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彼女にはこの風景が似合う、とアズールは思った。
風は絶え間なく吹いている。腰の高さほどまである草が靡いて揺れている。青く薫る大草原のなかを、監督生は両手を広げて駆けていく。
「すごい! すごいです、アズール先輩!」
頭上にある太陽よりも眩しい笑顔を見せる監督生は、彼女の語ったドラマのヒロインよりも可憐に違いない。そのドラマを観たことも聞いたこともないのに、アズールは確かにそう思った。
恋草
アズールがナイトレイブンカレッジ内の植物園を訪れたのはある土曜日の夕方のことで、〝相談事〟のために必要な魔法薬の材料を見繕うためだった。授業もなく、学園も休みのため、植物園を管理する用務員もいない。本来であれば、夜の闇に紛れて行くのが目立ちもせず確実ではあるのだが、この日は材料の調達を急いでいた。
広い植物園内を歩き目的の場所までたどり着くと、そこには先客がいた。オンボロ寮の監督生だった。実験服の白衣を着て、肩から古びた革のバッグを下げ、クリップボードにはさんだ紙に何かを書き込んでいる。アズールに気付いた監督生は「アズール先輩、どうしたんですか」と声をかけてきた。
「あなたこそ、ここで何をしているんです」
「学園長から頼まれて、用務員さんのいない日に植物園の見回りをしているんです。水と肥料が適切に供給されているかとか、スプリンクラーが作動するかとか、温度管理はマニュアル通りかどうかとか、あとは掃除ですね」
「いいようにこき使われていますね」
「雑用係ですから。それに、植物は好きなんです」と言って、監督生は手近にある暗い緑色をした木の葉に触れた。「私の故郷にあったのと同じ植物もありますし、名前は同じなのに違う見た目だったりして、面白いですよ」
「物好きな人ですね」
アズールにとって、植物園にある植物など、実験や自身の商談・相談などで用いる魔法薬のための素材に過ぎない。植物を愛でる者は身近にいるが、それはあくまで彼の趣味であるのでアズールが口を出すことはない。
「それで、先輩はどうしてここに?」と監督生は再度訊ねた。
「ああ、それは……」
「当てましょうか。魔法薬の材料、こっそり取りに来たんですよね?」
適当な言い訳でごまかす、或いは監督生を言いくるめようという魂胆だったアズールは、目的を寸分の違いなく言い当てた彼女を前にしてフリーズした。まるで瞬間冷凍されたような気分だった。
「たまにそういう人がいるんですけど、私は見なかったことにしていますから。ご自由にどうぞ」
「『ご自由に』って、ここの見回りをしているんでしょう」
「『植物を許可なく持って行く者がいたら報告するように』とは言われていないですから」
「あなた、なかなかの悪女ですね」
「先輩には負けます」と監督生は笑って言った。「私が後で告げ口することが心配なら、何か魔法でもかけて、忘れさせてもらってもいいですよ。ほら、先輩はそういうこともできそうですし。すごい魔法士だから」
監督生の言葉には、嫌みも世辞もない。アズールは、アトランティカ記念博物館へ写真を戻しに行った時のことを思い出した。彼女はアズールのことを「あなたはもう、魔法より凄い力を持っています。努力は、魔法よりも習得が難しい」と評した。それをアズールは「勝手に美談にするのはやめていただけますか」と一笑に付したものの、悪い気はしなかった。監督生が、純粋にそう思って言っているということをわかっていたために。
「そんなことはしませんよ。あなたのために使う魔力が惜しいので」
アズールは必要な分の薬草を摘んで袋に入れると、「では、僕はこれで」と言って監督生に背を向けた。監督生は「はぁい」と間の抜けた返事をし、再び紙に何かを書き始めた。妙に鋭いくせに、変なところで隙だらけだ。
内ポケットに忍ばせているマジカルペンに触れる。万が一、植物園にアズールが訪れたことを監督生が誰かに告げれば相談内容は破綻する。その可能性をゼロにするには、彼女の言った通り忘却の魔法をかけるのが最も手っ取り早く確実だ。
しかし、マジカルペンを取り出すことはしなかった。そんなことをするのは何だか馬鹿馬鹿しく思えて、アズールはそのまま植物園を後にした。
***
監督生は、本当に誰にもアズールが植物園に行ったことを告げなかったようだった。
学園が休みの日の朝・昼・夕方。どの時間帯にアズールが行っても、監督生は植物園にいた。会わない時間は夜だけだった。
とうとうアズールは「あなた、暇なんですか」と監督生に訊ねた。
「えっ」
「僕がいつ来てもいるじゃありませんか」
監督生は花壇スペースのレンガの上に腰を下ろしていた。色とりどりのパンジーに囲まれ、いつも手にしているクリップボードを持っていない。かわりに手にしているのは、表紙の角が剥げている分厚い植物図鑑だった。肩から下げている革のバッグに入っていたのは、どうやらそれだったらしい。図書室から借りてきているのだろう。
「暇ってわけじゃないんですけど」と監督生は言って、黄色のパンジーの花びらに触れ、そっと撫でた。「ついここにいたくなって。木とか花に囲まれているの、好きなので」
「折角の休日なのですから、学園外の植物園などにも足を運んでみればいいじゃありませんか」
監督生は首を横に振って答えた。「私は近くの街くらいにしか外出許可が下りないんですよ。あと、一人での外出も禁止なんです。エースとデュースと買い物に行く時に、フラワーショップを覗いたりしているし、それでいいかなって。それに、ここの植物園だってとても立派じゃないですか。私の故郷では、学園内にこんな広い植物園がある学校なんてなかったです」
