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暗闇とは得体が知れない。だから私は闇が恐ろしい。それでも夜はやって来て、私の周りに纏わりつくのだ。しかしそれよりも尚恐ろしいのは、四百四病の外、恋心なのではないだろうか。
【月冴ゆる、紫色の世界にて】
「遅くなってしまった…」
図書館で調べものをしていたら、いつの間にやら眠っていて、気づいた時には夕陽が傾いており、橙色から、鮮烈な紅色へと窓硝子から美しい光の帯が幾重にも伸びていた。慌てて本を元の場所に返して、足早に外への扉を潜った。
外に出た頃には辺りは仄暗く、空の陽は地平の彼方に幽かな揺らめきを残すばかりで、真上を仰げば天空は紅を退け、薄い紫色から濃い紫色へと天球を塗り替えていた。
「うっ…グリムのご飯構わなくていいと思ったら油断した…」
はあ、と遣る瀬無いため息をつく。グリムはハーツラビュル寮のパーティに行ったから、今日はそのままエースとデュースに泊めてもらうのだろうからと、時間を貪ったのは私には大いに問題だった。
「急いで戻らないと…オンボロ寮までの道って、暗いんだよね」
そう、何を隠そう私は暗いところが怖いのである。だから夜はよく眠れない。得体の知れない何かがその闇に乗じて私を窺っている気がするから。
私はオンボロ寮への暗闇を思いぶるりと身震いした。
天を仰いでいた顔を正面に戻し、さあ、寝ぐらへ帰ろうと一歩踏み出したところで前に人影を見つけて、歩み始めた足を止めた。
何となく、その人影に見覚えがあり、しかし薄暗いために目を凝らす。
暗闇でもその目を惹くサイアンブルーの髪は多分学園でも2人しか居ない。歩く姿、その背中が美しいと思うのは、立ち居振る舞いが美しいからだろう。それが2人のうちどちらか、などはその所作から判別できた。
オクタヴィネル寮には長身の双子がいて、寮長の幼馴染だという話だ。グリムたちの頭にイソギンチャクが生えた事件にて彼らは海が故郷の人魚だと知った時は驚いたが、あの一件以来、顔見知りになったので、学園で私と鉢合わせれば挨拶くらいはくれる。その時からだったかもっと前からだったかは記憶にないが、最近、いつの間にやら目で追ってしまっていた後ろ姿だったからこそ、今見えている人影も、きっと見間違えては居ないと思う。それでも自信なさげな声がでたのはもともと人に声をかけるのが得意ではないからだった。
「ジェイド、せんぱい…?」
心許無く口をついて出た私の呼びかけに、前を歩いていた人影は立ち止まると、スッとこちらを振り返る。私の姿を認めると、ああ、と納得した様子でいつもと変わらぬ完璧な笑みを貼り付け、こんばんは、と挨拶をくれた。間違えていなかったので、ホッと胸を撫で下ろし、私はジェイド先輩の側まで駆け寄った。
「随分遅いようですが、今からお帰りになるのですか?」
「はい、うっかり図書館で眠ってしまって…こんな時刻になってしまいました」
ははっと渇いた笑いを漏らし、ジェイド先輩を見れば仄闇にも身につけているそれが実験着だとわかる。しかし実験の時につけるゴーグルと分厚い手袋はつけておらず、その手には制服の時に身につけている黒手袋をつけていた。
それでも何故実験着など、と不思議に思って尋ねる。
「ジェイド先輩は…今から実験でも?」
首を傾げ、空の纏う紫をそのまま映し宵闇にぼうっと浮かぶ実験着を指す。
「ああ、いえ、実験ではないのですが…植物園にキノコの観察をしに行こうかと。夜になると光る性質の種類のものがありまして。そのキノコの栽培が上手くいったので今晩あたりが見頃かと」
「光るキノコですか。そういえばお好きでしたねキノコ…。キノコって姿形が様々で、可愛いですよね…なんとなく眺めていたい気持ちもわかります」
よくデザインのモチーフになるだけあって、世の中にはキノコ柄のものもいくつかあるのだから、可愛い、という感覚で間違いはないだろう。実際私は可愛いと思ったので答えたのだが、ジェイド先輩は一瞬面食らったように目を開けて私を見た。何かまずいことを言っただろうか、と逡巡するも特に失言は思い当たらない。
「可愛い…ですか?キノコが…可愛い…成る程…」
「?」
ぶつぶつと呟いて、顎に手を当てたジェイド先輩は何やら思案している様子で、私は訳が分からず首を傾いだ。しばらく見守っていると、私に視線を戻したジェイド先輩はとても良い顔で笑った。
「オンボロ寮へ帰るなら、少し植物園に寄っていかれませんか?是非、僕の育てたキノコをご覧になっていって下さい」
ニコリと笑うジェイド先輩に少々気圧され気味に私は頷くが、この申し出は願ってもない事だったのですぐに笑みを浮かべて取り繕う。
「ジェイド先輩のご迷惑でなければお願いします…っ」
「迷惑など…とんでもない。では、行きましょう」
そういうとジェイド先輩は歩き出した。遅れぬように、その隣へ並ぶ。
植物園と言えばオンボロ寮の手前だ。そこまでの道のりに誰かが居てくれると心強い。
ほんの少しの距離とて、ひとりでこの暗闇を歩きたくはなかったから。
ジェイド先輩には申し訳ないけれど、正直キノコは二の次だった。それでも嘘は言っていないので許してほしい。ちゃんとキノコも楽しみな気持ちはある。
