■読み切りログ(ルシファー以外)
「んじゃあ今日はここで」
「わかった。三時間後にいつもの場所で落ち合おう」
「りょ」
さっと人混みに紛れていったレヴィは、流石というかなんというか、気配を消すのが早い。
俺たちは今日、人間界に視察に来ていた。視察と言っても、行うことは散歩となんら変わらない。今、どんな風に人間界が発展しているのか。獣人が慎ましく暮らせる場所にあてはあるのか。そんなようなことを国を変え、季節を変え、取り止めもなく調査し、レポートする。ただそれだけだ。
視察の際、レヴィは自分の趣味のこともあってその土地土地のOTAKU文化というものを探しに行く。俺も俺で人間界にしかない本を探したいので、互いの利益が合致したとばかりに自由時間を設けるのが常となっていた。
最近調査しているこの国は、人間の世界地図では東の方に位置する日本という国らしい。自然がいっぱいで海に囲まれる小さな島国と言わているようだが、存外発達した文化も多く、特に新幹線というものに巡り合ったときは驚いた。秒のズレもなく時刻通りにやってきて豪速で走り去っていくそれは、獣人の足の速さがなくたって十分にやっていけるんだという挑戦状かとも思ったくらいだ。
とまあ、そんなことはさておき。俺には今、人間界の書店巡り以上にハマっていることがある。それが、この、ブックカフェに通うことだった。
カランと乾いた錫の音に引かれ、カウンター奥でパッと立ち上がる人影が一つ。その相手に向かって微笑んだ。
「いらっしゃ……あっ!」
「やぁ、こんにちは」
「サタンくんだ〜! お久しぶりです!」
「久しぶり」
ブックカフェ Sprout。ここを見つけたのは本当に偶然のことだった。
この国には四季というものがある、とは参考文献を読んでいた時に知った。どうせ行くなら穏やかな気候の頃がいいなと思ってはいて、偶然が重なった結果、最も見たかった景色が広がる春にこの国に来ることができた。はらはらと舞い散る桜をこの目で直に見られたときには言い表せない焦燥感を味わったものだ。それで、その時にたまたま出会った猫に誘われてやってきたのがこのカフェだった……というわけだ。
彼女はその猫を抱き上げて戯れていたが、続いて俺が出てきたことに相当驚いた様子で目を見開いたまま固まった。そして数秒あった後、この見た目のせいだろう、別の国からやってきた、いわゆる外国人と思ったのか、たどたどしい口調で『ディスイズ、マイ、カッフェ!』と紹介してくれたので、一瞬何を言われたか分からずにぽかんとし、すぐに吹き出してしまった。
「あっはは!」
「えっ、あっ、」
「いやごめん、別の国の言葉だったからつい。俺はこの国の言葉を話せるよ」
「わ……! すごい! お上手!」
「それほどでも。えっと、君はこのカフェのオーナーなの?」
「あっ、違うんです! オーナーは私の親。私はその娘です」
「そうなんだ。で、その猫は君のところの……?」
「すみません、それも違って。この子はうちの猫ちゃんではないんですけど、この間ミルクをあげたらこの時間にいつも来るようになって、それで時々お店で眠ってたりして……って、あはっ」
「?」
「ふふっ、言ってて思ったんですけど、それじゃあもう、この子はうちの猫ちゃん、って言ってもいいかも」
猫を撫でながら返してくれた笑顔。そこから感じた彼女の人柄に、俺は一目惚れがこの世に存在することを知る羽目になる。過去にルシファーのことを馬鹿にした俺としてはこのことを兄弟の誰にも知られるわけにはいかないなと内心で苦笑した。
「あの……それで、あなたは、ええっと、迷子さん、ですか?」
「あ……いや、」
そこで逡巡した俺は狡い男だ。せっかくの機会を無駄にすることは避けたいと、最適解を脳内で探す。弾き出された答えは、でっち上げ。至極単純明快な答えだった。
「カフェを」
「え?」
「静かなカフェを、探してたところなんだ。だから、君のところにお邪魔しようかな」
「本当ですか! ぜひ!」
