【完結】僕らのフェアリーテイル

 彼女がくしゃみをしたのはこれが初めてのことだったので少なからず驚いた。

「くしゅんっ」
「おや、大丈夫ですか?」
「ひゃい…大丈夫です!」
「それならいいのですが…。そういえば、妖精族の方も病を患ったりするのですか?」
「一応生きていますから、それなりには。でも妖精は一般的に魔力が強い者が多いので、珍しいかもしれませんね。種族によっても違いますよ。例えば特定のものを食べるのがダメとか、気温が極端に下がるのには耐えられないとか」
「原因がわかっているのならそれを避ければいいだけですが、ヒトのような感じだと少し大変ですね。僕ら人魚も陸に来て初めて風邪という症状に陥って大変なことになりましたから」
「へぇ…そんなに辛いんですか…?」
「風邪の場合は最終的には薬に頼ることになりますが、まずは充分な休息と栄養を摂る必要があります。咳やくしゃみはそんな風邪の前兆…ということですので」

 ベッドに腰掛けていた小さな身体をトンっと押してマットに沈め、顔の横に両手をつけば、キョトンとした表情が僕の瞳に映った。クスリと笑いながら眼鏡を外してサイドデスクに置きつつ語りかける。

「栄養補給、します?それとも今日はこのまま眠りましょうか?」
「…いじわるっ」
「ふふ、何がですか?」
「わかってるくせに、意地悪、です!」

 ぷく、と頬を膨らませてもなんら怖くない。愛しい身体を引き寄せてすみませんと囁いた。

「私の身体が健康なのは、アズールさんが愛してくれるからですよ」
「そうですね」
「愛してもらえなくなったら死んじゃいます」
「わかっています。今日もたくさん、補給してください」

 今夜も優しく塞いだ唇からは、リップノイズが絶えることはなかった。

 それから数日会えない日が続いた。その間は雨天や曇天だった。
 彼女の様子は心配ではあったが、前に会った時に思う存分睦み合っていたこともあって気が緩んでいた。その上、モストロ・ラウンジの宣伝や学校行事が目白押しになっていたために、あれよあれよと日付が変わっていった。やっとのことで自分の自由な時間が取れた時には二週間は経っていただろうか。若干ふらふらしながら鏡を潜る。

「やっと…彼女と会える……」

 その気持ちだけで辿り着いた家だったが、明かりは点いているしたった今まで人がいた気配はあるのに、彼女の姿だけが見えない。以前喧嘩をした時のことが思い出されて少し焦りが湧き起こり、順に部屋を覗くもやはり誰もいなかった。けれど不自然な場所…それは寝室に続く廊下だったのだが、そこに彼女の服が落ちているのが目にとまって首を傾げる。寝室の扉は開け放たれていた。
 一旦深呼吸してから寝室に足を踏み入れると、普段は綺麗に整えられているシーツがベッドの下に引き摺られて無造作に落ちていた。いよいよおかしいと不安に襲われるが、少し冷静に考えれば、部屋が荒らされた形跡はないし、果たしてこんな場所にある家に泥棒などが入るだろうか。二人の家としては大きくはあるものの豪邸というわけでもない。そうなると目当ては彼女ということになり…そこまで頭が回ってはじめて『一大事だ…』と寒気がした。
 とはいえ何も証拠がない状態ではしかるべき機関を呼ぼうが話にならない。何か痕跡はないのかとシーツを拾い上げようとしたその時だ。シーツから覗くモノに気づいたのは。
 それは、足、だった。

「ウワッ!?」

 小さな子供が遊ぶ人形の足のようなそれに驚いて腰を抜かしそうになる。反射的に引いた身体を立て直すのに少し時間がかかったが、改めて見ればその先、身体があるだろう部分がシーツに隠れているだけだと気づき、羞恥からこほんと一度咳払いをした。が、しかし、それを捲ったときにさらに衝撃を受けることとなる。

「なっ…!?あ、あなたどうしたんですか!!!?」

 そこには顔を真っ青にして荒い息を吐く彼女がいた。何かの病に苦しんでいるのは一目でわかったけれど、それ以上に驚いた理由は、彼女が小さく…妖精の姿でそこに蹲っていたからだ。初めて見る小さな身体。触れていいのかもわからないが、苦しんでいる者が目の前にいてそのままにするわけにもいかない。細心の注意を払いながら掌でそっと掬うと氷のように冷たく、思わず落としてしまいそうになる。体温調整ができなくなったのか?一体なぜ?特に気温に変化はないはずだし空調も整っているのに。