「それこそ、あなたのクラスメイトを誘って出かければいいのでは。それなら外出許可もすぐ下りるでしょう」
「それも考えたんですけど……きっと私、一スペース進むごとに足を止めて没頭するだろうし、そうなったら丸一日植物園で潰れちゃいます。待たせることにもなると思うし、何だか申し訳ないなって」
どこか寂しそうに言う監督生に、アズールはそれ以上何も言えなかった。
「ところで、先輩はお目当ての薬草、摘めましたか」
「ええ……おかげさまで」
「それならよかったです。でも、どうして花壇スペースに?」
「ああ、それは、──」
──あなたの姿が見えたもので。
口をついて出かけた言葉を、寸でのところでアズールはのみ込んだ。
「ただの気まぐれです」
瞬間的に頭をフル回転させたというのに、巧い言い訳は何一つ浮かばなかった。
「そうなんですか。珍しいですね、先輩の気まぐれなんて」
花壇スペースなど、魔法薬の材料になるものは何一つ植えられていない。今までは、監督生と鉢合わせるのは何かしら材料になるものがあるスペースだった。だから、適当な言い訳ができた。しかし、今──本当に監督生の姿が見えたために無意識にここへ来てしまった。それを知られたくはない。アズールは、監督生と話すこの少しの時間が気に入りつつあった。話すのは他愛もない話で、実のあるものではないというのに。
「では、僕はこれで。あなたも程々にしておくように」
監督生はいつものように「はぁい」と間の抜けた返事をする。
花壇スペースから離れ、アズールは一度だけ振り返った。監督生は、膝の上に乗せた植物図鑑を食い入るように読みふけっている。その姿が、かつて蛸壺に籠り一人で勉強していた自分と重なるように見えた。
***
「近頃よく植物園に行っているようですね、アズール」
そう言ったジェイドは、ニコニコと笑っている。一見すれば普段浮かべている笑顔と大差はないが、アズールはその笑いの奥にあるものを知っている。答えをわかっていて、面白がっているという顔である。
「以前は魔法薬の材料など、僕かフロイドに採りに行かせていたというのに。貴方が自ら行くとは、植物を愛でる心でも芽生えましたか」
「その回りくどい誘導尋問はやめなさい。どうせお前は知っているでしょう、ジェイド」
「休日の植物園へ行くと、いつもお会いしましたから。ですが、最近は貴方の〝おつかい〟もなくなってしまいましたので、その機会も少なくなってしまい残念です」
「なーにが楽しいんだろね、小エビちゃん。一日中いるじゃん」
頭の後ろで手を組み、フロイドはVIPルームのソファにもたれかかった。
「アズールは小エビちゃんの何が好きなの」
危うくアズールは口に運んだ紅茶を吹き出すところだった。
「おや、フロイド」とジェイドは意外だという顔をして言った。「貴方、いつから気づいていたのです」
「んー。だってさぁ、アズール、用もねぇのにあそこ行くじゃん。ジェイドみてーにキノコ育てたりとかしてるわけじゃねぇし。なのに行くって、小エビちゃんに会いに行く以外になくね」
「だそうですよ、アズール。通うばかりでは進展もしないでしょう」とジェイドは言った。売り上げを確認しながら電卓を叩いていく。「監督生さんを誘って、出かけてはいかがです。寮長の貴方が同伴するとあれば、監督生さんの外出許可も簡単に下りると思いますが」
ジェイドはともかく、フロイドまで気づいているとは意外だった。アズールは深い溜息を吐く。
「余計なお世話だ」
フロイドの言う通り、休日に足繫く植物園へ赴いているのは事実だ、少し前までは、魔法薬の材料を採りに行く際に監督生を見つけ、話をしていた。ところが最近は、材料が必要ない──つまり、用事がないのに植物園へ行き、彼女の姿を探している。そうして彼女と一時間にも満たない会話の時間を楽しんでいる。自分が彼女を気に入り始めているのは明白だった。
「つれないですねぇ。僕もフロイドも、貴方の恋を応援したいと思っているのですが」
「うるさい。いいから黙って手を動かせ」
「うわ、アズールこっわ」
このウツボの双子は面白がっている。アズールの想いが成就しようとしなかろうと、彼らはその過程も含めて退屈しないから茶々を入れているだけだ。とはいえ、ジェイドの言ったことにも一理はある。アズールもそれを考えなかったわけではない。監督生の行きたいところへ連れて行く、ということを。
アズールは手元の書類に素早く目を通しつつ、さてどうしたものかと思っていた。
***
「こんにちは、アズール先輩。今日はここに用事ですか」
「こんにちは、監督生さん。いえ、材料を採り終えてこれから帰るところです」
真っ赤な嘘である。材料を採りに来たわけではない。
日曜日の夕方、いつものように監督生は植物園にいた。今日はクリップボードを手にしている。
そこは蒸し暑いところだった。不快な汗が一気に額に滲み、アズールは堪らず手の甲でそれを拭う。
「亜熱帯ゾーンなので、気をつけてください。スコールタイムがあって、いつスプリンクラーが発動するかわからないので」
「そんなところで書き物とは」
「これだけチェックしたら、すぐに離れますから」
監督生はネペンテスの捕虫袋の中を入念に見ると、何かを用紙に書き込んだ。
「ここ、暑くて私も苦手なんです。あっちへ行きましょう」
