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伝説の人魚が恋焦がれたのは王子なのか人間なのか。それとも両方だったのか。
「小エビちゃーん、おはよ」
「フロイド先輩、おはようございます」
ぱちり、と瞬きひとつ。
次の瞬間にはそのパーツ全てで幸せを表してくる姿に今度はフロイドが瞬きを返す番になる。頭二つ分近く異なる身長。上から見下ろせばこちらを見上げる女の子と目が合えば、毎朝胸を締め付けられる心地がする。
「今日もちっちゃいね〜」
その苦しさを隠すように目の前の小さな塊をいつものように抱きしめてみれば、じたばたと抵抗され、ホッとしてしまう。
「先輩が大きいだけかと!」
「え〜オレにとってはこれ普通だもん」
「私にとってはふつうじゃないですし、歩きにくいですって」
困った事を隠しもしない声がフロイドを諫めるけれどそれに従うつもりはない。理由は単純だ。そう言う気分ではないから。そのまま重たい甲羅を背負ったエビがずりずりと歩き出す。
これが2人の中の普通となる日常。明確な言葉などもなく、何にも縛られる事なく、海の中を揺れて消えていく泡のような関係。それなのにも関わらず磁石でも付いているのかと言われるほどそばにいる事が多い2人。
小さな背中に身体を重ねながらその弱さを毎日のように噛み締める。そうして自分の中で彼女は人間なんだと刻みつけていた。
「‥やっぱ小エビちゃん小さいね」
「大きくなりたかったです、よ!」
大荷物を背負ったまま息を切らして歩きながら要望を口にしたエビにフロイドがだめ、とすぐに答えてしまう。
「小エビちゃんは小さくて良い〜」
脆い、小さい、壊れそう。
自身と比べばすぐにその言葉が出てくる。
「えぇ‥」
どうしてか、問い尋ねる声は聞こえては来なかった。そのまま引き摺られて彼女の教室まで行ってしまい「リーチ!!!」と怒鳴られるまでなんとなく離れ難くてそのままで過ごしてしまった。
感じた心音には乱れもなく落ち着いていたらしい小エビはくっつき虫と化したウツボの髪の毛を触っていたり、重ねられた手を眺めたりと、さも当たり前のように過ごすものだから余計に離れられなくなったという言い訳もある。
追い出され、廊下でひとつ大きな欠伸をしてから歩き出す。目的地は自身の教室ではないどこか。ふんわりと残る彼女の香り。くっついていたせいなのかもしれない。移り香に気づき軽くなった足で廊下を抜けた。
「フロイド、あなたあなたさんとお付き合いされてるのではないのですか」
「は?なにそれ」
モストロラウンジ閉店後、ホールスタッフたちが後片付けに追われる中でひとりソファーに横になるフロイド。話題は魔法の使えないただの人間である彼女のことだった。
「恋人‥つまり番の一歩手前ですよ」
「あー、それ‥」
ソファーに突っ伏していたしなやかな体が一層沈む。グラスを拭いていたジェイドがおやおや面白そうだと眉を上げる。双子の片割れが煮えきらない返事をすることがあまりないことに加え、藪蛇というものは存外楽しいことを陸に上がって知ってしまった。さらにそれが血を分け、共に生き残った相方だと思えば興味、好奇心、様々なものが渦を巻いていくのはジェイドとしては当たり前のことだった。
「小エビちゃんとはコイビトじゃないよ〜。だって小エビちゃんは人間じゃん。しかも」
「しかも?」
「べっつに〜」
はみ出している足をバタつかせて不満を示す。しかも、に続く言葉を知りながらも促そうとするが口にはしたくないと大きな口を閉じてしまったらしい。ふぅ、と軽く息を吐いたジェイドが苦笑する。
気分の上がり下がり、機嫌の良し悪しは何が引き金かはいつもバラバラだったフロイド。最近はそれが明確になっていることに本人だけが認めようとしない。
大方、監督生のあなた関連であることは既に周知の事実となっているのにも関わらずだ。
「人間だから恋人にならないのですか?」
「そう」
「随分とフロイドらしくない理由ですね」
「そぉ〜?」
「ええ」
「オレらしくないとか意味わかんね」
考えたくないと匙を投げることはしないまま自分の中で抱え込むフロイドの背中を見つめるジェイドが思案する。興味、好奇心そしてすこしのお節介とたくさんの幸福を祈る心でその背中を押すために。
夕日の差し込む人気のない廊下はどこかの絵画の一枚のように見えるほど美しい。学園自体どこもかしこもそういう場所が多く、そのたびに名門校だと気づかせてくる。
「海、ですか」
「ええ、珊瑚の海に行きませんか」
そんな絵画のような場所でセールスマンのような笑みを浮かべた大男が胸に手を当て真摯に誘う。
胡散臭い、という言葉を飲み込みながらあなたは断れずにいた。珊瑚の海と謳われる美しいであろう場所をしっかりと観光したい想いがある。そして恋い慕う人の故郷を知りたいと思う純粋かつ下心な恋心がノーを言えなくさせる。
「対価などはもちろん頂きませんよ。これは純粋なお誘いですから」
怪しいんですよ、と口から溢れそうなのを押さえ込む。長身なその身体を折り、近くなってしまった顔に一歩足を下げ距離を取る。押しつけ販売のような熱烈セールスに逃げ場を失っていく。
