【完結】僕らの思春期に花束を
その騒動は一本の電話から始まった。
「え?フロイドが風邪を引いた?」
『ええ、ですので本日はアルバイトをお休みさせていただくと、ジェイド坊ちゃんの方から支配人様にお伝えいただけませんか』
「わかりました。ではそちらへ伺います」
『お願いし…はい?ジェイド坊ちゃま?ぼっちゃ』
プツリ
勢いよく電話を切ったジェイドは、今日は忙しくなりますねと呟き、食堂へと降りていった。
「おはようございます」
「おはようございます!…あれ?でも坊ちゃん、今日はまた一段と早く起きられたんですね」
「ええ、少し野暮用ができまして」
「あらそうですか。朝食はどうされます?」
「僕の燃費の悪さ、ご存じでしょう?もちろん食べますよ」
「あはは!ですよね。でしたら、どうぞお席へ。すぐにお持ちします」
「ありがとうございます。おや、猫さんも、おはようございます」
「ミャ~!」
先日お友達になった野良猫もそろって、朝食が始まった。
さて。
朝食を食べ終えたジェイドは、早速フロイド邸へと足を向けた。
出迎えてくれたのは、フロイドの御付の執事…もとい、じいやである。
もちろんじいやはジェイドの来訪を止めようとしたのだが、そんなことで止まるジェイドではない。
あの言葉この言葉でじいやを言いくるめ、フロイドの部屋へと入った。
「フロイド!」
「げぇ…ジェイドじゃん……何しに来たっゴホッゲホッ!」
「おや…兄弟の心配をして見舞いに来た僕になんという口を」
「ぐぇ…もうオレ…今日怒る気もおきねぇから帰ってくれねぇ?」
「無茶な願いを。僕はねフロイド。風邪を移してほしいのです!」
「帰れ」
お世話をするのが好きなジェイドではあったが、本で読んで密かに憧れていたのだ。
風邪で寝込んだら、甲斐甲斐しくお世話をされることができるのだと。
そうすれば、あんなことやこんなことにまで発展するかもしれない。
けれどそんな苦労もなんのその。フロイドから風邪をもらうことは、ついにできなかった。
一方で、やけになってやれ水浴びだ、髪を乾かさずに眠るだと、普段ではやらないことを手あたり次第やったところ。
案外簡単に発熱した。
これこそまさしく、恋の病である。
『フロイドに頼ったのがいけなかったんですね』との呟きは部屋の中に溶けて消えた。
「坊ちゃん…最近生活をおざなりにしていたでしょう…お疲れなんですよきっと。アルバイトがお忙しいんですか?もう少しシフトを減らすとか…」
「いえ…ラウンジの仕事は問題ありません。…ですが、そうですね、少し疲れが出たのかもしれません」
嘘も方便という言葉は、ジェイドにとてもお似合いだった。
貴女に看病してほしくて病を患いました、などとは到底言えず、眉を八の字にして笑うに留めた。
「それにしても、」
「はい?」
「坊ちゃんをこうして看病するなんて、少し驚きです」
「?なぜですか?」
「坊ちゃんが陸に上がってきてもう五年になりますが、こんなこと一度もなかったですし…こういう言い方は良くないとは思うのですが、それでも、」
『お世話できて嬉しいなぁと思ってしまいますね』と微笑み返されてはジェイドの思春期が荒ぶるのも仕方のないことだ。
(焦ってはいけません、僕の思春期……)
そう、いつものおまじないを唱えながら、ジェイドは胸に手をあてて目を閉じた。
「さ、て。まだお昼には早いですけど、坊ちゃん、朝食も召し上がってませんから。もしお腹がすくようであれば何か消化によさそうなものを作りますけど…あ、果物とかの方がよいですか?熱があるようなので無理にとは言いませんけど」
「そうですね…どちらもお願いしてもよいでしょうか?」
「あらあら!ふふっ、食欲はあるようで良かったです!それでは準備してきますね」
「!」
サラリ。汗で額に張り付いた前髪を払って、よしよしと頭を撫でた後、冷えたタオルをそこに乗せてからメイドは部屋を出ていった。
