◆一番星に口付けを

 明日のことを考えているうちにいつの間にか眠っていたらしい春居は、小鳥の囀りによって眠りの淵から引き上げられた。オンボロアパートでは毎朝屋根の上でちゅんちゅんと大合唱が繰り広げられる。壁が薄く窓の立て付けも悪いので五月蝿いったらない。春居はそもそもが夜行性なので、朝の新聞配達を終えて帰宅した後、夕方の配達が始まる辺りまで眠るのが日課だった。だからこのように朝早くに起こされるのはちょっと苦痛である。今日はライブの翌日なので、念のために朝のシフトは休みを取っておいて正解だったとのそのそと起き上がってトイレに向かう。洗面台で見た自分の顔は最悪に疲れていて、しかも畳の痕が額にべったりついていた。なんで布団の上で眠らなかったんだと自分を呪ったけれどもう遅い。出かける時間までに取れてくれるといいのだが。
「服……どうしよう……」
 大企業にジャージで行くわけにはいかないし、かといってリクルートスーツなんて持っていない。ここ数年人と会うこともなかったので大した余所行きの洋服だってなかった。あるのは大切に大切にしてきた、ステージ衣装だけ。
「アイドル事務所、だもんね……私の正装で行ったって、間違いじゃない、よね?」
 腹を括っていつもの衣装に着替え、しかし移動するには非日常すぎるかとまた脱いでいつもの衣装袋にそれをしまった。着替えるのは駅のトイレでにしよう。
 そわそわしながら準備を済ませ、結局何も手につかないまま待ち合わせの時間が近づいた。
 約束の午前十時の五分前。
 春居は確かにハーベストの衣装に身を包み、事務所のビルの前に立っていた。と言っても、正確には、事務所の前ーーの、電柱の影に立っていた、のだが。
「待って無理無理無理無理やっぱり私なんかがこんなところに入って行くなんて無理だよおおおおおお」
 入り口には警備員、その奥に見えるのが窓口だろうがそこには遠目でも真っ赤な口紅で主張の激しいインフォメーションガールが座っている。たまに入っていくのは有名アーティストだろうか、「生命」をほとばらせた快活とした人ばかりだ。恐ろしくてあそこを自分が跨ぐことなんてできるわけないと萎縮して、もう三十分以上は電柱の影で待機しているところだった。
 そうこうしているうちに、時計の針が十時を指す。本当に時間ちょうどに窓口に現れたのは先日自分に名刺を渡してきた男で、インフォメーションガールと二言三言話したと思えば、入り口から外へとあゆみ出てきた。ギョッとして逃げようとしたが、それよりも早く相手が春居のことを視界に収め、「おや」と口を動かす。見つかってしまっては出て行かないわけにもいかず、春居はおずおずと入り口に近づいた。
「いらっしゃらないので道に迷われたのかと思いました」
「い、いえ……その、そんなことは、ない、デス……」
「どうしてあんなところにいらしたのかお伺いしても?」
「その……私なんかが入ったら、笑われるんじゃないかと……」
「わたくしがお呼びしたのです。そのようなことは絶対にありませんが、お気持ちはお察ししましょう。しかし中に来ていただかないとお話もできませんので、よろしいですね?」
 有無を言わさないその口調には頷きを返すしかなく、トボトボとバルバトスの後をついていく春居はいつもよりも随分と小さく見えた。
 思った通り、警備員にもインフォメーションガールにもジロジロと見られたが、その視線もその先にある扉を抜けてしまえば途絶える。ホッと息を吐いたのも束の間。エレベーターが止まったのは最上階で、それを目にした瞬間、ここから飛び降りてやろうかと思ったのはしかたなかった。最上階の表示の上に小さく書いてあったのは「社長室」と、この世で一番目にしたくない表記だったからである。
「ば、ババババババルバトスさん!?あの、ちょ、」
 春居が吃っている間に、無情にもポーン!と最上階へ到着したことを告げる音が鳴り、ガーッとエレベーターの扉が開く。背中に手を添えられて外に出れば、そこはもうふかふかの絨毯が敷き詰められたただっぴろい社長室で、一直線先にいたのはいかにも風格のある男。その人は普段テレビを見ない春居でも知っている、デビルキャニオンの次期社長……といっても現社長と言っても差し支えないほどに彼がこの会社を動かしているという噂だが、とりあえず現役職は次期社長のディアボロであった。
「坊っちゃま。ただいま戻りました」
「ああバルバトス!待っていたよ。すると彼女が?」
「ええ、わたくしが直々にスカウトして参りました。変わり映えのないアイドル業界を湧かす一縷の望み、ハーベストこと春居さんです」
「は、はぁ!??!?!?」
 あまりに大仰な紹介にまともな言葉も発せない春居を差し置いて話は進む。
