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黄昏色の思い出
「私も一緒に行きたいです、海!」
目の前には、ややきょとんとした表情を浮かべるアズール先輩、ジェイド先輩、フロイド先輩の三人。
なんでも、海の中に錬金術に必要な材料を採取しにいくらしい。
海の中――少し前、みんなで深海のアトランティカ博物館へ行ったことを思い出す。
鏡を使って近道したとはいえ、平素目にすることのない海の中の遠足はとても楽しかった。
機会があればまた行きたいと思っていた私は、モストロ・ラウンジの一角でその話が出た際、ほぼ脊髄反射に近い形で挙手していた。
渋るアズール先輩だったけど、双子の二人は乗り気だったため、多数決で連れて行ってもらえることになった。
もちろん、妖しい取引はしていない。
「すごい……!」
目の前には、淡い光を放つ魔法陣、その向こう側には一面の『海』。
私は今、オクタヴィネル寮内にある、屋上階――海へ出られる魔方陣の前に来ている。
壁の代わりに据えられた大きなガラスの向こう側は、たくさんの魚や珊瑚礁に彩られた海が広がっている。
まるで映画のスクリーンを見ているかのような、現実味のない光景だ。
「惚けていないで、準備をしなさい準備を。僕は先に行きますよ」
そう言って魔法陣をくぐったアズール先輩が、魔法陣に入っていく。
少し屈んで頭から魔方陣の中へ消えていくと同時に、ガラスの向こう側に頭が突き出て、次の瞬間には全身が海の中にふわりと躍り出た。
まるでこちら側と海側の間にガラスの隔たりなんて存在しないかのようだ。
魔方陣によってガラスをすり抜けたようにも見えるが、高位の転移魔法が使われているらしい。
魔法というものは本当に便利だ。
アズール先輩は服を着ていたはずなのに、魔方陣の前にきちんと折りたたまれた服がふわりと着地しているのも、魔法の力だろう。
(ってことは、今アズール先輩は裸……!!)
慌てて両手で顔を覆い隠す。
けれど、海の向こう側で鮹の人魚姿へと変化しているであろう彼の人の姿を想像し……すぐに我慢出来なくなって指の間からちらりと覗き見た。
ぶくぶくとたくさんの泡を散らしながら、アズール先輩の二本の足がぐにゃりと曲がり、腰の辺りの肌がにょきりと浮き上がり、ぐんぐんと伸びていく。
──鮹の、脚。
ふらふらと吸い寄せられるようにガラスに歩み寄り、ぺったりとへばりつく。
アズール先輩の肌が、海の色に同化するような薄い紫色へと変化していく様を、ガラス越しに食い入るように見つめる。
キラキラと光を反射する水中に、泡に紛れてアズール先輩のシルバーブロンドがふわふわと揺れてる様を、目に焼き付けていく。
「…………っ……」
息をするのも忘れて魅入ってしまう。
それほどに、彼本来の姿である人魚の容姿は美しかった。
姿形はオーバーブロットしたときに拝んだ容姿と大差ないように見えるが、あのときは黒いオーラに纏われて禍々しかった。
今のアズール先輩の姿は、気高くて、美して……どこか神々しさすら感じてしまうほどだ。
「小エビちゃん、行くよ〜」
「着いてきてくださいね。早く海へ出ないと、息が出来なくなりますよ」
リーチ兄弟が私に声を掛けながら次々と魔法陣を通り抜け、ガラスの向こう側に現れる。
長い長い二本の足が更に長く伸びていき、やがてひとつに重なっていく。
ウツボの姿をした彼らも、久しぶりに目にした。
彼らの髪色によく似た翡翠色が、水中で睦まじく並んで遠くへ泳ぎ去ったと思うともう間近に戻ってくる。
例の事件のときは、彼らのあの姿を見れば恐怖しかなかった(何せ攻撃を受ける側だった)のだけど、悠々と海の中を泳ぐ彼らはとても伸びやかで、楽しそうだ。
全身で海を堪能している様子が窺える。
やっぱり変身薬で人間になって生活するのは、どこか不自由さが消えないのかもしれない。
アズール先輩だって、元の姿にコンプレックスを抱えている様子だけど、人の姿より元の姿の方が幾分も楽なのだろう。
アズール先輩に視線を移すと、海の中では眼鏡も不要なのか、いつもの眼鏡を掛けていなかった。
うねうねと、幾重にも重なって見える脚で海の水を掻き分けて、あっちへこっちへと漂っている。
私を待って動かないでいてくれるのだろう。
……等と見蕩れていたのがいけなかった。
「ん、うぐ……っ」
息が苦しくなってきた。
そうだ、早く海へ行かないと、私は息が出来なくなる。
さっきジェイド先輩が言っていた。
思っていたよりも早い効果に、慌てて魔法陣に近寄る。
(いやでも待って、服は? このまま?)
初めてのことだらけで何が正解なのかもわからず、魔法陣の前で躊躇する。
魔法陣の下を見れば、三人分の制服が脱ぎ散らかされていた。
つまりはここで服を脱いで、この魔方陣をくぐるのが正解なのだろう。
(いやでも、仮にも女の自分がこんな場所で素っ裸になってこの魔方陣に飛び込む……のか?)
それは流石に厳しいものがある。
(ど、どうしたらいいのっ!?)