その言葉でパァッと明るくなった彼女の表情に、俺の目は釘付けになった。
「え、っと……ブックカフェ、スプラウト、であってる?」
「はいっ! 私の名前から取ってるって聞かされてます」
「へぇ……スプラウトっていうと、芽吹く、とかそういう?」
「そうです!芽吹くの芽っていう文字が……って、そうだ! あなたのお名前……あ……ごめんなさい。名前を聞くなんてお客様に失礼ですよね」
「いや、いい。俺はサタン。よろしくね」
「サタン……さん!」
「ははっ! さん、は硬いよ。呼び捨てでいい」
「えっ! でも、でも……っ、……う〜……それじゃあ、サタン、くん?」
不覚にもその響きに惹かれた俺は、それを二つ返事で了承した。
そんな出会いがあってから、ここに滞在する間はこのカフェに毎日通っていたのだけれど、満月の夜が近づいていたために一旦獣人界に戻ることになってしまって残念だった。だからこうして第二回目の視察でまた訪れた今日、彼女に覚えてもらえていたことが嬉しくて、どうにも頬が緩みがちなのは許してほしい。
このカフェはいつでも静かだ。天窓から差し込む木漏れ日はキラキラと柔らかい光で机を照らし、優しいクラシック音楽は読書や書き物作業の邪魔をしないが心地よく鼓膜を震わせる。それから一番の楽しみは、これだ。
「今日は何にしますか?」
「そうだな……いつもの、お願いできる?」
「ふふっ! サタンくん、いつもそればっかり。私に気を遣わなくてもいいんだよ?」
「いや、ここの紅茶は本当に美味しいからね」
「そう言ってもらえて嬉しい! 季節に応じて変化するおすすめのブレンドティーですから!」
「それから『直に生産地に足を運んで選りすぐった食材を使ったパフェやケーキ。サンドイッチ等の軽食やギフト用の焼き菓子まで幅広く』だよね。うん、今日は追加でアップルパイもいいかな?」
「かしこまりましたっ」
手慣れた様子でオーダーシートに注文を書き込み、軽い足取りでカウンターに戻っていく、その後ろ姿を見ながら知らず微笑んでしまっていたことには自分でも気づかなかった。
日取りのせいなのか時間のせいなのか、本日、カフェには俺以外の客はいない。二人きりの贅沢な空間。このときばかりは信じてもいない神に感謝した。
これまでここに足を運んで、幾度も彼女と共に時間を過ごしてきたが、彼女に嫌われてはいない、と思う。ただ、彼女が猫好きという理由のみでは、いつかのためとはいえ、自分に必要以上の興味を植え付けるのは危険だ。俺が諦めるか。はたまた彼女に真実を告げるか。選択肢を決めるなら早い方が互いのために良いと、以前から考えていた。
俺はただ、きっかけがほしかったんだ。
自分の前には今、お通しとして出されたレモンウォーターが置かれている。まだ口はつけていない。準備は、整った。あとは待つのみ。はやる気持ちを抑えつつ、手近に立てかけてあった美術書を広げて眺め始めた。
それから暫く。コトリ、と特製のブレンドティーとアップルパイが机に置かれる音が耳に届いて、やっとのことで俺は意識をこのカフェに呼び戻すことになる。随分と読み耽っていたらしい。
「お待たせしました。それから、集中されてたのに、途切れさせてしまってごめんなさい」
「ああ……それは全然。むしろごめんね」
「いえいえ。当店はブックカフェですから。ゆっくり本の世界に浸ってもらえたほうが嬉しいですよ」
にこにこしながら、えっへんと背筋を逸らす姿はとてもかわいい。それではごゆっくり、と下がっていこうとする彼女の手を急いで取る。
「えっ、」
「待って」
「追加オーダー?」
「いいや、そうじゃなくて。実は渡したいものがあるんだ」
私に? とは視線で訴えられた。それに対して頷きを返し、薄手のコートの下にあった紙袋を取り出して手渡す。
「あのさ、これ、もらってくれないかな」
「えっ、でもあの、私」
「いつもお世話になっているから。それと、これはこの辺りでは売ってないものだからお土産だと思って。ね」
