小噺色々
思いの外、と言っては失礼なのだけど、私とアズールさんのお付き合いはとても平和に、そして長く続いている。
アズールさんはとても紳士で優しくて、時にちょっと世間とズレた思考で私を笑わせてくれたりもして。とてもとても幸せだった。
周りから…というか、シスターズのおばあちゃんたちから、キッスはしたかい!とか床の話は!とか揶揄われても、そんなことがどうでもよくなるくらいには。ただ、それも実の所は、二人で会ったりするときに、帰り際でこっそり、唇を重ねるだけのキスは普通にできるようになっていたし、少し甘えてみれば抱きしめてくれもしていたからかもしれない。なんだかそれだけで満たされている自分がいたのだ。
けれどそれでも。
周りの話を聞けば聞くほど、雑誌のコラムを読んで知識を蓄えるほど、焦る自分もどこかにいて。その劣情が、純粋の化身のようなアズールさんの前では不埒で恥ずかしくて、全てに蓋をして隠す日々が続いていた。
そんな私の前に訪れたこれは、果たしてチャンスか、ピンチか。
その日はデートの約束をしていたのに、かなり激しく雨が降っていた。
これでは外を歩くだけでびしょ濡れになってしまってデートどころではないなと判断して、『この雨じゃ、お出かけは難しそうですね』とメッセージを一つ送信。残念です、というスタンプを押すと、それはなんだか滑稽で、私の気持ちのひとカケラも伝わらないような気になった。本当は、一分一秒でも一緒にいたい。そのくらいには、私のほうが夢中になっていたのに。
「どうしよう…こういうときなんて言えばいいんだろう」
そんなこともわからない程幼稚な思考の自分が嫌で、それでも自分から通話ボタンをタップする勇気もなくて。
画面を見つめて数秒経ったころ、既読マークが付いた、と思った刹那。
ブブ…
とスマホが小さく震えたので危うく落としそうになった。わわっと言いながら通話を開始すれば、『アズールです』と電話の主は律儀に名乗る。そんな一つのシーンだけで、わかりきっているのに、と微笑みが漏れた。
「電話、ありがとうございます」
『いえ、礼を言われるようなことでは…。それで、あの…外…大雨、ですね』
「ですね…。私、今日のこと、本当に楽しみにしていたので…こんなに雨が降るなんて天を恨みそう」
『ふふっ、貴女らしい。けれど、僕も残念でなりません』
「一応、準備はしたんです。もしかして、万が一にでも晴れないかなって思って」
『予報では一日中大雨のようです。出歩くのは難しそうですよ』
「…みたいですね……。…その、」
『アズールさんは、今日は諦めた方がいいと思いますか?』と、聞きたかった言葉は口にすることができなかった。どうにかして会うことだけでもできないかなと、思ってしまったから。声を聞いただけで、こんなにも会いたくてしかたないのに、据え膳みたいでつらくて。
その気持ちが伝わってしまったのか、アズールさんが小さく息を飲む音がして、それからまた少ししてから待ち望んだ言葉が飛び出したので驚いた。
『…遊びに、きますか?』
「、え?」
『僕の部屋に』
「へ、や…え、部屋?アズールさんの?」
『っ、あ、いえ、その、』
「い、いいんですか?」
『貴女が嫌でなければ、ですが!その、モストロ・ラウンジで出す新しいスイーツの試食もあってその』
「行きます!お邪魔させてください!えっと、30分もあれば着くと思うので、」
『っ…そうですか…!では、お待ちしています。お気をつけていらしてください』
電話を切るや否や、いてもたってもいられなくて、お店を飛び出す。
タクシーを拾ってナイトレイブンカレッジまで連れて行ってもらうと、着きましたと連絡もしていないし30分も経っていないのに、着いたそこにアズールさんが立っていて、彼も私と同じ気持ちだったのかなぁと思わず頬が緩んでしまった。
「裾、濡れちゃってます。ごめんなさい、お待たせしちゃいましたね」
「いえ、お迎えくらい…っいえ、こんな言い方はよくないな…。僕、その…あ、貴女に……早く、会いたかったのでっ」
「っ、わ、私も!だから、飛び出してきちゃいました…へへ」
タクシーを降りた後は差し出された傘に入り込んで、雨もお構いなしに少しの間その場に立ち尽くしてしまった。プップー、と私たちの様子を見ていたのだろうか、タクシーの運転手さんがクラクションを鳴らしてくれた音で我に返って真っ赤な顔をしながら二人、寮への道を急ぐ。
いつもは裏口から入るのだけれど、今日は本当に久しぶりに、鏡を抜けて表口から入り込んだアズールさんのテリトリー。
相変わらずこの寮は、海の中とは到底信じられないほどに美しく、しっかりとした建物でまた新鮮に驚いてしまう。
「何度見ても素敵…」
「貴女は、海はお好きですか?」
「はい!潮騒とか聞いていると心が落ち着くし、大好きですよ」
「それはよかった。それでその…今日はラウンジには生徒がたくさんいますので、このまま僕の部屋に向かいます。ついて来てください」
「わかりました」
