【完結】恋とはどんな音かしら

その日はスケジュール上、鏡で移動するよりも都合が良かったので、珍しく車に乗り込んでいた僕らに、ある企画書が配布された。

「お願い M アーシェングロット?」
「そうなんですよぉ〜、新しい企画としてやりたいって、TWKから書類が来てて。目を通すだけでも!」

バックミラー越しにマネージャーがウインクを決め、助手席のフロイドがにこやかに『なぁにそれ〜』と楽しげな声を上げる。
フロイドがマネージャーに、マネージャー以上の好意を寄せていることはわかっていた。だからこそ、今日のように仕事が分刻みで入っている日はフロイドの機嫌を損なうわけには行かず、つまりは素直に言うことを聞くしかないわけだ。うちのマネージャーは思った以上にずる賢い。

「…見るだけですよ…?!そもそも企画名からしていい要素が見当たらないのですが…」
「まぁまぁ!ジェイドさんのキノコの番組だって、なんだかんだ大成功してますし!やってみたら意外とってこともありますよ」
「はぁ…」

ポップなフォントでデカデカと描かれたタイトルページをめくり、企画の詳細を読み上げる。

「『本企画、お願いMアーシェングロットの概要。事前に募集した稚魚たちからのお願い事をその場(スタジオ以外も可)で、アーシェングロットさんが叶えるというもの。前提として身体接触はNG。パフォーマンスとしてOCTメンバーにもOK/NGのフダを持ってもらい上げ下げしてもらうが、基本的には本人がやってもいいと思ったことのみOKとしてもらえれば良いものとする。』…はぁ…?僕の魔力の凄さを聞きつけての企画でしょうが、こんな子供騙しみたいな…」
「おや、アズール。そうでもないようですよ?ここを読んでください」
「ん?」

ジェイドが横から企画書の一部を指差す。そこにあったのはこんな一文だった。
『叶えられると思ったお願い事には、その場でアーシェングロットさん自身が、それに見合った対価をつけていただいて構いません(マドル可)。タイトルのMは、マドルの頭文字MともっとのMのひっかけです。』
それをみて、自分でも驚くような頓狂な声が出る。

「正気か?!」
「文章からでは、文面通りの意図にしか取れませんし…お話を伺ってみる価値はあるのでは?」
「ですよね〜!ジェイドさんいいこと言う〜!」
「それに…仕事が増えれば、それだけ専属メイクさんと一緒にいられる時間も増えるのでは?」
「!」

その言葉にカッと体温が上がったのがわかった。
一時期はとてもよく話してくれていた彼女は、最近妙によそよそしくなった。それがどういう意味なのかわからないし、なぜこんなにも気になるのかもわからないので考えたくもないのだが、仕事の間は同じ空間に居られる公然とした理由ができるわけで、それ自体は悪くないと思える。

「…TWKと打ち合わせをする時間は取れるんですか?」
「そりゃあもう!アズさんがGOを出すなら明日にでも!」
「わかりました、話だけでも聞きにいきましょう」
「先方に連絡入れときますね!」

そういうわけで始まった『お願い!M アーシェングロット』は瞬く間に大人気番組となった。
あるものは、一緒に写真を撮って欲しいと願い、またあるものは私物に指紋をつけて欲しいと願う。別の日には、一緒に夕日を見に行って欲しいと言われたり、自分の書いた詩を朗読して欲しいと言ったものもあったか。
いずれにしろ可愛気のあるお願いがほとんどだったが、たまに図ったように狂気染みた願いが混ざっていたりして笑いも耐えない収録は思ったよりも楽しい。
今日も、司会者の声は明るくスタジオに響く。
『アーシェングロットさん今日もキツいお値段を提示するねぇー!』と。
ほとんど誰も信じていなかったが、その舞台裏では本当に対価を支払う契約が交わされており、僕の懐が潤っていることなど誰にも知られないまま。

「それじゃ今日の収録は終わりますー!お疲れっしたー!」

プロデューサーが終わりの合図をし、本日の収録はお開きとなる。
各々楽屋に戻る、その中で彼女の姿を見つけてその背中に声をかけた。

「お疲れ様でした」
「アズールさん!お疲れ様です!」

僕たちのスケジュールにほとんどひっついて来るのだから、疲れがないわけもないだろうに、パッと微笑み返してくれる彼女は健気だと思う。

「今日はどうでした?」
「バッチリです!そういえば今日はこの間撮影したクリスマスコフレのCMのシャドウを使わせてもらったんですよ」
「ああ、そうだったんですか。道理で皆さん僕の目をよく見ると」
「ふふ!これとっても綺麗な紫色ですもんね!みんな惚れ惚れしちゃいますよきっと」

そう言って彼女は、自身の手の甲に塗られたアイシャドウをキラキラと光に照らす。本当にコスメが好きなのだろう。それを見つめる瞳はいつも以上に輝いているな、と、そう思ったら。
その目を僕に向けて欲しいと。
自分の手が勝手に、彼女の頬に触れていた。

「ふぇ?」
「あ」
「、アズールさん?」

大きく開かれた瞳が、そのまま僕の顔を映す。
こんなにも近くにいたのに、気がつかなかった。彼女は僕よりも華奢で、僕をブラッシュアップする魔法の手は僕よりもかなり小さくて。
抱きしめたいと、そう、思った。
突然自分の中に生まれた気持ちに戸惑いを隠せない。これじゃまるで僕は、彼女のことをーーすき、みたいじゃないか。

「どうしました?」
「っ、なんでも」
「?でも、」
「だ、大丈夫です!」
「そうですか?今日はまだ二件スケジュールがありまあしたよね。疲れがあるようならマネさんにきちんと申告してくださいね?」

眉を下げていても可愛い。
僕を心配して、困ったように笑う顔が可愛い。
もう少しがんばりましょうね、と拳を握る姿が可愛い。

気づいてしまったら、もうダメだった。
むしろ気づかない方がよかった。
次の現場からどうやってメイクをして貰えばいいんだ。

止まった時を動かしたのは『おーい!スタッフそろそろ撤収するぞー!』とスタジオにこだました現場監督の声だった。

「ああっ!片付けがまだ!」
「じ、邪魔をしました!また、後ほどっ!」
「あっ、はい!また!」

踵を返して楽屋への道を急ぐ。
頬が熱い。息があがる。
バレなかっただろうか。
次の現場では、どう繕えばいい?

「あぁもうっ…!」

お願いアーシェングロットなんて言っている場合ではない。
早急に自分の気持ちを忘れる魔法でも探さなければと頭を抱えた。
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