◆一番星に口付けを
ごろごろごろ。ホテルからチェックアウトし、トランクを引きながら事務所に初出勤をキメた私は、指定された部屋に入った途端にバルバトスさんからこう言われた。
「それでは今入ってきた扉を二回ノックし、そこから出て行ってください」
「……はい?」
社長秘書であるバルバトスさんの言うことに私が口を出せるわけもない。けれど、もしかして昨日の顔合わせで何かやらかしたのかと走馬灯のごとく巡る記憶を辿ってしまうのは仕方のないことだろう。
(失礼なことをした覚えは全くない、もん。昨日契約書にサインしたのだって顔合わせの後だし、もしなんかやらかしてたんだったらサインさせずに帰せばよかったはず。そうでなかったんだからきっと別の要件だよ)
自分で自分を鼓舞するが、あまり効果はない。とはいえグズグズしているだけにもいかないから、意を決して扉をトントンとノックしてからノブを引いた。
そして。
目の前に現れたその屋敷の大きさに唖然とする。
「……え?」
振り返るとそこはちゃんと事務所の一室で、でも前を向けば扉の向こうは魔界の森の奥である。どういうことなのか理解できずにいる私の背中を促し、扉の外へ押し出した。
「あ、あの、」
「ちょうどいい機会ですので、一つ質問を。ここはどこですか」
「へ?……えっと、魔界、デス」
「そして魔界に住むものは誰ですか」
「……悪魔?」
「正解です。悪魔は魔術の類を使います。これはわたくしのそういった能力です。すなわち、空間を繋ぎました。アイドルにトラブルはつきものですので」
「はへ……?」
「この洋館はあなたが担当するNAGEKIの宿舎です」
「しゅく……はぁ!?これがですか!?」
改めて視界に入れた建物は宿舎という言葉の響きからでは想像もできない屋敷。一体何坪あるんだろう。私は度肝を抜かれたが、バルバトスさんはどこ吹く風だ。
「本日、NAGEKIのスケジュールはございません。丸一日で彼らの生活ぶりを把握し、問題点を書き出して提出してください」
「一日!?」
「それからこちら、NAGEKIのメンバーが各々持っている個人の仕事リストです。こちらは先二年のスケジュール。すでに埋まっているところもありますので注意しておいてください」
渡されたリストは結構分厚いファイルに纏められていて、こんなの売れっ子以外の何者でもないじゃないかと思わせたが、そうは問屋が卸さないようであった。
「あなたの使命は昨日申し上げた通り、彼らを三界一のアイドルにすることです。彼らは魔界・天界ではある程度の名声を得ていますが、ここに人間の好みを混ぜていき、そこまで引き上げてもらわなくてはなりません。よろしくお願いしますよ。それではわたくし、この後のスケジュールが押しておりますので」
「えっ、あっ、ま、」
パタンと、無情にも扉は閉められて、私は屋敷の前に一人取り残されてしまった。暫く立ち尽くしていたものの、ずっとこうしているわけにもいかない。こんな場所まで送り届け……といえるのかわからないが、連れてきてくれたのだって、恐らくはアイドルが住んでいる場所を隠すためなのだろうから。
「……って言っても、これ、開くの?」
第一関門はこの古い柵である。少し手で押してみたが開かない。普通に考えたらオートロックか何かで制御されていそうだし、実際そうなのだろう。けれど問題は、インターホンの類が見当たらないことである。ザッと見回しても防犯カメラもなし。一体どうやって中に入るのか疑問だ。先程のバルバトスさんの能力のことを踏まえると、もしやこの柵の中に送ってもらう必要があったのではないかと不安に駆られる。
「うーん……弱った……そもそも私が今ここに来たことに誰も気づかなかったらずっとこのままってこと?」
口に出して漸く、ああそういうことかと合点がいった。きっとそうに違いない。彼らはあまり私に期待をしていなかった。つまり、私の試練はここから始まっていて、それを気づかせることができないようではお払い箱?