「あっ、もしかして故郷とか……?」
「まぁそんなところ。少し遠い所のものだから、よければ」
「そうなんだ……じゃあありがたく受け取るね! せっかくだし、今開けてもいい?」
「もちろん」
なんだろう、とキラキラした表情からその気持ちが伝わってきて、柄にもなくそわそわと心臓部がざわめいた。すぐに机の上に現れたのは、小さな瓶。それに顔を近づけてじっと見つめた彼女は、ゆっくりとその視線を俺に向けて、尋ねた。
「これって……お砂糖?」
「正解。ただ、砂糖といってもちょっと珍しい砂糖でね。常温の水に入れても溶けるし、普通の砂糖の味はしないんた。せっかくだしこの水で試してみたら?」
「そうなんだ……じゃあ、一つだけ……」
実際はとても興味があったのだけど自分からは言い出しにくかったことを言ってくれたとばかりに、うふふと恥じらいながらも小瓶の蓋を開けて一粒を指で摘む。俺が差し出したコップに、何か物凄く大切な宝物を隠すかのように、彼女はそっとそれを沈めた。
途端、しゅわしゅわと水に溶けていく砂糖。それとともに水の色が変わっていく。
その色は、桜の花のような淡いピンク色だった。
「サタンくん……! 色が変わったよ!? すごい……! 桜色だぁっ!」
そのピンクの示す意味なんて、一つしかありえない。漏れ出そうになる笑い声をなんとか噛み殺して、笑顔だけを貼り付けた。
俺が渡した砂糖の正体は、獣人界でも知る人ぞ知るエモーションシュガーだ。エモーションシュガーは、砂糖を溶かした人が今どんな感情でいるかを、溶かした水の色と味で教えてくれるもので、パーティーグッズとして人気を博している。淡いピンクが表すものといえばもちろん、恋心。そして。
「飲んでみて。味も変わってると思うから」
「味も? ドキドキするなぁっ……!」
彼女がコップを口に近づけ、こくりと喉を一度鳴らす。ぱちくりと瞬いた瞳には驚きが満ちていて、なんだかいい気分だ。
「なんの味がした?」
「ん……なんて、言えばいいんだろう……! 甘いんだけど、パチパチ弾けて……それで、ちょっと後味は酸っぱくて……んと……ハニーレモンのソーダみたいな……」
「初恋の味?」
「あっ! そう、それ……っ、って……あ、っあっ!?」
ボンっと赤くなった顔はもう隠せない。彼女は今、『初恋』というワードに敏感に反応を返してしまった。つまり、彼女も俺に恋をしている、そういうことになる。
「ち、ちょっと、まっ、ちが、これはあのっ、」
「違うって? この真っ赤なほっぺたのこと?」
「っ、あのっ、さたんくんっ、」
するりとその赤に指を這わせて、瞳を覗き込む。羞恥に滲む瞳に浮かぶのは、戸惑いと、それから、なんだろうか。
この結果に一縷の望みをかけようと決心がついた。変幻の術を自ら解けば、俺の頭には猫耳、臀部には尻尾がお目見えする。ぽかん、と、音がするほどにそれに釘付けになった二つの眼。たっぷり十秒は瞬きもされなかったように思う。
「……もし……これが俺の本当の姿だって言ったら、君は怖い?」
「……っ、」
「怖かったら、もう来ないから。感じたことを、感じたままに教えてほしい」
「っ……夢……みたい……」
「え?」
「本当に? 本物なの?」
その反応に、とりあえず怖がられてはいないことを悟り、安堵し、コクリと頷く。しかしながら問題はここからだ。段階を踏んで説明を……と、考えたところで彼女が言葉を発した。
「あの、サタンくん、」
「ん?」
「間違いだったら、ごめんなさい。その……サタンくん、もしかして、喜んでる……?」
「っ!?」
「お耳がぴこぴこしてるし、尻尾も動いてるし、喉がごろごろいってる……本物の猫ちゃんみたい」
そっと伸ばされた手が俺の頭を撫でたので驚いて固まってしまった。けれど、ネコ科の習性もあってどうにも気持ちがよく、自然とその手に頭をなすりつけてしまうのは止められない。
「サタンくんがかわいいっ……!」
「っ、すまないっ、これはどうしても止められなくて、」