迷っているうちにどんどん呼吸が浅く、苦しくなってくる。
同時にズキズキと脚が痛みだし、堪らず魔法陣の下に蹲った。
私の脚が発光し、二本の足がひとつに混じり合い、尾ビレへと変化を遂げようとしていた。
呼吸がままならないのと、両脚がずきずきと痛むのとで蹲ったまま動けない。
だんだんと意識が朦朧としてきた……。
「……ん……あなたさん、しっかりしてください」
「ん……」
ひんやりと肌を包む感触にふわふわと揺すられ、目を開ける。
「あれ……アズール、先輩」
「はぁ……全く、あなたには驚かされることばかりです。大丈夫ですか? この指、何本に見えます」
「は、八本」
「二本ですよ。僕の真似をする元気があるなら、大丈夫ですね」
「あはっ、小エビちゃん陸で溺れかけてんの、ちょーだせぇ」
「ご無事でなによりでした」
人魚姿の三人に囲まれ、全身が海に晒されている……つまり、私はどうにかして海の中へ来れたらしい。
「あなたさんが魔方陣の向こうで溺れかけているのを見て、アズールが脚を伸ばしてこちら側へ引っ張り込んだんですよ」
でも、どうやって……と、不思議になり三人の顔を見回すと、一番耳元で聞こえたジェイド先輩の声が更に言葉を紡いで答えをくれた。
「タコちゃんの脚ってすげぇ便利。オレも欲しい」
「ふん、その代わりお前たちのように高速で泳ぐことは出来ませんけどね」
やれやれと肩を竦めるアズール先輩。
人魚姿を間近でじっくり見られて感慨深いものがある。
リーチ兄弟の二人にしてもそうだ。
アトランティカ博物館に遠足に行った折、多少ゆっくり眺めることが出来たものの、こんな間近ではお目にかかれなかった。
間近……そういえば、さっきからジェイド先輩の声がやけに近い。
気になりつつも、そういえば自分の人魚姿をよく見ていなかったなと思い至り、ちらりと下半身へ目線をやる。
「尾びれ……!」
目に飛び込んできたのは、鮮やかなエメラルドグリーンの尾びれ。
試しにゆらゆらと動かしてみると、わずかに左右に揺れた。
揺れとともに、鱗に覆われた表面がきらりと光っている。
我ながら、なかなかに綺麗だ。
「この色、あの人魚みてぇじゃね?」
「ええ、海の魔女と契約して、陸へ上がったと伝えられる人魚と同じ色ですね」
「呼吸は問題なさそうですか?」
「ん……はい、違和感もないです」
呼吸がどうなっているのかわからないけど、普通に口で呼吸を繰り返している気がする。
詳しい仕組みはわからないが、肺がエラの代わりをしているらしい。
(あ……服、着てる)
上半身は、制服のシャツを着たままだ。
自分が女であることは、この学園ではなんとなくナイショにして過ごしていたから、バレなかったことに安堵した。
ナイトレイブンカレッジは男子校だ。
魔力がないのに通っているという点で相当にイレギュラーな存在だというのに、更に女だと知れたら……流石に退学になってしまうかもしれない。
今現時点、頼れるのはこの学園での生活に縋るしかないのだから、追い出される要素は少ないに越したことはない。
「助けて頂いてありがとうございました。アズール先輩の人魚姿、初めて見たので……つい見蕩れちゃって。すごく綺麗ですね」
「あはっ。綺麗だって、良かったねぇアズール」
「ふん。おだてても何も出ませんけどね」
「おやおや、素直じゃありませんね。さて……ひと息ついているところ恐縮ですが、そろそろ離しますね」
何だか声が近いと思っていたら、どうやらジェイド先輩がずっと支えてくれていたらしい。
唐突にぱっと手を離され、うまくバランスが取れずあっちへふよふよ、こっちへふよふよ漂ってしまう。
海の中、初めての尾びれでどうバランスを取っていいのかわからない。
ざぁ、と少し強い潮の流れに、慌てて目の前のものにしがみついたら……それはアズールの脚だった。
「わ、わっ……!」
初めての感触。
ぬるぬる、つるつる、なんとも言い表せない触り心地に、思わず撫でたり握ったりしてしまう。
「ちょっと……! 変な触り方はやめて下さい。ほら、ちゃんと陸で歩くように泳いで」
背中を別の脚が押してくるが、意地でも手は離さなかった。
「な、慣れるまででいいので! 少しだけ掴ませてください」
「……っ、脚に掴まれるのは落ち着きません。掴むなら手にしてください」
伸ばされた手に素直に縋り、手を繋いだまま海の中をゆっくりと進んでいく。
双子は遠くへ泳ぎ去っていて、その姿は親指くらい小さく見える。
アズール先輩に手を引かれながら、覚束無い足つき(ヒレつき?)でキョロキョロと周りを見渡しながら海の景色を堪能する。
「アズール先輩、あれは何ですか?」
「あれ……? ああ、珊瑚礁でしょう。魚の住処になっているんですよ」
「……!」
薄いピンク色をした大きな塊は、私の背丈よりも随分と大きい。
アズール先輩が珊瑚のひとつを鮹足で揺らすと、中からたくさんの小魚たちが飛び出してきた。
最初はびっくりしていたようだけど、すぐに人懐っこく擦り寄ってきた。
周囲で様子見していたほかの魚たちもどんどんと此方へ集まって、こぽこぽと囁かな音楽を奏でながら私の周りを数多の泡が舞い踊る。
「ほら、いつまでも遊んでいないで、しっかり泳いで。そんな調子じゃ、いつまで経っても泳げませんよ」
一頻り魚たちと戯れたタイミングで、アズール先輩が吸盤のついた脚をぶわりと揺らし、魚たちを遠くへ追いやってしまった。
「うっ……すみません。えっと……泳ぐコツってありますか」
「残念ながらありません。あなた、歩くコツを伝えることが出来ますか?」
「それは……難しいですね」
「そうでしょうとも。どちらにせよ、教えを乞うのであれば僕よりもそこの二人にすることです。僕は尾びれで泳いでいるわけではないので」
「あー、たしかに。小エビちゃんの尾びれはオレたちと似てるかも」
「縦に揺れるか、横に揺れるかでまた違いますけどね」
近くに戻ってきたリーチ兄弟の長い尾びれが、戯れるように私の尾びれにまとわりついてくる。
鮹の人魚であるアズール先輩には尾びれと呼べるものはついていない。
不思議に思って、アズール先輩はどうやって泳いでいるんですか、と問う。
「あはっ、小エビちゃんてほーんと、何にも知らないね。タコちゃんの泳ぎなんて、噴射で進むに決まってんじゃん」
「噴射?」
「海水を溜めて、一気に噴き出すことにより進む、ということです」
「へえ……! すごいです」
「別に、すごくもなんともありませんよ。どうせノロマな泳ぎしか出来ないというのに。とにかく、泳ぎはそっちの二人に指南を乞うことです。僕は必要なものの採取に行きますから」
ぐい、と鮹足で私をリーチ兄弟の方へ押しやると、アズール先輩は瞬く間に離れていってしまった。
「おやおや。アズールは泳ぎに関してはとてもナイーブですからねぇ。仕方がありません、僕が教えて差し上げますよ」
「うんうん、オレも教えてあげる~」
「よろしくお願いします」
そんなこんなで、二人に泳ぎを教わって、なんとかようやく一人で泳げるまでになった。
楽しくなってきてくるくると回転したり、泡を作って遊んだりしていると……不意に胸が苦しくなった。
(あれ……?)