ジェイド先輩の隣をたいした会話もなく歩く。目の前の空はいつの間にやら全天を紫色に飲まれ、真っ白く輝く細い細い月がその鋭利な体躯を深い紫色に横たえていた。私がボンヤリ月を眺めながら歩いていたにもかかわらず、ジェイド先輩はピタリと横に並んで歩いている。それは何でもないような違和感で、はたと気づいてジェイド先輩を仰いだ。
そう、仰ぐという言葉がしっくりくる。ジェイド先輩といえば、190センチメートルの長身で、普通の女子よりもまだ一回り小さいちびっこの私と歩幅が合うはずもなかった。それなのに寸分違わず傍らを歩いている。それはジェイド先輩の気遣いに他ならなかった。
「!…っすみません、遅いですよね?…歩みっ」
気づいた途端にぼやぼや歩いていた自分が恥ずかしくなり、私が思わず謝れば、星がふたつみっつと瞬き始めた、気品漂うバイオレットの天鵞絨をバックにふわりと笑んで、何のことでしょう?とすっとぼけた。ごく自然に当たり前と言わんばかりにさらりと返された言葉は優しさだろう。その返答にジェイド先輩だなあとしみじみ思ってしまったのがなんだか可笑しくて、思わず苦笑が漏れてしまった。私が笑ったものだから、ジェイド先輩が小首を傾げてこちらを見下ろしてくる。ふらりと宵闇を束ねたような一房の髪が顔の横で揺れ、それに倣って三枚の美しいアクアブルーの鱗で作られた様なピアスも揺らめいた。
「何か?」
「あ、いえ、すみません。何でもないです…ただ、ジェイド先輩のそういう所作とか言葉選びが私は好きだなぁと思ったもので…」
「そうですか。特に気にしたことはなかったのですが、貴方の気に留まったのでしたら光栄ですね」
あと、好都合だ。
「?…すみません、聞き取れませんでした」
後半呟くように口の中だけで転がされたセリフが聞こえなかったため聞き返せば、こちらの話ですよ、と返されてしまった。まあ、気にしなくてもよいみたいだったので、なら良かったです、と微笑んでおいた。
そうこうしているうちに、植物園に到着した。全面ガラス張りの温室のドームにも空の色が落ちる。なんとも言えない美しい世界。
紫色の世界に、白銀の月冴ゆる。
「綺麗…」
懲りずにまた空を見つめてうっとりとしてしまった私に、ジェイド先輩の苦笑が降ってきた。ハッと我に返るが、始末が悪い。
「あ、すみません…さ、植物園の中に入りましょう…」
笑われたことに羞恥を覚え、知らず上気する頰を抑えながら植物園の入り口に足早に向かう。その私の背中を心地よい声音が追いかけてきた。
「ええ、今宵の空はとても美しいので、見惚れてしまうのも仕方がありません」
「!」
何もかもを見透かし、認識し、肯定された。それは私の見ている世界までジェイド先輩が降りてきて、歩幅を合わせ、同じ目線に立ってくれたのだと、そう思った。相手の懐に入るのが本当に上手い。彼の片割れのフロイド先輩が私を小エビと称したままに、彼にとっても私はただの小エビに相違なく、捉えることなど造作もないだろう。現に私はただのその一言で心囚われたのだから。
何をそんなに動揺することがあっただろうかと、私は自身を叱咤した。しかし心の臓は早鐘を打ち、植物園の入り口に手もかけぬままフリーズしてしまった。ジェイド先輩を振り返ることもできない。彼が近づいて来た気配に何故か身体を強張らせ、ギュッと唇を噛んだ。
ああ、そうだ。私は随分と前から、囚われていたのだと。
自覚した途端、闇夜よりも恐ろしくなる。私の中にあったこの感情の存在は私がこの世界の住人に抱いていいものではないと警鐘がなる。私はいつかこの夢から覚めるのだから、軽率に心を貢いではいけない。受け取ってもいけない。だからいつもその背中を眺めていたのだ。その仰いだ向こう側の空に、海を見て。こちらを振り向かないという確信を持って、ただ、空の海を仰いでいた。それが何というざまだろうか。いつのまにか、その海に真っ逆さまに落ちていた。
「さあ、入りましょう」
「…そ、うですね!どんなキノコなのでしょうか?楽しみです」
伸びて来た腕が私を後ろから囲うように戸に触れ、扉がキィ、と微かに鳴いて開く。ジェイド先輩はそのまま私の肩に手をかけるとやんわりと中へ誘った。
植物のカーテンを掻き分け、奥へ進む。今はジェイド先輩の掌が私の背中に宛てがわれ、先輩のみが知り得る道を誘導する。しばらく進んで奥の奥へ、足元に心ばかりの誘導灯が点っているが、辺りは随分と暗い。
「?」
ふと眼前に、誘導灯の青白い光とは異なる、蛍光グリーンの光が広がった。存外に明るく、私はわあ、と息を吐いた。
「さあ、着きました。おや、丁度いい具合に光っていますね」
ジェイド先輩のセリフからその光の群生がキノコなのだと知る。思わず近寄ってしゃがんだ。
「ヤコウタケだあっ」
「おや、ご存知でしたか」
「あ、名前も同じなんですね!似てるから思わず口走りましたが…」
こちらの世界と私のいた世界には共通のものがいくつかある。どうやらこのキノコは共通しているようだった。
横たえられた枯れ木にびっしりと、傘のサイズは1~3センチ程度のちょっと長くて細い柄をもつ小さなキノコが群生している。それが全て蛍光グリーンに発光していてなんとも幻想的だった。そのキノコの神秘に私は破顔したのだった。
「実物を見たのは初めてなのですが、可愛いですね!ファンタジックできれいだし…すごいすごいっ…!見られて嬉しいですっ。ありがとうございますジェイド先輩!」