「いや、でも」
「では言い方を変えましょうか。あなたがこの前オクタヴィネルの2年生、あとそれに加えてサバナクローの3年生に言い寄られていた事をフロイドに教えられたくなければぜひ海にいきましょう」
耳元に近づいた唇がゆっくりと弧を描きながら秘密事を口にする。
ナチュラルマフィア
そう頭の中で罵りながらも、ごくりと喉を鳴らして腹の奥へと追いやる。
聞いただけではそれくらいで、と笑うかも知れないがこれに関してはそういうわけにはいかない。もしもフロイドの耳に入るような事があれば惨事に見舞われ、彼のご機嫌とりをしなければならなくなる事は自明の理。それだけは避けたい事実。
恋人でもない癖にと何度もジェイドは言わずにむくれたままのフロイドを眺めている。
「脅しじゃないですか」
「脅しではありません。交渉ですよ」
「お誘いではありませんでした?」
「ええ、交渉でありお誘いです」
あぁ言えばこういうの男。
美形のセールスマンは胡散臭い笑みを消さずにさぁ、如何です?と圧力をかけてくる。
はぁ、とひとつため息。
何かに巻き込まれることは慣れ切ってしまったせいか『お誘い』をいただいた時点で断れないことは分かっていた話だった。
「‥お断りしても無駄ですよね」
「ええ。僕はバカンスにお誘いしているだけですので」
「はぁ‥わか「なぁに、小エビちゃんとジェイドそんな近いのぉ??」‥フロイド先輩」
ずしりとした重みをあなたの肩にしっかりとかけたフロイドが垂れた瞳を光らせた。
「おやおやフロイド。ちょうどいいところに」
「なんでこんな近いの、って聞いてんの」
あなたの腹に回された腕がフロイドの方へと彼女を引き寄せていく。ジェイドとの距離が開いていき、よく見えなかったジェイドの顔があなたの瞳に映る。随分と揶揄うような楽しそうな顔をしていた。代わりに耳元から聞こえるフロイドの声は不機嫌そのもので息を詰めた。
「珊瑚の海へのお誘いをしていただけですよ。今度帰るでしょう。ぜひあなたさんも、と思いまして」
ねぇ?と小首を傾げる巨人の男が笑顔で威圧をしてくる。うんうんと何度も頭を縦に振るうしか出来ない。前面には笑顔の物騒な男。後ろには不機嫌を漏らす話の通じない論外な男。2人に挟まれればイエスマンに徹した方が物事はそれなりに転がるものだ。
「そうなの?小エビちゃん」
「はい。珊瑚の海はどうかと‥」
「くんの?」
「いやですか?」
ぎゅぅ、と抱きしめる力が強くなっていく。逃げる事もなく当たり前にそれを受け取る彼女と当たり前にして許されると思っているフロイド。それを眺めながらジェイドが鼻で笑う。何故これで関係がつかない2人なのか。
小エビの肩に顎を乗せてから彼女の方へ顔を向け直す。あなたがフロイドの方へと向けばその顔の距離が数センチとなる。
「‥来てくれんの?」
「はい。先輩がよろしければ」
「いーよぉ。オレが案内したげるね?」
「はい。よろしくお願いします」
機嫌が急転。にこにこ笑うフロイドはぐりぐりとあなたの肩に額を押し付ける。
身長差のある彼女の体にくっつくのは容易ではないはずなのにも関わらず体を器用に屈めて抱きしめている。
その2人を眺めていたジェイドが呆れ気味にまた笑った。
珊瑚の海、ではなく珊瑚の海に面した砂浜。足元が不安定な砂浜を二本足でくるくる回ってはしゃぐあなたがいた。いつもとは違う、珍しい姿にフロイドがぱちりとシャッターを切るように瞬きをする。
「うーみーはーひろいーなーおーきいなぁぁーーー」
アズールやジェイドに言われて珍しく女の子らしいシフォン生地のワンピースを身に着けている。
光を受けきらめく海のブルー。くるりと円を描くように回れば裾が空気を孕んで膨らみ、あなたの動きに合わせて裾が上下し、水中の海月のように自由に気ままに空気の中を漂う。
なじみのない歌を口ずさみながらご機嫌な笑顔をフロイドに見せて来る。
彼女の相棒はお留守番してもらっている。ジェイドがツナ缶で買収し彼女のマブダチの元へと預けられている。あの可愛い怪獣がいてはあなたはそちらへばかり構うことになるからだ。ツナ缶だけでは買収されなかったらしい相棒には海の幸のお土産も持って帰ると付け加えて。
「小エビちゃんなにその歌」
「これはですね、私のいた世界の海の歌です」
後ろを歩くフロイドへ振り返る。揺れるスカート。ふわりと海月のように宙を泳ぐたびに曝け出される無防備な足。
お互いの大きな違いであり、焦がれるほど眩しい陸の人間の尾ひれ。
「へぇ〜、続きは?」
「続きはですねぇ」
幼馴染みたちに気を使われ2人きりの砂浜に上手とは言えない異世界の歌が流れる。それに耳を傾けながら小さい後ろ姿をじっと見つめる。丸い頭、暑いからと晒された頸。丸みのある肩から伸びる腕。陽の光に透けて体のラインが見えてしまう。ごくりと生唾を飲み込む。それと同時に『自分とは異なる生き物』という自覚をすることになる。彼女は砂浜から海を愛でる生き物だ。
「小エビちゃん、そろそろ海の中入んねぇの?」
「あ、行きます!」
「オレが案内してあげんね」
大股に歩いてあなたの腕を掴み歩いていく。
この陸の人魚に新たな世界を教えにいくために。
「わぁ」
おー
んんっ?!