ぶくり。
大きな泡が口から出ていく。
急激に呼吸が出来なくなってしまったらしい。
「まずい、薬が切れた」
ちょうど戻ってきたばかりのアズール先輩が、慌てた声を零す。
薬……つまり、私が飲んだ人魚の変身薬の効果のことだろう。
アズール先輩の言葉を受けて、ジェイド先輩とフロイド先輩の目が大きく見開いた。
「え、それってどうなんの? ヤバくね?」
「僕とフロイドで急いで海面まで引っ張っていけば──」
「ダメです。この深さから一気に上がれば、ヒトの身体では支障をきたす恐れがあります。いくら魔法薬で変身しているとはいえ、水圧に慣らしながらゆっくり上がらないと」
「しかしおちおちしていたら溺れ死んでしまうのでは?」
「えーっ! 小エビちゃん死んじゃやだ! どうにかなんねぇの?」
傍らの3人がああでもないこうでもないと論じてる間、私は口元から零れ出る空気の泡をなんとかしてかき集めようともがく。
空気。空気がないと死んでしまう。
本能でそう感じてとった行動だ。
「……! そうだ、その手があった」
私の動きを目にしたアズール先輩が、何やら閃いた様子で首元に下げたマジカルペンを手に握った。
彼の握ったマジカルペンが私の方へ向けられ、水中でふわりと先端を揺らして振られると、ペン先からキラキラとまばゆい光が溢れ出た。
眩しくて思わず目を閉じて、次に目を開けたとき……私は思いっきり息を吸って呼吸出来るようになっていた。
「ぶく、す、すご……ぶくぶく」
大きな空気の泡が、私の顔を包んでいる。
まるで風船のようなそれは、ぴったりと私の顔に張り付いて酸素を送ってくれていた。
「海の中で魔法薬を作るとき、空気を留める魔法を用いることがあるので……応用してみたら上手くいきましたね」
「ぶく、ぶくぶく」
無事に呼吸は出来るが、安定していないのか声が上手いこと伝わらない。
ありがとうと伝えたかったが、敵わなかった。
「お喋りしなくていいので、海面に出るまでは静かにしていてください。呼吸もなるべく控えめに」
こくこくと頷くと、アズール先輩は私の後ろへ回り、両サイドをフロイド先輩、ジェイド先輩が固めた。
「んじゃ、オレらが上までつれてってあげるね」
「ゆっくり上がりますので、途中苦しくなったり痛くなったりしたときは仰ってください」
双子それぞれに左右の腕を掴まれて、ぐっと引っ張られる。
向かうのは海面のはずだ。
海の中では重力も感じないため、どちらが海面なのか私にはさっぱりわからないけれど、彼らにはわかっているらしい。
アズール先輩は私の背後に回って、鮹足をリーチ兄弟の腰に巻き付けた。
左右背後を完全に固められ、まるで包囲され連行される囚人のようだ。
どうしてこんな陣形で海面を目指すのだろうかと思ったけど、その理由はすぐにわかった。
双子がぐいぐいと海面を目指して進む間、アズール先輩が私の背後で背を押して支えながら魔法を使い、空気の塊を維持するためだ。
(ちゃんと助けてくれるの、なんだか感動しちゃうかも)
少し前に起きたオクタヴィネル寮でのオーバーブロット事件を思い出す。
全部寄こせとヒステリックに泣いて叫ぶアズール先輩の姿を思い返すと、じくりと胸が痛む。
けれど、私はあの結果が悪いものだとは思っていない。
彼は過去に囚われ、ユニーク魔法の効果によって集めた契約書の束を金庫に入れて保管していたわけだが、金庫に傷がついたときの狼狽え方といったら鬼気迫るものがあった。
奪った能力に固執していたのは明白。
他人から奪った能力なんかなくたって、彼は十分に素晴らしい知識、スキルを身につけているというのに、それらをすべて「他人から奪った能力のおかげ」だと思い込んでいた。
彼の持っている知識も経験もスキルも、他の追随を許さないほどの『努力』を積み重ねた結果により得た宝で、『努力』を継続出来るのは尊い美徳だ。
それに気付かず、過去に苛めた側の思考と同じように自らを卑下し、他者から奪った能力がなくなれば『自分に価値がない』と言わんばかりの思い込みは、見ていてとても痛々しかった。
アズール先輩はこれまで私が想像も出来ないくらいの努力で名門校の寮長にまで登り詰め、あまつさえ校内に店まで構えて経営者としての手腕も振るっている人。
加えて、人を惹き付ける魅力も兼ね揃えた人だ。
努力に裏打ちされた彼の言葉には説得力がある。
頭でいくら『騙されているのかも』と疑ってかかっていても、不思議と従いたくなるような、そんな魅力がある。
人から能力を奪わなくたって、十分にすごい人なのだ。
それを彼自身にも分かって欲しい。
彼がコツコツと集めてきたものを、私の案で「砂」にしてしまった。
決して後悔しているわけではないし、あのときはああするしかなかったわけだが、そのことに負い目がないと言えば嘘になる。
だから、あの後もなんやかんやとモストロ・ラウンジにお邪魔したり、こうして海に連れてきてもらえたり、付き合いが途切れず歩み寄ってくれていることが本当に嬉しかった。
「アズール先輩」
「はい? どこか苦しいところでも──」
どうやら魔法が安定したようで、私の呼びかけた声ははっきりと紡がれた。
アズール先輩が背後から身を乗り出し、私の顔を覗き込んでくる。
「いえ。どうしてこんなに親切にしてくださるのかなぁと思って」
「親切……?」
私の問い掛けに対し、どこか嫌そうに眉を顰めたアズール先輩は、やれやれと首を左右に振って見せた。