「!…っ、まさか、そこまで喜んで頂けるとは…っ」
珍しく歯切れの悪いジェイド先輩を不思議に思い、キノコから視線をジェイド先輩へと移そうとしたら、そのまま、と遮られてしまった。
「すみません、今、締まりのない顔になっているのでこちらを見ないでください。…僕としたことが情けない」
「あ、はい、すみませんっ」
慌ててヤコウタケに視線を戻して、何やらそわそわするジェイド先輩の次のセリフを待った。正直こんなジェイド先輩は初めて見たので、びっくりしたといえばびっくりしたが、彼も趣味を分かち合えたら嬉しい17歳の少年で少し安心した。
「申し訳ありません…あまり理解していただけない趣味のため、理解者を前に少々取り乱してしまいました」
「そ、そうでしたか…えっと、私でよければいつでもお話聞かせてください。自然の話?であってるのかな…そういう話はとても好きですからっ」
「!」
同士がいると嬉しいのはすごく共感できるからつい軽く言ってしまったが、下心は本当になかった。話を聞くくらいの親しさなら許されるだろうか。それ以上はなるべく踏み込まないように努めるから。そう思い、ヤコウタケも堪能したので、私は立ち上がる。ジェイド先輩の顔は仰がないと見えないので、私はそのまま先輩の実験着に向かって笑いかけた。
「ヤコウタケ本当に素敵でした!ではもう遅いので私はお暇しますねっ」
ペコリとお辞儀をひとつ、少し躊躇いを覚える脚を励まして、仄暗い来た道を見据える。暗いなあと逡巡したのが相手に伝わってしまったのか、ジェイド先輩だからわかってしまったのか、私を制止するように、スッとジェイド先輩の掌が私の前へ差し出された。
「もう暗いですし、差し支えなければオンボロ寮までご一緒しますよ。貴方、暗いところが得意ではないのでしょう?」
「!…えっと、それはあまりにもジェイド先輩に申し訳ないといいますか…」
明け透けになった私の弱みに、ジェイド先輩の掌が随分と存在感を増す。そこまで手間を、時間を、私のために割いて貰うのは忍びない、と思う反面、縋ってしまいたい甘い弱さもあった。未だ躊躇う私に、ジェイド先輩は言い方を変えましょう、と笑うと歌うように懇願してみせた。
「どうか僕に、オンボロ寮まで送らせて頂けないでしょうか?」
そんな風に言われてしまっては断る理由が見当たらない。私は困ってしまって笑うしかなく、じゃあお願いします、とその大きな掌に自分の掌を預けたのだった。
しっかりと私の手を握り、ジェイド先輩は相変わらず私に歩調を合わせて、紫色の夜の中を歩く。私は現金なやつだから隣に人がいることに心底安堵して、ジェイド先輩の手を握り返していた。
頼りないくらい細い月なのに、冴え冴えとその存在を誇示し、紫色の世界を一層深くする。
天を仰ぐ仕草はジェイド先輩を見上げる仕草と変わらない。なんだか不可思議な感覚だった。
隣を歩くジェイド先輩は上機嫌と見え、始終にこにこしている。キノコの話が出来る相手が見つかったことが、余程嬉しかったんだなあとひとりごちた。
オンボロ寮が見えて来たので、ジェイド先輩にここで大丈夫です、と言おうと振り仰ぐと、ジェイド先輩も私を見下ろしていて、ドキリと肩が跳ねてしまった。
「着いてしまいましたね。残念です」
「あ、ハイ、そうですね…お手数をお掛けしてしまって…。ジェイド先輩のお陰で暗い道も怖くなかったです!ありがとうございました」
素直にお礼を述べ、手を離そうとしたが、ジェイド先輩がそれを許さなかった。名残惜しそうに繋いだ私の手の甲をジェイド先輩の親指がなぞる。そしてそのまま持ち上げられたかと思えば、今しがたなぞった手の甲にジェイド先輩の形の良い唇が触れた。
「?!」
一瞬の熱に驚いて私は目を瞠る。
「じ、ジェイド、せんぱっ…」
何をしてるんですか、なんて聞けるわけもなく、ジェイド先輩を見れば眉を八の字にして、それでもその目には愉悦を浮かべ、私を捉える。
「もう、逃げられませんね」
ひと言、ストンと私の心の真ん中に落ちた言葉は、私の退路がないことを私に思い知らせるのに十分だった。
「好きですよ。とても。遠くから見ているのも楽しかったので、もう少しだけ、自由に泳いでいるのを鑑賞していようかと思ったのですが。…先程話をしていて、このまま誰かに掠め取られてはたまらない、と」
「なっ…にを…?そんな、こと、は…」
ある訳がない、と喉にひっかかった言葉はそれ以上は音になる事はなかった。繋いだ手を引かれたかと思えば身体を浮遊感が襲う。気付けばジェイド先輩と違わぬ目線の高さにいて、抱き上げられたのだと知る。
「貴方が僕を見ていたのを、僕は知っているんです」
「え…?」
「バレていないと思っていましたか?ふふっ。視線というのは言葉よりもよく喋る」
まさか気づかれていたなど想像もしていなかったため、あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤になるのを感じながら、ごめんなさい、と消え入るような謝罪が反射的に口から飛び出す。本当に恥ずかしすぎて、泣けてくる。自然と涙が込み上げてきたが、零すまいと堪える。
「何故謝るのです?僕は嬉しかったのですが…。そんな表情をなさらないで…貴方の返事を頂けませんか?」
