■2022/4までの読み切りログ(ルシファー)
次期魔王ディアボロの右腕の座は伊達じゃない。俺の元には毎日毎日、執行部という名では収まらないほど多岐にわたる仕事が山ほど回ってくる。
今日も締め切り間近の仕事を抱えて帰った時点でかなり遅い時間ではあったが、それから暫く書斎に籠っていたせいで時間感覚が麻痺している。時計を見ればとうの昔に日付を越えていて、仕事が終わったのはいいものの、明日の朝が心配になった。
俺は朝が苦手なので、シャワーはむしろ明日の朝でもいい、が、このままでは変に目が冴えて眠れそうにないからと、キッチンへと向かった。こんなときはほんのり温めたデモナスを飲むのがよい。
誰もが部屋に閉じこもるこの時間。静かな館を歩き、着いた先のキッチンにはしかし、俺の予想に反して明かりが灯っていて少しばかり驚いた。
(この時間に起きているのはレヴィくらいだが……あいつは部屋に篭っているはずだな)
別に誰がいたところでどうと言ったこともないのだが、純粋な好奇心で頭の中に次々と兄弟の顔を浮かべながら、こいつは違う、あいつも違うと消去法を進める。辿り着いたころには全員にバッテンがついたので、見て確かめるかと踏ん切りもついた。
そして俺の目に飛び込んできたのは。
「なんだ、おまえだったのか」
「あれ。ルシファーだ。こんな時間まで仕事?」
耳に柔らかく響く声はおおよそ男の悪魔が発するものではない。瞳をくるりと見開いてこちらを見たのは彼女だった。
「ああ、そうだ。なかなかに骨の折れる書類ばかり残っていてな。やっと片付いたところだ」
「そっかぁ、お疲れ様」
「仕事だからな。仕方がないさ。…おまえは…眠れないのか?」
「あー…いや、眠れないっていうか…うーん、まぁそうかな、うん、眠れなかった。だから、ホットミルクでも、って」
「…そうか。俺も温かいものを飲みにきたところだ」
歯切れが悪いのは理由を話したくないからかもしれない。こんな時間に起きて一人物想いに耽るくらいだ。こちらから聞かないのも一つの選択肢だろうと、湯を温め始める。
シュンシュンと鳴るケトルが静かな空気を揺らす以外の音はしない。
静かな空気がキッチンに満ち始めたその時だった。ポツリと彼女の声が耳に届いたのは。
「…あのさルシファー」
「…どうした?」
彼女の方は向かず、努めて静かに返事をする。
「お湯の準備ができるまで…その、少し、話してもいい、かな」
「ああもちろん」
「ありがと」
俺の答えに心底ほっとしたような声が返ってくる。そうして訥々と話しはじめた内容は、とても人間らしい悩みのように思えた。
「私、今まではすごく嫌なことがあってもいつか忘れられると思って我慢することの方が多かったんだけど…」
コトリとマグカップを置くと彼女は一言ずつ自分て噛み締めるように言葉を発してゆく。
「譲れないものって、あるじゃない?」
「そうだな」
「それを否定されてさ、我慢とか笑って流すとか、結構辛かったんだよね」
「なるほど」
湯が湧き、火を止めると、グラスに湯を注いでカップを温める。そこでやっと彼女の方を向けば、彼女のほうも視線をこちらに向けて苦笑した。
「でもそうしないといけなくて、それって強がってるだけなのに、あなたは強いから大丈夫だねって決めつけられたりしてさ。言わないだけでどこで傷ついてどこで泣いてるかしらないくせにって…あは、まぁそんなのさ、そうやってハッキリ言わない私が悪いんけどね?」
そんな感じだったから、魔界にいると悪魔のが優しく思えてなんだか面白くて。
そんな風に口にしながらも、面白いなんて表情は一切できていないことを本人はわからないらしい。苦しい、悲しい、助けてほしいと、目が、唇が訴えているのには、きっと気づかないフリをしてやるのが優しさなんだろうな。
温まったグラスから湯を捨ててデモナスを注ぎ、そこにまた少し湯を加える。グラスから湯気がふわりと立ち、デモナスの良い香りを運んだ。一口口に含んでグラスを置く。それから一歩、彼女に近づき、片手をテーブルにつく。もう片方は、彼女の髪を撫でることに使った。
「っ、」
「強がることは悪いことではない。が、それを他人にどうこう言われて評価されるのは、確かに気分が悪いな」
「…うん」
「それなら、そういう時こそ俺に甘えるのがいいと思うが、どうかな」
そのまま肩を引き、抱き寄せた身体は夜の空気に冷やされてひんやりとした。かなり長い時間ここにいたのだろう。
今日、彼女の身に起こったことが何なのか、その全ては俺にはわからない。もっと言えば魔界にくるまでどんなことを経験してきたのかは、彼女が話してくれること以外、知る由もない。ただ、語ってくれることを取りこぼすほど、俺は子どもではなく、無知な悪魔でもないのだ。
抱き寄せたまま髪を撫でていれば、最初硬直していた彼女も徐々に力を抜いて、それと同時にじわりと胸のあたりが水に濡れたことくらい些細なこと。
「ルシファー」
「どうした?」
「…ありがとね」
その一言は、きっと「ごめん」の代わりだったろう。
だから俺はそれに対してこう応えた。