「何を言い出すかと思えば……親切ということもないでしょう。あなたの我が儘な願いとはいえ、海へ連れてきて差し上げたのは確かに僕です。連れてきたからには五体満足に学園まで送り届けなければ。ろくにエスコートも出来なかった、などと不名誉な噂を流されては困る。それだけですよ」
「それでも、です。ありがとうございます」
「変な人ですね……礼を言われる筋合いではありません。ああほら、海面が見えてきました」
「……!」
視線を自らの尾びれに向けて下げていたものだから、向かう先に光が差してきていることに気付いていなかった。
アズール先輩の言葉を受けてぱっと顔を上げると――目の前には金色の光が差し込む『空』が迫っていた。
「綺麗……!!」
海へ来てから、何度『綺麗』と口にしたかもはやわからないが、このときばかりは本当に息をするのを忘れた。
海の空……海面。
夕暮れ時の太陽が差し込むそこは、一面のオレンジ色に染まっていたのだ。
それまでスピードを加減していたのだろう、海面が近付くと双子の泳ぐスピードがぐん、と上がる。
ぐいぐいと近付く海の天井は思わず目を閉じてしまうくらい眩くて――次に目を開けたときばしゃりと海面に頭を突き出した後だった──。
◇◆◇◆◇◆◇◆
海面を目指しながら、マジカルペンの先端を空気で出来た風船に向け続け……ようやく海面に顔を出せたとき、ほっと肩の力が抜けるのを感じた。
魔方陣の前でぐったりと横たわるあなたさんを目にしたのはつい先刻。
相手は海の初心者。
二度も死に目に合わせてしまったのは、此方の落ち度だ。
無理をきいて海まで連れてきて差し上げたのだから、対価をしっかり頂こう──そんな考えを頭の片隅に携えながら決行した海の遠足は、あなたさんにとっては恐怖の連続となってしまっただろう。
これではとても、対価など要求できない。
人間は海の中では息すら出来ないし、ちょっと尾びれがついた程度じゃ満足に泳げもしない。
二度も命を危険に晒されて、僕に感謝するどころか恨みつらみを投げられるのでは……そんな風に覚悟して、どうやって言いくるめようか考えを巡らせていると──
「すごい……!」
──吸盤のついた足の一本で支えるあなたさんの口から飛び出たのは、予想に反して弾んだ声だった。
あなたさんの視線を追えば、太陽が水平線に半分ほど沈んで、海が黄金色に染まっている光景が飛び込んでくる。
水面にキラキラと輝いて散る飛沫は、まるで妖精の粉が舞っているかのようだ。
幼少の頃、ジェイド、フロイドと共に深海から海面へ上がった折、この光景を目にしたことがあるけれど、確かに美しい。
どこか懐かしさすら感じる、不思議な景色だ。
「黄昏時か……僕もこの景色は久々に目にしました」
「綺麗……海一面、アズール先輩の『黄金の契約書』みたい……!」
おそらくは、無意識に口から出たその言葉。
思わず目を見開いたまま固まってしまう。
この美しい景色が、僕の『黄金の契約書』だって?
契約書に基づいたあの一件で、自分の住処を奪われそうになった人間の言葉とは到底思えない発言だ。
どうすればそんな思考に至るのか、自分には全く理解出来ない感性。
けれど……不思議と悪い気はしない。
『あなたはもう、魔法より凄い力を持ってます。努力は、魔法より習得が難しい』
過去の自分を認められず、否定し続けていた僕自身にかけられたあの言葉が、鮮明に脳裏に蘇る。
思えば、海に来て人魚姿の自分を見たときもひとしきり『綺麗』だの『すごい』だの口走っていた。
グズでノロマ、気味悪いと称されることはあっても、この姿の僕を手放しに賞賛するなんて……どうかしてる。
理解不能だ、と思うのに、じわり、じわりと胸の内に灯る温かな熱。
この人の言葉は、いつだって驚くくらいの浸透力で自分の中に染み込んでくるから不思議だ。
「すごい! 海って美しいですね。また来たいです」
嬉しげな笑顔を浮かべてはしゃぐ人の姿からは、自分が予想していたような恨みつらみはいつまで経っても出てきそうにない。
「ふっ……」
気分が高揚し、すっかりはしゃいでいるあなたさんを見ているうちに……色々と考えている自分が馬鹿みたいに思えてきた。
何だかとても愉快で可笑しい気分になり、ふつふつと笑いが込み上げてきて……やがてぶは、と取り繕うことなく噴き出してしまった。
「あなたは……っ、ふふっ……ははっ……ふ、くく……二度も死にかけておいて……ふっ……懲りない人ですね」
けたけたと笑う僕が珍しいのか、あなたさんはあんぐりと口を開けて惚けている。
ジェイド、フロイドも興味深げに此方を見ている。
見られていることはわかるけれど、堰を切ったように止めどなく笑い声を上げ続けてしまう。
「これは珍しい」
「あは。アズールを大爆笑させちゃうとか、小エビちゃんやるぅ~」
「ええ? そんな面白いこと、言いました……?」
「ふふっ……ふふ……!」
今ならペンが転がっただけでも可笑しくなれる。
それくらい気分が解れてしまっていた。
「はー、可笑しい。楽しい思いをさせて頂いたので、特別に帰りも送迎してあげますよ」
「えーと……よろしくお願い、します……?」
一頻り笑って悠然とした景色を堪能した後、再び空気の風船を被せ、寮への旅路を辿り始める。
「あの……また、連れてきてくれますか……?」
おずおずといった様子で此方を見上げる監督生さんに、僕はまた笑いそうになる。