甘美な言葉が私をより責め立てる。知られてはいけなかったその感情の名をジェイド先輩が言い当ててしまった。こうなってしまっては私はこの感情を無視することも出来ず、真っ向から向き合い、折り合いを付けるしかなかった。
息を奪うくらい美しい紫色の世界は、涙で滲んでゆらゆら揺らめいた。
まばたきをしたら、涙が落ちて世界が鮮明に映る。込み上げてきたのは諦めてしまったかのような嘲笑。
「ふふ…気づかれていたとはつゆ知らず、不快な思いをさせていたら申し訳ないです…。いつからだったか気づいた時には、私はジェイド先輩の背中を追っていたんです。…本当にそれだけでよかったんです」
気づいてくれなくてよかった。その海を眺めていたかった。とても心地が良かったから。
「揺らめくサイアンブルーが、そのアクアブルーのピアスも、私に海を見せてくれて…凛とした後ろ姿がとても好きで、つい、眺めてしまってたんです」
私は綺麗なものが好きなんでしょう、そう言ってその微かな夜風に揺れたジェイド先輩のピアスに触れてみる。ひやりと指先に冷たさを感じて、心が震える。今すぐにでも泡になって消えてしまえたら、私は最高に幸せなのに、とも思った。ジェイド先輩はただ黙って私の話を聞いてくれる。そういうところもまた、私を惹きつけてしまったのだろうと私は思う。
「ジェイド先輩、ジェイド先輩がいう好きは私と同じではいけないと思うんです…私は夢を、いつか覚める夢を見ているから…いつの日かふっと目が覚めて消えてしまう。そんな日を思えばこそ、私はジェイド先輩の後ろ姿だけを眺めていたんです。とても我が儘な話なんです」
もう涙はひいてくれたから、滅多にない同じ目線、否、私の方が少し高い位置から、ジェイド先輩のオッドアイを見つめた。パロットグリーンとサルファーイエローが紫色の夜を映して、それはそれは美しかった。その美しさを目に焼き付ける、なんて贅沢なんだろうと思う。先輩のオッドアイも綺麗ですねと私は呟いた。それを受けて、ジェイド先輩は微笑んだ。
「我が儘でも、よいのでは?」
「え?」
「僕は我が儘にはなれているので、貴方のいう我が儘など我が儘のうちには入らない、可愛いものですよ。何より僕自身、貴方が欲しいと思ったのですから、その先に何があったとしても、今の選択を後悔はしないと言い切れます」
例えば小エビが大きな魚に捕食される今際の際に捕食者の眼を見たら、小エビは自分の運命を刹那のうちに悟るのではないだろうか。
私だけを映すのは、捕食者の美しいオッドアイの双眸。
息を飲んだ。喉が鳴る。視線が絡む。もう、逸らすことは死を意味していた。
「じ、ぇいどせんぱい、は…私と、楽しい夢を見たあとに、目を覚まして気分を悪くしませんか…?」
声が震えるのは、私の存在が不安定で不確かだからだ。私はこの夢が覚めたら泣くと決めている。わんわん泣いてきっと日常に戻るのだと。
「夢が覚めるというのなら、尚のこと、今この夢を楽しまない手はないでしょう?楽しまなかったらそれこそ夢見が悪いというものです」
「!」
一切の迷いのない言葉に頭を殴られた感覚であった。ぐわんと揺れた脳が、不安要素を完全に吹き飛ばしたように感じた。目を見開いて、ジェイド先輩をみる。ジェイド先輩は楽しそうで愉しそうだ。
私を片手で軽々と抱えるジェイド先輩の空いている方の手が、衝撃に固まる私の頰に触れて、そのまま後頭部へ回される。優しく引き寄せられ、私の唇にジェイド先輩の唇が重なる。触れるだけのかわいいくちづけだった。
「一緒に楽しみましょう」
貴方のその眸に映る美しい世界に僕も混ぜてください、と私の額に額を寄せてジェイド先輩が笑った。
狡い、そうだ何処までも狡猾だと思うのに、甘い甘い優しさは獲物を確実に仕留める毒に違いない。
不確かな私を確かなものへと作り変えてゆく。この世界に居てもいいと私を認めて笑うひと。
「僕を拒む言い訳はもうありませんか?それならば返事をお願いします」
「…っ、ジェイド先輩、好きです…ご迷惑でなければ、私の手を繋いでいてください…」
これ以上はないくらい顔を真っ赤に染めてたどたどしく返事を返せば、極上の微笑でもって、もう離しませんよ、ともう一度キスをくれた。
擽ったい空気の中、急に軽くなった心もあって、やっぱり現金なやつだな私は、と自身に苦笑した。
「えっと、ではこの辺で…ジェイド先輩、ありがとうございましたっ。遅くまで付き合わせてしまって申し訳ないです。今度は他のキノコも見せてくださいね!あと、お話も楽しみにしてますっ」
そう告げて下ろしてください、と言ったのだが、先輩はにこにこするだけで下ろしてくれない。
「先輩?」
「今から、時間はあるでしょうか?」
「へ?い、今から…?まあ、私は特にやることもないですし、今日はグリムも居ませんから、時間はあるといえばありますが…?」
「話をっ…話をしても?」
「あ、はい…先輩が大丈夫なら、いくらで、も…!」
キラキラと眸を輝かせたジェイド先輩にこんな風な一面があったのかと、面食らうもなんとなく嬉しく思った。
私が頷いたので、先輩は私を抱えたままオンボロ寮へと一緒に入る。
その夜オンボロ寮の談話室の柔らかな灯りが消えることはなかった。
2人が佇んでいた、紫色の世界は、月も沈み、いつのまにか濃い闇に包まれ、黒い天蓋は瞬く星々を散りばめて静かに地上を見下ろしていた。