「そんなの嫌よ!せっかく掴んだチャンスなのに負けるもんですか!」
なめてんじゃないわよ!と鼻息荒く柵を掴んで足をかけ、自分だけでも乗り越えれば鞄なんてどうにでもな——
「やめるんだ」
「、わ!?」
声がすると同時にふわりと身体が宙に浮く。あまりに軽々と持ち上げられたので驚きのあまりバタバタと足を動かしたが、なんの抵抗にもならなかった。拘束されたのも束の間、とん、とまた地面に逆戻りした私はそのまま上に視線を向ける。そこにいたのは昨日紹介されたメンバーの一人。確か名前は。
「るしふぁー、さん」
「覚えたのか」
「当たり前です。担当アイドルの顔と名前くらい覚えられなくてどうしてマネージャーなんてできますか?」
「……とんだお転婆だと思ったが、最低限のことはやれるようだな」
「む。あのですね。私が人間だからってバカにしているようですが、仕事をするにあたって人間でも悪魔でも心の持ち方は変わりませんよ?これでも一応業界歴は長いんです。仕事面においてとやかく言われるようなことは」
「っくく……」
「え?」
「ふ、ふはっ……!」
突然くしゃりと表情が崩れたと思ったら、何故だか彼は控えめに笑っている。なんで、と口に出すよりも先に弁解が入った。
「すまない……っくく……君は俺たち悪魔が怖くないのか?」
「悪魔が怖くて魔界に来るわけないでしょ!?というか、あなたたち、人間と見た目変わらないし怖がれってのが無理な話ですよ」
「では俺が悪魔の姿になったら君はどうなる」
その言葉でピンと空気が張り詰めた。冷たい風が吹き抜けた気がして、でも薄ら汗が背を伝う。さっきまで笑っていた顔に影が差し、彼の瞳が鈍く紅く光を増した気がした。
(これは、マズイやつ)
直感的にそう思った私は、バッと自分の手で自分の目を遮った。数センチ先の彼の吐息が手の甲にかかる。なぜだか見つめ合っていた時よりも数段恥ずかしくなり、体温上昇が激しい。
しかし私の直感は正しかったようで、次の瞬間空気が和らいだと思ったら、ぽん、と頭を撫でられた。目隠しを解いてそろりと彼を見ると、そこにいたのは紛れもなくルシファーさんだった。今感じたものの正体は一体なんだったろうか。
「来い。屋敷の中を案内しよう」
私が首を捻る間も無く彼は私の手を取った。
「早くしろ。バルバトスから要件は聞いている。一日かけて弟たちの問題点を全て洗い出せと。俺もついてや」
「いえ、それはちょっと違います。私はみんなの素行を見てレポートしてほしいと言われたので、弟たちじゃなくてあなたも対象ですから」
「俺が何か問題を起こすとでも?」
本気の本気で意味がわからないといった顔つきで額に眉を寄せるが、こちらにしたらなぜ自分だけが外れると思ったのかを問いたい。
「私はメンバー全員のことを平等に知りません。ですから七人みな同じだけ観察させてもらいます。ちょうどよいのでまずはあなたのことからお伺いしても?」
「ははっ!怖いもの知らずとは君のためにある言葉なのか?くくっ……!いいだろう。まずは俺の部屋へ案内しよう。知りたいことがあるならなんでもこたえてやる」
「その言葉、忘れませんからね!」
「わかってる。君が満足するまで付き合うさ」
ぽんぽんとあやすように頭を撫でられては子ども扱いされたようでなんだか恥ずかしい。こちらに来る前に渡された「三界共存のために知っておくべき五十のこと」というパンフレットに書いてあった「魔界の住人の年齢はゆうに千を超えるモノがほとんどである」の記述に照らし合わせれば、私は赤ちゃんと変わらない生き物なんだろうけど。撫でられた髪を手櫛で整えている間に私のカートはルシファーさんの手の中にあったあたり、彼は紳士的なのかもしれない。
「に、荷物っ!アイドルにそんなことさせるわけにはっ」
「君は俺たちのためにその身を捧げてくれるんだろう?それならこれくらいは朝飯前というものだ」