「ううん、全然いいのっ!いつもサタンくんが来るたびにね、絵画の中から飛び出てきたみたいにカッコいいなってこっそり見つめてたんだぁ……だからこんな一面を見せてもらえるなんてうれし……っ!?」
そこまで口に出しておいて、このタイミングで自分が何を言ったか悟ったらしい。俺の頭からバッと手を離すと、両手で口を覆ってカァァッと顔を真っ赤にした。
この反応なら大丈夫だ。そう踏んで、気を取り直す。囁くように『その手を退けて』と告げると、肩にそっと触れて引き寄せて。彼女との距離を縮めた。
互いの呼吸が触れ合うほどに近づいて。
あとほんの数センチで唇が重なろうとした、その時だった。
「ナァ〜ォ」
「「!」」
二人の足元で、俺をここへ導いてくれたあの猫が一声鳴いた。猫はじっと俺たちのことを見つめて、咎めるような視線はこう言う。『キスはまだはやいんじゃないか』と。
パッと、距離が開く。いたたまれない空気。本来の俺であればそのまま押し通してキスをするところだけれど、今回ばかりは焦りすぎたと苦笑して、小さな声で「ごめん」と謝ってブレンドティーに向き直る。
「っ……サタンくんっ!」
「ん、どうし……っ!?」
ちゅ、と音がしたと思って視線だけを音のほうに向けると、ゆっくりと瞼をあげた彼女の顔が思いの外近くにあって、自分の中の時が止まった。
数秒。
あるいは数分だったかもしれない。
俺の目には、彼女が自分の椅子にすとんと腰を下ろすところまでがスローモーションのコマ送りで映し出されていた。
「あ……あやまらないで……?」
「え、」
「嬉しかった、からっ……!」
そう言うと、彼女はカタンと音を立てて慌てて椅子から立ち上がり、パタパタ駆けて行ってしまった。
まだ微かに熱が残る頬に手を当ててそこを撫でると、今しがたの、瞼の裏に焼きつく一コマ一コマが鮮やかに蘇って、今度は俺の顔が熱くなる。
「今日は……なんていい日なんだ……」
首を擡げて天井を見上げれば、天窓の先に青空が広がっていた。世界は違えど、空気は違えど、空の色だけは変わらずそこに存在している。そんな当たり前のことが酷く身に染みて、幸せだなぁと笑みが溢れた。
普段以上に時間をかけ、ブレンドティーとアップルパイ、それから彼女が残していった桃色のレモンソーダを味わい、お会計へと向かう。恥ずかしそうな顔をしてレジに立った彼女が俺と同じく謝ろうとしたところで「謝らないでほしい」と同じ言葉を返せば、二人で吹き出す始末。
「また、明日も来ていいかな」
「もちろん! お待ちしていますっ」
来たときと全く同じ乾いた錫の音が鼓膜を震わす。ガッツポーズをキメそうになる自分を律しながら道路に出たところでまた錫の音が聞こえたような気がしたが、それこそ都合の良いこの耳が生み出した幻聴かと瞼を閉じたその時。
「サタンくんっ……!」
「!」
それがさほど大きな声じゃなくたって俺の耳が獣人の耳でなくたって、彼女の声なら絶対に聞き逃さない自信があるが、振り向きざまに聞こえた言葉にはさすがに耳を疑った。
「私、サタンくんのこともっと、もっともっと知りたい!」
「えっ……」
「だから、明日も明後日も、それから先も、ずっとずっと」
その言葉の先は耐えられなくて、俺が掠め取った。
「ずっと、会いに来るよ! だから……だから待っててくれ!」
「……っ! うんっ!」
大輪の花が咲いたかのような笑顔に、大きく振られた手。ほっこりと暖かくなった心を服の上からぎゅっと握りしめて、俺はレヴィとの待ち合わせ場所へと足を向けた。
「ふーん、じゃあ結局今回も猫カフェには行かなかったの? あれだけネコ科が住みやすい場所かって気にしてたのに」
「ああ、まあ……猫がいたら……集中できないだろ?」
「ん……それもそっか」
彼女とのキスに、とは口が裂けても言えないけれど。次の満月までは、まだ、この秘密のロマンスを堪能させてもらおうか。
獣人界ほど大きくはなく、しかし、獣人界よりも煌めいて見える星と三日月を眺めながら、俺は今日も、明日の彼女に思いを馳せる。