ああ、闇夜もふたりなら、怖くなどなくて。
ねぇ、恋もふたりなら、恐くなんてないのだと。
【月冴ゆる、紫色の世界にて】
「遅くなってしまった…」
図書館で調べものをしていたら、いつの間にやら眠っていて、気づいた時には夕陽が傾いており、橙色から、鮮烈な紅色へと窓硝子から美しい光の帯が幾重にも伸びていた。慌てて本を元の場所に返して、足早に外への扉を潜った。
外に出た頃には辺りは仄暗く、空の陽は地平の彼方に幽かな揺らめきを残すばかりで、真上を仰げば天空は紅を退け、薄い紫色から濃い紫色へと天球を塗り替えていた。
「うっ…グリムのご飯構わなくていいと思ったら油断した…」
はあ、と遣る瀬無いため息をつく。グリムはハーツラビュル寮のパーティに行ったから、今日はそのままエースとデュースに泊めてもらうのだろうからと、時間を貪ったのは私には大いに問題だった。
「急いで戻らないと…オンボロ寮までの道って、暗いんだよね」
そう、何を隠そう私は暗いところが怖いのである。だから夜はよく眠れない。得体の知れない何かがその闇に乗じて私を窺っている気がするから。
私はオンボロ寮への暗闇を思いぶるりと身震いした。
天を仰いでいた顔を正面に戻し、さあ、寝ぐらへ帰ろうと一歩踏み出したところで前に人影を見つけて、歩み始めた足を止めた。
何となく、その人影に見覚えがあり、しかし薄暗いために目を凝らす。
暗闇でもその目を惹くサイアンブルーの髪は多分学園でも2人しか居ない。歩く姿、その背中が美しいと思うのは、立ち居振る舞いが美しいからだろう。それが2人のうちどちらか、などはその所作から判別できた。
オクタヴィネル寮には長身の双子がいて、寮長の幼馴染だという話だ。グリムたちの頭にイソギンチャクが生えた事件にて彼らは海が故郷の人魚だと知った時は驚いたが、あの一件以来、顔見知りになったので、学園で私と鉢合わせれば挨拶くらいはくれる。その時からだったかもっと前からだったかは記憶にないが、最近、いつの間にやら目で追ってしまっていた後ろ姿だったからこそ、今見えている人影も、きっと見間違えては居ないと思う。それでも自信なさげな声がでたのはもともと人に声をかけるのが得意ではないからだった。
「ジェイド、せんぱい…?」
心許無く口をついて出た私の呼びかけに、前を歩いていた人影は立ち止まると、スッとこちらを振り返る。私の姿を認めると、ああ、と納得した様子でいつもと変わらぬ完璧な笑みを貼り付け、こんばんは、と挨拶をくれた。間違えていなかったので、ホッと胸を撫で下ろし、私はジェイド先輩の側まで駆け寄った。
「随分遅いようですが、今からお帰りになるのですか?」
「はい、うっかり図書館で眠ってしまって…こんな時刻になってしまいました」
ははっと渇いた笑いを漏らし、ジェイド先輩を見れば仄闇にも身につけているそれが実験着だとわかる。しかし実験の時につけるゴーグルと分厚い手袋はつけておらず、その手には制服の時に身につけている黒手袋をつけていた。
それでも何故実験着など、と不思議に思って尋ねる。
「ジェイド先輩は…今から実験でも?」
首を傾げ、空の纏う紫をそのまま映し宵闇にぼうっと浮かぶ実験着を指す。
「ああ、いえ、実験ではないのですが…植物園にキノコの観察をしに行こうかと。夜になると光る性質の種類のものがありまして。そのキノコの栽培が上手くいったので今晩あたりが見頃かと」
「光るキノコですか。そういえばお好きでしたねキノコ…。キノコって姿形が様々で、可愛いですよね…なんとなく眺めていたい気持ちもわかります」
よくデザインのモチーフになるだけあって、世の中にはキノコ柄のものもいくつかあるのだから、可愛い、という感覚で間違いはないだろう。実際私は可愛いと思ったので答えたのだが、ジェイド先輩は一瞬面食らったように目を開けて私を見た。何かまずいことを言っただろうか、と逡巡するも特に失言は思い当たらない。
「可愛い…ですか?キノコが…可愛い…成る程…」
「?」
ぶつぶつと呟いて、顎に手を当てたジェイド先輩は何やら思案している様子で、私は訳が分からず首を傾いだ。しばらく見守っていると、私に視線を戻したジェイド先輩はとても良い顔で笑った。
「オンボロ寮へ帰るなら、少し植物園に寄っていかれませんか?是非、僕の育てたキノコをご覧になっていって下さい」
ニコリと笑うジェイド先輩に少々気圧され気味に私は頷くが、この申し出は願ってもない事だったのですぐに笑みを浮かべて取り繕う。
「ジェイド先輩のご迷惑でなければお願いします…っ」
「迷惑など…とんでもない。では、行きましょう」
そういうとジェイド先輩は歩き出した。遅れぬように、その隣へ並ぶ。
植物園と言えばオンボロ寮の手前だ。そこまでの道のりに誰かが居てくれると心強い。
ほんの少しの距離とて、ひとりでこの暗闇を歩きたくはなかったから。
ジェイド先輩には申し訳ないけれど、正直キノコは二の次だった。それでも嘘は言っていないので許してほしい。ちゃんとキノコも楽しみな気持ちはある。
ジェイド先輩の隣をたいした会話もなく歩く。目の前の空はいつの間にやら全天を紫色に飲まれ、真っ白く輝く細い細い月がその鋭利な体躯を深い紫色に横たえていた。私がボンヤリ月を眺めながら歩いていたにもかかわらず、ジェイド先輩はピタリと横に並んで歩いている。それは何でもないような違和感で、はたと気づいてジェイド先輩を仰いだ。