背中の方から楽しそうな声が聞こえて来る。海辺を駆け回っていた時と同じようにはしゃいだ弾んだ声が泡と共に海中に放たれる。アズール特製薬、水中の中でも肺呼吸ができる薬を使っての海中探索。案内人は気分屋のウツボ。来たことがあるはずだがあなたの騒いでいる様子はまるで初めてだと言わんばかりの様子だ。
以前川を泳いだ時のように背中にあなたを乗せて故郷を泳ぐ。フロイドの見知った顔の人魚たちが道、水路を自然に開けていっている事に気がつかないあなたは目を輝かせている。
「どうです、海の世界は。堪能していますか?」
ゆったりと現れたスマートなタコの姿のアズールがにこりと笑みを浮かべる。
「アズール先輩、素敵な姿ですね」
以前博物館へ行った際には人の姿のままだった彼が人魚の姿を披露するとは思わなかったあなたが表情をきらめかせる。
心からの褒め言葉にアズールが顔を逸らした。微かに耳を赤くし、メガネを直す動きを取るアズールをフロイドが笑う。
「アズールぅ、褒められて恥ずかしいんだぁ?」
「うるさい!」
「フロイド、揶揄うのはそこまでにしてあげてください」
「あ、ジェイド〜」
「随分と浅瀬にいますね」
「うん。見せたいものがあって〜」
ひらひらと手を振るフロイドが何かに気づいたように、あ、と指差す。ジェイドの肩越しに見えるモノを示しているらしい。
「小エビちゃん、小エビちゃん。みて、あれ、見せたかったんだぁ」
「どれですか。どれです??」
「ほら、あれ!」
水中の中で水を尾ひれで蹴り上げスピードを上げる。人間の二本の足では到底出せない勢いで進んでいく。息を詰めて目に力を入れて閉じる。つい陸の感覚で水を怖がってしまうあなた。
「小エビちゃん〜、ほら目ぇ、開けて?」
「え」
フロイドの優しい声に誘われてゆっくりと開かれる瞳。
ぷくりと膨らむ泡。水に遮られ柔らかくなった陽の光が照らす。そこにあるだけで生命の灯りを表す美しいもの。
「さんご、ですか」
「そ。ちょー綺麗でしょ」
白、淡く染まる桃色。水の中で弾ける光がちかちか、きらきらと輝くそれが海の世界を輝かす。珊瑚の海、とよばれるにふさわしいほどの珊瑚の花畑。浅瀬に広がる光の光景にあなたは見惚れてしまう。
「オレの生まれたとこ、見たいって言ってたじゃん?ここ〜」
「‥すごい、ですね」
ほぉ、と簡単の息を吐けば、ぽこ、と空気の泡が水面に上がっていく。
よいしょ、と背中にいたあなたを横抱きに抱え直すフロイド。近くなる距離に違和感一つなくあなたは珊瑚だけを見つめる。そばにいる事に違和感のない男の、恋い焦がれた男の生まれた場所。それを見れた事だけであなたとしては観光の意義を果たした事になる。
「しばらく見ていたいです」
「うん。いーよぉ。オレがついててあげっから」
ふわり、ぱちり、ぷくり。
膨らむ空気、ゆるゆる水面に向かって上がる気泡。途中でぱちんと弾ける。珊瑚も呼吸をする。その様子をじぃっと見つめるあなたの横顔をフロイドが眺める。可愛いと思う気持ちだけで表せない胸の内を隠す。言葉にして許されるのか、言葉で縛り付けていいのかわからない行き場のない思いを泡として吐き出す。抱きしめている腕に少しだけ力を込めた。
2人の後ろ姿をみたジェイドとアズールは顔を向かい合わせて笑い合った。
「なぜ、フロイドはあんなに怖がるんでしょうね」
「我々ウツボは臆病なのですよ」
「よく言うな‥」
「おや、アズール。事実ですよ」
くく、と口元を押さえながら眉を上げて笑う顔にアズールがはぁ、と肩を落とした。
何日間の滞在と決めてはいなかった。ただ珊瑚の海を見に来れればそれで十分だったあなたは、ふとした時に「そろそろ帰ろうかな」と口から漏らした。
「えー、小エビちゃんかえんの?」
「目的は達成できたので‥」
「なにが目的だったの??」
「先輩が生まれた場所を見たくて」
「オレの生まれた場所?」
「はい。見たくて‥」
少しだけ声が小さくなるあなたにフロイドが首を傾げる。どうして見に来たかったの?と純粋な疑問が口をつく。言い淀むあなたの姿にどーしたの?と可愛く唇を尖らす。
「‥えーっと」
深い海の中。ウツボの人魚であるフロイドの生まれた場所は太陽光のあまり届かない場所だった。人魚たちの生活を支える灯りはあるために真っ暗なんてことはない。それこそ陸変わりはない場所の方が多い。それがただ海の中というだけで。
あなたの目的は初めから明確だった。
ー好きな人の生まれた土地を見てみたかったー
ただそれを口にするのは憚られてしまう。いまこの寄り添う関係に言葉をつけたがっていないのはフロイドだ。それを感じ取っているからこそ自分たちは、なんでしょうと口にはできない。いくつもの枷が踏み出す足に繋がっているこの状態で。阻むものも大きく目の前に横たわっている。それを飛び越えるのは自分だとしても飛び越えた先に誰もいないかもしれない恐怖がその口を閉じさせる。お互いがなにも言わないこの関係性が楽だと笑えるのに、酷くもどかしい。
「小エビちゃん?」
「‥フロイド先輩が、」
「うん。オレがぁ?」
「いえ。その、ただ見たかっただけで」
開けた口をそっと引き結ぶ。
答えは言うべきのないことだろう。そう思うからこそなにも言わないあなたはただ笑った。