「……あせ、っては、いけ、ません、」
ぎり、と奥歯を噛みしめたところで、もはや元気一杯の思春期が萎えることはなかった。
身体と思春期の関係は、そう簡単ではないようだ。
数十分後。
コンコン、と扉を叩く音がして、静かにメイドが顔を覗かせた。
「ぼっちゃ~ん…?起きてますか?」
「ええ、起きていますよ」
「よかった。食べれそうですか?」
「僕の燃費の悪さ、ご存じでしょう?貴女が作ったものを食べられないなんてことは、今後もないと思いますね」
「ふふっ、そうでしたね。わかってはいても聞いてしまいます。それに、食欲が減退しなくてよかった」
「ですが…ああ、いえ…なんでもありません」
「やですねぇ!なんでも言ってくださいよ、こんな時くらい甘えてもいいんですよ?」
「…そうですか?では、あーんしてください」
「…はい?」
甘えてもいい、それは言った通り。確かな事だ。けれどそれに対して「あーん」と言ったか、この坊ちゃんは。
そう、メイドは頭にクエスチョンマークを飛ばした。
「ん…と、坊ちゃん、あーんて、意味わかってます?」
「それはもう。食べさせてほしいと言いました」
「んん…」
「ふーっというやつもお願いします」
「ん!?」
「僕、猫舌なんです」
嘘か誠かは定かではない。
しかし今はそんなことはどうでもよかった。
メイドはそれでも、コホンと小さな咳払い一つで自分の立場を自分に刻み込む。
主人の言うことは、基本的には絶対だ。
してほしいと言うのなら、減るものでもない。してやればいいだけのこと。
「わかり、ました」
「…!」
暖かいチキンスープに柔らかくしたショートパスタを入れた病人食を、大きなスプーンにひとすくい。自らの口の前に運ぶと、まずは、ふーっふーっと何度か。少し冷めたところで、コクリと小さく嚥下して、ジェイドの口の前へスプーンを運ぶ。
ジェイドはにこにことしながら次の一言を待っていた。
「あ、あーん、してくださいっ」
「あー…ん、む、」
もぐもぐと、熱のせいで少し赤らむ頬を膨らませて病人食…ならぬごちそうを咀嚼するジェイドは嬉しそうだ。
「ど、どうでしょうか…?」
「……」
「えっ……まずい、ですか…?」
「……いいえ、美味しいです、とても」
「っはぁ~…よかったぁ…お口に合わなかったのかと思いました」
「そんなことは。もう一口いただいても?」
「も~…今日だけ、特別ですからね」
そうしてふーふーあーんを繰り返し、みるみるうちにお皿の中身を平らげて食後のデザートにリンゴまで食べきったジェイドは、上機嫌で更なるお願いに躍り出た。
「それじゃあ私はこれで…」
「ああ、すみません、」
「?どうしました?お水ですか?」
「美味しいご飯を食べたので、汗をかいてしまいました」
「あら大変。どうしましょうね…熱があるからお風呂はちょっとですよね」
「ええ、ですので」
「へ?」
サイドデスクに積んだままだった洗濯物…その中でもタオルを指さして、ね?と微笑む。
そのしぐさに、思い当たることがあり、メイドは少しだけ頬を染めてうつむいた。
「あのぉ……坊ちゃん、それはちょっと……」
「なぜですか?貴女は僕のメイド、ですよね?僕にはそれ以上も以下も気持ちを寄せていないと以前から言っていたじゃないですか」
それはこの間、ジェイドの告白をのらりくらりと躱したことを言っているんだろうか、とメイドは言葉を詰まらせた。
「そ、それとこれとは、話が違って…。坊ちゃんももう高校生なんですから…」
「ですが何の気も抱いていない僕の身体を拭くことを拒む理由は特にありませんよね?雇い主の世話という一点のみを考えればよいのですから」
「ぼ、坊ちゃん…どうして。…今日は……いじわるですよ?も、も~!病気でちょっと気持ちが昂ってるんじゃ、」
「気持ちはいつでも昂っていますよ?」
「は、」
「けれど、それこそ今は別問題です。僕は貴女を番にしたいと、前々から言っています。けれど貴女は、その感情は違うと、気の迷いだと言った」