この図太さは、嫌いじゃない。
「そうですね。僕の気が向いたら、いずれまた。何を対価にするか、ちゃんと考えておいてくださいね」
口ではこんな風に勿体付けながらも、僕はきっとまた近いうちに無償でここへあなたさんを連れてくるだろう。
この人が口にする不思議な言葉は、どんな高価なものにも及ばない、僕にとっての『対価』になり得るもの……もっと聞かせて欲しい。
胸に宿った小さな光に思いを馳せながら、遠ざかる黄昏色を背に帰路へついた──。
「私も一緒に行きたいです、海!」
目の前には、ややきょとんとした表情を浮かべるアズール先輩、ジェイド先輩、フロイド先輩の三人。
なんでも、海の中に錬金術に必要な材料を採取しにいくらしい。
海の中――少し前、みんなで深海のアトランティカ博物館へ行ったことを思い出す。
鏡を使って近道したとはいえ、平素目にすることのない海の中の遠足はとても楽しかった。
機会があればまた行きたいと思っていた私は、モストロ・ラウンジの一角でその話が出た際、ほぼ脊髄反射に近い形で挙手していた。
渋るアズール先輩だったけど、双子の二人は乗り気だったため、多数決で連れて行ってもらえることになった。
もちろん、妖しい取引はしていない。
「すごい……!」
目の前には、淡い光を放つ魔法陣、その向こう側には一面の『海』。
私は今、オクタヴィネル寮内にある、屋上階――海へ出られる魔方陣の前に来ている。
壁の代わりに据えられた大きなガラスの向こう側は、たくさんの魚や珊瑚礁に彩られた海が広がっている。
まるで映画のスクリーンを見ているかのような、現実味のない光景だ。
「惚けていないで、準備をしなさい準備を。僕は先に行きますよ」
そう言って魔法陣をくぐったアズール先輩が、魔法陣に入っていく。
少し屈んで頭から魔方陣の中へ消えていくと同時に、ガラスの向こう側に頭が突き出て、次の瞬間には全身が海の中にふわりと躍り出た。
まるでこちら側と海側の間にガラスの隔たりなんて存在しないかのようだ。
魔方陣によってガラスをすり抜けたようにも見えるが、高位の転移魔法が使われているらしい。
魔法というものは本当に便利だ。
アズール先輩は服を着ていたはずなのに、魔方陣の前にきちんと折りたたまれた服がふわりと着地しているのも、魔法の力だろう。
(ってことは、今アズール先輩は裸……!!)
慌てて両手で顔を覆い隠す。
けれど、海の向こう側で鮹の人魚姿へと変化しているであろう彼の人の姿を想像し……すぐに我慢出来なくなって指の間からちらりと覗き見た。
ぶくぶくとたくさんの泡を散らしながら、アズール先輩の二本の足がぐにゃりと曲がり、腰の辺りの肌がにょきりと浮き上がり、ぐんぐんと伸びていく。
──鮹の、脚。
ふらふらと吸い寄せられるようにガラスに歩み寄り、ぺったりとへばりつく。
アズール先輩の肌が、海の色に同化するような薄い紫色へと変化していく様を、ガラス越しに食い入るように見つめる。
キラキラと光を反射する水中に、泡に紛れてアズール先輩のシルバーブロンドがふわふわと揺れてる様を、目に焼き付けていく。
「…………っ……」
息をするのも忘れて魅入ってしまう。
それほどに、彼本来の姿である人魚の容姿は美しかった。
姿形はオーバーブロットしたときに拝んだ容姿と大差ないように見えるが、あのときは黒いオーラに纏われて禍々しかった。
今のアズール先輩の姿は、気高くて、美して……どこか神々しさすら感じてしまうほどだ。
「小エビちゃん、行くよ〜」
「着いてきてくださいね。早く海へ出ないと、息が出来なくなりますよ」
リーチ兄弟が私に声を掛けながら次々と魔法陣を通り抜け、ガラスの向こう側に現れる。
長い長い二本の足が更に長く伸びていき、やがてひとつに重なっていく。
ウツボの姿をした彼らも、久しぶりに目にした。
彼らの髪色によく似た翡翠色が、水中で睦まじく並んで遠くへ泳ぎ去ったと思うともう間近に戻ってくる。
例の事件のときは、彼らのあの姿を見れば恐怖しかなかった(何せ攻撃を受ける側だった)のだけど、悠々と海の中を泳ぐ彼らはとても伸びやかで、楽しそうだ。
全身で海を堪能している様子が窺える。
やっぱり変身薬で人間になって生活するのは、どこか不自由さが消えないのかもしれない。
アズール先輩だって、元の姿にコンプレックスを抱えている様子だけど、人の姿より元の姿の方が幾分も楽なのだろう。
アズール先輩に視線を移すと、海の中では眼鏡も不要なのか、いつもの眼鏡を掛けていなかった。
うねうねと、幾重にも重なって見える脚で海の水を掻き分けて、あっちへこっちへと漂っている。
私を待って動かないでいてくれるのだろう。
……等と見蕩れていたのがいけなかった。
「ん、うぐ……っ」
息が苦しくなってきた。
そうだ、早く海へ行かないと、私は息が出来なくなる。
さっきジェイド先輩が言っていた。
思っていたよりも早い効果に、慌てて魔法陣に近寄る。
(いやでも待って、服は? このまま?)
初めてのことだらけで何が正解なのかもわからず、魔法陣の前で躊躇する。
魔法陣の下を見れば、三人分の制服が脱ぎ散らかされていた。
つまりはここで服を脱いで、この魔方陣をくぐるのが正解なのだろう。
(いやでも、仮にも女の自分がこんな場所で素っ裸になってこの魔方陣に飛び込む……のか?)
それは流石に厳しいものがある。
(ど、どうしたらいいのっ!?)
