【完結】恋とはどんな音かしら
「はぁー…」
私がOCTの現場を離れて、明日で二週間になる。それでもわたしの胸には、ずっとトゲが刺さったままのような気分の悪さが残っていた。
次の仕事は超有名雑誌のモデルさんをメイクすることだった。どうやらモデル会社の社長が、私がOCTに施していたメイクをいたく気に入りご指名してくださったらしい。
自分の仕事を評価してくれる人がいるのは、とても嬉しいことだ。
しかしながら、初日に言われた一言が引っかかっていて、私はどうにも職場に馴染めないでいた。
『なに?その小汚いぬいぐるみは…それにウエストポーチも汚れが目立つわねぇ。ファッションの最前線の空間にいるという自覚をもっと持ってもらえるかしら。うちはスタッフにも常に煌びやかにしてもらっているから』なんて、私の思い出と努力の結晶であるメイク道具と、それから大切なマスコットをそんな言葉で蹴散らされてしまっては気持ちが落ち込むのも仕方ない。顔には出さなかったのでそのくらいは許してほしい。
「あれぇ〜どうしたの?なんか今日も元気ないじゃん」
「お疲れ様です。今日の撮影は終わりですか?」
知らないうちに手が止まっていたようで、メイク道具を見つめてぼーっとしていたら、今回初めてメイクを担当させてもらった俳優さんに声をかけられた。有名人らしいのだが、申し訳ないことに私は彼の顔すら知らなかったので、もちろん今も名前がわからない。
(OCTの輝きに慣れすぎててイケメンがイケメンに見えない…)などと考えていたことは秘密である。
「なーに?俺に見惚れてくれちゃってるのかな?」
「え?いや、そんなことは全く」
「君マジで手厳しーね」
「あっ…すみません…!あの、うちの会社では担当する方々に首を突っ込まない方針でして、それで、」
「いーよべつに。俺そーゆー方が燃えるタイプだから」
「はい?」
「君割と可愛い顔してるから狙ってたんだよねー。二人きりで話せるの。俺と遊ばない?」
何を言われたのか理解する前に首筋あたりに触れた彼の手が、ヤケに気持ち悪い熱を帯びていて、私の身体を寒気のようなものが抜けていった。反射的にパシンとその手を払ってしまう。
「っやめてっ!!」
「うぉっ、なんだよ急に」
「あっ、その、す、みませんっ!あの、私…職場失うわけにはいかないので、こういうのはちょっと、ね、あはっあはは…」
「つまんねぇな、これだからマジメちゃんはよ」
「あはは…ごめんなさい…」
自分に靡かなかったことに腹を立てたのかなんなのか、彼は盛大に舌打ちすると、今度は一緒に撮影を行っている女性モデルに絡みに向かった。
チャラ男だ…なんて心の中で思いながら、触れられた首筋を自分の服の袖で擦う私は、ふと『そいえば前に頬を撫でられたことがあったな』と懐かしい気持ちになる。あの時は全然嫌じゃなかったのに。あれはどうして嫌じゃなかったのかな。OCTだったからかな…そんなことないか…だってジェイドさんは綺麗だったけど怖かったし、フロイドさんはそもそも触れてなんかこなかった。あれ?そうなると、私は。
『アズールさんだから、大丈夫だった…?』と、思い当たった事実に驚く。
ただの稚魚だと思って……思い込んでいたけれど。
もしかして、それは全然思い違いで、私は彼のことを雇用主以上の感情で見ていた…?
だから手紙という名の報告書をもらった時もあんなにイラついたの?