そう、仰ぐという言葉がしっくりくる。ジェイド先輩といえば、190センチメートルの長身で、普通の女子よりもまだ一回り小さいちびっこの私と歩幅が合うはずもなかった。それなのに寸分違わず傍らを歩いている。それはジェイド先輩の気遣いに他ならなかった。
「!…っすみません、遅いですよね?…歩みっ」
気づいた途端にぼやぼや歩いていた自分が恥ずかしくなり、私が思わず謝れば、星がふたつみっつと瞬き始めた、気品漂うバイオレットの天鵞絨をバックにふわりと笑んで、何のことでしょう?とすっとぼけた。ごく自然に当たり前と言わんばかりにさらりと返された言葉は優しさだろう。その返答にジェイド先輩だなあとしみじみ思ってしまったのがなんだか可笑しくて、思わず苦笑が漏れてしまった。私が笑ったものだから、ジェイド先輩が小首を傾げてこちらを見下ろしてくる。ふらりと宵闇を束ねたような一房の髪が顔の横で揺れ、それに倣って三枚の美しいアクアブルーの鱗で作られた様なピアスも揺らめいた。
「何か?」
「あ、いえ、すみません。何でもないです…ただ、ジェイド先輩のそういう所作とか言葉選びが私は好きだなぁと思ったもので…」
「そうですか。特に気にしたことはなかったのですが、貴方の気に留まったのでしたら光栄ですね」
あと、好都合だ。
「?…すみません、聞き取れませんでした」
後半呟くように口の中だけで転がされたセリフが聞こえなかったため聞き返せば、こちらの話ですよ、と返されてしまった。まあ、気にしなくてもよいみたいだったので、なら良かったです、と微笑んでおいた。
そうこうしているうちに、植物園に到着した。全面ガラス張りの温室のドームにも空の色が落ちる。なんとも言えない美しい世界。
紫色の世界に、白銀の月冴ゆる。
「綺麗…」
懲りずにまた空を見つめてうっとりとしてしまった私に、ジェイド先輩の苦笑が降ってきた。ハッと我に返るが、始末が悪い。
「あ、すみません…さ、植物園の中に入りましょう…」
笑われたことに羞恥を覚え、知らず上気する頰を抑えながら植物園の入り口に足早に向かう。その私の背中を心地よい声音が追いかけてきた。
「ええ、今宵の空はとても美しいので、見惚れてしまうのも仕方がありません」
「!」
何もかもを見透かし、認識し、肯定された。それは私の見ている世界までジェイド先輩が降りてきて、歩幅を合わせ、同じ目線に立ってくれたのだと、そう思った。相手の懐に入るのが本当に上手い。彼の片割れのフロイド先輩が私を小エビと称したままに、彼にとっても私はただの小エビに相違なく、捉えることなど造作もないだろう。現に私はただのその一言で心囚われたのだから。
何をそんなに動揺することがあっただろうかと、私は自身を叱咤した。しかし心の臓は早鐘を打ち、植物園の入り口に手もかけぬままフリーズしてしまった。ジェイド先輩を振り返ることもできない。彼が近づいて来た気配に何故か身体を強張らせ、ギュッと唇を噛んだ。
ああ、そうだ。私は随分と前から、囚われていたのだと。
自覚した途端、闇夜よりも恐ろしくなる。私の中にあったこの感情の存在は私がこの世界の住人に抱いていいものではないと警鐘がなる。私はいつかこの夢から覚めるのだから、軽率に心を貢いではいけない。受け取ってもいけない。だからいつもその背中を眺めていたのだ。その仰いだ向こう側の空に、海を見て。こちらを振り向かないという確信を持って、ただ、空の海を仰いでいた。それが何というざまだろうか。いつのまにか、その海に真っ逆さまに落ちていた。
「さあ、入りましょう」
「…そ、うですね!どんなキノコなのでしょうか?楽しみです」
伸びて来た腕が私を後ろから囲うように戸に触れ、扉がキィ、と微かに鳴いて開く。ジェイド先輩はそのまま私の肩に手をかけるとやんわりと中へ誘った。
植物のカーテンを掻き分け、奥へ進む。今はジェイド先輩の掌が私の背中に宛てがわれ、先輩のみが知り得る道を誘導する。しばらく進んで奥の奥へ、足元に心ばかりの誘導灯が点っているが、辺りは随分と暗い。
「?」
ふと眼前に、誘導灯の青白い光とは異なる、蛍光グリーンの光が広がった。存外に明るく、私はわあ、と息を吐いた。
「さあ、着きました。おや、丁度いい具合に光っていますね」
ジェイド先輩のセリフからその光の群生がキノコなのだと知る。思わず近寄ってしゃがんだ。
「ヤコウタケだあっ」
「おや、ご存知でしたか」
「あ、名前も同じなんですね!似てるから思わず口走りましたが…」
こちらの世界と私のいた世界には共通のものがいくつかある。どうやらこのキノコは共通しているようだった。
横たえられた枯れ木にびっしりと、傘のサイズは1~3センチ程度のちょっと長くて細い柄をもつ小さなキノコが群生している。それが全て蛍光グリーンに発光していてなんとも幻想的だった。そのキノコの神秘に私は破顔したのだった。
「実物を見たのは初めてなのですが、可愛いですね!ファンタジックできれいだし…すごいすごいっ…!見られて嬉しいですっ。ありがとうございますジェイド先輩!」
「!…っ、まさか、そこまで喜んで頂けるとは…っ」