迷っているうちにどんどん呼吸が浅く、苦しくなってくる。
同時にズキズキと脚が痛みだし、堪らず魔法陣の下に蹲った。
私の脚が発光し、二本の足がひとつに混じり合い、尾ビレへと変化を遂げようとしていた。
呼吸がままならないのと、両脚がずきずきと痛むのとで蹲ったまま動けない。
だんだんと意識が朦朧としてきた……。
「……ん……あなたさん、しっかりしてください」
「ん……」
ひんやりと肌を包む感触にふわふわと揺すられ、目を開ける。
「あれ……アズール、先輩」
「はぁ……全く、あなたには驚かされることばかりです。大丈夫ですか? この指、何本に見えます」
「は、八本」
「二本ですよ。僕の真似をする元気があるなら、大丈夫ですね」
「あはっ、小エビちゃん陸で溺れかけてんの、ちょーだせぇ」
「ご無事でなによりでした」
人魚姿の三人に囲まれ、全身が海に晒されている……つまり、私はどうにかして海の中へ来れたらしい。
「あなたさんが魔方陣の向こうで溺れかけているのを見て、アズールが脚を伸ばしてこちら側へ引っ張り込んだんですよ」
でも、どうやって……と、不思議になり三人の顔を見回すと、一番耳元で聞こえたジェイド先輩の声が更に言葉を紡いで答えをくれた。
「タコちゃんの脚ってすげぇ便利。オレも欲しい」
「ふん、その代わりお前たちのように高速で泳ぐことは出来ませんけどね」
やれやれと肩を竦めるアズール先輩。
人魚姿を間近でじっくり見られて感慨深いものがある。
リーチ兄弟の二人にしてもそうだ。
アトランティカ博物館に遠足に行った折、多少ゆっくり眺めることが出来たものの、こんな間近ではお目にかかれなかった。
間近……そういえば、さっきからジェイド先輩の声がやけに近い。
気になりつつも、そういえば自分の人魚姿をよく見ていなかったなと思い至り、ちらりと下半身へ目線をやる。
「尾びれ……!」
目に飛び込んできたのは、鮮やかなエメラルドグリーンの尾びれ。
試しにゆらゆらと動かしてみると、わずかに左右に揺れた。
揺れとともに、鱗に覆われた表面がきらりと光っている。
我ながら、なかなかに綺麗だ。
「この色、あの人魚みてぇじゃね?」
「ええ、海の魔女と契約して、陸へ上がったと伝えられる人魚と同じ色ですね」
「呼吸は問題なさそうですか?」
「ん……はい、違和感もないです」
呼吸がどうなっているのかわからないけど、普通に口で呼吸を繰り返している気がする。
詳しい仕組みはわからないが、肺がエラの代わりをしているらしい。
(あ……服、着てる)
上半身は、制服のシャツを着たままだ。
自分が女であることは、この学園ではなんとなくナイショにして過ごしていたから、バレなかったことに安堵した。
ナイトレイブンカレッジは男子校だ。
魔力がないのに通っているという点で相当にイレギュラーな存在だというのに、更に女だと知れたら……流石に退学になってしまうかもしれない。
今現時点、頼れるのはこの学園での生活に縋るしかないのだから、追い出される要素は少ないに越したことはない。
「助けて頂いてありがとうございました。アズール先輩の人魚姿、初めて見たので……つい見蕩れちゃって。すごく綺麗ですね」
「あはっ。綺麗だって、良かったねぇアズール」
「ふん。おだてても何も出ませんけどね」
「おやおや、素直じゃありませんね。さて……ひと息ついているところ恐縮ですが、そろそろ離しますね」
何だか声が近いと思っていたら、どうやらジェイド先輩がずっと支えてくれていたらしい。
唐突にぱっと手を離され、うまくバランスが取れずあっちへふよふよ、こっちへふよふよ漂ってしまう。
海の中、初めての尾びれでどうバランスを取っていいのかわからない。
ざぁ、と少し強い潮の流れに、慌てて目の前のものにしがみついたら……それはアズールの脚だった。
「わ、わっ……!」
初めての感触。
ぬるぬる、つるつる、なんとも言い表せない触り心地に、思わず撫でたり握ったりしてしまう。
「ちょっと……! 変な触り方はやめて下さい。ほら、ちゃんと陸で歩くように泳いで」
背中を別の脚が押してくるが、意地でも手は離さなかった。
「な、慣れるまででいいので! 少しだけ掴ませてください」
「……っ、脚に掴まれるのは落ち着きません。掴むなら手にしてください」
伸ばされた手に素直に縋り、手を繋いだまま海の中をゆっくりと進んでいく。
双子は遠くへ泳ぎ去っていて、その姿は親指くらい小さく見える。
アズール先輩に手を引かれながら、覚束無い足つき(ヒレつき?)でキョロキョロと周りを見渡しながら海の景色を堪能する。
「アズール先輩、あれは何ですか?」
「あれ……? ああ、珊瑚礁でしょう。魚の住処になっているんですよ」
「……!」
薄いピンク色をした大きな塊は、私の背丈よりも随分と大きい。
アズール先輩が珊瑚のひとつを鮹足で揺らすと、中からたくさんの小魚たちが飛び出してきた。
最初はびっくりしていたようだけど、すぐに人懐っこく擦り寄ってきた。
周囲で様子見していたほかの魚たちもどんどんと此方へ集まって、こぽこぽと囁かな音楽を奏でながら私の周りを数多の泡が舞い踊る。
「ほら、いつまでも遊んでいないで、しっかり泳いで。そんな調子じゃ、いつまで経っても泳げませんよ」
一頻り魚たちと戯れたタイミングで、アズール先輩が吸盤のついた脚をぶわりと揺らし、魚たちを遠くへ追いやってしまった。
「うっ……すみません。えっと……泳ぐコツってありますか」
「残念ながらありません。あなた、歩くコツを伝えることが出来ますか?」
「それは……難しいですね」
「そうでしょうとも。どちらにせよ、教えを乞うのであれば僕よりもそこの二人にすることです。僕は尾びれで泳いでいるわけではないので」
「あー、たしかに。小エビちゃんの尾びれはオレたちと似てるかも」
「縦に揺れるか、横に揺れるかでまた違いますけどね」
近くに戻ってきたリーチ兄弟の長い尾びれが、戯れるように私の尾びれにまとわりついてくる。
鮹の人魚であるアズール先輩には尾びれと呼べるものはついていない。
不思議に思って、アズール先輩はどうやって泳いでいるんですか、と問う。
「あはっ、小エビちゃんてほーんと、何にも知らないね。タコちゃんの泳ぎなんて、噴射で進むに決まってんじゃん」
「噴射?」
「海水を溜めて、一気に噴き出すことにより進む、ということです」
「へえ……! すごいです」
「別に、すごくもなんともありませんよ。どうせノロマな泳ぎしか出来ないというのに。とにかく、泳ぎはそっちの二人に指南を乞うことです。僕は必要なものの採取に行きますから」
ぐい、と鮹足で私をリーチ兄弟の方へ押しやると、アズール先輩は瞬く間に離れていってしまった。
「おやおや。アズールは泳ぎに関してはとてもナイーブですからねぇ。仕方がありません、僕が教えて差し上げますよ」
「うんうん、オレも教えてあげる~」
「よろしくお願いします」
そんなこんなで、二人に泳ぎを教わって、なんとかようやく一人で泳げるまでになった。
楽しくなってきてくるくると回転したり、泡を作って遊んだりしていると……不意に胸が苦しくなった。
(あれ……?)
