■読み切りログ(ルシファー以外)

(抜けるような青空、というものは、わたくしの目には少しだけ眩しいですね)

 日差しを手で遮りながらも見上げた空には雲一つ見当たらなかった。




「バルバトスーーっ!」

 彼女の声が鼓膜を揺らす。そんなふうに呼ばれるようになって、もう二年になるのかと思ってから、すぐに「もう二年」という言葉に苦笑を漏らした。悪魔に取っては「たかが二年」が正解だというのに、と。
 橋の向こうから駆けてくる小さな身体は、この日差しにも負けることはないように見えたがしかし、近くで見れば球のような汗が額から首筋へと流れ落ちているのがわかった。はぁ、はぁ、と息も切れ切れで笑いかけてくる顔は、太陽に負けず眩しい。

「ま、待たせちゃった、ねッ」
「いえ。今きたところですよ」
「それは待ってる側の常套文句でしょう?バルバトスはそういうところあるよね。私には本当のことを言ってほしいよ」

 プクッと膨らんだ頬は心なしか朱色に染まる。自分は悪魔にしては素直な方だと何度か伝えたのだが、全く信じてもらえていないようだ。事実としては「素直」と「言わない」はイコールではないのだから、そう言われても仕方がないのかもしれないけれど。
 くすくすと笑うと、ごまかされないんだからねと言いつつも、彼女も笑った。

「さ、こんなところにいたら焦げちゃうから、行こ!」
「ええ、そうですね」
「イベントに行きたいって言ってたよね?日本茶美味しいもんね!」

 本日は人間界に戻っていた彼女にわたくしの方からコンタクトを取り、時間をもらっていた。彼女の故郷には紅茶とは別の茶葉が存在しているそうで気になっていたところ、「今度、日本茶葉を使ったイベントがあるから」と情報を手に入れたのだ。彼女をお誘いしたところ、二つ返事で了承をもらって、今に至る。

「日本茶を使ったドリンクイベントと聞いては、わたくしの血が騒ぎまして」
「バルバトスらしいね!でもまだ少し時間もあるし、疲れてたら先にカフェにでも入って涼むっていうのもありだよ?バルバトスはどうしたい?」

 どうしたいかと聞かれると、あなたのお好きにしてくださって構いませんよ、と答えたくなるのが執事の性ではあるものの、そう答えてはいけないことくらいはわかっているので、そうですね……と考えるそぶりを見せる。その間にもジリジリと容赦無く照りつける、魔界には存在しない日差し。自分自身は暑さにも寒さにも弱くないとは思っていたけれど、これほどになればそんなことも言っていられない。そうしてじっと考え込んだわたくしの体調が悪いとでも思ったのか、心配そうな声が彼女からかかった。

「バルバトス」
「どうかなさいましたか」
「だいじょうぶ?暑過ぎて身体がびっくりしちゃってるんじゃない?」
「ああ……ふふ、確かに。人間界はこの時期、とても暑いですね」
「笑い事じゃないよ!熱中症、本当に怖いんだよ!?あ、じゃあこれっ」
「!」

 ピトリ、徐に首筋に伸びてきた彼女の掌が氷のように冷たくて、柄にもなくびくりと驚いてしまった。そんな様子を見て、彼女はコロコロと鈴が鳴るように笑った。目を見開いて「なんでしょう」と問うと見せられた掌には何か小さなパックが乗っていた。

「これは?」
「瞬間冷却パックっていうの。冷たいでしょ?」
「ええ、とても。これは、溶けないのですか?」
「うん、叩いて割るとね、中に入ってる、なんだっけ……なんかの化学物質が反応しあって冷たくなるんだ」
「ほぅ?」

 彼女の手からそれを取ってまじまじ見つめる。本当に冷たい。便利なものもあるのだ。

「それ、バルバトスにあげるよ。すぐ冷たくなくなっちゃうけど、カフェまでならもつかも!」
「魔界に持って帰っても?」
「え?うん、もちろんいいけど……魔界では必要ないんじゃない?」

 その疑問には、微笑みを一つ返す。魔界では確かに必要ないけれど、そうではなく。悪魔らしく、やられたことには仕返しを。同じように首筋に冷たい指先で触れると、ピャッとおかしな声をあげて飛び上がる姿が小動物のようでなんとも可愛らしい。

「な、ひゃ!!っちょ!やり返すのはダメ!」
「こうしてギャップを埋めていくのも、楽しいではないですか?」

 そう告げると、キョトンとした彼女は、その表情のままでコテンと首を傾げたので思わずまた、冷却パックをもったままの掌で彼女の頬に触れてしまって、「もう!バルバトスったら!」と怒られてしまった。

「魔界と人間界では、異なることばかりです。わたくしが一人で人間界を回っても、わからないことの方が多いので。一つ一つ教えていただきたく」
「っ……!そ、れは、もちろん、だけど、でも、これはただの悪戯って言うんだよ!?」
「お遊びもギャップを埋める大切な要素ですよ」
「うまくまとめないでよぉ!もー!とにかく、行こう!」

 キュ、と取られたのは冷やされていない方の指先で、この熱が体温のせいなのか気温のせいなのかがわからず少しだけ悔しい。わたくしの双眸は青空を溶かす太陽を見ているわけではないのに眩しさを感じ取る。

「これでは熱を分け合うこともできないですね」
「ん?何か言った?」
「いいえ、何も」
「そう?じゃあレッツゴー!」

 素直な彼女はわたくしの言葉をそのまま受け止め、歩き出した。
(涼しい場所に着いたらあなたごと抱きしめさせてもらいましょう。そうして正しくあなたの存在をこの胸で味わう)
 今はまだ、彼女の指先の太陽を見つめるにとどめて。
20/34ページ