「それ、は…」
「身分の差で僕の気を受けられないというのなら、その差を利用するまで、です」
先程までの可愛さはいずこへ。
有無を言わさない瞳の力が、メイドの心を掴んで捉えてしまう。
「……っ、わかり、ました」
「そうですか」
その申し出を受け入れたメイドに、弾んだ声が返る。
さすがのリーチ家子息が住む家とでも言おうか、簡易の手洗いは部屋についている。
ついさっきまで額のあて布を冷やしていた小さなボウルの水を汲み替えてぬるま湯に。
ものの数十秒でベッドまで戻ると、背中の汗を拭くはずが、ジェイドは両手を小さく広げていた。
「…あの…?」
「脱がせてください」
「ひぇ!?」
「力が入らないんです」
「う、う、うそ、うそだぁっ!嘘です!!」
「おや…嘘つき呼ばわりなんて、酷いです。しくしく」
「それも嘘泣きじゃないですかぁ!!」
「ふふっ」
からかわれているとわかっているのに、いつものように躱せない。
メイドの心は今、いつになく揺れていた。
(坊ちゃんのことを想う気持ちは、これは、違うの。そういう好きじゃ、ない、から)
珍しく前ボタンのパジャマを着ていたジェイドと真正面から向き合って、ぷち、ぷちと、緩慢な動作でボタンを外していく。
もともと服が嫌いと言っているジェイドだけあって、その下は素肌。
パジャマを脱がせると、日光を知らないとでもいうほどに真っ白な肌が現れた。
「綺麗……」
素直な気持ちが言葉になって零れ落ちる。
その台詞に少しだけ瞳を見開いたジェイドは、それから困ったように笑った。
「抱かれて、みますか?」
「……!?っ何言ってるんですか!ほ、ほら!背中を拭きますから!!」
「そうですか、残念です」
「もう!坊ちゃん全然元気じゃないですか!」
ぷりぷり怒る姿はいつも通り。
でも、その頬が真っ赤なのは、いつもとは全然違うことで。
ジェイドの広い背中にタオルを滑らせながら、私が熱に魘されてるのは私も病気に掛かってしまったからかもしれない、なんてことを、メイドは考えていた。
そんなひと時も終わり。
やっとのことで御着替えを済ませ、ジェイドを寝かしつけたメイドは、これでいつも通りに戻れると小さく息を吐き出したのだが。
そうは問屋が卸さない。
「じゃあ坊ちゃん、ちゃんと眠ってくださいね。おやすみな」
「行かないでください」
「……っ……!!!!……まだ…何か、ありましたか?」
その可愛いおねだりは、この数時間かき乱されたメイドの心にダイレクトアタックだった。
なんとエプロンの裾をつまむものだから、あの高身長イケメンジェイド坊ちゃんがこんなことをするなんてとドキドキするのも致し方ない。
なんとか声のトーンを保って返事をしたが、返ってきたのはこんなお願いだった。
「僕が眠るまでここにいてくださいませんか」
「え……でも、坊ちゃん、眠りが浅いからって……」
「いいんです。貴女なら、」
「!」
「今日だけですから、ね?」
「………っもう!!わか、わかりましたよ!!」
ここまで来ては、一つおねだりを叶えようが叶えまいが同じだと、腹を括ってベッドの横に置いてあった椅子に腰を掛けてその手を握った。
「ね、手を繋いでいますから、」
「!!」
「ゆっくり眠ってください」
「っ……やはりかないませんね、貴女には」
「?」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「……はい。おやすみなさい。ゆっくり眠ったら、良くなりますからね」
コッチコッチと時計の秒針が静かな部屋に鳴り響く。
暫く、こてんと、メイドの頭がジェイドの腹の横に落ちてきた。
時刻はまだお昼前。
しかし駆け引きで疲れたメイドの心は、もう一日分の力を使い切っていたようだ。
ジェイドが休む前に、メイドの小さな寝息が聞こえてきて。
そのリズムを感じながら、ジェイドは微笑み、それから瞼を閉じたのだった。