「…よかったぁ、離れて…気づいたタイミングが今で…」
あのまま近くに居続けたら感覚が狂ってしまっていたかもしれない。
私が一方的に好きになっても、彼は一生雲の上の人間だ。
その隣で、専属メイクをし続けて、いつか結婚式のメイクまでお願いされるなんてことになったら…この世から消えたくなるに決まっている。お祝いの席でお通夜になることだけは避けたかった。
いいことと悪いことが一気に脳内を巡って、なんだかどっと疲れてしまう。
今日は早く帰ってこんこんと眠りたいなぁと肩を落とし、残りの仕事時間を概算したのであった。
*
「お疲れ様でしたー」
待ちに待った終業時刻。さっさと片付けも終え、帰路につく。
今回のお仕事では特にモデルたちについて行く必要もないし直帰してもいい職場だったので、私は職場のビルを出ると繁華街を歩き出した。『今日のご飯は何にしようか』なんて考えながら。
普通の社会人の生活にもだいぶ慣れた。OCTと一緒にいた頃は、そんなことを考える暇もなくて、その辺のお店に入ったりロケ弁をいただいたりで目まぐるしかったなぁと息をはく。
その時だった。
耳に懐かしい声が聞こえてきて、声の方向に自然と顔が向いたのは。
そこにはビルの壁面に備え付けられている大スクリーンがあって、OCTが大きく映し出されていた。
「ああ…カムバックの時期か」
ワールドツアーとファンミを終えて、新しいアルバムの完成も間近だと言っていたものな。そんな思い出が蘇る。
相変わらず綺麗な歌声だ。今回もダンスナンバーからしっとりとした優しいメロディーまで、たくさんの音を響かせてくれるらしい。
思わず立ち止まってそのCMを見つめていると、アズールさんのソロ曲だろうか、パッとドアップの両の目が映し出される。
次の瞬間、海の中にドボンと落ちたアズールさんは真っ暗闇の中で目を閉じた。そこから始まるイントロはなんとも切ない曲調でその場にいた人々の耳を擽り、パラパラと人の足が止まった。皆がスクリーンに釘付けになる。
聞き入っていたイントロに、ふいにポーンと高いピアノの音が一つ響く。
すると真っ暗闇の中で、ぱちり、双眸が開かれーーその瞬間、アズールさんの周りからたくさんの泡…否、流れ星のようなキラキラが放出されて、一変して暗い海は明るい陸に変貌した。そこに佇む女性を幸せそうに見つめて、ふと微笑んだところで、かぶさるようにして聞こえてくる歌詞は、いつぞや、作り始めたとこっそり教えてもらったあのラブソングだろうか。
♪きっと初めから捉われていた
臆病な僕は歩み出せず
ずっとこんなに近くに居たのに
縛り付けておけたのに
この関係に名前はなくて
もっと傍にと願うばかりだった
貴女の見つめる先に僕はいますか
僕の声は届いていますか
想いが形になるならば
海より広く
空より大きく
強く優しく
貴女を抱きしめられるだろう
Aメロと思われるその曲は、余韻を残したままに暗転し『20xx.04.01 on sale』と白い大きな文字が表示されてプツリと途切れた。
その場に時間という概念が戻ってくる。
ああ、ここはライブ会場ではなかった、と感覚を引き戻された。
「相変わらず…すごいや…」
私がメイクをした、しないに関わらず、あのグループは…アズールさんは輝き続ける。
だから一般人の私は境界を超えてはいけない。そう強く思うと同時に、記憶が会いたいと囁く。
もらった巻貝のネックレスが今も私の首元をキラリと揺れている。
そんなことすら無性に辛くて、そっと外して右手の指に巻きつけた。
ネオンが点り始めたビル街を、ざぁっと風が吹き抜ける。
髪が乱れるのを手で押さえると小さな声がした気がして、ハッと周りを見渡す。
けれど誰も私など気にしていなかった。
なんだったろうか、今の音は。
さっき聞いたOCTの曲に似ているようなだったのに。
そんなことを考えながら髪を耳にかけた、刹那。
耳に当てた手から、微かな音がまた流れた。
今度こそ間違いない。なんで私の手からそんな音が?いつから私がは魔法使いになったのだ、と、阿呆なことを思うがすぐにそのカラクリに気づいた。
「このネックレスだ…」
小さな音は、手の中の小さな巻貝から聞こえる。
確信を持ってそっと耳に近づければ、そこからは、つい先ほど耳にしたはずの歌詞が聞こえてきた。
CMと違うところは、アカペラである、ということだろうか。
しばらく聞いていると、Aメロ、Bメロ、それからおそらくサビが終わったところで、ふと、声のトーンが変わった。
『このラブソングは。貴女への手紙。僕からの気持ち。
「lips of a seashell」
貝殻のように固く閉じがちな僕の心、そして唇を、きちんと開いて伝えようと。
そんな想いを込めて作りました。貴女に送りたい一心で』
好きです
と。その声は言う。
挟まった独白…と言うよりも、告白に、戸惑いが隠せない。
道のど真ん中であるにも関わらず、しゃがみこんで丸くなる。
ああ、アズールさん、そんな。こんな想いを届けようとしてくれたのに。私ときたら。
上に逆らえないだの生活が大事だのと、向き合わずに逃げてしまった。
今更遅いでしょうか。
まだ待っていてくれますか?