水面から顔を出し、久しぶりに空気にふれれば呼吸がしやすいことを知る。
「小エビちゃん、ここ座れば?」
ばしゃりと体を持ち上げられ、大きな岩の上に座らされたあなたは小さく体を折りたたむ。岩に上半身を乗せたフロイドが濡れたワンピースの裾に触れる。あなたの足はぱしゃりと水を弾いた。その2本の足を眺めたままのフロイドが口を開こうとした時。
どこからか詠唱が響く。
ぱっと弾け飛ぶ光と共に投げかけられる笑い声がフロイドとあなたの耳に届く頃。
「せ、んぱい!!!!!」
ぐ、とフロイドの頭を押しのけるようにしてフロイドよりも身を乗り出して衝撃に身を差し出したあなた。
抵抗する術もなく、ただ守るためだけに出された体はその衝撃のまま海の底に向かって沈んでいく。爆発音と共に水飛沫が辺りに散る。
「小エビちゃん!?!?」
反射で伸ばした手はなにもつかめないまま水が手を、腕を流れていく。衝撃波の元を見れば記憶の端にある人魚の顔。だれ、と言われたとしても思い出すことはできないが『見たことのある気がする』顔。ニヤついたその顔がフロイドを見下す。睨みつければその顔が無様なほどに引き攣りを見せる。舌打ちだけを残したフロイドは反撃ではなくその身体を海の中へ潜り込ませた。
大きな水音と共に消えた姿に残された人魚は唖然とするしかなかった。反撃に備えた体から力が抜け、息を止めていた体が笑いで揺れてしまう。やり返しもしないでただの人を助けるがために海に消えた昔の同級生。フロイドに対して憧れも抱きながらも自身の境遇との違いに理不尽な妬みを向けていた人魚の笑顔はそこで消えることになる。
「お久しぶりですね。僕の方の顔は覚えてますでしょうか」
胸元に手を添え、その尖った歯を隠しもせず笑う片割れが現れたからだ。
「‥ひ、」
「では僕と思い出話でもしましょうか」
ばぁ、と口を開いた美しい人魚と共に暗闇に沈められていった。
「小エビちゃん!!!!」
あなたが身を差し出したせいでフロイドが受けるであろう負担を全て請負った彼女はただの人間だ。それも魔法すら使えない彼女。
魔法の勢いで沈みゆく身体に追いつくことができない。出しうる限りの力を振り絞って手を伸ばす。深く深く、光すら届かない水底へと誘い込まれていく美しい人魚の肢体。
暗闇の中でその手を探した。恋した陸の人間を海の中でフロイドは追い求める。
「こえび、ちゃん、!!」
普段では入り込まない海の奥へ進んでいく。
「‥‥ん、!!!‥せ、ん」
ごぷり、大きな泡が吐かれたおかげであなたの姿を見つけられ、その手を必死に伸ばし、細い腕を掴んだ。
意識を失いかけているあなたを胸に抱えて水面に向かって泳いでいく。
「こえびちゃん、ちょっとがんばって」
声が震えた。魔法薬のない身体は水中では呼吸ができない。そんな当たり前のことに打ちひしがれる。
ねぇ、小エビちゃん。
光を探して水面を目指す。夜が明け空が白み始めるように、水底から浮かび上がっていけば光が差し込む碧に変わりゆく。差し込んだ陽光に目を細める。
「あとちょっとだから」
希望の光にも見えた。淡いブルー、煌めいた泡が弾け消えていく、すべてを飲み込むように見えてすべてを包み込むベイビーブルー。
ばしゃりと音を立てて水面に顔を出させる。
「小エビちゃん!!!小エビちゃん!!」
蒼白くなったその顔に手を寄せる。
無理やり押し込めた空気に咽せた身体が水を吐き出した。
「‥っげほっ‥」
「‥っ」
「ぐ、‥がほ、」
「ごめん、小エビちゃん‥大丈夫???」
「‥ん、ぱい、」
弱く帰ってきた声に深く安堵のため息を吐いた。
「‥すき、こえびちゃん、オレこえびちゃんがすき」
弱りきったあなたの体を自分よりも高い位置へ。少しでも水に体を浸さないように持ち上げ、その胸に額を寄せた。弱い心音が生きていることを示してくれる。
「‥せ、ん‥??」
「もー、むり、ぜってぇやだこんなの」
骨が軋みそうなほど抱きしめてしまうフロイドは目尻に小さな海を作る。
種族の違いを突きつけられ、生きていく場所が違うことを再認識をさせられれば苦しいだけだった。関係を作りいつか失うことが怖かった。別世界の人間だ。いつ消えるかすらわからない。だからこそ見ないフリしてきた焦がれた気持ちを溢した。失いそうになってから気づく。失う前に気づけただけでもそれは幸せなのかもしれない。
水を多く飲み込んだせいか声がまともに出ないあなたを見つめる。
「オレもーむり、だまってんのやだ。オレ小エビちゃんがすき」
いつかばかりを考えて今を耐えることは出来ないと思う。いつかの未来を共に生きていきていたいと思ってしまうし、何かあるのならば共に考えていきたいとすら思う。
海の底に眠らせたその想いを引き揚げる。
「陸だろうが人間だろうが、違う世界だろうがなんでもいい。オレは小エビちゃんがすき」
だからオレと生きてよ
空気を送るためでもなんでもない、意味のないキスをその唇に送る。
「こえびちゃんは?」
すきです
ぎこちなく、殆どが声にならず息だけで答えを返す。あなたの頬を伝う滴がぽたりと淡い青に飲み込まれていく。
もう一度音の出ない唇にフロイドが触れた。
空の色をそのまま写した水面。時折波が身体にぶつかる。広い海にたった2人の感覚に囚われる。
