■読み切りログ(ルシファー以外)

 旅館の一件からしばらく、兄弟たちと殿下と執事は春居に「とりあえず近いうちに魔界には戻ること」と約束させて帰っていった。バルバトスなんかは最後に「その際はわたくしが扉を繋ぎますので、D.D.D.に直接連絡をください」と残して。
「わかっちゃいたけど、やっぱバルバトスからは逃げられないよね」
 彼らが旅館にいた間はバルバトスと顔を合わせないように徹底的に逃げ回っていた春居だったが、ここにきてそうもいかなくなっていた。だってバルバトスに連絡しなければ魔界に戻れないのだ。
「私が腹を括ればいいだけの話なんだけどね」
 でもこんな展開予想してなかったんだもーん!……なんて嘆きには誰も応えてはくれず、それは朝焼けに溶けた。
 未だ、身体にはうっすらと残る赤い痕。知らないふりなどできるはずもない。
 この時期のこの辺りの朝は少し肌寒い。いい加減に覚悟を決めなければと、春居がD.D.D.の電源を入れた、その瞬間だった。ブブブと鈍い音を立ててそれが振動したので危うく落としそうになる。慌ててしっかりと持ち直し、ディスプレイを見ると「バルバトス」の五文字が表示されていて、それだけで頬が熱くなる。
「も……!なんでこんなタイミングでっ!?」
 ブツブツ言っても始まらないしコールが止まるわけでもないしで深呼吸を一つ。春居は諦めて通話ボタンをタップした。
「春居、こんばんは……ではありませんね。人間界ではおはようございます、でしょうか」
「そうだねバルバトス、おはよう」
「ふふっ」
「どうしたの?」
「いえ、こうして朝の挨拶を交わすと、あの日のことを思い出しますね」
「は、」
「あの日は、おはようございます、とは言えませんでしたから」
「はぁ!?」
「ばいばい、は、朝の挨拶ではありませんよ」
 画面越しの、しかも声だけのやり取りなのになぜか身体を撫でられたような感触がして、春居は思わず背筋を正してしまう。
「ご、ごめん、あの、だって私、バルバトスの顔を見るだけで今は赤くなってどうしようもなくて、だからそのっ」
「謝ることはありません。それはこれから徐々に慣れていただければ嬉しいです」
「っ……が、んばり、マス……」
 こんな会話でさえも、お付き合い、という甘い五文字を思い描かせて顔が火照る。春居は先が思いやられるなと苦笑した。
「さて、ではそろそろ魔界とそちらを繋ぎます。目の前の扉を二度、ノックしてください。それが合図となります」
「ん、わかった」
 たった今出てきた裏口の扉をノックしてから、その扉を開ける。
 何度味わっても不思議だ。そこはもう、実家の旅館ではなくバルバトスの部屋なのだ。
「おかえりなさい、春居」
「ただいま、バルバトス」
 戻ってきたなと、なぜか安堵がこみあげてくるほどには魔界に慣れ親しんでしまった。春居はそう微笑んだ。
「ていうか、そっか、こっちは深夜なんだね」
「ええ。これから嘆きの館に行くわけにも参りませんので、本日はここに宿泊してもらいます」
「そうだ……へ!?」
「わたくしの寝室へどうぞ」
 腰を取られてエスコートされた先には、ほかの扉とはほんの少し趣が異なる扉が。カモフラージュされてはいるが、どうやらここが本当の意味での「バルバトスの部屋」のようだ。この先に進めばどうなるかはわかりきっている。しかし春居に逃げ道が残されているわけでもなく。部屋へと招き入れられて、無情にもその扉は閉まった。
「あ、あのぉ、バルバトス!?ほら、レヴィとかならまだ起きてると思うのね!一回連絡してみようかなぁ~なんて、」
「おや、春居はわたくしと夜を過ごすのがそんなにも嫌だったのですか。わたくしは今か今かと待っておりましたが」
 わかりやすく悲しげな表情をしたバルバトスに、こんの悪魔!、といくら春居が思ってもどこ吹く風。すぐ横にはベッドがあり、この後何をされるかなんて、もう三度目の春居にはハッキリと理解できたが、戻って早々にこんなの恥ずかしすぎる。せめてもう少し、と必死で探した話題はこの空気にミスマッチだけれど、頬を滑ったバルバトスの手を一旦止める程度の役には立った。
「そういえば!?これ!?お土産なんだけど人間界の!!だから、食べてっ!」
「んむ、」
 バルバトスの口に放り込んだのは、ボンボンショコラ。この間バルバトスに寝酒として提供したあの酒が練り込まれている。春居の旅館で一番人気のお土産であった。きっと気に入るだろうと思って買ってきたのだ。
 バルバトスは放り込まれたそれを咀嚼し、うんうんと首を動かす。こくり、飲み込むと、これは例の?と言った。
「そうだよ!バルバトスが好きだって言ってくれたからたくさん買ってきたの。おいしい?」
「ええとても」
「わぁ~!よかった!気に入ってもらえて!」
「この酒は食前酒としてもよさそうですね」
「そうそ、え?」
「ですから、これからメインディッシュをいただきましょうと言っているのです」
「な……なぁ!?な、なに、言って、るの!?私は食べ物じゃなっンンンン!?」
 本日のキスは、とろけるように甘く、しかし少し大人のチョコレートのお味。
 きっと今度こそ二人は、おはようございます、の挨拶が交わせるのではないだろうか。

 ばらばらと床に散らばったボンボンショコラ目当てにネズミがこなければ、の話だけれど。
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