◆一番星に口付けを

 狭い控室の中、出演者の声が入り混じる。お疲れ様でしたー!との声を皮切りに、缶ビールの蓋が開けられた。しかし挨拶もそこそこに女が一人扉を開けて出て行った。残された者たちは、あるものは訝し気に眉を顰め、またあるものは「あの子はいつもノリが悪いの」と笑った。彼女は他人の意見そんなものに、もう興味は持っていなかった。お世辞もやっかみも、全部全部嫌いだった。
 こんなライブ会場にはまともな更衣室やメイクルームはない。トイレを借りてそさくさと衣装を脱ぎ、ジャージに着替え、女は会場を後にーーするつもりだったが、ライトの消えたステージが後ろ髪を引っ張った。このライブ会場を出るには、つい先ほど自分が登っていたステージの前を通り過ぎなくてはならない。そこを通るとどうしても悲しい気持ちになるのは否めず、ちょっとだけ意気消沈してしまう。
「はぁ……今日もチケット余っちゃったな……」
 と。
 女の名前は春居。「ハーベスト」名義でいわゆる地下アイドルとして活動を行なっている。とある作詞コンテストで優勝したのをきっかけに音楽業界に興味が湧き、両親の反対を押し切って田舎から出てきてソロ活動を始めた。躊躇いはなかった。自分はできるんだ、と思い込んでいた。コンテストの表彰会で行った会場はきらきら輝いていて、事務所の社長から聞かされた話は彼女の心を高揚感で満たした。私にはきっと才能がある、成功できるんだと思えた。だが、現実はそう甘くなかった。都会の空気に馴染めなかったり、思うように活動ができないかないまま、事務所とのコンタクトは途絶えた。
 そこからはとにかくがむしゃらだった。イベントがあれば地下アイドル、ない時は新聞配達のアルバイターとしてなんとか生活を切り盛りする、よくある「夢見る若者」のままなんとなく時が過ぎて、今に至っている。
 件の社長が認めた通り、彼女は確かに才能の塊だった。しかし運がなかったのだ。そういう輩は、都会には山ほどいる。多くは現実に打ちひしがれ、いつしか瞳から光は消える。春居自身も、一緒にステージに上がった人間がそうやって活動を辞めていくのを何度も見てきた。控え室では今も愚痴大会が開かれているんだろう。なんの収穫もなく、虚しいだけの時間が、流れているんだろう。無謀だと、いつもそう思う。底辺同士の関わり合いは何も生まないことを、春居はよく知っていた。相手のライブのチケットを買わされ、こちらのチケットも買ってもらって、でもそれも一度限りのやり取りだ。連絡先の交換をしたところでメモリーを食うだけでその先は何も用意されていない。だから馴れ合わない。そう決めた。
 そんなことを考えながらもふと、そういえば、と思い出したのは、自分が今立っている客席ど真ん中を陣取って自分のステージを見ていた男のこと。
「今日はなんか会場に似合わない人が立ってたなぁ」
 誰のお客さんだったのかわからないが、あまりにも姿勢がよく、ただ真っ直ぐ立っていたので、記憶に強く残っていた。そんなに楽しくないなら帰ってくれた方が気分が楽なんだけどな、なんて思ってしまったことは秘密だ。
「ま、私には関係ないか」
 ステージに対してお疲れ様でしたとペコリ、頭を下げて、踵を返す。外は雨が降っていた。
「傘、持ってないや……」
 自分よりも大事な手作りの衣装が入ったビニール袋。それをギュゥっと胸に抱え、自らが濡れるのは大したことじゃないと呟いて。雨の中に飛び出した小さな身体を見ているものは、誰もいなかった。一足しか持っていないスニーカーは知らないうちに水浸しになっていた。それは決して、雨のせいだけではい。

 次の週のライブはいつもよりは盛況だった。と言っても、いつもハーベスト名義でチケットを買ってくれ、ステージ最前列ドセンでオタ芸を打ってくれる青い髪の男性の他に、たまに来てくれる見知ったファンが二人いただけだったけれど。ただやっぱりその日も、客席のど真ん中で直立不動で立っている男はいた。振りをするわけでもなく応援するわけでもなくリズムを刻むでもなく、ただ、突っ立っているだけのその男は、じっとハーベストのステージを見ていた。
 その次のライブも、次の次のライブにも、その男はいた。
 たまにくるファンはおらず、オタ芸の彼しかいない日にも、その男はただひたすらステージを見ていた。男が自分のライブ以外は見ていないことを彼女が初めて知ったのは、たまたま自分がトップバッターだからだった。自分のステージが終わった後にすぐ帰るのは体裁が良くないために、人のライブのサクラとして客席に残ることは暗黙の了解になっているのだが、その時に、彼がいないことに気づいたのだ。お客側はお目当てを見たらいなくなる人も多い。だから自分を見るために来ているのだとすぐにわかった。なお、オタ芸の彼はいつも帰りこそしないものの、ハーベストのステージ中以外はドセンにいた時の気合いはどこへ行ったのかと思うほどに萎縮して縁っこの壁にもたれかかり、残ってもいないワンドリンクをじゅこじゅこ言わせながらストローで啜っているのが常だ。
「でもあの人、私指定でチケット買ってくれてるわけでもないのよね……」
 本当に思い当たる節がまるでない。
 結局その日のライブも首を捻っているうちに終わってしまった。今日も今日とて、そさくさと帰り支度を終え、このまま家に一直線。それから、少ないお給料をコツコツ貯めて布とスパンコールを買うことができたので、やっとのことで作り始めた新衣装の作成に取り掛かるつもりだった。それなのに。
 地下にあるライブ会場から地上へ、急な階段を踏みしめながら上がったところにいたのは、中央陣取り背筋ピーンの君(春居命名)で、頭が真っ白になった。
「……」
「あ、あの……?」
「わたくし、こういうものです」
「へ?」
 ピッと、一流のサラリーマンがするようなカチッピタッとした綺麗な所作で渡されたのは名刺。そこには、『デビルキャニオン アーティスト第一部門 プロデューサー バルバトス』と書かれている。
「え、と……デヴィルキャニオン……ってあの!?!?」
「あなたにお話があります。ここではなんですので、明日の午前十時にそこにある住所の一階にあるインフォメーションにお越しください。話は通しておきます。忘れていただきたくないことが一つだけ。弊事務所に入る際は、インフォメーションを通り過ぎたところにある扉を二回ノックしてからお入り願います」
「はぇ?」
「もちろんアーティスト側に不利のあるようなことは一切致しません。ああそれから、こちら差し入れです。本日のライブもとてもよかったです。素晴らしい時間をありがとうございました」
「へ!?あ、これはご丁寧にどうも……?」
「それではまた明日」
 くるりと一部の乱れもない動きで振り返ると、二度と振り返らずに彼は去っていった。
 残された春居はそれからきっかり十分後に意識をなんとか取り戻してそこから立ち去ったのだが、家に帰ってからも緊張で眠ることなど叶わなかったことだけは、ここに記しておこう。
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