ふわりと細められた瞳に、とくり、跳ねた心臓には今はまだ、気づかないふりをして。
「それでは今入ってきた扉を二回ノックし、そこから出て行ってください」
「……はい?」
社長秘書であるバルバトスさんの言うことに私が口を出せるわけもない。けれど、もしかして昨日の顔合わせで何かやらかしたのかと走馬灯のごとく巡る記憶を辿ってしまうのは仕方のないことだろう。
(失礼なことをした覚えは全くない、もん。昨日契約書にサインしたのだって顔合わせの後だし、もしなんかやらかしてたんだったらサインさせずに帰せばよかったはず。そうでなかったんだからきっと別の要件だよ)
自分で自分を鼓舞するが、あまり効果はない。とはいえグズグズしているだけにもいかないから、意を決して扉をトントンとノックしてからノブを引いた。
そして。
目の前に現れたその屋敷の大きさに唖然とする。
「……え?」
振り返るとそこはちゃんと事務所の一室で、でも前を向けば扉の向こうは魔界の森の奥である。どういうことなのか理解できずにいる私の背中を促し、扉の外へ押し出した。
「あ、あの、」
「ちょうどいい機会ですので、一つ質問を。ここはどこですか」
「へ?……えっと、魔界、デス」
「そして魔界に住むものは誰ですか」
「……悪魔?」
「正解です。悪魔は魔術の類を使います。これはわたくしのそういった能力です。すなわち、空間を繋ぎました。アイドルにトラブルはつきものですので」
「はへ……?」
「この洋館はあなたが担当するNAGEKIの宿舎です」
「しゅく……はぁ!?これがですか!?」
改めて視界に入れた建物は宿舎という言葉の響きからでは想像もできない屋敷。一体何坪あるんだろう。私は度肝を抜かれたが、バルバトスさんはどこ吹く風だ。
「本日、NAGEKIのスケジュールはございません。丸一日で彼らの生活ぶりを把握し、問題点を書き出して提出してください」
「一日!?」
「それからこちら、NAGEKIのメンバーが各々持っている個人の仕事リストです。こちらは先二年のスケジュール。すでに埋まっているところもありますので注意しておいてください」
渡されたリストは結構分厚いファイルに纏められていて、こんなの売れっ子以外の何者でもないじゃないかと思わせたが、そうは問屋が卸さないようであった。
「あなたの使命は昨日申し上げた通り、彼らを三界一のアイドルにすることです。彼らは魔界・天界ではある程度の名声を得ていますが、ここに人間の好みを混ぜていき、そこまで引き上げてもらわなくてはなりません。よろしくお願いしますよ。それではわたくし、この後のスケジュールが押しておりますので」
「えっ、あっ、ま、」
パタンと、無情にも扉は閉められて、私は屋敷の前に一人取り残されてしまった。暫く立ち尽くしていたものの、ずっとこうしているわけにもいかない。こんな場所まで送り届け……といえるのかわからないが、連れてきてくれたのだって、恐らくはアイドルが住んでいる場所を隠すためなのだろうから。
「……って言っても、これ、開くの?」
第一関門はこの古い柵である。少し手で押してみたが開かない。普通に考えたらオートロックか何かで制御されていそうだし、実際そうなのだろう。けれど問題は、インターホンの類が見当たらないことである。ザッと見回しても防犯カメラもなし。一体どうやって中に入るのか疑問だ。先程のバルバトスさんの能力のことを踏まえると、もしやこの柵の中に送ってもらう必要があったのではないかと不安に駆られる。
「うーん……弱った……そもそも私が今ここに来たことに誰も気づかなかったらずっとこのままってこと?」
口に出して漸く、ああそういうことかと合点がいった。きっとそうに違いない。彼らはあまり私に期待をしていなかった。つまり、私の試練はここから始まっていて、それを気づかせることができないようではお払い箱?