「問題ない。だが代わりにもう少し俺に付き合え。こんな夜にはおまえを独り占めておきたい」
今日も締め切り間近の仕事を抱えて帰った時点でかなり遅い時間ではあったが、それから暫く書斎に籠っていたせいで時間感覚が麻痺している。時計を見ればとうの昔に日付を越えていて、仕事が終わったのはいいものの、明日の朝が心配になった。
俺は朝が苦手なので、シャワーはむしろ明日の朝でもいい、が、このままでは変に目が冴えて眠れそうにないからと、キッチンへと向かった。こんなときはほんのり温めたデモナスを飲むのがよい。
誰もが部屋に閉じこもるこの時間。静かな館を歩き、着いた先のキッチンにはしかし、俺の予想に反して明かりが灯っていて少しばかり驚いた。
(この時間に起きているのはレヴィくらいだが……あいつは部屋に篭っているはずだな)
別に誰がいたところでどうと言ったこともないのだが、純粋な好奇心で頭の中に次々と兄弟の顔を浮かべながら、こいつは違う、あいつも違うと消去法を進める。辿り着いたころには全員にバッテンがついたので、見て確かめるかと踏ん切りもついた。
そして俺の目に飛び込んできたのは。
「なんだ、おまえだったのか」
「あれ。ルシファーだ。こんな時間まで仕事?」
耳に柔らかく響く声はおおよそ男の悪魔が発するものではない。瞳をくるりと見開いてこちらを見たのは彼女だった。
「ああ、そうだ。なかなかに骨の折れる書類ばかり残っていてな。やっと片付いたところだ」
「そっかぁ、お疲れ様」
「仕事だからな。仕方がないさ。…おまえは…眠れないのか?」
「あー…いや、眠れないっていうか…うーん、まぁそうかな、うん、眠れなかった。だから、ホットミルクでも、って」
「…そうか。俺も温かいものを飲みにきたところだ」
歯切れが悪いのは理由を話したくないからかもしれない。こんな時間に起きて一人物想いに耽るくらいだ。こちらから聞かないのも一つの選択肢だろうと、湯を温め始める。
シュンシュンと鳴るケトルが静かな空気を揺らす以外の音はしない。
静かな空気がキッチンに満ち始めたその時だった。ポツリと彼女の声が耳に届いたのは。
「…あのさルシファー」
「…どうした?」
彼女の方は向かず、努めて静かに返事をする。
「お湯の準備ができるまで…その、少し、話してもいい、かな」
「ああもちろん」
「ありがと」
俺の答えに心底ほっとしたような声が返ってくる。そうして訥々と話しはじめた内容は、とても人間らしい悩みのように思えた。
「私、今まではすごく嫌なことがあってもいつか忘れられると思って我慢することの方が多かったんだけど…」
コトリとマグカップを置くと彼女は一言ずつ自分て噛み締めるように言葉を発してゆく。
「譲れないものって、あるじゃない?」
「そうだな」
「それを否定されてさ、我慢とか笑って流すとか、結構辛かったんだよね」
「なるほど」
湯が湧き、火を止めると、グラスに湯を注いでカップを温める。そこでやっと彼女の方を向けば、彼女のほうも視線をこちらに向けて苦笑した。
「でもそうしないといけなくて、それって強がってるだけなのに、あなたは強いから大丈夫だねって決めつけられたりしてさ。言わないだけでどこで傷ついてどこで泣いてるかしらないくせにって…あは、まぁそんなのさ、そうやってハッキリ言わない私が悪いんけどね?」
そんな感じだったから、魔界にいると悪魔のが優しく思えてなんだか面白くて。
そんな風に口にしながらも、面白いなんて表情は一切できていないことを本人はわからないらしい。苦しい、悲しい、助けてほしいと、目が、唇が訴えているのには、きっと気づかないフリをしてやるのが優しさなんだろうな。
温まったグラスから湯を捨ててデモナスを注ぎ、そこにまた少し湯を加える。グラスから湯気がふわりと立ち、デモナスの良い香りを運んだ。一口口に含んでグラスを置く。それから一歩、彼女に近づき、片手をテーブルにつく。もう片方は、彼女の髪を撫でることに使った。
「っ、」
「強がることは悪いことではない。が、それを他人にどうこう言われて評価されるのは、確かに気分が悪いな」
「…うん」
「それなら、そういう時こそ俺に甘えるのがいいと思うが、どうかな」
そのまま肩を引き、抱き寄せた身体は夜の空気に冷やされてひんやりとした。かなり長い時間ここにいたのだろう。
今日、彼女の身に起こったことが何なのか、その全ては俺にはわからない。もっと言えば魔界にくるまでどんなことを経験してきたのかは、彼女が話してくれること以外、知る由もない。ただ、語ってくれることを取りこぼすほど、俺は子どもではなく、無知な悪魔でもないのだ。
抱き寄せたまま髪を撫でていれば、最初硬直していた彼女も徐々に力を抜いて、それと同時にじわりと胸のあたりが水に濡れたことくらい些細なこと。
「ルシファー」
「どうした?」
「…ありがとね」
その一言は、きっと「ごめん」の代わりだったろう。
だから俺はそれに対してこう応えた。
「問題ない。だが代わりにもう少し俺に付き合え。こんな夜にはおまえを独り占めておきたい」