…いや。考えるのはやめだ。
すっくと立ち上がって、ネックレスをつけ直す。
気づくのに二週間もかかってしまっているんだから遅れた分を取り戻さないと。
私はその足で、NRPへと向かった。
*
「アズールさんはいらっしゃいますかっ…!」
「申し訳ありません。OCTには正式なアポイントがなければ会うことはできません。お引き取りください」
「わ、私、前にOCTのメイクを担当していて、だからっ」
「すみませんが、お引き取りください。あまり大事になると」
「っ…」
受付嬢の表情をみて私は悟る。
今の私は、OCTに会うことも許されなくなった立場の、ただの一般人であることを。
考えるのはやめだ、とは言ったものの、何をしに来たんだろう。
自分から離れておいて、また会いたいだなんて。
『取り乱して失礼しました』と受付嬢に詫びを入れてから、トボトボと元来た道を帰るはめになった。
NRPはそこそこ遠い場所にあるので、公共移動鏡を高いお金をかけて利用したというのに。
会えず終いな上に、帰りの利用料のことを考えると頭が痛い。
「バカだなぁ、私…簡単に会えるわけないのにね」
「あーメイクちゃんだ」
「幻聴まで聞こえてきた…」
「貴女…何してるんですか、こんなところで」
「ついに幻覚…へ?」
「大丈夫ですか?幻覚きのこでも食べました?レアですのに、あれも」
「…本物?」
パチクリ。何度か瞬きしても、目の前にいるのは生身のOCTの皆さんだった。
「アズールー!!よかったじゃん!!メイクちゃん戻ってきたの!?」
「え…いや、僕は何も聞いてな」
「貴女、戻ってくるなら言ってくださればよかったのに」
「オレ先帰っとくから!!」
「そうですね。僕も先にお暇しましょう」
「フロイド!?ジェイドまで!!」
「二人でないと話しづらいこともあるでしょう。それでは失礼しますね」
そう言って、双子はそさくさとその場を後にしてしまった。
残された私と、それからアズールさんは、暫し口をつぐんで立ち尽くす。
「あの…こん、ばんは…アズールさん」
「こ、んばんは…」
「今日はっ、お仕事、ですか?」
「え、えぇ、まぁ…カムバックの撮影で少し…」
「カムバ!!あのっ!!」
「は、はい!?」
ギクシャクしながらも、自分がしたい話のとっかかりができたとばかりに飛びつかせてもらう。
首元の巻貝をシャラ、と持ち上げると、アズールさんがハッと目を見開く。
「新曲、聞きましたっ!!それから、これ…」
「!!」
「遅くなって、ごめんなさい…手紙、だったんですね」
「あ…聞いたんですね」
一歩、アズールさんに近寄って、近くから綺麗な顔を覗き込むと、んっ!と喉に何かを詰まらせたような声をあげて仰け反ってしまう彼は真っ赤だ。
更にその手を取ってぎゅっと握ると、切れ長の目をもう一度まん丸に開けて大げさに肩を跳ねさせた。
あんなライブをやってのける人が、こんな小さなことで反応を返してくれることが嬉しくて、それから、もしかしたら『私がしているからかも』と思えることもくすぐったくて。素直な気持ちが口をついて出てくれた。
「好きです」
「す へ?」
「アズールさんのことが、好き、だったみたいです、私。だいぶ前から…」
「は…、」
「ラブソング、私に向けて作ってくれたんですよね?今日、街中でたまたま聞いて、その上で、このメッセージを聞いて…嬉しかった。本当に。自分の気持ちに気づいてすぐだったから、余計に嬉しかったです」
「え、あの、す、好き、とは、好意があるという好きですか?僕の考えている好きと同じですかそれは」
「…同じだと思いますけど…そう言われると、ちょっと自信がなくなってきますね…?」
「は!?いや、自信をなくさないでください!!いつでも自分の持つ魅力に自信を持ちなさい貴女は!!仕事も、人柄もそうですが、謙遜しすぎは良くないですよ!?」
「あっ、えっ、はい、すみません!?」
「あっ」
「ふぇ」
勢い詰め寄られて、今度は私が仰け反ってしまう。
やってはやり返され、の構図に一瞬固まって、それからどちらからともなく吹き出した。
「っぷ…、」
「ふ…ふはっ…」
「ふふふっ…!!なんか、おかしいっ…!!」
「ははっ…、これじゃあ埒があきませんねっ…」
「ですねっ…あの、私、今となってはOCTの専属でないので、うちの会社の規約的には問題ないと思うんですけど…」
「っ…OCTとしては、稚魚との恋愛は禁止ですが、貴女は『仕事仲間』でしたよね」
「…ふふっ…お互い、屁理屈が上手いみたいでっ」
「当たり前です。そうでもしないと、この業界ではやっていけないでしょう」
「それじゃあ、もしかしなくても、また一緒にいても大丈夫ですか?」
「貴女が、それを望むなら」
「お願いアーシェングロット、しましょうか。対価が何マドルになるかが怖いですけど」