連れられて行った先は花壇スペースで、監督生はレンガの上に腰を下ろした。前とは違い、パンジーが咲いているところではなく、ペチュニアが咲いている場所だった。紫、赤、白、青──〝花壇の女王〟とも呼ばれるそれらは、腰掛けた彼女の周りを美しく彩っている。
アズールは、一人分の間を空けて彼女の隣に腰を下ろした。
「あなたはどうして植物を好きになったんですか」
監督生はアズールを見て、息を止めた。目を丸くして、驚いているようだった。
変な質問だっただろうか、とアズールは考えた。失礼にあたる質問ではないはずだ。少なくとも、ここまで好きになるのなら、それなりの理由があるはずだ。それを、ただ知りたいだけだった。
「アサガオですよ」と監督生は言った。
「アサガオ」
「はい」
監督生は白紙を取り出し、さらさらと絵を描き始めた。描き終えると、「こういう花です。青とか紫とかピンクとか、たくさん色があるんですよ」と言ってそれをアズールに見せた。円錐形で大きく開き、中央が窪んでいる花が紙の上で静かに咲いている。
「子どもの頃、学校でこの花の種をもらって、育てるっていう課題があったんです。その時は、まだあんまり興味なんかなくて。だけど、種を植えて、芽が出て、蔓が伸びて、葉っぱをつけていくうちに、楽しくなっていたんです。毎日水をあげて、どんな肥料がいいのか調べて、日当たりにも気を遣って……」
監督生の故郷での、幼い頃の記憶。話しながら、彼女は宙を見ていた。きっと、彼女の目にはその情景がありありと映し出されているのだろう。
「私が育てたアサガオの花は、紫色でした。クラスメイトたちは青や白や赤だったのに、紫色の花が咲いたのは私だけでした。何でだろうって、気になって。でも、調べてみてもわからなくて。そのうちに、もっと色々育てたり見てみたりしたいなって、思ったんです」
そう言ってから、監督生はペチュニアに触れた。花の色は紫だった。
「……ここには、アサガオはないんですね」
アズールの知らない花の名前だった。監督生の革の鞄に入っているであろう植物図鑑にも載っていないとなると、その花は彼女の故郷にしかないものなのか。彼女が植物図鑑を食い入るように眺めていたのは、故郷にある植物がここにもあるのではないかと探していたのだろうか。見つかるたび、見つからないたびに一喜一憂したのかもしれない。
監督生の横顔が寂しそうに見えて、アズールは何かかける言葉を探した。ありきたりな「きっとどこかにありますよ」や「探せばあるかもしれませんよ」では慰めにもならない。何か、もっと他の、別の、──
「監督生さん。来週、僕と出かけませんか」
弾かれたように監督生は顔を上げ、アズールを見た。
対してアズールは、自分の口を突いて出た言葉に続いて心臓も飛び出しそうになっていた。違う、こんなつもりではなかった、もっと別の誘い方を、いや、それよりも先に彼女を元気づける言葉を口にするべきだった、しかし、言ってしまったものは仕方がない──などと自分らしくない失態と迂闊さにパニック状態だったが、表情に出す前に、持ち前の根性と矜持で以て何とか押し止めた。
「ど、どこに、ですか」
「植物園でも、フラワーショップでも、どこでも構いません。ああ、対価のことなら、ご心配なく。これは、あなたが僕の行いを学園長に報告しなかったことへの謝礼とでも思ってください」
「え、でも、私……」
「嫌なら、無理にとは」
言った後で、もし嫌だと言われたら、と思った。が、監督生がぶんぶんと首を横に振ったので、些か救われた気持ちになった。
「行きたいですっ」と監督生は身を乗り出して言った。ガラス玉のような瞳が、きらきらと輝いている。
「そ、そうですか」とアズールは彼女の反応に一瞬たじろいだが、ひと呼吸おいて続けた。「それで、あなたはどこに行きたいんです。気を遣う必要はありません。どんなリクエストにもお応えしますよ」
監督生は目を左右に泳がせた。行きたいところが多く、どれにしようか頭を悩ませているのだろうか。アズールはそんな彼女をじっと見ていた。普段であれば意味もなく待たされるのは我慢がならないのだが、彼女が悩んでいる様を見るのはなぜだか気分がよかった。
やがて、監督生は「ううん」と唸った後で言った。「ちょっと、その……無茶ぶりをしても、いいですか」
「ええ、僕を誰だと思っているんです。どんなリクエストにも応えると言ったでしょうに」
悩んだ様子で顔を赤くした監督生は、〝リクエスト〟をもじもじとしながら口にした。
それを聞いたアズールは「それは、構いませんが……」と言いつつ、どうしてそこなのかを訊ねた。
監督生いわく、子どもの頃に観たあるドラマのシーン──ヒロインの女の子がその風景を駆けていく姿に、ずっと憧れているのだという。
「やっぱり、難しいでしょうか」
「とんでもない」とアズールは全力で否定した。「来週までに必ず探し出しておきますよ。土曜日、昼の十時に寮へお迎えに上がります。あなたのぶんも外出許可は申請しておきますので。いいですね」
「えっ、あ、あの……わ、わかりました」
監督生は「来週までに見つけられるんですか」と訊きたかったのだろう。しかし、アズールはそれを許さなかった。一息に土曜日の約束を取りつけると、「では、これで」と彼女を振り返ることもなく、足早に植物園を後にした。無性に蛸壺に籠りたい気分だった。