ぶくり。
大きな泡が口から出ていく。
急激に呼吸が出来なくなってしまったらしい。
「まずい、薬が切れた」
ちょうど戻ってきたばかりのアズール先輩が、慌てた声を零す。
薬……つまり、私が飲んだ人魚の変身薬の効果のことだろう。
アズール先輩の言葉を受けて、ジェイド先輩とフロイド先輩の目が大きく見開いた。
「え、それってどうなんの? ヤバくね?」
「僕とフロイドで急いで海面まで引っ張っていけば──」
「ダメです。この深さから一気に上がれば、ヒトの身体では支障をきたす恐れがあります。いくら魔法薬で変身しているとはいえ、水圧に慣らしながらゆっくり上がらないと」
「しかしおちおちしていたら溺れ死んでしまうのでは?」
「えーっ! 小エビちゃん死んじゃやだ! どうにかなんねぇの?」
傍らの3人がああでもないこうでもないと論じてる間、私は口元から零れ出る空気の泡をなんとかしてかき集めようともがく。
空気。空気がないと死んでしまう。
本能でそう感じてとった行動だ。
「……! そうだ、その手があった」
私の動きを目にしたアズール先輩が、何やら閃いた様子で首元に下げたマジカルペンを手に握った。
彼の握ったマジカルペンが私の方へ向けられ、水中でふわりと先端を揺らして振られると、ペン先からキラキラとまばゆい光が溢れ出た。
眩しくて思わず目を閉じて、次に目を開けたとき……私は思いっきり息を吸って呼吸出来るようになっていた。
「ぶく、す、すご……ぶくぶく」
大きな空気の泡が、私の顔を包んでいる。
まるで風船のようなそれは、ぴったりと私の顔に張り付いて酸素を送ってくれていた。
「海の中で魔法薬を作るとき、空気を留める魔法を用いることがあるので……応用してみたら上手くいきましたね」
「ぶく、ぶくぶく」
無事に呼吸は出来るが、安定していないのか声が上手いこと伝わらない。
ありがとうと伝えたかったが、敵わなかった。
「お喋りしなくていいので、海面に出るまでは静かにしていてください。呼吸もなるべく控えめに」
こくこくと頷くと、アズール先輩は私の後ろへ回り、両サイドをフロイド先輩、ジェイド先輩が固めた。
「んじゃ、オレらが上までつれてってあげるね」
「ゆっくり上がりますので、途中苦しくなったり痛くなったりしたときは仰ってください」
双子それぞれに左右の腕を掴まれて、ぐっと引っ張られる。
向かうのは海面のはずだ。
海の中では重力も感じないため、どちらが海面なのか私にはさっぱりわからないけれど、彼らにはわかっているらしい。
アズール先輩は私の背後に回って、鮹足をリーチ兄弟の腰に巻き付けた。
左右背後を完全に固められ、まるで包囲され連行される囚人のようだ。
どうしてこんな陣形で海面を目指すのだろうかと思ったけど、その理由はすぐにわかった。
双子がぐいぐいと海面を目指して進む間、アズール先輩が私の背後で背を押して支えながら魔法を使い、空気の塊を維持するためだ。
(ちゃんと助けてくれるの、なんだか感動しちゃうかも)
少し前に起きたオクタヴィネル寮でのオーバーブロット事件を思い出す。
全部寄こせとヒステリックに泣いて叫ぶアズール先輩の姿を思い返すと、じくりと胸が痛む。
けれど、私はあの結果が悪いものだとは思っていない。
彼は過去に囚われ、ユニーク魔法の効果によって集めた契約書の束を金庫に入れて保管していたわけだが、金庫に傷がついたときの狼狽え方といったら鬼気迫るものがあった。
奪った能力に固執していたのは明白。
他人から奪った能力なんかなくたって、彼は十分に素晴らしい知識、スキルを身につけているというのに、それらをすべて「他人から奪った能力のおかげ」だと思い込んでいた。
彼の持っている知識も経験もスキルも、他の追随を許さないほどの『努力』を積み重ねた結果により得た宝で、『努力』を継続出来るのは尊い美徳だ。
それに気付かず、過去に苛めた側の思考と同じように自らを卑下し、他者から奪った能力がなくなれば『自分に価値がない』と言わんばかりの思い込みは、見ていてとても痛々しかった。
アズール先輩はこれまで私が想像も出来ないくらいの努力で名門校の寮長にまで登り詰め、あまつさえ校内に店まで構えて経営者としての手腕も振るっている人。
加えて、人を惹き付ける魅力も兼ね揃えた人だ。
努力に裏打ちされた彼の言葉には説得力がある。
頭でいくら『騙されているのかも』と疑ってかかっていても、不思議と従いたくなるような、そんな魅力がある。
人から能力を奪わなくたって、十分にすごい人なのだ。
それを彼自身にも分かって欲しい。
彼がコツコツと集めてきたものを、私の案で「砂」にしてしまった。
決して後悔しているわけではないし、あのときはああするしかなかったわけだが、そのことに負い目がないと言えば嘘になる。
だから、あの後もなんやかんやとモストロ・ラウンジにお邪魔したり、こうして海に連れてきてもらえたり、付き合いが途切れず歩み寄ってくれていることが本当に嬉しかった。
「アズール先輩」
「はい? どこか苦しいところでも──」
どうやら魔法が安定したようで、私の呼びかけた声ははっきりと紡がれた。
アズール先輩が背後から身を乗り出し、私の顔を覗き込んでくる。
「いえ。どうしてこんなに親切にしてくださるのかなぁと思って」
「親切……?」
私の問い掛けに対し、どこか嫌そうに眉を顰めたアズール先輩は、やれやれと首を左右に振って見せた。
「何を言い出すかと思えば……親切ということもないでしょう。あなたの我が儘な願いとはいえ、海へ連れてきて差し上げたのは確かに僕です。連れてきたからには五体満足に学園まで送り届けなければ。ろくにエスコートも出来なかった、などと不名誉な噂を流されては困る。それだけですよ」