ふふっと笑えば、一瞬考えるそぶりをした後『そうですね』とアズールさんは言った。
「目を、瞑って頂きましょうか。対価をもらう準備をします」
「え、本当に対価!?しかも今ですか?何か渡せるもの、ありましたっけ…」
「いいから早く」
「…?わかりました…」
ふっと目を閉じて、1、2、3、と心の中で唱えたら、ふに、と、唇に何かが触れる感触がして、咄嗟に瞼をあけてしまった。
ドアップで入り込むのは、あのMVのようなブルーグレーの双眸。
いたずらっ子のような、羞恥心のような、そんなキラキラを湛えた瞳に捕らわれて、どきりと心臓が跳ねる。
それに感づいたのか、アズールさんはさらに唇を押し付けてきて、私の唇を『はむ』と一度だけ食んだ。
時間にすれば三秒もなかっただろうけれど、永遠にも感じられるような、甘いキス。
「…対価を、頂きました」
「っ…!?」
「貴女のお願い、叶えましょう。僕が。一緒にいてくださいますね、僕と、これからも」
喜んで、という言葉の代わりに、ぎゅうとその身体に抱きついてみれば、嬉しそうな笑い声が頭の上に降ってきた。
刹那を煌めくアイドルと、恋なんてできるはずもないと思っていたけれど。
この世は案外、決まり事も何もないらしい。
私はこうして、アズール・アーシェングロットという、トップアイドルOCTのメンバーとお付き合いすることになった。
私たちがゆくゆくどうなるのかは、まだ、誰にもわからない。
私がOCTの現場を離れて、明日で二週間になる。それでもわたしの胸には、ずっとトゲが刺さったままのような気分の悪さが残っていた。
次の仕事は超有名雑誌のモデルさんをメイクすることだった。どうやらモデル会社の社長が、私がOCTに施していたメイクをいたく気に入りご指名してくださったらしい。
自分の仕事を評価してくれる人がいるのは、とても嬉しいことだ。
しかしながら、初日に言われた一言が引っかかっていて、私はどうにも職場に馴染めないでいた。
『なに?その小汚いぬいぐるみは…それにウエストポーチも汚れが目立つわねぇ。ファッションの最前線の空間にいるという自覚をもっと持ってもらえるかしら。うちはスタッフにも常に煌びやかにしてもらっているから』なんて、私の思い出と努力の結晶であるメイク道具と、それから大切なマスコットをそんな言葉で蹴散らされてしまっては気持ちが落ち込むのも仕方ない。顔には出さなかったのでそのくらいは許してほしい。
「あれぇ〜どうしたの?なんか今日も元気ないじゃん」
「お疲れ様です。今日の撮影は終わりですか?」
知らないうちに手が止まっていたようで、メイク道具を見つめてぼーっとしていたら、今回初めてメイクを担当させてもらった俳優さんに声をかけられた。有名人らしいのだが、申し訳ないことに私は彼の顔すら知らなかったので、もちろん今も名前がわからない。
(OCTの輝きに慣れすぎててイケメンがイケメンに見えない…)などと考えていたことは秘密である。
「なーに?俺に見惚れてくれちゃってるのかな?」
「え?いや、そんなことは全く」
「君マジで手厳しーね」
「あっ…すみません…!あの、うちの会社では担当する方々に首を突っ込まない方針でして、それで、」
「いーよべつに。俺そーゆー方が燃えるタイプだから」
「はい?」
「君割と可愛い顔してるから狙ってたんだよねー。二人きりで話せるの。俺と遊ばない?」
何を言われたのか理解する前に首筋あたりに触れた彼の手が、ヤケに気持ち悪い熱を帯びていて、私の身体を寒気のようなものが抜けていった。反射的にパシンとその手を払ってしまう。
「っやめてっ!!」
「うぉっ、なんだよ急に」
「あっ、その、す、みませんっ!あの、私…職場失うわけにはいかないので、こういうのはちょっと、ね、あはっあはは…」
「つまんねぇな、これだからマジメちゃんはよ」
「あはは…ごめんなさい…」
自分に靡かなかったことに腹を立てたのかなんなのか、彼は盛大に舌打ちすると、今度は一緒に撮影を行っている女性モデルに絡みに向かった。
チャラ男だ…なんて心の中で思いながら、触れられた首筋を自分の服の袖で擦う私は、ふと『そいえば前に頬を撫でられたことがあったな』と懐かしい気持ちになる。あの時は全然嫌じゃなかったのに。あれはどうして嫌じゃなかったのかな。OCTだったからかな…そんなことないか…だってジェイドさんは綺麗だったけど怖かったし、フロイドさんはそもそも触れてなんかこなかった。あれ?そうなると、私は。
『アズールさんだから、大丈夫だった…?』と、思い当たった事実に驚く。
ただの稚魚だと思って……思い込んでいたけれど。
もしかして、それは全然思い違いで、私は彼のことを雇用主以上の感情で見ていた…?
