■読み切りログ(ルシファー以外)

「空が青すぎる……」
 その日、僕は初めてseabedに赴いていた。アジトから遠い場所にあるってことだったからもちろん抵抗はしたけど、生憎全員何かしらの任務があるらしくてお鉢が回ってきたというわけ。別にカフェとかに興味があるわけでもなし、めんどくさいなとしか思えない。意味のある任務ならともかく、資料を渡してこいだけなら自分じゃなくてあの新人にやらせればいいのに。
「はぁ〜あ……もう終わったからいいや……ねむ……」
 伸びを一つしてから失敗したなと思ったのは、興味なくたって飲み物の一杯くらいデビルズにつけて頼めばよかったってことだった。少し歩いただけでも景色のよい立地だし。ちょっと海岸沿いで休憩したくなったから。でもseabedまで戻るのも面倒だな、どうしようかなと過った刹那、ポーンとピアノの鍵盤を叩く音が聞こえて、誘われるようにそちらに足を向けている自分がいた。それは多分本当に、気まぐれだった。
 音源を辿って着いたのは、海に面したヴィラというかロッジというか、そんな場所。屋根と少しの壁しかないそこは海を眺めるためだけにあるのかと思いきや、グランドピアノが置いてあって驚いた。こんなところに楽器なんか置いたらすぐにダメになりそうなのに。それでもポーンポーンと鳴らされた音を聴く限り、チューニングもしっかりしているし悪くなっている感じもしないから何かうまいことをしているのかもしれなかった。
 ピアノの前には毛先が少し紫がかった黒髪の女の子がいる。ワンピースの裾がふわり、ふわりとリズミカルに揺れているのをしばらく眺めた後声をかけてみる。
「ねぇ、あんたピアノ弾けるの?」
「!?」
 後ろから声をかけたせいか、鍵盤を叩いていた女の子は酷く驚き、よろけ、ピアノにぶつかり、終いには尻餅をついてしまった。それがあまりにも漫画みたいな動きで吹き出したのは僕。
「ぷっ……ふふっ……!ははっ……!」
「っ、ひぐっ!?いたぁッ……!」
 極め付けにゴチンとピアノの裏側に頭をぶつけたのにはさすがに可哀想になって手を差し出す。僕に視線をやるなり顔を真っ赤にして恥ずかしがる女の子に、少なからず申し訳ないことをしたなと感じて謝った。
「ごめんね。立てる?」
「ひゃぁ!?あの、ダイジョブ、ですっ!」
「そんなに驚くとは思わなくて」
「ぁ、ゃ、音が、」
「?」
「足音、しなかったし、気配もなかった、からっ」
「ああ……それは、そうかも」
 デビルズの任務をこなしていると否が応でもそうなってしまう。暗歩とか気配を消すとかそういうのは必要不可欠な技術で……と口には出さない説明を思い描く。
「これは、んー、クセみたいなものだよ」
「はゎぁ……そうなんですね……すごい……」
「ん。で、ピアノ」
「ぴあっ、あっ、」
「弾けるの?」
 ポン、と自分も鍵盤に指を落としながらもう一度聞くと、いいえ全く、と潔い答えが返ってくる。
「へへ……実は楽譜も読めません!って、自信あり気に言うことじゃないけど。えっと、あなたは?」
「僕?ベルフェゴール」
「え?」
「ん?」
「あ、いえ、ピアノ……」
 そう言われて数秒、自分の答えがズレていたことに気づいて顔が熱くなったのを感じた。誤魔化すようにして鍵盤蓋を下ろしながら早口で言う。
「間違い。僕もピアノは弾けないよ」
「そう、なんですね……っふふ」
「……なんで笑うの」
「だって、ふふっ、なんかかわいいから」
「可愛い?僕が?」
 くすくすと笑い続ける彼女に対して、なぜか「わからせてやろうか」という気持ちが沸々と湧く。トンっとピアノに手をつき彼女を簡易な檻で囲うと、時が止まったように辺りが鎮まりかえった。
 ザザーンと波の音が遠く聞こえる。
 ピアノの黒が必要以上に日差しを反射してキラキラと眩しい。
 彼女の瞳から目が離せない。
「っあのべ、るふぇごーる、さん……!?近いですっ!!?!」
 これが漫画の一コマだったなら、確実にぐるぐるプシューッと擬音が描かれていたろう。目の前の女の子は首まで真っ赤にして、しかし、なお僕のことを見つめ返し……いや、目を離すことができないとでもいうようにガン見しながらアワアワとした。その様子がどうにも現状と乖離していて今度は僕が吹き出す番だ。
「っ、ふふっ……」
「!?っどうしてわらうんですか!?」
「ふはっ!だって、あんたどこまで真っ赤になるのっ」
「それはベル、」
「僕のことはベルフェでいいよ。さんとかもいらない。それよりあんたこの名前も教えてよ」
「わたしの名前なんか知ってどうするんです!?」
 いかにもな質問が返ってきたから、こちらも本心を返しておくかと、髪をさらりとよけるとその耳に囁いた。
「また、会いにくるからだよ」


 その後、用がなくてもseabedの近くまで出かけるようになった僕をデビルズの皆が心配したのは言うまでもない。僕は彼女を誰かに見せるつもりもないから何を聞かれてもだんまりだけど。
 今日も彼女は僕の姿を見るだけで、慌てて、顔を真っ赤にして、それから髪を整えたり服をはたいたりしたあとに「とうぞ」って膝を貸してくれる。そんなことが嬉しいんだよね。
 だから、今は、このままで。

 さわさわと、海風が二人の髪を揺らす。
 暑い夏の日差しはもう気にならなくなった。
 ピアノはあれから、音を奏でないままでいる。

 彼女のことは、ピアノが弾けないってこと以外は、まだ何も知らない。
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