは無理矢理話を打ち切って、後部座席に春居を乗せる。車が出ると流れていく景色は、春居が都会に出てきてから毎日見ていたそれのはずなのに、なぜかなにもかも知らない風景に見える。耳には小さくラジオの音が聞こえてくる。この数日で随分遠いところに来てしまったようだと不思議と笑みが漏れた春居。前を向いたままのバルバトスであったが、それにつられてフッと口の端を緩めた。
「いかがされました?」
「あっ、いえ、その、考えてもいなかったことが一気に起こって現実味がないなって!あっ、すごく嬉しいですよ!」
「そうですか」
「ただ、私が一人でいくら頑張っても何も起こらなかったのに、なんだかなぁ、とも」
「……」
「って、そんなこと言ったらダメですね、」
愚痴なんて、と今度はくしゃりと顔を歪めた春居はそれを隠そうとしてアハッと笑う。
「いつも来てくれてた彼にも申し訳が」
「あなたがこうして活動を続けてくださったからこそ、わたくしもあなたの存在を知ることができました」
「!」
「一芸のーーこと、この芸能という世界は、実力があるだけでは生き残れません。運があるかないか、最も重要なのはそこです」
「です、よね……」
「あなたにはそれがあったのですから、誇りにしてください」
「え、」
「当社は業界トップクラスのアイドル事務所です。以前も申しあげましたが、来ていただいたからには後悔はさせません。これからは事務所でバックアップしますので、あなたは歌うことに専念してください」
「でも私」
「根拠なく自らを卑下するのはおやめなさい。わたくしがスカウトした、その一点を信じてくだされば結構です」
ちょうど赤信号でブレーキがかかると、バルバトスは春居に視線を向けた。そこには迷いも雑念もない。あるのは圧倒的自信、ただそれだけ。春居は思う。どうして自分にそんなに入れ込んでくれるのだろうと。それともそんなことは気にする必要がなく、彼がいうとおり、彼にそれだけ何かを植え付けられた自分を褒めるべきなのか。
信号が青になり、バルバトスはまた前を向く。
「あなたのステージにはきちんとあなたがいらした」
「……!」
「わたくしは、あなたはアイドルとして輝けると確信しております。ただ、まだ荒削りな部分もありますので、レッスン諸々、全てにおいてわたくしの指示にしたがっていただく必要がございます」
「へ?」
「朝は六時に起床、それから朝食、瞑想、ストレッチを行います。その後昼食、ボイストレーニング、休息を挟み、ダンスレッスン、夕食後はリラックスタイム、つまり自由時間となります。就寝は十時です」
「は……はい!?」
「撮影など別途のスケジュールが入る場合もございます。その際はそちらが優先、他、業界マナー講習等の座学は随時行います。ここまではよろしいでしょうか」
「ま、待ってください!ちょっと待って!」
「はい。ご質問ですか?」
「ご質問ですっ!私、っ私、夜行性なので十時に眠るのは無理なんです!それに、それにやりたいこともあって」
「なりません」
「ええーっ!?」
「所属アイドルには常に最善のコンディションでいていただかなければなりません。したがって、規則正しい生活は絶対。それから」
至極スムーズな動作でハンドルを切って、止まった場所はどこかの車庫のようである。エンジン音が止むと、バルバトスは徐に春居の頬をむに、と両手のひらで挟んだ。一瞬何をされたのか理解できなかった春居だったが、その手が肩をなぞって腕の肉を摘んだとき、これが世に言うセクシャルハラスメントだァッ!と固まった。しかし口にされたのは予想しえなかった言葉で戸惑いを隠せない。
「もう少し肉づきを良くしていただかなければ」
「……はぇ?」
「なぜこのような細身であの声量が出るのか不思議でなりません。しかし倒れては元も子もありませんので三食きっちり」
「食べられませんよ!私好き嫌いも多くてとてもじゃないんですが、」
「ふむ。ああ、そういえば、あの差し入れはどうでしたか」
「差し入れ……あっ!とても、とても美味しかったです!あれってすごくいいお店のなんでしょうか?そんなものをいただいてしまって、」
「いえ、あれはわたくしの手作りです。ですから店では売っておりません。なるほど、あれは食べられると」
ええーっ!?と叫ぶ隙を与えず、車から降りたバルバトスはそのまま春居側のドアを開けて彼女も降りるように促す。そして告げる。
「食事の内容についてはわたくしのほうでなんとかいたしますので一旦はご放念ください。さて、こちらが本日からのあなたの宿舎になります。スケジュールは先程ご説明した通りですが、後にミーティングスペースにも貼り付けておきます。中の案内はこのまま行い」
「ま、まって、まってください!ご説明いただいたことは、わかりました、でもあの、それはおいておいても、一人暮らしにしてはここは大きすぎではないでしょうか……?」
春居のこの言葉は最もで、外から見ると小さなアパート丸一軒にしか見えないその建物に疑問が浮かぶばかり。しかしその質問を受けたバルバトスは、何を言っているんだと目を丸くした。
「わたくしと二人ですが」
「……ふ、たり?え?だれとだれが?」
「わたくしと、あなたの二人です」
「はい?」
「送り迎えなどもありますし、あなたを一人にするにはいささか時期尚早です。それからわたくしとあなたはビジネスパートナーであると同時にわたくしはあなたのマネージャーですので、管理はある程度いたします」
「!?」
「それから言い忘れましたが、これからあなたが住むここは魔界の一画です。ずっと暗いので眠りのサイクルも変えられるかと思いますよ」
ぷしゅっ。
これは考えてもいなかったことが一気に押し寄せたせいでショートした春居が発した音である。そんな彼女を抱きとめながら、バルバトスは笑った。
「これがあなたの日常になるまでは、片時も離れるわけにはまいりませんね」
と。
二人三脚は、始まったばかり。