「それでも、です。ありがとうございます」
「変な人ですね……礼を言われる筋合いではありません。ああほら、海面が見えてきました」
「……!」
視線を自らの尾びれに向けて下げていたものだから、向かう先に光が差してきていることに気付いていなかった。
アズール先輩の言葉を受けてぱっと顔を上げると――目の前には金色の光が差し込む『空』が迫っていた。
「綺麗……!!」
海へ来てから、何度『綺麗』と口にしたかもはやわからないが、このときばかりは本当に息をするのを忘れた。
海の空……海面。
夕暮れ時の太陽が差し込むそこは、一面のオレンジ色に染まっていたのだ。
それまでスピードを加減していたのだろう、海面が近付くと双子の泳ぐスピードがぐん、と上がる。
ぐいぐいと近付く海の天井は思わず目を閉じてしまうくらい眩くて――次に目を開けたときばしゃりと海面に頭を突き出した後だった──。
◇◆◇◆◇◆◇◆
海面を目指しながら、マジカルペンの先端を空気で出来た風船に向け続け……ようやく海面に顔を出せたとき、ほっと肩の力が抜けるのを感じた。
魔方陣の前でぐったりと横たわるあなたさんを目にしたのはつい先刻。
相手は海の初心者。
二度も死に目に合わせてしまったのは、此方の落ち度だ。
無理をきいて海まで連れてきて差し上げたのだから、対価をしっかり頂こう──そんな考えを頭の片隅に携えながら決行した海の遠足は、あなたさんにとっては恐怖の連続となってしまっただろう。
これではとても、対価など要求できない。
人間は海の中では息すら出来ないし、ちょっと尾びれがついた程度じゃ満足に泳げもしない。
二度も命を危険に晒されて、僕に感謝するどころか恨みつらみを投げられるのでは……そんな風に覚悟して、どうやって言いくるめようか考えを巡らせていると──
「すごい……!」
──吸盤のついた足の一本で支えるあなたさんの口から飛び出たのは、予想に反して弾んだ声だった。
あなたさんの視線を追えば、太陽が水平線に半分ほど沈んで、海が黄金色に染まっている光景が飛び込んでくる。
水面にキラキラと輝いて散る飛沫は、まるで妖精の粉が舞っているかのようだ。
幼少の頃、ジェイド、フロイドと共に深海から海面へ上がった折、この光景を目にしたことがあるけれど、確かに美しい。
どこか懐かしさすら感じる、不思議な景色だ。
「黄昏時か……僕もこの景色は久々に目にしました」
「綺麗……海一面、アズール先輩の『黄金の契約書』みたい……!」
おそらくは、無意識に口から出たその言葉。
思わず目を見開いたまま固まってしまう。
この美しい景色が、僕の『黄金の契約書』だって?
契約書に基づいたあの一件で、自分の住処を奪われそうになった人間の言葉とは到底思えない発言だ。
どうすればそんな思考に至るのか、自分には全く理解出来ない感性。
けれど……不思議と悪い気はしない。
『あなたはもう、魔法より凄い力を持ってます。努力は、魔法より習得が難しい』
過去の自分を認められず、否定し続けていた僕自身にかけられたあの言葉が、鮮明に脳裏に蘇る。
思えば、海に来て人魚姿の自分を見たときもひとしきり『綺麗』だの『すごい』だの口走っていた。
グズでノロマ、気味悪いと称されることはあっても、この姿の僕を手放しに賞賛するなんて……どうかしてる。
理解不能だ、と思うのに、じわり、じわりと胸の内に灯る温かな熱。
この人の言葉は、いつだって驚くくらいの浸透力で自分の中に染み込んでくるから不思議だ。
「すごい! 海って美しいですね。また来たいです」
嬉しげな笑顔を浮かべてはしゃぐ人の姿からは、自分が予想していたような恨みつらみはいつまで経っても出てきそうにない。
「ふっ……」
気分が高揚し、すっかりはしゃいでいるあなたさんを見ているうちに……色々と考えている自分が馬鹿みたいに思えてきた。
何だかとても愉快で可笑しい気分になり、ふつふつと笑いが込み上げてきて……やがてぶは、と取り繕うことなく噴き出してしまった。
「あなたは……っ、ふふっ……ははっ……ふ、くく……二度も死にかけておいて……ふっ……懲りない人ですね」
けたけたと笑う僕が珍しいのか、あなたさんはあんぐりと口を開けて惚けている。
ジェイド、フロイドも興味深げに此方を見ている。
見られていることはわかるけれど、堰を切ったように止めどなく笑い声を上げ続けてしまう。
「これは珍しい」
「あは。アズールを大爆笑させちゃうとか、小エビちゃんやるぅ~」
「ええ? そんな面白いこと、言いました……?」
「ふふっ……ふふ……!」
今ならペンが転がっただけでも可笑しくなれる。
それくらい気分が解れてしまっていた。
「はー、可笑しい。楽しい思いをさせて頂いたので、特別に帰りも送迎してあげますよ」
「えーと……よろしくお願い、します……?」
一頻り笑って悠然とした景色を堪能した後、再び空気の風船を被せ、寮への旅路を辿り始める。
「あの……また、連れてきてくれますか……?」
おずおずといった様子で此方を見上げる監督生さんに、僕はまた笑いそうになる。
この図太さは、嫌いじゃない。
「そうですね。僕の気が向いたら、いずれまた。何を対価にするか、ちゃんと考えておいてくださいね」
口ではこんな風に勿体付けながらも、僕はきっとまた近いうちに無償でここへあなたさんを連れてくるだろう。
この人が口にする不思議な言葉は、どんな高価なものにも及ばない、僕にとっての『対価』になり得るもの……もっと聞かせて欲しい。
胸に宿った小さな光に思いを馳せながら、遠ざかる黄昏色を背に帰路へついた──。