人魚が焦がれたのは人間でもその王子本人なのか、それはどれかと聞かれれば『恋した人が人間だった』だけ。
言葉のない関係に言葉を足した。
それはお互いを優しく結びつける言ノ葉。
『すき』
口にすればそれは存外簡単で心地の良い音だった。
「小エビちゃーん、おはよ」
「フロイド先輩、おはようございます」
ぱちり、と瞬きひとつ。
次の瞬間にはそのパーツ全てで幸せを表してくる姿に今度はフロイドが瞬きを返す番になる。頭二つ分近く異なる身長。上から見下ろせばこちらを見上げる女の子と目が合えば、毎朝胸を締め付けられる心地がする。
「今日もちっちゃいね〜」
その苦しさを隠すように目の前の小さな塊をいつものように抱きしめてみれば、じたばたと抵抗され、ホッとしてしまう。
「先輩が大きいだけかと!」
「え〜オレにとってはこれ普通だもん」
「私にとってはふつうじゃないですし、歩きにくいですって」
困った事を隠しもしない声がフロイドを諫めるけれどそれに従うつもりはない。理由は単純だ。そう言う気分ではないから。そのまま重たい甲羅を背負ったエビがずりずりと歩き出す。
これが2人の中の普通となる日常。明確な言葉などもなく、何にも縛られる事なく、海の中を揺れて消えていく泡のような関係。それなのにも関わらず磁石でも付いているのかと言われるほどそばにいる事が多い2人。
小さな背中に身体を重ねながらその弱さを毎日のように噛み締める。そうして自分の中で彼女は人間なんだと刻みつけていた。
「‥やっぱ小エビちゃん小さいね」
「大きくなりたかったです、よ!」
大荷物を背負ったまま息を切らして歩きながら要望を口にしたエビにフロイドがだめ、とすぐに答えてしまう。
「小エビちゃんは小さくて良い〜」
脆い、小さい、壊れそう。
自身と比べばすぐにその言葉が出てくる。
「えぇ‥」
どうしてか、問い尋ねる声は聞こえては来なかった。そのまま引き摺られて彼女の教室まで行ってしまい「リーチ!!!」と怒鳴られるまでなんとなく離れ難くてそのままで過ごしてしまった。
感じた心音には乱れもなく落ち着いていたらしい小エビはくっつき虫と化したウツボの髪の毛を触っていたり、重ねられた手を眺めたりと、さも当たり前のように過ごすものだから余計に離れられなくなったという言い訳もある。
追い出され、廊下でひとつ大きな欠伸をしてから歩き出す。目的地は自身の教室ではないどこか。ふんわりと残る彼女の香り。くっついていたせいなのかもしれない。移り香に気づき軽くなった足で廊下を抜けた。
「フロイド、あなたあなたさんとお付き合いされてるのではないのですか」
「は?なにそれ」
モストロラウンジ閉店後、ホールスタッフたちが後片付けに追われる中でひとりソファーに横になるフロイド。話題は魔法の使えないただの人間である彼女のことだった。
「恋人‥つまり番の一歩手前ですよ」
「あー、それ‥」
ソファーに突っ伏していたしなやかな体が一層沈む。グラスを拭いていたジェイドがおやおや面白そうだと眉を上げる。双子の片割れが煮えきらない返事をすることがあまりないことに加え、藪蛇というものは存外楽しいことを陸に上がって知ってしまった。さらにそれが血を分け、共に生き残った相方だと思えば興味、好奇心、様々なものが渦を巻いていくのはジェイドとしては当たり前のことだった。
「小エビちゃんとはコイビトじゃないよ〜。だって小エビちゃんは人間じゃん。しかも」
「しかも?」
「べっつに〜」
はみ出している足をバタつかせて不満を示す。しかも、に続く言葉を知りながらも促そうとするが口にはしたくないと大きな口を閉じてしまったらしい。ふぅ、と軽く息を吐いたジェイドが苦笑する。
気分の上がり下がり、機嫌の良し悪しは何が引き金かはいつもバラバラだったフロイド。最近はそれが明確になっていることに本人だけが認めようとしない。
大方、監督生のあなた関連であることは既に周知の事実となっているのにも関わらずだ。
「人間だから恋人にならないのですか?」
「そう」
「随分とフロイドらしくない理由ですね」
「そぉ〜?」
「ええ」
「オレらしくないとか意味わかんね」
考えたくないと匙を投げることはしないまま自分の中で抱え込むフロイドの背中を見つめるジェイドが思案する。興味、好奇心そしてすこしのお節介とたくさんの幸福を祈る心でその背中を押すために。
夕日の差し込む人気のない廊下はどこかの絵画の一枚のように見えるほど美しい。学園自体どこもかしこもそういう場所が多く、そのたびに名門校だと気づかせてくる。
「海、ですか」
「ええ、珊瑚の海に行きませんか」
そんな絵画のような場所でセールスマンのような笑みを浮かべた大男が胸に手を当て真摯に誘う。
胡散臭い、という言葉を飲み込みながらあなたは断れずにいた。珊瑚の海と謳われる美しいであろう場所をしっかりと観光したい想いがある。そして恋い慕う人の故郷を知りたいと思う純粋かつ下心な恋心がノーを言えなくさせる。
「対価などはもちろん頂きませんよ。これは純粋なお誘いですから」
怪しいんですよ、と口から溢れそうなのを押さえ込む。長身なその身体を折り、近くなってしまった顔に一歩足を下げ距離を取る。押しつけ販売のような熱烈セールスに逃げ場を失っていく。