「え?フロイドが風邪を引いた?」
『ええ、ですので本日はアルバイトをお休みさせていただくと、ジェイド坊ちゃんの方から支配人様にお伝えいただけませんか』
「わかりました。ではそちらへ伺います」
『お願いし…はい?ジェイド坊ちゃま?ぼっちゃ』
プツリ
勢いよく電話を切ったジェイドは、今日は忙しくなりますねと呟き、食堂へと降りていった。
「おはようございます」
「おはようございます!…あれ?でも坊ちゃん、今日はまた一段と早く起きられたんですね」
「ええ、少し野暮用ができまして」
「あらそうですか。朝食はどうされます?」
「僕の燃費の悪さ、ご存じでしょう?もちろん食べますよ」
「あはは!ですよね。でしたら、どうぞお席へ。すぐにお持ちします」
「ありがとうございます。おや、猫さんも、おはようございます」
「ミャ~!」
先日お友達になった野良猫もそろって、朝食が始まった。
さて。
朝食を食べ終えたジェイドは、早速フロイド邸へと足を向けた。
出迎えてくれたのは、フロイドの御付の執事…もとい、じいやである。
もちろんじいやはジェイドの来訪を止めようとしたのだが、そんなことで止まるジェイドではない。
あの言葉この言葉でじいやを言いくるめ、フロイドの部屋へと入った。
「フロイド!」
「げぇ…ジェイドじゃん……何しに来たっゴホッゲホッ!」
「おや…兄弟の心配をして見舞いに来た僕になんという口を」
「ぐぇ…もうオレ…今日怒る気もおきねぇから帰ってくれねぇ?」
「無茶な願いを。僕はねフロイド。風邪を移してほしいのです!」
「帰れ」
お世話をするのが好きなジェイドではあったが、本で読んで密かに憧れていたのだ。
風邪で寝込んだら、甲斐甲斐しくお世話をされることができるのだと。
そうすれば、あんなことやこんなことにまで発展するかもしれない。
けれどそんな苦労もなんのその。フロイドから風邪をもらうことは、ついにできなかった。
一方で、やけになってやれ水浴びだ、髪を乾かさずに眠るだと、普段ではやらないことを手あたり次第やったところ。
案外簡単に発熱した。
これこそまさしく、恋の病である。
『フロイドに頼ったのがいけなかったんですね』との呟きは部屋の中に溶けて消えた。
「坊ちゃん…最近生活をおざなりにしていたでしょう…お疲れなんですよきっと。アルバイトがお忙しいんですか?もう少しシフトを減らすとか…」
「いえ…ラウンジの仕事は問題ありません。…ですが、そうですね、少し疲れが出たのかもしれません」
嘘も方便という言葉は、ジェイドにとてもお似合いだった。
貴女に看病してほしくて病を患いました、などとは到底言えず、眉を八の字にして笑うに留めた。
「それにしても、」
「はい?」
「坊ちゃんをこうして看病するなんて、少し驚きです」
「?なぜですか?」
「坊ちゃんが陸に上がってきてもう五年になりますが、こんなこと一度もなかったですし…こういう言い方は良くないとは思うのですが、それでも、」
『お世話できて嬉しいなぁと思ってしまいますね』と微笑み返されてはジェイドの思春期が荒ぶるのも仕方のないことだ。
(焦ってはいけません、僕の思春期……)
そう、いつものおまじないを唱えながら、ジェイドは胸に手をあてて目を閉じた。
「さ、て。まだお昼には早いですけど、坊ちゃん、朝食も召し上がってませんから。もしお腹がすくようであれば何か消化によさそうなものを作りますけど…あ、果物とかの方がよいですか?熱があるようなので無理にとは言いませんけど」
「そうですね…どちらもお願いしてもよいでしょうか?」
「あらあら!ふふっ、食欲はあるようで良かったです!それでは準備してきますね」
「!」
サラリ。汗で額に張り付いた前髪を払って、よしよしと頭を撫でた後、冷えたタオルをそこに乗せてからメイドは部屋を出ていった。
「……あせ、っては、いけ、ません、」