***
アズールは監督生のリクエストに応えるべく、まずは彼女が観たというドラマを探した。実際にその場面を見れば、どこがロケ地かわかるかもしれないからだ。が、監督生が言ったドラマのタイトルはネットでも見つけられず──そもそも、彼女の故郷すら見つけられないというのに、ドラマを探し当てることなど、この短い期間では無謀な話だったのだ──粘ることは早々にやめてロケーション・リサーチに勤しんだ。監督生のリクエストに合致する場所は幾つかあったが、観光地で混雑していそうだったり、気候が安定していなかったり、微妙に得心のいかない風景だったりと、なかなか「これだ」という場所を見つけられなかった。拘りに拘りぬく性分のアズールが遂に納得のいく場所を探し当てたのは、木曜日の深夜のことだった。
土曜日の約束の朝、アズールは約束の時刻十五分前にオンボロ寮へ向かい、十五分の時間を潰し、十時ぴったりにドアをノックした。「はぁい」という声がして、ドアが開く。
出てきた監督生はエンジェル・スリーブの白いロング・ワンピースを着ていた。エバーグリーンの草と、ベルフラワーとレッドパープルの花が描かれている。ネイビーのハイカット・スニーカーが少しの大人らしさを演出しており、普段の制服や運動着姿の監督生と同一人物とは思えなかった。
「今日はよろしくお願いします」と監督生は頭を下げて言った。
アズールは監督生の姿に目を奪われていたが、その言葉で何とか自分を取り戻した。
「ええ。では、行きましょう」
眼鏡のブリッジを上げ、アズールは歩き出した。監督生に手は差しのべなかった。
クルーウェル師に監督生の外出許可申請を出したとき、「ほう」とにやりと笑われたのが思い出された。「アーシェングロット、お前も隅に置けないな」と言われ、アズールは「オンボロ寮の監督生さんには借りがありますので、今回はそれをお返しするだけですよ」と答えた。クルーウェル師は「お前が同伴ならば問題はあるまい。いいだろう、許可してやる」と書類にサインをし、それ以上は追及しなかった。
鏡の間に行き、行き先を強く念じた。監督生のリクエストに合致し、自分自身も納得のいく場所。鏡が目的の場所へと繋がったのを確認し、アズールは先に鏡をくぐった。それから、鏡の向こう──鏡の間にいる彼女に手を差し出すと、それは弱い力をもって握り返された。掌は随分と熱かった。
監督生のリクエストは「海の見える大草原」だった。それを請けてアズールが選んだのは、珊瑚の海にほど近い小さな無人島で、観光地にもなっていない場所だった。ぐるりと見渡せば、なだらかな斜面に辺り一面大草原が広がっている。小高い丘の上、少し先には古びた灯台が立っている。更にその向こうには、青い海が悠然と揺らめいていた。生い茂る草はアズールの腰ほどまであり、絶えず吹く潮風が草を揺らし、揺れた草がアズールの身体を撫でた。
「すごい! すごいです、アズール先輩!」
監督生は両手を広げて、草の海を走り出した。頭上にある太陽よりも眩しい笑顔を見せる監督生は、彼女の語ったドラマのヒロインよりも可憐に違いない。そのドラマを観たことも聞いたこともないのに、アズールは確かにそう思った。誰よりも彼女が、この風景には似合う。白いワンピースの裾をはためかせながら駆けていく彼女の姿は、絵画を切り取ったかのようだった。
それに比べ、自分とこの大草原の何とミスマッチなことだろう。アズールはライトグリーンの向こうのブルーを眺めた。その先には、自分の故郷がある。風に乗って、懐かしい潮の匂いがした。海の中で生まれ、海の中で生き、ナイトレイブンカレッジに通うために陸に上がって二年になる。監督生がいなければ、ここに来ることなどなかったに違いない。
アズールは監督生に視線を戻そうとして、その姿がないことに気づいた。彼女から目を離したのはほんの少しの間だから、そう遠くへは行けないはずだ。目を凝らしながら歩いていると、草の海が窪んでいる一点を見つけた。背の高い草をかき分けてそこへ行ってみれば、彼女は土と草の根元をベッドにして寝転んでいた。
「汚れますよ」
口を突いて出たのはそんな言葉だった。白いワンピースは彼女にとてもよく映えているとアズールは内心思っていたので、汚れてしまうのはもったいないと思ったのだ。
「いいんです。アズール先輩もどうですか」と監督生は特に気にする様子もなく言った。
アズールは小さく溜息を吐き、監督生の隣に腰を下ろした。陽の当たる土が柔らかく、温かい。草の根元もいいクッションになっている。潮の匂いよりも、草の匂いが濃くなった。
「アズール先輩、ありがとうございます」と監督生が言った。潮風に揺られてさざめく草の喧噪の中でも、彼女の声ははっきりとアズールの耳に届いた。「ずっと夢だったんです。好きな人と、草原を歩くの……」
いもしない鳥が足元から一斉に立ったような感覚がして、アズールは監督生を見た。彼女は白い肌をほんのりと赤くして、アズールを見上げている。その表情が、先ほどの言葉が聞き間違いではないことを静かに物語っていた。
「物好きな人ですね」
立つ瀬がないなと思った。彼女のほうから先に言われるなんて。
アズールは監督生の顔の傍に手をつき、覆いかぶさるようにしてみた。陽の当たっていたところに影が落ちて、彼女の黒い瞳がより濃さを増したように見える。彼女の反応を見たくてそうしたのだが、自分の心臓の音が煩い。自分が今どんな表情をしているのか、そちらのほうが気になってしまった。
「僕も、──」
ざあっと強い風が吹いた。草の擦れる音と、それから微かに波の音が聞こえた。それでも、アズールの言葉は監督生に届いていたらしい。影の中でも彼女の顔がより赤くなるのがわかって、アズールはそれに気をよくした。緑の香りよりも、彼女のふわりとした心地いい香りが鼻をくすぐる。