珍しく歯切れの悪いジェイド先輩を不思議に思い、キノコから視線をジェイド先輩へと移そうとしたら、そのまま、と遮られてしまった。
「すみません、今、締まりのない顔になっているのでこちらを見ないでください。…僕としたことが情けない」
「あ、はい、すみませんっ」
慌ててヤコウタケに視線を戻して、何やらそわそわするジェイド先輩の次のセリフを待った。正直こんなジェイド先輩は初めて見たので、びっくりしたといえばびっくりしたが、彼も趣味を分かち合えたら嬉しい17歳の少年で少し安心した。
「申し訳ありません…あまり理解していただけない趣味のため、理解者を前に少々取り乱してしまいました」
「そ、そうでしたか…えっと、私でよければいつでもお話聞かせてください。自然の話?であってるのかな…そういう話はとても好きですからっ」
「!」
同士がいると嬉しいのはすごく共感できるからつい軽く言ってしまったが、下心は本当になかった。話を聞くくらいの親しさなら許されるだろうか。それ以上はなるべく踏み込まないように努めるから。そう思い、ヤコウタケも堪能したので、私は立ち上がる。ジェイド先輩の顔は仰がないと見えないので、私はそのまま先輩の実験着に向かって笑いかけた。
「ヤコウタケ本当に素敵でした!ではもう遅いので私はお暇しますねっ」
ペコリとお辞儀をひとつ、少し躊躇いを覚える脚を励まして、仄暗い来た道を見据える。暗いなあと逡巡したのが相手に伝わってしまったのか、ジェイド先輩だからわかってしまったのか、私を制止するように、スッとジェイド先輩の掌が私の前へ差し出された。
「もう暗いですし、差し支えなければオンボロ寮までご一緒しますよ。貴方、暗いところが得意ではないのでしょう?」
「!…えっと、それはあまりにもジェイド先輩に申し訳ないといいますか…」
明け透けになった私の弱みに、ジェイド先輩の掌が随分と存在感を増す。そこまで手間を、時間を、私のために割いて貰うのは忍びない、と思う反面、縋ってしまいたい甘い弱さもあった。未だ躊躇う私に、ジェイド先輩は言い方を変えましょう、と笑うと歌うように懇願してみせた。
「どうか僕に、オンボロ寮まで送らせて頂けないでしょうか?」
そんな風に言われてしまっては断る理由が見当たらない。私は困ってしまって笑うしかなく、じゃあお願いします、とその大きな掌に自分の掌を預けたのだった。
しっかりと私の手を握り、ジェイド先輩は相変わらず私に歩調を合わせて、紫色の夜の中を歩く。私は現金なやつだから隣に人がいることに心底安堵して、ジェイド先輩の手を握り返していた。
頼りないくらい細い月なのに、冴え冴えとその存在を誇示し、紫色の世界を一層深くする。
天を仰ぐ仕草はジェイド先輩を見上げる仕草と変わらない。なんだか不可思議な感覚だった。
隣を歩くジェイド先輩は上機嫌と見え、始終にこにこしている。キノコの話が出来る相手が見つかったことが、余程嬉しかったんだなあとひとりごちた。
オンボロ寮が見えて来たので、ジェイド先輩にここで大丈夫です、と言おうと振り仰ぐと、ジェイド先輩も私を見下ろしていて、ドキリと肩が跳ねてしまった。
「着いてしまいましたね。残念です」
「あ、ハイ、そうですね…お手数をお掛けしてしまって…。ジェイド先輩のお陰で暗い道も怖くなかったです!ありがとうございました」
素直にお礼を述べ、手を離そうとしたが、ジェイド先輩がそれを許さなかった。名残惜しそうに繋いだ私の手の甲をジェイド先輩の親指がなぞる。そしてそのまま持ち上げられたかと思えば、今しがたなぞった手の甲にジェイド先輩の形の良い唇が触れた。
「?!」
一瞬の熱に驚いて私は目を瞠る。
「じ、ジェイド、せんぱっ…」
何をしてるんですか、なんて聞けるわけもなく、ジェイド先輩を見れば眉を八の字にして、それでもその目には愉悦を浮かべ、私を捉える。
「もう、逃げられませんね」
ひと言、ストンと私の心の真ん中に落ちた言葉は、私の退路がないことを私に思い知らせるのに十分だった。
「好きですよ。とても。遠くから見ているのも楽しかったので、もう少しだけ、自由に泳いでいるのを鑑賞していようかと思ったのですが。…先程話をしていて、このまま誰かに掠め取られてはたまらない、と」
「なっ…にを…?そんな、こと、は…」
ある訳がない、と喉にひっかかった言葉はそれ以上は音になる事はなかった。繋いだ手を引かれたかと思えば身体を浮遊感が襲う。気付けばジェイド先輩と違わぬ目線の高さにいて、抱き上げられたのだと知る。
「貴方が僕を見ていたのを、僕は知っているんです」
「え…?」
「バレていないと思っていましたか?ふふっ。視線というのは言葉よりもよく喋る」
まさか気づかれていたなど想像もしていなかったため、あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤になるのを感じながら、ごめんなさい、と消え入るような謝罪が反射的に口から飛び出す。本当に恥ずかしすぎて、泣けてくる。自然と涙が込み上げてきたが、零すまいと堪える。
「何故謝るのです?僕は嬉しかったのですが…。そんな表情をなさらないで…貴方の返事を頂けませんか?」
甘美な言葉が私をより責め立てる。知られてはいけなかったその感情の名をジェイド先輩が言い当ててしまった。こうなってしまっては私はこの感情を無視することも出来ず、真っ向から向き合い、折り合いを付けるしかなかった。