ぎり、と奥歯を噛みしめたところで、もはや元気一杯の思春期が萎えることはなかった。
身体と思春期の関係は、そう簡単ではないようだ。
数十分後。
コンコン、と扉を叩く音がして、静かにメイドが顔を覗かせた。
「ぼっちゃ~ん…?起きてますか?」
「ええ、起きていますよ」
「よかった。食べれそうですか?」
「僕の燃費の悪さ、ご存じでしょう?貴女が作ったものを食べられないなんてことは、今後もないと思いますね」
「ふふっ、そうでしたね。わかってはいても聞いてしまいます。それに、食欲が減退しなくてよかった」
「ですが…ああ、いえ…なんでもありません」
「やですねぇ!なんでも言ってくださいよ、こんな時くらい甘えてもいいんですよ?」
「…そうですか?では、あーんしてください」
「…はい?」
甘えてもいい、それは言った通り。確かな事だ。けれどそれに対して「あーん」と言ったか、この坊ちゃんは。
そう、メイドは頭にクエスチョンマークを飛ばした。
「ん…と、坊ちゃん、あーんて、意味わかってます?」
「それはもう。食べさせてほしいと言いました」
「んん…」
「ふーっというやつもお願いします」
「ん!?」
「僕、猫舌なんです」
嘘か誠かは定かではない。
しかし今はそんなことはどうでもよかった。
メイドはそれでも、コホンと小さな咳払い一つで自分の立場を自分に刻み込む。
主人の言うことは、基本的には絶対だ。
してほしいと言うのなら、減るものでもない。してやればいいだけのこと。
「わかり、ました」
「…!」
暖かいチキンスープに柔らかくしたショートパスタを入れた病人食を、大きなスプーンにひとすくい。自らの口の前に運ぶと、まずは、ふーっふーっと何度か。少し冷めたところで、コクリと小さく嚥下して、ジェイドの口の前へスプーンを運ぶ。
ジェイドはにこにことしながら次の一言を待っていた。
「あ、あーん、してくださいっ」
「あー…ん、む、」
もぐもぐと、熱のせいで少し赤らむ頬を膨らませて病人食…ならぬごちそうを咀嚼するジェイドは嬉しそうだ。
「ど、どうでしょうか…?」
「……」
「えっ……まずい、ですか…?」
「……いいえ、美味しいです、とても」
「っはぁ~…よかったぁ…お口に合わなかったのかと思いました」
「そんなことは。もう一口いただいても?」
「も~…今日だけ、特別ですからね」
そうしてふーふーあーんを繰り返し、みるみるうちにお皿の中身を平らげて食後のデザートにリンゴまで食べきったジェイドは、上機嫌で更なるお願いに躍り出た。
「それじゃあ私はこれで…」
「ああ、すみません、」
「?どうしました?お水ですか?」
「美味しいご飯を食べたので、汗をかいてしまいました」
「あら大変。どうしましょうね…熱があるからお風呂はちょっとですよね」
「ええ、ですので」
「へ?」
サイドデスクに積んだままだった洗濯物…その中でもタオルを指さして、ね?と微笑む。
そのしぐさに、思い当たることがあり、メイドは少しだけ頬を染めてうつむいた。
「あのぉ……坊ちゃん、それはちょっと……」
「なぜですか?貴女は僕のメイド、ですよね?僕にはそれ以上も以下も気持ちを寄せていないと以前から言っていたじゃないですか」
それはこの間、ジェイドの告白をのらりくらりと躱したことを言っているんだろうか、とメイドは言葉を詰まらせた。
「そ、それとこれとは、話が違って…。坊ちゃんももう高校生なんですから…」
「ですが何の気も抱いていない僕の身体を拭くことを拒む理由は特にありませんよね?雇い主の世話という一点のみを考えればよいのですから」
「ぼ、坊ちゃん…どうして。…今日は……いじわるですよ?も、も~!病気でちょっと気持ちが昂ってるんじゃ、」
「気持ちはいつでも昂っていますよ?」
「は、」
「けれど、それこそ今は別問題です。僕は貴女を番にしたいと、前々から言っています。けれど貴女は、その感情は違うと、気の迷いだと言った」