アズールと監督生の姿が折り重なる。その間も潮風は間断なく吹いていたが、ライトグリーンの叢が暖かく二人を包んでいた。
風は絶え間なく吹いている。腰の高さほどまである草が靡いて揺れている。青く薫る大草原のなかを、監督生は両手を広げて駆けていく。
「すごい! すごいです、アズール先輩!」
頭上にある太陽よりも眩しい笑顔を見せる監督生は、彼女の語ったドラマのヒロインよりも可憐に違いない。そのドラマを観たことも聞いたこともないのに、アズールは確かにそう思った。
恋草
アズールがナイトレイブンカレッジ内の植物園を訪れたのはある土曜日の夕方のことで、〝相談事〟のために必要な魔法薬の材料を見繕うためだった。授業もなく、学園も休みのため、植物園を管理する用務員もいない。本来であれば、夜の闇に紛れて行くのが目立ちもせず確実ではあるのだが、この日は材料の調達を急いでいた。
広い植物園内を歩き目的の場所までたどり着くと、そこには先客がいた。オンボロ寮の監督生だった。実験服の白衣を着て、肩から古びた革のバッグを下げ、クリップボードにはさんだ紙に何かを書き込んでいる。アズールに気付いた監督生は「アズール先輩、どうしたんですか」と声をかけてきた。
「あなたこそ、ここで何をしているんです」
「学園長から頼まれて、用務員さんのいない日に植物園の見回りをしているんです。水と肥料が適切に供給されているかとか、スプリンクラーが作動するかとか、温度管理はマニュアル通りかどうかとか、あとは掃除ですね」
「いいようにこき使われていますね」
「雑用係ですから。それに、植物は好きなんです」と言って、監督生は手近にある暗い緑色をした木の葉に触れた。「私の故郷にあったのと同じ植物もありますし、名前は同じなのに違う見た目だったりして、面白いですよ」
「物好きな人ですね」
アズールにとって、植物園にある植物など、実験や自身の商談・相談などで用いる魔法薬のための素材に過ぎない。植物を愛でる者は身近にいるが、それはあくまで彼の趣味であるのでアズールが口を出すことはない。
「それで、先輩はどうしてここに?」と監督生は再度訊ねた。
「ああ、それは……」
「当てましょうか。魔法薬の材料、こっそり取りに来たんですよね?」
適当な言い訳でごまかす、或いは監督生を言いくるめようという魂胆だったアズールは、目的を寸分の違いなく言い当てた彼女を前にしてフリーズした。まるで瞬間冷凍されたような気分だった。
「たまにそういう人がいるんですけど、私は見なかったことにしていますから。ご自由にどうぞ」
「『ご自由に』って、ここの見回りをしているんでしょう」
「『植物を許可なく持って行く者がいたら報告するように』とは言われていないですから」
「あなた、なかなかの悪女ですね」
「先輩には負けます」と監督生は笑って言った。「私が後で告げ口することが心配なら、何か魔法でもかけて、忘れさせてもらってもいいですよ。ほら、先輩はそういうこともできそうですし。すごい魔法士だから」
監督生の言葉には、嫌みも世辞もない。アズールは、アトランティカ記念博物館へ写真を戻しに行った時のことを思い出した。彼女はアズールのことを「あなたはもう、魔法より凄い力を持っています。努力は、魔法よりも習得が難しい」と評した。それをアズールは「勝手に美談にするのはやめていただけますか」と一笑に付したものの、悪い気はしなかった。監督生が、純粋にそう思って言っているということをわかっていたために。
「そんなことはしませんよ。あなたのために使う魔力が惜しいので」
アズールは必要な分の薬草を摘んで袋に入れると、「では、僕はこれで」と言って監督生に背を向けた。監督生は「はぁい」と間の抜けた返事をし、再び紙に何かを書き始めた。妙に鋭いくせに、変なところで隙だらけだ。
内ポケットに忍ばせているマジカルペンに触れる。万が一、植物園にアズールが訪れたことを監督生が誰かに告げれば相談内容は破綻する。その可能性をゼロにするには、彼女の言った通り忘却の魔法をかけるのが最も手っ取り早く確実だ。
しかし、マジカルペンを取り出すことはしなかった。そんなことをするのは何だか馬鹿馬鹿しく思えて、アズールはそのまま植物園を後にした。
***
監督生は、本当に誰にもアズールが植物園に行ったことを告げなかったようだった。
学園が休みの日の朝・昼・夕方。どの時間帯にアズールが行っても、監督生は植物園にいた。会わない時間は夜だけだった。
とうとうアズールは「あなた、暇なんですか」と監督生に訊ねた。
「えっ」
「僕がいつ来てもいるじゃありませんか」
監督生は花壇スペースのレンガの上に腰を下ろしていた。色とりどりのパンジーに囲まれ、いつも手にしているクリップボードを持っていない。かわりに手にしているのは、表紙の角が剥げている分厚い植物図鑑だった。肩から下げている革のバッグに入っていたのは、どうやらそれだったらしい。図書室から借りてきているのだろう。
「暇ってわけじゃないんですけど」と監督生は言って、黄色のパンジーの花びらに触れ、そっと撫でた。「ついここにいたくなって。木とか花に囲まれているの、好きなので」
「折角の休日なのですから、学園外の植物園などにも足を運んでみればいいじゃありませんか」
監督生は首を横に振って答えた。「私は近くの街くらいにしか外出許可が下りないんですよ。あと、一人での外出も禁止なんです。エースとデュースと買い物に行く時に、フラワーショップを覗いたりしているし、それでいいかなって。それに、ここの植物園だってとても立派じゃないですか。私の故郷では、学園内にこんな広い植物園がある学校なんてなかったです」