指先を絡めとられて誘われれば、甘い空気が海中回廊に満ちる。
その美しさに終始間抜けな声をあげてしまった私を気遣ってか、時々歩みを止めては、あそこに見えるのはナントカという魚で、とか、あっちのほうには沈没船があって、だとか教えてもらったりと水族館をデートしているみたいで気分が高揚した。
そうして着いた先のアズールさんのお部屋はラウンジよりも一層静かで、全ての音が海中に吸い込まれていくようで、しかし怖いというよりと不思議と安心感があった。
ただ、それに感動したのも一瞬で、用意されていた紅茶ポットとケーキに目を輝かせた私を心底幸せそうな顔で見つめてくるアズールさんに目を奪われたなんていうのは秘密。
暫く、お茶を飲みながらお話をしたり、窓から海を見せてもらったりしていれば、本当にすぐに時間が過ぎ、あっという間に帰りの時刻になってしまった。
「もうそろそろ時間ですか」
「あ…」
言ってほしくなかった言葉を口に出されて、ああ、今日も一人だけ。私だけがこうしてもやもやした気持ちを抱くのだと悟る。嫌だな。でも嫌われたくない。どうしたら。
「あ、あの、アズールさんっ」
「なんでしょうか」
そんなことを考えていたら口から漏れてしまった呼び止めるような言葉に反応してコテンと首をかしげるアズールさんは可愛らしくて、なのにかっこよくて。
どうしたらいいのかわからなくなる。
私は。
私から、言っても、いいのだろうか。その言葉を。
「あ、の」
「言いにくいことがありましたか?もしかして、僕は知らないうちに何かして、」
「っち、違うんです!アズールさんは何も悪くなくてっ……違うの、その…私、」
知らず知らず下を向いてしまっていた顔。でもここで目を逸らしては何も変わらないと上に向けると、期待を孕んだ瞳が私をとらえて驚いてしまう。
もしかして、もしかして。
アズールさんも同じ気持ちなんじゃないか、そんな風に私も期待してしまった。
「帰りたくないって言ったら…このまま抱き締めてくれますか?」
そう告げると私を見つめる眼差しは徐々に熱を帯びてきて。
意を決したように眉がキリッと上がったと思えば、私よりも頭一つ高くにあるアズールさんの顔が、部屋のライトを遮った。
私の上に落ちてきたその影は、私をすっかり覆って。
自然と触れ合った唇は、少しだけ長く、そしていつもより甘く。
雨の音は、この海には届かない。
だからきっと、雨が止んでしまっても、私たちはこうして抱き合っていることができるかもしれないと。
そう思って。
ぎゅっとアズールさんの背中に腕を回したのだった。
アズールさんはとても紳士で優しくて、時にちょっと世間とズレた思考で私を笑わせてくれたりもして。とてもとても幸せだった。
周りから…というか、シスターズのおばあちゃんたちから、キッスはしたかい!とか床の話は!とか揶揄われても、そんなことがどうでもよくなるくらいには。ただ、それも実の所は、二人で会ったりするときに、帰り際でこっそり、唇を重ねるだけのキスは普通にできるようになっていたし、少し甘えてみれば抱きしめてくれもしていたからかもしれない。なんだかそれだけで満たされている自分がいたのだ。
けれどそれでも。
周りの話を聞けば聞くほど、雑誌のコラムを読んで知識を蓄えるほど、焦る自分もどこかにいて。その劣情が、純粋の化身のようなアズールさんの前では不埒で恥ずかしくて、全てに蓋をして隠す日々が続いていた。
そんな私の前に訪れたこれは、果たしてチャンスか、ピンチか。
その日はデートの約束をしていたのに、かなり激しく雨が降っていた。
これでは外を歩くだけでびしょ濡れになってしまってデートどころではないなと判断して、『この雨じゃ、お出かけは難しそうですね』とメッセージを一つ送信。残念です、というスタンプを押すと、それはなんだか滑稽で、私の気持ちのひとカケラも伝わらないような気になった。本当は、一分一秒でも一緒にいたい。そのくらいには、私のほうが夢中になっていたのに。
「どうしよう…こういうときなんて言えばいいんだろう」
そんなこともわからない程幼稚な思考の自分が嫌で、それでも自分から通話ボタンをタップする勇気もなくて。
画面を見つめて数秒経ったころ、既読マークが付いた、と思った刹那。
ブブ…
とスマホが小さく震えたので危うく落としそうになった。わわっと言いながら通話を開始すれば、『アズールです』と電話の主は律儀に名乗る。そんな一つのシーンだけで、わかりきっているのに、と微笑みが漏れた。
「電話、ありがとうございます」
『いえ、礼を言われるようなことでは…。それで、あの…外…大雨、ですね』
「ですね…。私、今日のこと、本当に楽しみにしていたので…こんなに雨が降るなんて天を恨みそう」
『ふふっ、貴女らしい。けれど、僕も残念でなりません』
「一応、準備はしたんです。もしかして、万が一にでも晴れないかなって思って」
『予報では一日中大雨のようです。出歩くのは難しそうですよ』
「…みたいですね……。…その、」