「話には聞いていたよ!よく来てくれたね春居、我が社と契約してくれたとは嬉しい限りだよ、本当にありがとう!」
 なぜかもう契約したことになっている。嘘でしょーー!!と胸の内で叫ぶも、それはディアボロには届かない。
「いえ、坊っちゃま。契約は今日この場でしていただくことになっております」
「あれ?そうだったかい?まぁいいじゃないか、どのみちうちのアーティストになってくれることには変わりない!」
「そうなのですが……はぁ、申し訳ありません。そういうわけで、本日は契約を交わしていただくためにお呼びしました。我が社は抱えたアーティストの生活を含め、マネジメントまで全てを一手に担わせていただいております。つまり、あなたの生活に関しては衣食住に加え、ボイストレーニングやダンスレッスンを手配いたします。もちろんそれらは無償提供。また、給料もお支払いいたします。悪いお話ではございません。メジャーデビューも確約いたします。他の事務所と比べてもかなり高待遇であることは間違いございませんし、断られる理由はないかと」
「わ、わた、わたしっ」
 とんでもない会話が交わされているが、今の今まで春居は何も聞かされていない。心の準備もしていないのに契約だなんてそんなこと、と思い、なんとかかんとか一旦考えますとの言葉を口にしようとしたその時だった。また、ポーンとエレベーターの音が鳴って、転がるようにして一人の —— 青髪の青年が飛び出してきて、三人の前で止まった。
「ハーベストちゃんがうちの所属になるって本当なのバルバトス!??!!?」
 開口第一に吐き出された言葉に最もポカンとしたのは春居本人だ。私の活動名を知っている人がこんなところに?と驚きで今起こってること全てがすっぱ抜けてしまった。それから青髪はディアボロ、バルバトスと目で追って、最後に春居に目を向けて数秒。カァアアア!と顔を真っ赤に染め上げてビョン!と信じられないほど飛び上がるや否や、キャァ!と女子があげるような甲高い声をあげて部屋のふちのほうの柱の影まで走っていってしまった。三人が驚きで目を見開いていると、遠くからボソボソと、しかしよく通る声で彼は言った。
「は、はーべすと、ちゃん、うちと、け、けいやく、するんです、かっ」
「えっ、あ、その……」
「あの、ここ、いいじむしょ、だからっ!それだけは、し、しんじてっ」
 喋る間、彼のことをまじまじと見つめているうちに、彼の姿に重なるものが春居の脳内に浮かぶ。
「……あなた、もしかして、いつもドセンで応援してくれている方……?」
「!?認知されてる!?」
「あっ、やっぱり……!わたしっ、いつもあなたが来てくれるから頑張れたんです!!本当に、本当に感謝してます!!」
「えっ!?わっ!ひゃ!?×α○!△×あぇ♪%$!?!?」
 最後の方は何を言っているのかさっぱりであったが、春居は逆にそれでなぜか気持ちがストンと整理できて、萎縮していたのが嘘であったかのように背筋がピンと伸びる。それはまるでステージに立ったハーベストそのものだった。
「いつも本当にありがとうございます!また……またいつかライブするときはブログ書きますから、会いに来てくださいね」
「…………!!ふぁい……っ!」
「あの!バルバトスさん!」
「はい」
「私、ただの地下アイドルで、全然チケット売上の実績もないし観客だって最高動員三人だけど、それでも……それでも叩き上げてもらえるんでしょうか」
 その言葉に、ディアボロとバルバトスが視線を合わせ、それから春居を見つめるとこくりと頷いた。
「もちろんです。それがマネージャーの仕事ですから。あなたをトップまで連れて行きます」
「っ……!よろしくお願いします!」
 かくして春居 —— 否、ハーベストはデビルキャニオン所属となり、ここからアイドルとしての新しい一歩が始まったのだった。

 契約書へのサインを終え、一通りの説明がなされると、すぐに引越しの準備が行われるということと、アルバイトなどをしている場合はなるべく早く辞めること、これからのスケジュールは追って連絡があるという内容を告げられ、今日のところは解散となった。
 別れ際に聞かれたのは、契約とは全く関係ない「昨日渡した差し入れは口にあったか」ということで、知らない人から渡されたものだったからそのままにしてあると返した春居に、「わたくしたちは本日から業界を渡り歩くパートナーです。それであれば食べていただけますよね」と念押しされてしまったので、帰るが早いかそれを口に含み悶絶した春居の運命は、結局のところ決まりきっていたようだ。
「都会のお菓子、うまぁっ!!」
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