「それこそ、あなたのクラスメイトを誘って出かければいいのでは。それなら外出許可もすぐ下りるでしょう」
「それも考えたんですけど……きっと私、一スペース進むごとに足を止めて没頭するだろうし、そうなったら丸一日植物園で潰れちゃいます。待たせることにもなると思うし、何だか申し訳ないなって」
どこか寂しそうに言う監督生に、アズールはそれ以上何も言えなかった。
「ところで、先輩はお目当ての薬草、摘めましたか」
「ええ……おかげさまで」
「それならよかったです。でも、どうして花壇スペースに?」
「ああ、それは、──」
──あなたの姿が見えたもので。
口をついて出かけた言葉を、寸でのところでアズールはのみ込んだ。
「ただの気まぐれです」
瞬間的に頭をフル回転させたというのに、巧い言い訳は何一つ浮かばなかった。
「そうなんですか。珍しいですね、先輩の気まぐれなんて」
花壇スペースなど、魔法薬の材料になるものは何一つ植えられていない。今までは、監督生と鉢合わせるのは何かしら材料になるものがあるスペースだった。だから、適当な言い訳ができた。しかし、今──本当に監督生の姿が見えたために無意識にここへ来てしまった。それを知られたくはない。アズールは、監督生と話すこの少しの時間が気に入りつつあった。話すのは他愛もない話で、実のあるものではないというのに。
「では、僕はこれで。あなたも程々にしておくように」
監督生はいつものように「はぁい」と間の抜けた返事をする。
花壇スペースから離れ、アズールは一度だけ振り返った。監督生は、膝の上に乗せた植物図鑑を食い入るように読みふけっている。その姿が、かつて蛸壺に籠り一人で勉強していた自分と重なるように見えた。
***
「近頃よく植物園に行っているようですね、アズール」
そう言ったジェイドは、ニコニコと笑っている。一見すれば普段浮かべている笑顔と大差はないが、アズールはその笑いの奥にあるものを知っている。答えをわかっていて、面白がっているという顔である。
「以前は魔法薬の材料など、僕かフロイドに採りに行かせていたというのに。貴方が自ら行くとは、植物を愛でる心でも芽生えましたか」
「その回りくどい誘導尋問はやめなさい。どうせお前は知っているでしょう、ジェイド」
「休日の植物園へ行くと、いつもお会いしましたから。ですが、最近は貴方の〝おつかい〟もなくなってしまいましたので、その機会も少なくなってしまい残念です」
「なーにが楽しいんだろね、小エビちゃん。一日中いるじゃん」
頭の後ろで手を組み、フロイドはVIPルームのソファにもたれかかった。
「アズールは小エビちゃんの何が好きなの」
危うくアズールは口に運んだ紅茶を吹き出すところだった。
「おや、フロイド」とジェイドは意外だという顔をして言った。「貴方、いつから気づいていたのです」
「んー。だってさぁ、アズール、用もねぇのにあそこ行くじゃん。ジェイドみてーにキノコ育てたりとかしてるわけじゃねぇし。なのに行くって、小エビちゃんに会いに行く以外になくね」
「だそうですよ、アズール。通うばかりでは進展もしないでしょう」とジェイドは言った。売り上げを確認しながら電卓を叩いていく。「監督生さんを誘って、出かけてはいかがです。寮長の貴方が同伴するとあれば、監督生さんの外出許可も簡単に下りると思いますが」
ジェイドはともかく、フロイドまで気づいているとは意外だった。アズールは深い溜息を吐く。
「余計なお世話だ」
フロイドの言う通り、休日に足繫く植物園へ赴いているのは事実だ、少し前までは、魔法薬の材料を採りに行く際に監督生を見つけ、話をしていた。ところが最近は、材料が必要ない──つまり、用事がないのに植物園へ行き、彼女の姿を探している。そうして彼女と一時間にも満たない会話の時間を楽しんでいる。自分が彼女を気に入り始めているのは明白だった。
「つれないですねぇ。僕もフロイドも、貴方の恋を応援したいと思っているのですが」
「うるさい。いいから黙って手を動かせ」
「うわ、アズールこっわ」
このウツボの双子は面白がっている。アズールの想いが成就しようとしなかろうと、彼らはその過程も含めて退屈しないから茶々を入れているだけだ。とはいえ、ジェイドの言ったことにも一理はある。アズールもそれを考えなかったわけではない。監督生の行きたいところへ連れて行く、ということを。
アズールは手元の書類に素早く目を通しつつ、さてどうしたものかと思っていた。
***
「こんにちは、アズール先輩。今日はここに用事ですか」
「こんにちは、監督生さん。いえ、材料を採り終えてこれから帰るところです」
真っ赤な嘘である。材料を採りに来たわけではない。
日曜日の夕方、いつものように監督生は植物園にいた。今日はクリップボードを手にしている。
そこは蒸し暑いところだった。不快な汗が一気に額に滲み、アズールは堪らず手の甲でそれを拭う。
「亜熱帯ゾーンなので、気をつけてください。スコールタイムがあって、いつスプリンクラーが発動するかわからないので」
「そんなところで書き物とは」
「これだけチェックしたら、すぐに離れますから」
監督生はネペンテスの捕虫袋の中を入念に見ると、何かを用紙に書き込んだ。
「ここ、暑くて私も苦手なんです。あっちへ行きましょう」
連れられて行った先は花壇スペースで、監督生はレンガの上に腰を下ろした。前とは違い、パンジーが咲いているところではなく、ペチュニアが咲いている場所だった。紫、赤、白、青──〝花壇の女王〟とも呼ばれるそれらは、腰掛けた彼女の周りを美しく彩っている。