『アズールさんは、今日は諦めた方がいいと思いますか?』と、聞きたかった言葉は口にすることができなかった。どうにかして会うことだけでもできないかなと、思ってしまったから。声を聞いただけで、こんなにも会いたくてしかたないのに、据え膳みたいでつらくて。
その気持ちが伝わってしまったのか、アズールさんが小さく息を飲む音がして、それからまた少ししてから待ち望んだ言葉が飛び出したので驚いた。
『…遊びに、きますか?』
「、え?」
『僕の部屋に』
「へ、や…え、部屋?アズールさんの?」
『っ、あ、いえ、その、』
「い、いいんですか?」
『貴女が嫌でなければ、ですが!その、モストロ・ラウンジで出す新しいスイーツの試食もあってその』
「行きます!お邪魔させてください!えっと、30分もあれば着くと思うので、」
『っ…そうですか…!では、お待ちしています。お気をつけていらしてください』
電話を切るや否や、いてもたってもいられなくて、お店を飛び出す。
タクシーを拾ってナイトレイブンカレッジまで連れて行ってもらうと、着きましたと連絡もしていないし30分も経っていないのに、着いたそこにアズールさんが立っていて、彼も私と同じ気持ちだったのかなぁと思わず頬が緩んでしまった。
「裾、濡れちゃってます。ごめんなさい、お待たせしちゃいましたね」
「いえ、お迎えくらい…っいえ、こんな言い方はよくないな…。僕、その…あ、貴女に……早く、会いたかったのでっ」
「っ、わ、私も!だから、飛び出してきちゃいました…へへ」
タクシーを降りた後は差し出された傘に入り込んで、雨もお構いなしに少しの間その場に立ち尽くしてしまった。プップー、と私たちの様子を見ていたのだろうか、タクシーの運転手さんがクラクションを鳴らしてくれた音で我に返って真っ赤な顔をしながら二人、寮への道を急ぐ。
いつもは裏口から入るのだけれど、今日は本当に久しぶりに、鏡を抜けて表口から入り込んだアズールさんのテリトリー。
相変わらずこの寮は、海の中とは到底信じられないほどに美しく、しっかりとした建物でまた新鮮に驚いてしまう。
「何度見ても素敵…」
「貴女は、海はお好きですか?」
「はい!潮騒とか聞いていると心が落ち着くし、大好きですよ」
「それはよかった。それでその…今日はラウンジには生徒がたくさんいますので、このまま僕の部屋に向かいます。ついて来てください」
「わかりました」
指先を絡めとられて誘われれば、甘い空気が海中回廊に満ちる。
その美しさに終始間抜けな声をあげてしまった私を気遣ってか、時々歩みを止めては、あそこに見えるのはナントカという魚で、とか、あっちのほうには沈没船があって、だとか教えてもらったりと水族館をデートしているみたいで気分が高揚した。
そうして着いた先のアズールさんのお部屋はラウンジよりも一層静かで、全ての音が海中に吸い込まれていくようで、しかし怖いというよりと不思議と安心感があった。
ただ、それに感動したのも一瞬で、用意されていた紅茶ポットとケーキに目を輝かせた私を心底幸せそうな顔で見つめてくるアズールさんに目を奪われたなんていうのは秘密。
暫く、お茶を飲みながらお話をしたり、窓から海を見せてもらったりしていれば、本当にすぐに時間が過ぎ、あっという間に帰りの時刻になってしまった。
「もうそろそろ時間ですか」
「あ…」
言ってほしくなかった言葉を口に出されて、ああ、今日も一人だけ。私だけがこうしてもやもやした気持ちを抱くのだと悟る。嫌だな。でも嫌われたくない。どうしたら。
「あ、あの、アズールさんっ」
「なんでしょうか」
そんなことを考えていたら口から漏れてしまった呼び止めるような言葉に反応してコテンと首をかしげるアズールさんは可愛らしくて、なのにかっこよくて。
どうしたらいいのかわからなくなる。
私は。
私から、言っても、いいのだろうか。その言葉を。
「あ、の」
「言いにくいことがありましたか?もしかして、僕は知らないうちに何かして、」
「っち、違うんです!アズールさんは何も悪くなくてっ……違うの、その…私、」
知らず知らず下を向いてしまっていた顔。でもここで目を逸らしては何も変わらないと上に向けると、期待を孕んだ瞳が私をとらえて驚いてしまう。
もしかして、もしかして。
アズールさんも同じ気持ちなんじゃないか、そんな風に私も期待してしまった。
「帰りたくないって言ったら…このまま抱き締めてくれますか?」
そう告げると私を見つめる眼差しは徐々に熱を帯びてきて。
意を決したように眉がキリッと上がったと思えば、私よりも頭一つ高くにあるアズールさんの顔が、部屋のライトを遮った。
私の上に落ちてきたその影は、私をすっかり覆って。
自然と触れ合った唇は、少しだけ長く、そしていつもより甘く。
雨の音は、この海には届かない。
だからきっと、雨が止んでしまっても、私たちはこうして抱き合っていることができるかもしれないと。
そう思って。
ぎゅっとアズールさんの背中に腕を回したのだった。