「それ、は…」
「身分の差で僕の気を受けられないというのなら、その差を利用するまで、です」
先程までの可愛さはいずこへ。
有無を言わさない瞳の力が、メイドの心を掴んで捉えてしまう。
「……っ、わかり、ました」
「そうですか」
その申し出を受け入れたメイドに、弾んだ声が返る。
さすがのリーチ家子息が住む家とでも言おうか、簡易の手洗いは部屋についている。
ついさっきまで額のあて布を冷やしていた小さなボウルの水を汲み替えてぬるま湯に。
ものの数十秒でベッドまで戻ると、背中の汗を拭くはずが、ジェイドは両手を小さく広げていた。
「…あの…?」
「脱がせてください」
「ひぇ!?」
「力が入らないんです」
「う、う、うそ、うそだぁっ!嘘です!!」
「おや…嘘つき呼ばわりなんて、酷いです。しくしく」
「それも嘘泣きじゃないですかぁ!!」
「ふふっ」
からかわれているとわかっているのに、いつものように躱せない。
メイドの心は今、いつになく揺れていた。
(坊ちゃんのことを想う気持ちは、これは、違うの。そういう好きじゃ、ない、から)
珍しく前ボタンのパジャマを着ていたジェイドと真正面から向き合って、ぷち、ぷちと、緩慢な動作でボタンを外していく。
もともと服が嫌いと言っているジェイドだけあって、その下は素肌。
パジャマを脱がせると、日光を知らないとでもいうほどに真っ白な肌が現れた。
「綺麗……」
素直な気持ちが言葉になって零れ落ちる。
その台詞に少しだけ瞳を見開いたジェイドは、それから困ったように笑った。
「抱かれて、みますか?」
「……!?っ何言ってるんですか!ほ、ほら!背中を拭きますから!!」
「そうですか、残念です」
「もう!坊ちゃん全然元気じゃないですか!」
ぷりぷり怒る姿はいつも通り。
でも、その頬が真っ赤なのは、いつもとは全然違うことで。
ジェイドの広い背中にタオルを滑らせながら、私が熱に魘されてるのは私も病気に掛かってしまったからかもしれない、なんてことを、メイドは考えていた。
そんなひと時も終わり。
やっとのことで御着替えを済ませ、ジェイドを寝かしつけたメイドは、これでいつも通りに戻れると小さく息を吐き出したのだが。
そうは問屋が卸さない。
「じゃあ坊ちゃん、ちゃんと眠ってくださいね。おやすみな」
「行かないでください」
「……っ……!!!!……まだ…何か、ありましたか?」
その可愛いおねだりは、この数時間かき乱されたメイドの心にダイレクトアタックだった。
なんとエプロンの裾をつまむものだから、あの高身長イケメンジェイド坊ちゃんがこんなことをするなんてとドキドキするのも致し方ない。
なんとか声のトーンを保って返事をしたが、返ってきたのはこんなお願いだった。
「僕が眠るまでここにいてくださいませんか」
「え……でも、坊ちゃん、眠りが浅いからって……」
「いいんです。貴女なら、」
「!」
「今日だけですから、ね?」
「………っもう!!わか、わかりましたよ!!」
ここまで来ては、一つおねだりを叶えようが叶えまいが同じだと、腹を括ってベッドの横に置いてあった椅子に腰を掛けてその手を握った。
「ね、手を繋いでいますから、」
「!!」
「ゆっくり眠ってください」
「っ……やはりかないませんね、貴女には」
「?」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「……はい。おやすみなさい。ゆっくり眠ったら、良くなりますからね」
コッチコッチと時計の秒針が静かな部屋に鳴り響く。
暫く、こてんと、メイドの頭がジェイドの腹の横に落ちてきた。
時刻はまだお昼前。
しかし駆け引きで疲れたメイドの心は、もう一日分の力を使い切っていたようだ。
ジェイドが休む前に、メイドの小さな寝息が聞こえてきて。
そのリズムを感じながら、ジェイドは微笑み、それから瞼を閉じたのだった。