だから手紙という名の報告書をもらった時もあんなにイラついたの?
「…よかったぁ、離れて…気づいたタイミングが今で…」
あのまま近くに居続けたら感覚が狂ってしまっていたかもしれない。
私が一方的に好きになっても、彼は一生雲の上の人間だ。
その隣で、専属メイクをし続けて、いつか結婚式のメイクまでお願いされるなんてことになったら…この世から消えたくなるに決まっている。お祝いの席でお通夜になることだけは避けたかった。
いいことと悪いことが一気に脳内を巡って、なんだかどっと疲れてしまう。
今日は早く帰ってこんこんと眠りたいなぁと肩を落とし、残りの仕事時間を概算したのであった。
*
「お疲れ様でしたー」
待ちに待った終業時刻。さっさと片付けも終え、帰路につく。
今回のお仕事では特にモデルたちについて行く必要もないし直帰してもいい職場だったので、私は職場のビルを出ると繁華街を歩き出した。『今日のご飯は何にしようか』なんて考えながら。
普通の社会人の生活にもだいぶ慣れた。OCTと一緒にいた頃は、そんなことを考える暇もなくて、その辺のお店に入ったりロケ弁をいただいたりで目まぐるしかったなぁと息をはく。
その時だった。
耳に懐かしい声が聞こえてきて、声の方向に自然と顔が向いたのは。
そこにはビルの壁面に備え付けられている大スクリーンがあって、OCTが大きく映し出されていた。
「ああ…カムバックの時期か」
ワールドツアーとファンミを終えて、新しいアルバムの完成も間近だと言っていたものな。そんな思い出が蘇る。
相変わらず綺麗な歌声だ。今回もダンスナンバーからしっとりとした優しいメロディーまで、たくさんの音を響かせてくれるらしい。
思わず立ち止まってそのCMを見つめていると、アズールさんのソロ曲だろうか、パッとドアップの両の目が映し出される。
次の瞬間、海の中にドボンと落ちたアズールさんは真っ暗闇の中で目を閉じた。そこから始まるイントロはなんとも切ない曲調でその場にいた人々の耳を擽り、パラパラと人の足が止まった。皆がスクリーンに釘付けになる。
聞き入っていたイントロに、ふいにポーンと高いピアノの音が一つ響く。
すると真っ暗闇の中で、ぱちり、双眸が開かれーーその瞬間、アズールさんの周りからたくさんの泡…否、流れ星のようなキラキラが放出されて、一変して暗い海は明るい陸に変貌した。そこに佇む女性を幸せそうに見つめて、ふと微笑んだところで、かぶさるようにして聞こえてくる歌詞は、いつぞや、作り始めたとこっそり教えてもらったあのラブソングだろうか。
♪きっと初めから捉われていた
臆病な僕は歩み出せず
ずっとこんなに近くに居たのに
縛り付けておけたのに
この関係に名前はなくて
もっと傍にと願うばかりだった
貴女の見つめる先に僕はいますか
僕の声は届いていますか
想いが形になるならば
海より広く
空より大きく
強く優しく
貴女を抱きしめられるだろう
Aメロと思われるその曲は、余韻を残したままに暗転し『20xx.04.01 on sale』と白い大きな文字が表示されてプツリと途切れた。
その場に時間という概念が戻ってくる。
ああ、ここはライブ会場ではなかった、と感覚を引き戻された。
「相変わらず…すごいや…」
私がメイクをした、しないに関わらず、あのグループは…アズールさんは輝き続ける。
だから一般人の私は境界を超えてはいけない。そう強く思うと同時に、記憶が会いたいと囁く。
もらった巻貝のネックレスが今も私の首元をキラリと揺れている。
そんなことすら無性に辛くて、そっと外して右手の指に巻きつけた。
ネオンが点り始めたビル街を、ざぁっと風が吹き抜ける。
髪が乱れるのを手で押さえると小さな声がした気がして、ハッと周りを見渡す。
けれど誰も私など気にしていなかった。
なんだったろうか、今の音は。