アズールは、一人分の間を空けて彼女の隣に腰を下ろした。
「あなたはどうして植物を好きになったんですか」
監督生はアズールを見て、息を止めた。目を丸くして、驚いているようだった。
変な質問だっただろうか、とアズールは考えた。失礼にあたる質問ではないはずだ。少なくとも、ここまで好きになるのなら、それなりの理由があるはずだ。それを、ただ知りたいだけだった。
「アサガオですよ」と監督生は言った。
「アサガオ」
「はい」
監督生は白紙を取り出し、さらさらと絵を描き始めた。描き終えると、「こういう花です。青とか紫とかピンクとか、たくさん色があるんですよ」と言ってそれをアズールに見せた。円錐形で大きく開き、中央が窪んでいる花が紙の上で静かに咲いている。
「子どもの頃、学校でこの花の種をもらって、育てるっていう課題があったんです。その時は、まだあんまり興味なんかなくて。だけど、種を植えて、芽が出て、蔓が伸びて、葉っぱをつけていくうちに、楽しくなっていたんです。毎日水をあげて、どんな肥料がいいのか調べて、日当たりにも気を遣って……」
監督生の故郷での、幼い頃の記憶。話しながら、彼女は宙を見ていた。きっと、彼女の目にはその情景がありありと映し出されているのだろう。
「私が育てたアサガオの花は、紫色でした。クラスメイトたちは青や白や赤だったのに、紫色の花が咲いたのは私だけでした。何でだろうって、気になって。でも、調べてみてもわからなくて。そのうちに、もっと色々育てたり見てみたりしたいなって、思ったんです」
そう言ってから、監督生はペチュニアに触れた。花の色は紫だった。
「……ここには、アサガオはないんですね」
アズールの知らない花の名前だった。監督生の革の鞄に入っているであろう植物図鑑にも載っていないとなると、その花は彼女の故郷にしかないものなのか。彼女が植物図鑑を食い入るように眺めていたのは、故郷にある植物がここにもあるのではないかと探していたのだろうか。見つかるたび、見つからないたびに一喜一憂したのかもしれない。
監督生の横顔が寂しそうに見えて、アズールは何かかける言葉を探した。ありきたりな「きっとどこかにありますよ」や「探せばあるかもしれませんよ」では慰めにもならない。何か、もっと他の、別の、──
「監督生さん。来週、僕と出かけませんか」
弾かれたように監督生は顔を上げ、アズールを見た。
対してアズールは、自分の口を突いて出た言葉に続いて心臓も飛び出しそうになっていた。違う、こんなつもりではなかった、もっと別の誘い方を、いや、それよりも先に彼女を元気づける言葉を口にするべきだった、しかし、言ってしまったものは仕方がない──などと自分らしくない失態と迂闊さにパニック状態だったが、表情に出す前に、持ち前の根性と矜持で以て何とか押し止めた。
「ど、どこに、ですか」
「植物園でも、フラワーショップでも、どこでも構いません。ああ、対価のことなら、ご心配なく。これは、あなたが僕の行いを学園長に報告しなかったことへの謝礼とでも思ってください」
「え、でも、私……」
「嫌なら、無理にとは」
言った後で、もし嫌だと言われたら、と思った。が、監督生がぶんぶんと首を横に振ったので、些か救われた気持ちになった。
「行きたいですっ」と監督生は身を乗り出して言った。ガラス玉のような瞳が、きらきらと輝いている。
「そ、そうですか」とアズールは彼女の反応に一瞬たじろいだが、ひと呼吸おいて続けた。「それで、あなたはどこに行きたいんです。気を遣う必要はありません。どんなリクエストにもお応えしますよ」
監督生は目を左右に泳がせた。行きたいところが多く、どれにしようか頭を悩ませているのだろうか。アズールはそんな彼女をじっと見ていた。普段であれば意味もなく待たされるのは我慢がならないのだが、彼女が悩んでいる様を見るのはなぜだか気分がよかった。
やがて、監督生は「ううん」と唸った後で言った。「ちょっと、その……無茶ぶりをしても、いいですか」
「ええ、僕を誰だと思っているんです。どんなリクエストにも応えると言ったでしょうに」
悩んだ様子で顔を赤くした監督生は、〝リクエスト〟をもじもじとしながら口にした。
それを聞いたアズールは「それは、構いませんが……」と言いつつ、どうしてそこなのかを訊ねた。
監督生いわく、子どもの頃に観たあるドラマのシーン──ヒロインの女の子がその風景を駆けていく姿に、ずっと憧れているのだという。
「やっぱり、難しいでしょうか」
「とんでもない」とアズールは全力で否定した。「来週までに必ず探し出しておきますよ。土曜日、昼の十時に寮へお迎えに上がります。あなたのぶんも外出許可は申請しておきますので。いいですね」
「えっ、あ、あの……わ、わかりました」
監督生は「来週までに見つけられるんですか」と訊きたかったのだろう。しかし、アズールはそれを許さなかった。一息に土曜日の約束を取りつけると、「では、これで」と彼女を振り返ることもなく、足早に植物園を後にした。無性に蛸壺に籠りたい気分だった。