「いや、でも」
「では言い方を変えましょうか。あなたがこの前オクタヴィネルの2年生、あとそれに加えてサバナクローの3年生に言い寄られていた事をフロイドに教えられたくなければぜひ海にいきましょう」
耳元に近づいた唇がゆっくりと弧を描きながら秘密事を口にする。
ナチュラルマフィア
そう頭の中で罵りながらも、ごくりと喉を鳴らして腹の奥へと追いやる。
聞いただけではそれくらいで、と笑うかも知れないがこれに関してはそういうわけにはいかない。もしもフロイドの耳に入るような事があれば惨事に見舞われ、彼のご機嫌とりをしなければならなくなる事は自明の理。それだけは避けたい事実。
恋人でもない癖にと何度もジェイドは言わずにむくれたままのフロイドを眺めている。
「脅しじゃないですか」
「脅しではありません。交渉ですよ」
「お誘いではありませんでした?」
「ええ、交渉でありお誘いです」
あぁ言えばこういうの男。
美形のセールスマンは胡散臭い笑みを消さずにさぁ、如何です?と圧力をかけてくる。
はぁ、とひとつため息。
何かに巻き込まれることは慣れ切ってしまったせいか『お誘い』をいただいた時点で断れないことは分かっていた話だった。
「‥お断りしても無駄ですよね」
「ええ。僕はバカンスにお誘いしているだけですので」
「はぁ‥わか「なぁに、小エビちゃんとジェイドそんな近いのぉ??」‥フロイド先輩」
ずしりとした重みをあなたの肩にしっかりとかけたフロイドが垂れた瞳を光らせた。
「おやおやフロイド。ちょうどいいところに」
「なんでこんな近いの、って聞いてんの」
あなたの腹に回された腕がフロイドの方へと彼女を引き寄せていく。ジェイドとの距離が開いていき、よく見えなかったジェイドの顔があなたの瞳に映る。随分と揶揄うような楽しそうな顔をしていた。代わりに耳元から聞こえるフロイドの声は不機嫌そのもので息を詰めた。
「珊瑚の海へのお誘いをしていただけですよ。今度帰るでしょう。ぜひあなたさんも、と思いまして」
ねぇ?と小首を傾げる巨人の男が笑顔で威圧をしてくる。うんうんと何度も頭を縦に振るうしか出来ない。前面には笑顔の物騒な男。後ろには不機嫌を漏らす話の通じない論外な男。2人に挟まれればイエスマンに徹した方が物事はそれなりに転がるものだ。
「そうなの?小エビちゃん」
「はい。珊瑚の海はどうかと‥」
「くんの?」
「いやですか?」
ぎゅぅ、と抱きしめる力が強くなっていく。逃げる事もなく当たり前にそれを受け取る彼女と当たり前にして許されると思っているフロイド。それを眺めながらジェイドが鼻で笑う。何故これで関係がつかない2人なのか。
小エビの肩に顎を乗せてから彼女の方へ顔を向け直す。あなたがフロイドの方へと向けばその顔の距離が数センチとなる。
「‥来てくれんの?」
「はい。先輩がよろしければ」
「いーよぉ。オレが案内したげるね?」
「はい。よろしくお願いします」
機嫌が急転。にこにこ笑うフロイドはぐりぐりとあなたの肩に額を押し付ける。
身長差のある彼女の体にくっつくのは容易ではないはずなのにも関わらず体を器用に屈めて抱きしめている。
その2人を眺めていたジェイドが呆れ気味にまた笑った。
珊瑚の海、ではなく珊瑚の海に面した砂浜。足元が不安定な砂浜を二本足でくるくる回ってはしゃぐあなたがいた。いつもとは違う、珍しい姿にフロイドがぱちりとシャッターを切るように瞬きをする。
「うーみーはーひろいーなーおーきいなぁぁーーー」
アズールやジェイドに言われて珍しく女の子らしいシフォン生地のワンピースを身に着けている。
光を受けきらめく海のブルー。くるりと円を描くように回れば裾が空気を孕んで膨らみ、あなたの動きに合わせて裾が上下し、水中の海月のように自由に気ままに空気の中を漂う。
なじみのない歌を口ずさみながらご機嫌な笑顔をフロイドに見せて来る。
彼女の相棒はお留守番してもらっている。ジェイドがツナ缶で買収し彼女のマブダチの元へと預けられている。あの可愛い怪獣がいてはあなたはそちらへばかり構うことになるからだ。ツナ缶だけでは買収されなかったらしい相棒には海の幸のお土産も持って帰ると付け加えて。
「小エビちゃんなにその歌」
「これはですね、私のいた世界の海の歌です」
後ろを歩くフロイドへ振り返る。揺れるスカート。ふわりと海月のように宙を泳ぐたびに曝け出される無防備な足。
お互いの大きな違いであり、焦がれるほど眩しい陸の人間の尾ひれ。
「へぇ〜、続きは?」
「続きはですねぇ」
幼馴染みたちに気を使われ2人きりの砂浜に上手とは言えない異世界の歌が流れる。それに耳を傾けながら小さい後ろ姿をじっと見つめる。丸い頭、暑いからと晒された頸。丸みのある肩から伸びる腕。陽の光に透けて体のラインが見えてしまう。ごくりと生唾を飲み込む。それと同時に『自分とは異なる生き物』という自覚をすることになる。彼女は砂浜から海を愛でる生き物だ。
「小エビちゃん、そろそろ海の中入んねぇの?」
「あ、行きます!」
「オレが案内してあげんね」
大股に歩いてあなたの腕を掴み歩いていく。
この陸の人魚に新たな世界を教えにいくために。
「わぁ」
おー
んんっ?!