「わかった。三時間後にいつもの場所で落ち合おう」
「りょ」
さっと人混みに紛れていったレヴィは、流石というかなんというか、気配を消すのが早い。
俺たちは今日、人間界に視察に来ていた。視察と言っても、行うことは散歩となんら変わらない。今、どんな風に人間界が発展しているのか。獣人が慎ましく暮らせる場所にあてはあるのか。そんなようなことを国を変え、季節を変え、取り止めもなく調査し、レポートする。ただそれだけだ。
視察の際、レヴィは自分の趣味のこともあってその土地土地のOTAKU文化というものを探しに行く。俺も俺で人間界にしかない本を探したいので、互いの利益が合致したとばかりに自由時間を設けるのが常となっていた。
最近調査しているこの国は、人間の世界地図では東の方に位置する日本という国らしい。自然がいっぱいで海に囲まれる小さな島国と言わているようだが、存外発達した文化も多く、特に新幹線というものに巡り合ったときは驚いた。秒のズレもなく時刻通りにやってきて豪速で走り去っていくそれは、獣人の足の速さがなくたって十分にやっていけるんだという挑戦状かとも思ったくらいだ。
とまあ、そんなことはさておき。俺には今、人間界の書店巡り以上にハマっていることがある。それが、この、ブックカフェに通うことだった。
カランと乾いた錫の音に引かれ、カウンター奥でパッと立ち上がる人影が一つ。その相手に向かって微笑んだ。
「いらっしゃ……あっ!」
「やぁ、こんにちは」
「サタンくんだ〜! お久しぶりです!」
「久しぶり」
ブックカフェ Sprout。ここを見つけたのは本当に偶然のことだった。
この国には四季というものがある、とは参考文献を読んでいた時に知った。どうせ行くなら穏やかな気候の頃がいいなと思ってはいて、偶然が重なった結果、最も見たかった景色が広がる春にこの国に来ることができた。はらはらと舞い散る桜をこの目で直に見られたときには言い表せない焦燥感を味わったものだ。それで、その時にたまたま出会った猫に誘われてやってきたのがこのカフェだった……というわけだ。
彼女はその猫を抱き上げて戯れていたが、続いて俺が出てきたことに相当驚いた様子で目を見開いたまま固まった。そして数秒あった後、この見た目のせいだろう、別の国からやってきた、いわゆる外国人と思ったのか、たどたどしい口調で『ディスイズ、マイ、カッフェ!』と紹介してくれたので、一瞬何を言われたか分からずにぽかんとし、すぐに吹き出してしまった。
「あっはは!」
「えっ、あっ、」
「いやごめん、別の国の言葉だったからつい。俺はこの国の言葉を話せるよ」
「わ……! すごい! お上手!」
「それほどでも。えっと、君はこのカフェのオーナーなの?」
「あっ、違うんです! オーナーは私の親。私はその娘です」
「そうなんだ。で、その猫は君のところの……?」
「すみません、それも違って。この子はうちの猫ちゃんではないんですけど、この間ミルクをあげたらこの時間にいつも来るようになって、それで時々お店で眠ってたりして……って、あはっ」
「?」
「ふふっ、言ってて思ったんですけど、それじゃあもう、この子はうちの猫ちゃん、って言ってもいいかも」
猫を撫でながら返してくれた笑顔。そこから感じた彼女の人柄に、俺は一目惚れがこの世に存在することを知る羽目になる。過去にルシファーのことを馬鹿にした俺としてはこのことを兄弟の誰にも知られるわけにはいかないなと内心で苦笑した。
「あの……それで、あなたは、ええっと、迷子さん、ですか?」
「あ……いや、」
そこで逡巡した俺は狡い男だ。せっかくの機会を無駄にすることは避けたいと、最適解を脳内で探す。弾き出された答えは、でっち上げ。至極単純明快な答えだった。
「カフェを」
「え?」
「静かなカフェを、探してたところなんだ。だから、君のところにお邪魔しようかな」
「本当ですか! ぜひ!」