「…れ、」
「え?」
「だ、れ…?」
「っ大丈夫ですか!?僕のことわかりますか!」
「…こえ…、あずーるさん…?」
「そうです、アズールです!どうしたんです!?」

 見ないようにしてきた現実が頭を過る。平穏に暮らしていた。だって彼女自身もそう言ったんだ。妖精はもともと寿命が長いし魔力も多いから、人間サイズのままでいたって大丈夫だしそもそも戻る手段だって限られているのだと。月の光を適度に浴びて愛情をかけてもらえば問題ないからと、そう言ったのだ。確かに最近は雨の日が多かったし僕も帰れていなかったが、それにしてもなぜ突然これほど衰弱した?どう考えてもおかしい。だけれど原因を探るにも持っている情報が少なすぎる。それに加えてこんな状態の彼女をこのままにはしておけず、とりあえずベッドに寝かせた時だった。ボフン!と出会ったあの日に見たような煙が部屋を満たしたのに驚いたのも束の間。そこには人間サイズに戻った彼女がベッドに横たわっていて目を白黒させる。当然ながら素っ裸だったのでどこを見たら良いのかわからず視線を逸らした。

「あっ…なたねぇ…!驚きましたよ、帰ってきたら倒れているから…というか小さくなれたんですね、どうやったんですか?」
「はぁ、はぁっ…あ、あず、る、さ…」

 元の大きさに戻ったことで治ったのかと勘違いしたが全然そうではないらしい。まだ息苦しそうなので、ハッとそちらに向き直ってしまい、また喉を詰まらせた。こんな時だがその姿は目に毒だ。急ぎシーツを掛けてから手を握るとやはりまだ冷たいままで、本当にどうしたものかと困ってしまう。

「辛いところ申し訳ないのですが、少しでも話せますか?なぜこんなことになったのか思い当たることがあれば教えてくれませんか」
「…っ、は、ぁ、私、っ!」

 何か言葉を発しようとした瞬間、またボフン!と音がしたと思えば、今度はそこに小さな姿に戻ってしまった彼女がいた。そこでやっと理解する。魔力が安定しないのだと。普段は気を張って人型を保っているわけではなさそうだったが、魔力が完全にコントロールできていない状態ではその形を保つのは難しいものと見える。

「大きさが度々変化していては体力がもたないでしょう…厄介ですね…。しかしこの状態ではここから連れ出すわけにもいかないですし…」
「わたしっ、はぁ、…アズールさん、を、テレビでみたの、」
「僕を?」
「アズールさん、言ってた…大事な人がって、それで」
「あ…!」

 その一言で蘇ったのは、先日自分が受けたモストロ・ラウンジの宣伝インタビューのことだった。あの時僕はキャスターに対してこう答えた。

『さて賢者の島でも有名なモストロ・ラウンジの魅力をお伝えしてきましたが、いかがでしたでしょうか!最近は雑貨販売にも力を入れているとお伺いしました』
『ええ、とても人気があるんですよ。学生でも手に取れる価格帯にしてありますが、どれもジュエリーとしての価値も比較的高いので、プレゼントに最適です』
『そうなんですね!これらもアーシェングロットさんが手がけていらっしゃるんでしょうか』
『いいえ、作成しているのは僕ではありません』
『では従業員のどなたかが?』
『いえ…そういう訳ではないのですが…その、僕の、大事な人が』

 その後からだった。モストロ・ラウンジのメールフォームにおかしな内容のメールが届き始めたのは。僕は支配人という立場にいるが、ホールに出て客の相手をすることも多いので知ってはいた。ある一定の層が僕やジェイド、フロイド、その他寮生の接客を目当てに店に来ていることを。そのような客は提供される料理はそっちのけで僕らと絡むことを目的としており、こちらとしてはお引き取り願いたいことこの上なかったのだが、目立った問題行為があるわけでもないため無碍にもできず、若干困っていたのだ。
 ただ、流石に『大事な人がいるなんて不潔です』『学生の身分で不埒だ』といった個人的な内容が届くようになっては、何かしらの対応をせねばということで、ジェイドに調査をさせていたところだったのだが、もしかして。