背中の方から楽しそうな声が聞こえて来る。海辺を駆け回っていた時と同じようにはしゃいだ弾んだ声が泡と共に海中に放たれる。アズール特製薬、水中の中でも肺呼吸ができる薬を使っての海中探索。案内人は気分屋のウツボ。来たことがあるはずだがあなたの騒いでいる様子はまるで初めてだと言わんばかりの様子だ。
以前川を泳いだ時のように背中にあなたを乗せて故郷を泳ぐ。フロイドの見知った顔の人魚たちが道、水路を自然に開けていっている事に気がつかないあなたは目を輝かせている。
「どうです、海の世界は。堪能していますか?」
ゆったりと現れたスマートなタコの姿のアズールがにこりと笑みを浮かべる。
「アズール先輩、素敵な姿ですね」
以前博物館へ行った際には人の姿のままだった彼が人魚の姿を披露するとは思わなかったあなたが表情をきらめかせる。
心からの褒め言葉にアズールが顔を逸らした。微かに耳を赤くし、メガネを直す動きを取るアズールをフロイドが笑う。
「アズールぅ、褒められて恥ずかしいんだぁ?」
「うるさい!」
「フロイド、揶揄うのはそこまでにしてあげてください」
「あ、ジェイド〜」
「随分と浅瀬にいますね」
「うん。見せたいものがあって〜」
ひらひらと手を振るフロイドが何かに気づいたように、あ、と指差す。ジェイドの肩越しに見えるモノを示しているらしい。
「小エビちゃん、小エビちゃん。みて、あれ、見せたかったんだぁ」
「どれですか。どれです??」
「ほら、あれ!」
水中の中で水を尾ひれで蹴り上げスピードを上げる。人間の二本の足では到底出せない勢いで進んでいく。息を詰めて目に力を入れて閉じる。つい陸の感覚で水を怖がってしまうあなた。
「小エビちゃん〜、ほら目ぇ、開けて?」
「え」
フロイドの優しい声に誘われてゆっくりと開かれる瞳。
ぷくりと膨らむ泡。水に遮られ柔らかくなった陽の光が照らす。そこにあるだけで生命の灯りを表す美しいもの。
「さんご、ですか」
「そ。ちょー綺麗でしょ」
白、淡く染まる桃色。水の中で弾ける光がちかちか、きらきらと輝くそれが海の世界を輝かす。珊瑚の海、とよばれるにふさわしいほどの珊瑚の花畑。浅瀬に広がる光の光景にあなたは見惚れてしまう。
「オレの生まれたとこ、見たいって言ってたじゃん?ここ〜」
「‥すごい、ですね」
ほぉ、と簡単の息を吐けば、ぽこ、と空気の泡が水面に上がっていく。
よいしょ、と背中にいたあなたを横抱きに抱え直すフロイド。近くなる距離に違和感一つなくあなたは珊瑚だけを見つめる。そばにいる事に違和感のない男の、恋い焦がれた男の生まれた場所。それを見れた事だけであなたとしては観光の意義を果たした事になる。
「しばらく見ていたいです」
「うん。いーよぉ。オレがついててあげっから」
ふわり、ぱちり、ぷくり。
膨らむ空気、ゆるゆる水面に向かって上がる気泡。途中でぱちんと弾ける。珊瑚も呼吸をする。その様子をじぃっと見つめるあなたの横顔をフロイドが眺める。可愛いと思う気持ちだけで表せない胸の内を隠す。言葉にして許されるのか、言葉で縛り付けていいのかわからない行き場のない思いを泡として吐き出す。抱きしめている腕に少しだけ力を込めた。
2人の後ろ姿をみたジェイドとアズールは顔を向かい合わせて笑い合った。
「なぜ、フロイドはあんなに怖がるんでしょうね」
「我々ウツボは臆病なのですよ」
「よく言うな‥」
「おや、アズール。事実ですよ」
くく、と口元を押さえながら眉を上げて笑う顔にアズールがはぁ、と肩を落とした。
何日間の滞在と決めてはいなかった。ただ珊瑚の海を見に来れればそれで十分だったあなたは、ふとした時に「そろそろ帰ろうかな」と口から漏らした。
「えー、小エビちゃんかえんの?」
「目的は達成できたので‥」
「なにが目的だったの??」
「先輩が生まれた場所を見たくて」
「オレの生まれた場所?」
「はい。見たくて‥」
少しだけ声が小さくなるあなたにフロイドが首を傾げる。どうして見に来たかったの?と純粋な疑問が口をつく。言い淀むあなたの姿にどーしたの?と可愛く唇を尖らす。
「‥えーっと」
深い海の中。ウツボの人魚であるフロイドの生まれた場所は太陽光のあまり届かない場所だった。人魚たちの生活を支える灯りはあるために真っ暗なんてことはない。それこそ陸変わりはない場所の方が多い。それがただ海の中というだけで。
あなたの目的は初めから明確だった。
ー好きな人の生まれた土地を見てみたかったー
ただそれを口にするのは憚られてしまう。いまこの寄り添う関係に言葉をつけたがっていないのはフロイドだ。それを感じ取っているからこそ自分たちは、なんでしょうと口にはできない。いくつもの枷が踏み出す足に繋がっているこの状態で。阻むものも大きく目の前に横たわっている。それを飛び越えるのは自分だとしても飛び越えた先に誰もいないかもしれない恐怖がその口を閉じさせる。お互いがなにも言わないこの関係性が楽だと笑えるのに、酷くもどかしい。
「小エビちゃん?」
「‥フロイド先輩が、」
「うん。オレがぁ?」
「いえ。その、ただ見たかっただけで」
開けた口をそっと引き結ぶ。
答えは言うべきのないことだろう。そう思うからこそなにも言わないあなたはただ笑った。
水面から顔を出し、久しぶりに空気にふれれば呼吸がしやすいことを知る。
「小エビちゃん、ここ座れば?」