その言葉でパァッと明るくなった彼女の表情に、俺の目は釘付けになった。
「え、っと……ブックカフェ、スプラウト、であってる?」
「はいっ! 私の名前から取ってるって聞かされてます」
「へぇ……スプラウトっていうと、芽吹く、とかそういう?」
「そうです!芽吹くの芽っていう文字が……って、そうだ! あなたのお名前……あ……ごめんなさい。名前を聞くなんてお客様に失礼ですよね」
「いや、いい。俺はサタン。よろしくね」
「サタン……さん!」
「ははっ! さん、は硬いよ。呼び捨てでいい」
「えっ! でも、でも……っ、……う〜……それじゃあ、サタン、くん?」
不覚にもその響きに惹かれた俺は、それを二つ返事で了承した。
そんな出会いがあってから、ここに滞在する間はこのカフェに毎日通っていたのだけれど、満月の夜が近づいていたために一旦獣人界に戻ることになってしまって残念だった。だからこうして第二回目の視察でまた訪れた今日、彼女に覚えてもらえていたことが嬉しくて、どうにも頬が緩みがちなのは許してほしい。
このカフェはいつでも静かだ。天窓から差し込む木漏れ日はキラキラと柔らかい光で机を照らし、優しいクラシック音楽は読書や書き物作業の邪魔をしないが心地よく鼓膜を震わせる。それから一番の楽しみは、これだ。
「今日は何にしますか?」
「そうだな……いつもの、お願いできる?」
「ふふっ! サタンくん、いつもそればっかり。私に気を遣わなくてもいいんだよ?」
「いや、ここの紅茶は本当に美味しいからね」
「そう言ってもらえて嬉しい! 季節に応じて変化するおすすめのブレンドティーですから!」
「それから『直に生産地に足を運んで選りすぐった食材を使ったパフェやケーキ。サンドイッチ等の軽食やギフト用の焼き菓子まで幅広く』だよね。うん、今日は追加でアップルパイもいいかな?」
「かしこまりましたっ」
手慣れた様子でオーダーシートに注文を書き込み、軽い足取りでカウンターに戻っていく、その後ろ姿を見ながら知らず微笑んでしまっていたことには自分でも気づかなかった。
日取りのせいなのか時間のせいなのか、本日、カフェには俺以外の客はいない。二人きりの贅沢な空間。このときばかりは信じてもいない神に感謝した。
これまでここに足を運んで、幾度も彼女と共に時間を過ごしてきたが、彼女に嫌われてはいない、と思う。ただ、彼女が猫好きという理由のみでは、いつかのためとはいえ、自分に必要以上の興味を植え付けるのは危険だ。俺が諦めるか。はたまた彼女に真実を告げるか。選択肢を決めるなら早い方が互いのために良いと、以前から考えていた。
俺はただ、きっかけがほしかったんだ。
自分の前には今、お通しとして出されたレモンウォーターが置かれている。まだ口はつけていない。準備は、整った。あとは待つのみ。はやる気持ちを抑えつつ、手近に立てかけてあった美術書を広げて眺め始めた。
それから暫く。コトリ、と特製のブレンドティーとアップルパイが机に置かれる音が耳に届いて、やっとのことで俺は意識をこのカフェに呼び戻すことになる。随分と読み耽っていたらしい。
「お待たせしました。それから、集中されてたのに、途切れさせてしまってごめんなさい」
「ああ……それは全然。むしろごめんね」
「いえいえ。当店はブックカフェですから。ゆっくり本の世界に浸ってもらえたほうが嬉しいですよ」
にこにこしながら、えっへんと背筋を逸らす姿はとてもかわいい。それではごゆっくり、と下がっていこうとする彼女の手を急いで取る。
「えっ、」
「待って」
「追加オーダー?」
「いいや、そうじゃなくて。実は渡したいものがあるんだ」
私に? とは視線で訴えられた。それに対して頷きを返し、薄手のコートの下にあった紙袋を取り出して手渡す。
「あのさ、これ、もらってくれないかな」
「えっ、でもあの、私」
「いつもお世話になっているから。それと、これはこの辺りでは売ってないものだからお土産だと思って。ね」
「あっ、もしかして故郷とか……?」