さっき聞いたOCTの曲に似ているようなだったのに。
そんなことを考えながら髪を耳にかけた、刹那。
耳に当てた手から、微かな音がまた流れた。
今度こそ間違いない。なんで私の手からそんな音が?いつから私がは魔法使いになったのだ、と、阿呆なことを思うがすぐにそのカラクリに気づいた。
「このネックレスだ…」
小さな音は、手の中の小さな巻貝から聞こえる。
確信を持ってそっと耳に近づければ、そこからは、つい先ほど耳にしたはずの歌詞が聞こえてきた。
CMと違うところは、アカペラである、ということだろうか。
しばらく聞いていると、Aメロ、Bメロ、それからおそらくサビが終わったところで、ふと、声のトーンが変わった。
『このラブソングは。貴女への手紙。僕からの気持ち。
「lips of a seashell」
貝殻のように固く閉じがちな僕の心、そして唇を、きちんと開いて伝えようと。
そんな想いを込めて作りました。貴女に送りたい一心で』
好きです
と。その声は言う。
挟まった独白…と言うよりも、告白に、戸惑いが隠せない。
道のど真ん中であるにも関わらず、しゃがみこんで丸くなる。
ああ、アズールさん、そんな。こんな想いを届けようとしてくれたのに。私ときたら。
上に逆らえないだの生活が大事だのと、向き合わずに逃げてしまった。
今更遅いでしょうか。
まだ待っていてくれますか?
…いや。考えるのはやめだ。
すっくと立ち上がって、ネックレスをつけ直す。
気づくのに二週間もかかってしまっているんだから遅れた分を取り戻さないと。
私はその足で、NRPへと向かった。
*
「アズールさんはいらっしゃいますかっ…!」
「申し訳ありません。OCTには正式なアポイントがなければ会うことはできません。お引き取りください」
「わ、私、前にOCTのメイクを担当していて、だからっ」
「すみませんが、お引き取りください。あまり大事になると」
「っ…」
受付嬢の表情をみて私は悟る。
今の私は、OCTに会うことも許されなくなった立場の、ただの一般人であることを。
考えるのはやめだ、とは言ったものの、何をしに来たんだろう。
自分から離れておいて、また会いたいだなんて。
『取り乱して失礼しました』と受付嬢に詫びを入れてから、トボトボと元来た道を帰るはめになった。
NRPはそこそこ遠い場所にあるので、公共移動鏡を高いお金をかけて利用したというのに。
会えず終いな上に、帰りの利用料のことを考えると頭が痛い。
「バカだなぁ、私…簡単に会えるわけないのにね」
「あーメイクちゃんだ」
「幻聴まで聞こえてきた…」
「貴女…何してるんですか、こんなところで」
「ついに幻覚…へ?」
「大丈夫ですか?幻覚きのこでも食べました?レアですのに、あれも」
「…本物?」
パチクリ。何度か瞬きしても、目の前にいるのは生身のOCTの皆さんだった。
「アズールー!!よかったじゃん!!メイクちゃん戻ってきたの!?」
「え…いや、僕は何も聞いてな」
「貴女、戻ってくるなら言ってくださればよかったのに」
「オレ先帰っとくから!!」
「そうですね。僕も先にお暇しましょう」
「フロイド!?ジェイドまで!!」
「二人でないと話しづらいこともあるでしょう。それでは失礼しますね」
そう言って、双子はそさくさとその場を後にしてしまった。
残された私と、それからアズールさんは、暫し口をつぐんで立ち尽くす。
「あの…こん、ばんは…アズールさん」
「こ、んばんは…」
「今日はっ、お仕事、ですか?」
「え、えぇ、まぁ…カムバックの撮影で少し…」
「カムバ!!あのっ!!」
「は、はい!?」
ギクシャクしながらも、自分がしたい話のとっかかりができたとばかりに飛びつかせてもらう。
首元の巻貝をシャラ、と持ち上げると、アズールさんがハッと目を見開く。
「新曲、聞きましたっ!!それから、これ…」
「!!」