***
アズールは監督生のリクエストに応えるべく、まずは彼女が観たというドラマを探した。実際にその場面を見れば、どこがロケ地かわかるかもしれないからだ。が、監督生が言ったドラマのタイトルはネットでも見つけられず──そもそも、彼女の故郷すら見つけられないというのに、ドラマを探し当てることなど、この短い期間では無謀な話だったのだ──粘ることは早々にやめてロケーション・リサーチに勤しんだ。監督生のリクエストに合致する場所は幾つかあったが、観光地で混雑していそうだったり、気候が安定していなかったり、微妙に得心のいかない風景だったりと、なかなか「これだ」という場所を見つけられなかった。拘りに拘りぬく性分のアズールが遂に納得のいく場所を探し当てたのは、木曜日の深夜のことだった。
土曜日の約束の朝、アズールは約束の時刻十五分前にオンボロ寮へ向かい、十五分の時間を潰し、十時ぴったりにドアをノックした。「はぁい」という声がして、ドアが開く。
出てきた監督生はエンジェル・スリーブの白いロング・ワンピースを着ていた。エバーグリーンの草と、ベルフラワーとレッドパープルの花が描かれている。ネイビーのハイカット・スニーカーが少しの大人らしさを演出しており、普段の制服や運動着姿の監督生と同一人物とは思えなかった。
「今日はよろしくお願いします」と監督生は頭を下げて言った。
アズールは監督生の姿に目を奪われていたが、その言葉で何とか自分を取り戻した。
「ええ。では、行きましょう」
眼鏡のブリッジを上げ、アズールは歩き出した。監督生に手は差しのべなかった。
クルーウェル師に監督生の外出許可申請を出したとき、「ほう」とにやりと笑われたのが思い出された。「アーシェングロット、お前も隅に置けないな」と言われ、アズールは「オンボロ寮の監督生さんには借りがありますので、今回はそれをお返しするだけですよ」と答えた。クルーウェル師は「お前が同伴ならば問題はあるまい。いいだろう、許可してやる」と書類にサインをし、それ以上は追及しなかった。
鏡の間に行き、行き先を強く念じた。監督生のリクエストに合致し、自分自身も納得のいく場所。鏡が目的の場所へと繋がったのを確認し、アズールは先に鏡をくぐった。それから、鏡の向こう──鏡の間にいる彼女に手を差し出すと、それは弱い力をもって握り返された。掌は随分と熱かった。
監督生のリクエストは「海の見える大草原」だった。それを請けてアズールが選んだのは、珊瑚の海にほど近い小さな無人島で、観光地にもなっていない場所だった。ぐるりと見渡せば、なだらかな斜面に辺り一面大草原が広がっている。小高い丘の上、少し先には古びた灯台が立っている。更にその向こうには、青い海が悠然と揺らめいていた。生い茂る草はアズールの腰ほどまであり、絶えず吹く潮風が草を揺らし、揺れた草がアズールの身体を撫でた。
「すごい! すごいです、アズール先輩!」
監督生は両手を広げて、草の海を走り出した。頭上にある太陽よりも眩しい笑顔を見せる監督生は、彼女の語ったドラマのヒロインよりも可憐に違いない。そのドラマを観たことも聞いたこともないのに、アズールは確かにそう思った。誰よりも彼女が、この風景には似合う。白いワンピースの裾をはためかせながら駆けていく彼女の姿は、絵画を切り取ったかのようだった。
それに比べ、自分とこの大草原の何とミスマッチなことだろう。アズールはライトグリーンの向こうのブルーを眺めた。その先には、自分の故郷がある。風に乗って、懐かしい潮の匂いがした。海の中で生まれ、海の中で生き、ナイトレイブンカレッジに通うために陸に上がって二年になる。監督生がいなければ、ここに来ることなどなかったに違いない。
アズールは監督生に視線を戻そうとして、その姿がないことに気づいた。彼女から目を離したのはほんの少しの間だから、そう遠くへは行けないはずだ。目を凝らしながら歩いていると、草の海が窪んでいる一点を見つけた。背の高い草をかき分けてそこへ行ってみれば、彼女は土と草の根元をベッドにして寝転んでいた。
「汚れますよ」
口を突いて出たのはそんな言葉だった。白いワンピースは彼女にとてもよく映えているとアズールは内心思っていたので、汚れてしまうのはもったいないと思ったのだ。
「いいんです。アズール先輩もどうですか」と監督生は特に気にする様子もなく言った。
アズールは小さく溜息を吐き、監督生の隣に腰を下ろした。陽の当たる土が柔らかく、温かい。草の根元もいいクッションになっている。潮の匂いよりも、草の匂いが濃くなった。
「アズール先輩、ありがとうございます」と監督生が言った。潮風に揺られてさざめく草の喧噪の中でも、彼女の声ははっきりとアズールの耳に届いた。「ずっと夢だったんです。好きな人と、草原を歩くの……」
いもしない鳥が足元から一斉に立ったような感覚がして、アズールは監督生を見た。彼女は白い肌をほんのりと赤くして、アズールを見上げている。その表情が、先ほどの言葉が聞き間違いではないことを静かに物語っていた。
「物好きな人ですね」
立つ瀬がないなと思った。彼女のほうから先に言われるなんて。
アズールは監督生の顔の傍に手をつき、覆いかぶさるようにしてみた。陽の当たっていたところに影が落ちて、彼女の黒い瞳がより濃さを増したように見える。彼女の反応を見たくてそうしたのだが、自分の心臓の音が煩い。自分が今どんな表情をしているのか、そちらのほうが気になってしまった。
「僕も、──」
ざあっと強い風が吹いた。草の擦れる音と、それから微かに波の音が聞こえた。それでも、アズールの言葉は監督生に届いていたらしい。影の中でも彼女の顔がより赤くなるのがわかって、アズールはそれに気をよくした。緑の香りよりも、彼女のふわりとした心地いい香りが鼻をくすぐる。
アズールと監督生の姿が折り重なる。その間も潮風は間断なく吹いていたが、ライトグリーンの叢が暖かく二人を包んでいた。