「まぁそんなところ。少し遠い所のものだから、よければ」
「そうなんだ……じゃあありがたく受け取るね! せっかくだし、今開けてもいい?」
「もちろん」
なんだろう、とキラキラした表情からその気持ちが伝わってきて、柄にもなくそわそわと心臓部がざわめいた。すぐに机の上に現れたのは、小さな瓶。それに顔を近づけてじっと見つめた彼女は、ゆっくりとその視線を俺に向けて、尋ねた。
「これって……お砂糖?」
「正解。ただ、砂糖といってもちょっと珍しい砂糖でね。常温の水に入れても溶けるし、普通の砂糖の味はしないんた。せっかくだしこの水で試してみたら?」
「そうなんだ……じゃあ、一つだけ……」
実際はとても興味があったのだけど自分からは言い出しにくかったことを言ってくれたとばかりに、うふふと恥じらいながらも小瓶の蓋を開けて一粒を指で摘む。俺が差し出したコップに、何か物凄く大切な宝物を隠すかのように、彼女はそっとそれを沈めた。
途端、しゅわしゅわと水に溶けていく砂糖。それとともに水の色が変わっていく。
その色は、桜の花のような淡いピンク色だった。
「サタンくん……! 色が変わったよ!? すごい……! 桜色だぁっ!」
そのピンクの示す意味なんて、一つしかありえない。漏れ出そうになる笑い声をなんとか噛み殺して、笑顔だけを貼り付けた。
俺が渡した砂糖の正体は、獣人界でも知る人ぞ知るエモーションシュガーだ。エモーションシュガーは、砂糖を溶かした人が今どんな感情でいるかを、溶かした水の色と味で教えてくれるもので、パーティーグッズとして人気を博している。淡いピンクが表すものといえばもちろん、恋心。そして。
「飲んでみて。味も変わってると思うから」
「味も? ドキドキするなぁっ……!」
彼女がコップを口に近づけ、こくりと喉を一度鳴らす。ぱちくりと瞬いた瞳には驚きが満ちていて、なんだかいい気分だ。
「なんの味がした?」
「ん……なんて、言えばいいんだろう……! 甘いんだけど、パチパチ弾けて……それで、ちょっと後味は酸っぱくて……んと……ハニーレモンのソーダみたいな……」
「初恋の味?」
「あっ! そう、それ……っ、って……あ、っあっ!?」
ボンっと赤くなった顔はもう隠せない。彼女は今、『初恋』というワードに敏感に反応を返してしまった。つまり、彼女も俺に恋をしている、そういうことになる。
「ち、ちょっと、まっ、ちが、これはあのっ、」
「違うって? この真っ赤なほっぺたのこと?」
「っ、あのっ、さたんくんっ、」
するりとその赤に指を這わせて、瞳を覗き込む。羞恥に滲む瞳に浮かぶのは、戸惑いと、それから、なんだろうか。
この結果に一縷の望みをかけようと決心がついた。変幻の術を自ら解けば、俺の頭には猫耳、臀部には尻尾がお目見えする。ぽかん、と、音がするほどにそれに釘付けになった二つの眼。たっぷり十秒は瞬きもされなかったように思う。
「……もし……これが俺の本当の姿だって言ったら、君は怖い?」
「……っ、」
「怖かったら、もう来ないから。感じたことを、感じたままに教えてほしい」
「っ……夢……みたい……」
「え?」
「本当に? 本物なの?」
その反応に、とりあえず怖がられてはいないことを悟り、安堵し、コクリと頷く。しかしながら問題はここからだ。段階を踏んで説明を……と、考えたところで彼女が言葉を発した。
「あの、サタンくん、」
「ん?」
「間違いだったら、ごめんなさい。その……サタンくん、もしかして、喜んでる……?」
「っ!?」
「お耳がぴこぴこしてるし、尻尾も動いてるし、喉がごろごろいってる……本物の猫ちゃんみたい」
そっと伸ばされた手が俺の頭を撫でたので驚いて固まってしまった。けれど、ネコ科の習性もあってどうにも気持ちがよく、自然とその手に頭をなすりつけてしまうのは止められない。
「サタンくんがかわいいっ……!」
「っ、すまないっ、これはどうしても止められなくて、」