息を奪うくらい美しい紫色の世界は、涙で滲んでゆらゆら揺らめいた。
まばたきをしたら、涙が落ちて世界が鮮明に映る。込み上げてきたのは諦めてしまったかのような嘲笑。
「ふふ…気づかれていたとはつゆ知らず、不快な思いをさせていたら申し訳ないです…。いつからだったか気づいた時には、私はジェイド先輩の背中を追っていたんです。…本当にそれだけでよかったんです」
気づいてくれなくてよかった。その海を眺めていたかった。とても心地が良かったから。
「揺らめくサイアンブルーが、そのアクアブルーのピアスも、私に海を見せてくれて…凛とした後ろ姿がとても好きで、つい、眺めてしまってたんです」
私は綺麗なものが好きなんでしょう、そう言ってその微かな夜風に揺れたジェイド先輩のピアスに触れてみる。ひやりと指先に冷たさを感じて、心が震える。今すぐにでも泡になって消えてしまえたら、私は最高に幸せなのに、とも思った。ジェイド先輩はただ黙って私の話を聞いてくれる。そういうところもまた、私を惹きつけてしまったのだろうと私は思う。
「ジェイド先輩、ジェイド先輩がいう好きは私と同じではいけないと思うんです…私は夢を、いつか覚める夢を見ているから…いつの日かふっと目が覚めて消えてしまう。そんな日を思えばこそ、私はジェイド先輩の後ろ姿だけを眺めていたんです。とても我が儘な話なんです」
もう涙はひいてくれたから、滅多にない同じ目線、否、私の方が少し高い位置から、ジェイド先輩のオッドアイを見つめた。パロットグリーンとサルファーイエローが紫色の夜を映して、それはそれは美しかった。その美しさを目に焼き付ける、なんて贅沢なんだろうと思う。先輩のオッドアイも綺麗ですねと私は呟いた。それを受けて、ジェイド先輩は微笑んだ。
「我が儘でも、よいのでは?」
「え?」
「僕は我が儘にはなれているので、貴方のいう我が儘など我が儘のうちには入らない、可愛いものですよ。何より僕自身、貴方が欲しいと思ったのですから、その先に何があったとしても、今の選択を後悔はしないと言い切れます」
例えば小エビが大きな魚に捕食される今際の際に捕食者の眼を見たら、小エビは自分の運命を刹那のうちに悟るのではないだろうか。
私だけを映すのは、捕食者の美しいオッドアイの双眸。
息を飲んだ。喉が鳴る。視線が絡む。もう、逸らすことは死を意味していた。
「じ、ぇいどせんぱい、は…私と、楽しい夢を見たあとに、目を覚まして気分を悪くしませんか…?」
声が震えるのは、私の存在が不安定で不確かだからだ。私はこの夢が覚めたら泣くと決めている。わんわん泣いてきっと日常に戻るのだと。
「夢が覚めるというのなら、尚のこと、今この夢を楽しまない手はないでしょう?楽しまなかったらそれこそ夢見が悪いというものです」
「!」
一切の迷いのない言葉に頭を殴られた感覚であった。ぐわんと揺れた脳が、不安要素を完全に吹き飛ばしたように感じた。目を見開いて、ジェイド先輩をみる。ジェイド先輩は楽しそうで愉しそうだ。
私を片手で軽々と抱えるジェイド先輩の空いている方の手が、衝撃に固まる私の頰に触れて、そのまま後頭部へ回される。優しく引き寄せられ、私の唇にジェイド先輩の唇が重なる。触れるだけのかわいいくちづけだった。
「一緒に楽しみましょう」
貴方のその眸に映る美しい世界に僕も混ぜてください、と私の額に額を寄せてジェイド先輩が笑った。
狡い、そうだ何処までも狡猾だと思うのに、甘い甘い優しさは獲物を確実に仕留める毒に違いない。
不確かな私を確かなものへと作り変えてゆく。この世界に居てもいいと私を認めて笑うひと。
「僕を拒む言い訳はもうありませんか?それならば返事をお願いします」
「…っ、ジェイド先輩、好きです…ご迷惑でなければ、私の手を繋いでいてください…」
これ以上はないくらい顔を真っ赤に染めてたどたどしく返事を返せば、極上の微笑でもって、もう離しませんよ、ともう一度キスをくれた。
擽ったい空気の中、急に軽くなった心もあって、やっぱり現金なやつだな私は、と自身に苦笑した。
「えっと、ではこの辺で…ジェイド先輩、ありがとうございましたっ。遅くまで付き合わせてしまって申し訳ないです。今度は他のキノコも見せてくださいね!あと、お話も楽しみにしてますっ」
そう告げて下ろしてください、と言ったのだが、先輩はにこにこするだけで下ろしてくれない。
「先輩?」
「今から、時間はあるでしょうか?」
「へ?い、今から…?まあ、私は特にやることもないですし、今日はグリムも居ませんから、時間はあるといえばありますが…?」
「話をっ…話をしても?」
「あ、はい…先輩が大丈夫なら、いくらで、も…!」
キラキラと眸を輝かせたジェイド先輩にこんな風な一面があったのかと、面食らうもなんとなく嬉しく思った。
私が頷いたので、先輩は私を抱えたままオンボロ寮へと一緒に入る。
その夜オンボロ寮の談話室の柔らかな灯りが消えることはなかった。
2人が佇んでいた、紫色の世界は、月も沈み、いつのまにか濃い闇に包まれ、黒い天蓋は瞬く星々を散りばめて静かに地上を見下ろしていた。
ああ、闇夜もふたりなら、怖くなどなくて。
ねぇ、恋もふたりなら、恐くなんてないのだと。