「そんなの嫌よ!せっかく掴んだチャンスなのに負けるもんですか!」
なめてんじゃないわよ!と鼻息荒く柵を掴んで足をかけ、自分だけでも乗り越えれば鞄なんてどうにでもな——
「やめるんだ」
「、わ!?」
声がすると同時にふわりと身体が宙に浮く。あまりに軽々と持ち上げられたので驚きのあまりバタバタと足を動かしたが、なんの抵抗にもならなかった。拘束されたのも束の間、とん、とまた地面に逆戻りした私はそのまま上に視線を向ける。そこにいたのは昨日紹介されたメンバーの一人。確か名前は。
「るしふぁー、さん」
「覚えたのか」
「当たり前です。担当アイドルの顔と名前くらい覚えられなくてどうしてマネージャーなんてできますか?」
「……とんだお転婆だと思ったが、最低限のことはやれるようだな」
「む。あのですね。私が人間だからってバカにしているようですが、仕事をするにあたって人間でも悪魔でも心の持ち方は変わりませんよ?これでも一応業界歴は長いんです。仕事面においてとやかく言われるようなことは」
「っくく……」
「え?」
「ふ、ふはっ……!」
突然くしゃりと表情が崩れたと思ったら、何故だか彼は控えめに笑っている。なんで、と口に出すよりも先に弁解が入った。
「すまない……っくく……君は俺たち悪魔が怖くないのか?」
「悪魔が怖くて魔界に来るわけないでしょ!?というか、あなたたち、人間と見た目変わらないし怖がれってのが無理な話ですよ」
「では俺が悪魔の姿になったら君はどうなる」
その言葉でピンと空気が張り詰めた。冷たい風が吹き抜けた気がして、でも薄ら汗が背を伝う。さっきまで笑っていた顔に影が差し、彼の瞳が鈍く紅く光を増した気がした。
(これは、マズイやつ)
直感的にそう思った私は、バッと自分の手で自分の目を遮った。数センチ先の彼の吐息が手の甲にかかる。なぜだか見つめ合っていた時よりも数段恥ずかしくなり、体温上昇が激しい。
しかし私の直感は正しかったようで、次の瞬間空気が和らいだと思ったら、ぽん、と頭を撫でられた。目隠しを解いてそろりと彼を見ると、そこにいたのは紛れもなくルシファーさんだった。今感じたものの正体は一体なんだったろうか。
「来い。屋敷の中を案内しよう」
私が首を捻る間も無く彼は私の手を取った。
「早くしろ。バルバトスから要件は聞いている。一日かけて弟たちの問題点を全て洗い出せと。俺もついてや」
「いえ、それはちょっと違います。私はみんなの素行を見てレポートしてほしいと言われたので、弟たちじゃなくてあなたも対象ですから」
「俺が何か問題を起こすとでも?」
本気の本気で意味がわからないといった顔つきで額に眉を寄せるが、こちらにしたらなぜ自分だけが外れると思ったのかを問いたい。
「私はメンバー全員のことを平等に知りません。ですから七人みな同じだけ観察させてもらいます。ちょうどよいのでまずはあなたのことからお伺いしても?」
「ははっ!怖いもの知らずとは君のためにある言葉なのか?くくっ……!いいだろう。まずは俺の部屋へ案内しよう。知りたいことがあるならなんでもこたえてやる」
「その言葉、忘れませんからね!」
「わかってる。君が満足するまで付き合うさ」
ぽんぽんとあやすように頭を撫でられては子ども扱いされたようでなんだか恥ずかしい。こちらに来る前に渡された「三界共存のために知っておくべき五十のこと」というパンフレットに書いてあった「魔界の住人の年齢はゆうに千を超えるモノがほとんどである」の記述に照らし合わせれば、私は赤ちゃんと変わらない生き物なんだろうけど。撫でられた髪を手櫛で整えている間に私のカートはルシファーさんの手の中にあったあたり、彼は紳士的なのかもしれない。
「に、荷物っ!アイドルにそんなことさせるわけにはっ」
「君は俺たちのためにその身を捧げてくれるんだろう?それならこれくらいは朝飯前というものだ」
ふわりと細められた瞳に、とくり、跳ねた心臓には今はまだ、気づかないふりをして。