「貴女、僕の留守中に誰かに何かされたんですか…!?」
「ちがぅ…」
「じゃあっ、ワッ!」

 ボフンとまた大きさを変えて、彼女が訥々と語るにはこういうことだった。
 宝石には元来、人を惹きつける力が宿っている。種類により内容に差はあれど、手にしたものに固有の力を巡らせ、活性化すると言われてきた。自分の種族はそんな宝石を精製する側ということもあり、人の気を受け易い。月に頻繁に当たりたいのは体内に溜まりがちな気を浄化させる必要があるためだ。自分の存在を誰も知らない状況であれば気を飛ばされることもないので然程心配はいらないけれど、今回は少し勝手が違った。

「あのとき、大事な人と言われて、私、とても嬉しかった…。でも、それで嫌な気分になった人も多かったのかもしれませんね」
「嫌な気分?」
「生きる者は誰しも羨望、嫉妬、反感、驕りそんな暗い気持ちを持っています。もちろんそれは時に自身を鼓舞する大切な気持ちです。でも稀にそれを他人に向けてしまうヒトもいるんです。いわゆる幸災楽禍」
「まさか、僕の一言で、そんな」
「ヒトは皆、感情を持っています。きっとアズールさんのことをとても好いているヒトが、私の存在に怒ったんだと思います。それで浄化が間に合わなくなって…。このところお天気も崩れていたし。それだけですよ。気にしないで。こうして…アズールさんの気持ちをもらうことで、私は、ほら、ちゃんと元気になったから、大丈夫。心配ないです」
「心配ない…!?どこがですか!たしかに今は安定しているようですが、またいつそうなるか!本当に、そんな、」

 僕がこうして傍にいることで、もう勝手に小さな姿に戻ることはなくなり、顔色も良くなってきたのには間違いないが、それでも先程見た事態を完全に忘れることはできずに狼狽えてしまう。それを横目に起き上がろうとするので、慌てて背中を支えるとハラリとシーツが落ちそうになり、『ちょっと待ってください!』と自分の着ていた制服を押し付けた。途端、くすくすと笑う声がして居た堪れない。

「…な、なんです、でも、その…少しでも元気になったなら、ええ、良かったです」
「私も、ちょっと耳に挟んでいただけでここまでとは知らなかったんです。以前話した通り、一度人型をとると簡単に戻れないのはわかっていたけれど、こんな…辛いけど、こんな思いさえしたら、アズールさんに元の姿、見せられたのね…って…。意図せずではあっても嘘をついてしまってごめんなさい」
「何を言っているんですか!こんなの嘘でもなんでもありません!それに、こんな風になることが簡単だと思わないでください。貴女を辛い目に合わせてまで見たいものじゃありません。僕は貴女が元気でいてくれればそれだけでいいんですから…。本当に申し訳ない…月もなかなか出なかったから余計に不安定になったんでしょう。僕も会いに来れなかった。不甲斐ない……」
「アズールさんが謝ることなんて何もないんですよ。でも、心配してくれてありがとうございます。…不謹慎だけど、嬉しいです」

 それから徐に、肩にかけた制服をぎゅっと胸の前に引き寄せたと思えば『これ、暖かいです。アズールさんに抱きしめられてるみたいで』と可愛いことを言うものだから、うっ、と言葉を詰まらせてしまった。病み上がりなんだからと思いつつも、特効薬とまで言われたわけだし、それに手を握っていただけでここまで回復したのだからと言い訳が脳を巡る。加えて僕自身も疲れていたことも大きかった。考えることを放棄するなんて自分らしくもなかったが、口を突いて出たのはこんな独りよがりな台詞だった。

「その、これから埋め合わせをさせてほしいのですが…身体の負担になりますか?」

 言ってしまってからハッとするも、キョトンとした瞳がこちらに向けられて、すぐにふにゃりと蕩けたのを見て、どうやらこれが正解だったかと安心した。

「負担なんてそんなわけ…。わがままを言うとね、今すぐたくさん、たくさんキスしてほしいです…。それから、夜が明けても、ずっと、ずっと抱きしめていてください。そうして言葉で、身体で、愛を伝えて、私を元気にしてくれますか?」

 繋いだ手はもう冷たくはなく、体温が混ざり合って心地よかった。ありったけの優しさで彼女の身体を抱き寄せて、暖かい微睡の中愛を語らった。
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