「ううん、全然いいのっ!いつもサタンくんが来るたびにね、絵画の中から飛び出てきたみたいにカッコいいなってこっそり見つめてたんだぁ……だからこんな一面を見せてもらえるなんてうれし……っ!?」
そこまで口に出しておいて、このタイミングで自分が何を言ったか悟ったらしい。俺の頭からバッと手を離すと、両手で口を覆ってカァァッと顔を真っ赤にした。
この反応なら大丈夫だ。そう踏んで、気を取り直す。囁くように『その手を退けて』と告げると、肩にそっと触れて引き寄せて。彼女との距離を縮めた。
互いの呼吸が触れ合うほどに近づいて。
あとほんの数センチで唇が重なろうとした、その時だった。
「ナァ〜ォ」
「「!」」
二人の足元で、俺をここへ導いてくれたあの猫が一声鳴いた。猫はじっと俺たちのことを見つめて、咎めるような視線はこう言う。『キスはまだはやいんじゃないか』と。
パッと、距離が開く。いたたまれない空気。本来の俺であればそのまま押し通してキスをするところだけれど、今回ばかりは焦りすぎたと苦笑して、小さな声で「ごめん」と謝ってブレンドティーに向き直る。
「っ……サタンくんっ!」
「ん、どうし……っ!?」
ちゅ、と音がしたと思って視線だけを音のほうに向けると、ゆっくりと瞼をあげた彼女の顔が思いの外近くにあって、自分の中の時が止まった。
数秒。
あるいは数分だったかもしれない。
俺の目には、彼女が自分の椅子にすとんと腰を下ろすところまでがスローモーションのコマ送りで映し出されていた。
「あ……あやまらないで……?」
「え、」
「嬉しかった、からっ……!」
そう言うと、彼女はカタンと音を立てて慌てて椅子から立ち上がり、パタパタ駆けて行ってしまった。
まだ微かに熱が残る頬に手を当ててそこを撫でると、今しがたの、瞼の裏に焼きつく一コマ一コマが鮮やかに蘇って、今度は俺の顔が熱くなる。
「今日は……なんていい日なんだ……」
首を擡げて天井を見上げれば、天窓の先に青空が広がっていた。世界は違えど、空気は違えど、空の色だけは変わらずそこに存在している。そんな当たり前のことが酷く身に染みて、幸せだなぁと笑みが溢れた。
普段以上に時間をかけ、ブレンドティーとアップルパイ、それから彼女が残していった桃色のレモンソーダを味わい、お会計へと向かう。恥ずかしそうな顔をしてレジに立った彼女が俺と同じく謝ろうとしたところで「謝らないでほしい」と同じ言葉を返せば、二人で吹き出す始末。
「また、明日も来ていいかな」
「もちろん! お待ちしていますっ」
来たときと全く同じ乾いた錫の音が鼓膜を震わす。ガッツポーズをキメそうになる自分を律しながら道路に出たところでまた錫の音が聞こえたような気がしたが、それこそ都合の良いこの耳が生み出した幻聴かと瞼を閉じたその時。
「サタンくんっ……!」
「!」
それがさほど大きな声じゃなくたって俺の耳が獣人の耳でなくたって、彼女の声なら絶対に聞き逃さない自信があるが、振り向きざまに聞こえた言葉にはさすがに耳を疑った。
「私、サタンくんのこともっと、もっともっと知りたい!」
「えっ……」
「だから、明日も明後日も、それから先も、ずっとずっと」
その言葉の先は耐えられなくて、俺が掠め取った。
「ずっと、会いに来るよ! だから……だから待っててくれ!」
「……っ! うんっ!」
大輪の花が咲いたかのような笑顔に、大きく振られた手。ほっこりと暖かくなった心を服の上からぎゅっと握りしめて、俺はレヴィとの待ち合わせ場所へと足を向けた。
「ふーん、じゃあ結局今回も猫カフェには行かなかったの? あれだけネコ科が住みやすい場所かって気にしてたのに」
「ああ、まあ……猫がいたら……集中できないだろ?」
「ん……それもそっか」
彼女とのキスに、とは口が裂けても言えないけれど。次の満月までは、まだ、この秘密のロマンスを堪能させてもらおうか。
獣人界ほど大きくはなく、しかし、獣人界よりも煌めいて見える星と三日月を眺めながら、俺は今日も、明日の彼女に思いを馳せる。