「遅くなって、ごめんなさい…手紙、だったんですね」
「あ…聞いたんですね」
一歩、アズールさんに近寄って、近くから綺麗な顔を覗き込むと、んっ!と喉に何かを詰まらせたような声をあげて仰け反ってしまう彼は真っ赤だ。
更にその手を取ってぎゅっと握ると、切れ長の目をもう一度まん丸に開けて大げさに肩を跳ねさせた。
あんなライブをやってのける人が、こんな小さなことで反応を返してくれることが嬉しくて、それから、もしかしたら『私がしているからかも』と思えることもくすぐったくて。素直な気持ちが口をついて出てくれた。
「好きです」
「す へ?」
「アズールさんのことが、好き、だったみたいです、私。だいぶ前から…」
「は…、」
「ラブソング、私に向けて作ってくれたんですよね?今日、街中でたまたま聞いて、その上で、このメッセージを聞いて…嬉しかった。本当に。自分の気持ちに気づいてすぐだったから、余計に嬉しかったです」
「え、あの、す、好き、とは、好意があるという好きですか?僕の考えている好きと同じですかそれは」
「…同じだと思いますけど…そう言われると、ちょっと自信がなくなってきますね…?」
「は!?いや、自信をなくさないでください!!いつでも自分の持つ魅力に自信を持ちなさい貴女は!!仕事も、人柄もそうですが、謙遜しすぎは良くないですよ!?」
「あっ、えっ、はい、すみません!?」
「あっ」
「ふぇ」
勢い詰め寄られて、今度は私が仰け反ってしまう。
やってはやり返され、の構図に一瞬固まって、それからどちらからともなく吹き出した。
「っぷ…、」
「ふ…ふはっ…」
「ふふふっ…!!なんか、おかしいっ…!!」
「ははっ…、これじゃあ埒があきませんねっ…」
「ですねっ…あの、私、今となってはOCTの専属でないので、うちの会社の規約的には問題ないと思うんですけど…」
「っ…OCTとしては、稚魚との恋愛は禁止ですが、貴女は『仕事仲間』でしたよね」
「…ふふっ…お互い、屁理屈が上手いみたいでっ」
「当たり前です。そうでもしないと、この業界ではやっていけないでしょう」
「それじゃあ、もしかしなくても、また一緒にいても大丈夫ですか?」
「貴女が、それを望むなら」
「お願いアーシェングロット、しましょうか。対価が何マドルになるかが怖いですけど」
ふふっと笑えば、一瞬考えるそぶりをした後『そうですね』とアズールさんは言った。
「目を、瞑って頂きましょうか。対価をもらう準備をします」
「え、本当に対価!?しかも今ですか?何か渡せるもの、ありましたっけ…」
「いいから早く」
「…?わかりました…」
ふっと目を閉じて、1、2、3、と心の中で唱えたら、ふに、と、唇に何かが触れる感触がして、咄嗟に瞼をあけてしまった。
ドアップで入り込むのは、あのMVのようなブルーグレーの双眸。
いたずらっ子のような、羞恥心のような、そんなキラキラを湛えた瞳に捕らわれて、どきりと心臓が跳ねる。
それに感づいたのか、アズールさんはさらに唇を押し付けてきて、私の唇を『はむ』と一度だけ食んだ。
時間にすれば三秒もなかっただろうけれど、永遠にも感じられるような、甘いキス。
「…対価を、頂きました」
「っ…!?」
「貴女のお願い、叶えましょう。僕が。一緒にいてくださいますね、僕と、これからも」
喜んで、という言葉の代わりに、ぎゅうとその身体に抱きついてみれば、嬉しそうな笑い声が頭の上に降ってきた。
刹那を煌めくアイドルと、恋なんてできるはずもないと思っていたけれど。
この世は案外、決まり事も何もないらしい。
私はこうして、アズール・アーシェングロットという、トップアイドルOCTのメンバーとお付き合いすることになった。
私たちがゆくゆくどうなるのかは、まだ、誰にもわからない。
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