ばしゃりと体を持ち上げられ、大きな岩の上に座らされたあなたは小さく体を折りたたむ。岩に上半身を乗せたフロイドが濡れたワンピースの裾に触れる。あなたの足はぱしゃりと水を弾いた。その2本の足を眺めたままのフロイドが口を開こうとした時。
どこからか詠唱が響く。
ぱっと弾け飛ぶ光と共に投げかけられる笑い声がフロイドとあなたの耳に届く頃。
「せ、んぱい!!!!!」
ぐ、とフロイドの頭を押しのけるようにしてフロイドよりも身を乗り出して衝撃に身を差し出したあなた。
抵抗する術もなく、ただ守るためだけに出された体はその衝撃のまま海の底に向かって沈んでいく。爆発音と共に水飛沫が辺りに散る。
「小エビちゃん!?!?」
反射で伸ばした手はなにもつかめないまま水が手を、腕を流れていく。衝撃波の元を見れば記憶の端にある人魚の顔。だれ、と言われたとしても思い出すことはできないが『見たことのある気がする』顔。ニヤついたその顔がフロイドを見下す。睨みつければその顔が無様なほどに引き攣りを見せる。舌打ちだけを残したフロイドは反撃ではなくその身体を海の中へ潜り込ませた。
大きな水音と共に消えた姿に残された人魚は唖然とするしかなかった。反撃に備えた体から力が抜け、息を止めていた体が笑いで揺れてしまう。やり返しもしないでただの人を助けるがために海に消えた昔の同級生。フロイドに対して憧れも抱きながらも自身の境遇との違いに理不尽な妬みを向けていた人魚の笑顔はそこで消えることになる。
「お久しぶりですね。僕の方の顔は覚えてますでしょうか」
胸元に手を添え、その尖った歯を隠しもせず笑う片割れが現れたからだ。
「‥ひ、」
「では僕と思い出話でもしましょうか」
ばぁ、と口を開いた美しい人魚と共に暗闇に沈められていった。
「小エビちゃん!!!!」
あなたが身を差し出したせいでフロイドが受けるであろう負担を全て請負った彼女はただの人間だ。それも魔法すら使えない彼女。
魔法の勢いで沈みゆく身体に追いつくことができない。出しうる限りの力を振り絞って手を伸ばす。深く深く、光すら届かない水底へと誘い込まれていく美しい人魚の肢体。
暗闇の中でその手を探した。恋した陸の人間を海の中でフロイドは追い求める。
「こえび、ちゃん、!!」
普段では入り込まない海の奥へ進んでいく。
「‥‥ん、!!!‥せ、ん」
ごぷり、大きな泡が吐かれたおかげであなたの姿を見つけられ、その手を必死に伸ばし、細い腕を掴んだ。
意識を失いかけているあなたを胸に抱えて水面に向かって泳いでいく。
「こえびちゃん、ちょっとがんばって」
声が震えた。魔法薬のない身体は水中では呼吸ができない。そんな当たり前のことに打ちひしがれる。
ねぇ、小エビちゃん。
光を探して水面を目指す。夜が明け空が白み始めるように、水底から浮かび上がっていけば光が差し込む碧に変わりゆく。差し込んだ陽光に目を細める。
「あとちょっとだから」
希望の光にも見えた。淡いブルー、煌めいた泡が弾け消えていく、すべてを飲み込むように見えてすべてを包み込むベイビーブルー。
ばしゃりと音を立てて水面に顔を出させる。
「小エビちゃん!!!小エビちゃん!!」
蒼白くなったその顔に手を寄せる。
無理やり押し込めた空気に咽せた身体が水を吐き出した。
「‥っげほっ‥」
「‥っ」
「ぐ、‥がほ、」
「ごめん、小エビちゃん‥大丈夫???」
「‥ん、ぱい、」
弱く帰ってきた声に深く安堵のため息を吐いた。
「‥すき、こえびちゃん、オレこえびちゃんがすき」
弱りきったあなたの体を自分よりも高い位置へ。少しでも水に体を浸さないように持ち上げ、その胸に額を寄せた。弱い心音が生きていることを示してくれる。
「‥せ、ん‥??」
「もー、むり、ぜってぇやだこんなの」
骨が軋みそうなほど抱きしめてしまうフロイドは目尻に小さな海を作る。
種族の違いを突きつけられ、生きていく場所が違うことを再認識をさせられれば苦しいだけだった。関係を作りいつか失うことが怖かった。別世界の人間だ。いつ消えるかすらわからない。だからこそ見ないフリしてきた焦がれた気持ちを溢した。失いそうになってから気づく。失う前に気づけただけでもそれは幸せなのかもしれない。
水を多く飲み込んだせいか声がまともに出ないあなたを見つめる。
「オレもーむり、だまってんのやだ。オレ小エビちゃんがすき」
いつかばかりを考えて今を耐えることは出来ないと思う。いつかの未来を共に生きていきていたいと思ってしまうし、何かあるのならば共に考えていきたいとすら思う。
海の底に眠らせたその想いを引き揚げる。
「陸だろうが人間だろうが、違う世界だろうがなんでもいい。オレは小エビちゃんがすき」
だからオレと生きてよ
空気を送るためでもなんでもない、意味のないキスをその唇に送る。
「こえびちゃんは?」
すきです
ぎこちなく、殆どが声にならず息だけで答えを返す。あなたの頬を伝う滴がぽたりと淡い青に飲み込まれていく。
もう一度音の出ない唇にフロイドが触れた。
空の色をそのまま写した水面。時折波が身体にぶつかる。広い海にたった2人の感覚に囚われる。
人魚が焦がれたのは人間でもその王子本人なのか、それはどれかと聞かれれば『恋した人が人間だった』だけ。
言葉のない関係に言葉を足した。
それはお互いを優しく結びつける言ノ葉。
『すき』
口にすればそれは存外簡単で心地の良い音だった。
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