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七月七日。今日は元の世界では七夕に当たる日だ。
こちらではゴーストマリッジの企画がされていたところを見ると、もしかしたら七夕の文化は私の故郷にしかないのかもしれない。それでもそれは、私にとっては、馴染み深い大切な文化だ。
日に日に失われていく故郷の記憶。大切だったはずの人たちの表情。
そんなものに心を痛めつつも、こちらの世界でも一つ、また一つと愛しいものが増えてゆく現実。
隠していてももたげてくるのは、そんな様々な、痛み。
誰にも告げられないのだから、せめてお星様くらいには祈ってもいいだろう。
そう思って、オンボロ寮よりも、もっともっと空に近いその場所へ、私は闇を切って走る。
『はぁ…はぁ…』
夜の校舎に忍び込むのだからと、コソコソと走り込んできたために、息がだいぶ上がっている。
薄暗い廊下に一人。それでも、月が明るいので少しは心が安らいだ。
普段は上らない階へと歩を進める。
『??あれ…?』
外側から見たときには、どう考えてもまだ上があったはずなのに、廊下の端から端まで歩いてみても、回廊を一周してみても、どこにも階段がない。
これではこの階より上へ行くことが叶わないじゃないか。
『おかしいな…これより上の階が確かにあるはずなのに…』
塔のてっぺんからなら、さぞかし綺麗な夜空と周辺の土地が見渡せるだろうと期待に胸を膨らませてきた、その思いがしおしおと萎えていく。
ここからでも十分な高さではあるけれど、少し、いやかなり残念である。
『あーあ…てっぺんまで行きたかったな…。せっかく短冊も作ってきたのに』
窓辺に寄り添い、お月様に短冊を見せつけるように手を伸ばす。
と。
「おや。それはなんですか?」
『!?』
突然耳元で声がして、盛大に仰け反ってしまった。
今の今までこの階を歩き回っていたが、人っ子一人、ゴーストですらいなかったはず。
『あ、アズール先輩、一体、どっ、どこから!?』
「どこからって…あぁ、そうでした。貴女は知らないですよね」
『へ?』
「どうぞこちらへ。ここでお会いしたのもなにかのご縁です。秘密の場所へご案内いたしましょう」
暗がりに溶けていた黒い手袋がそっと目の前に浮かび上がる。
恭しいその仕草に、若干体温が上がるも取り乱したりするほどでなくなったのは、この関係性に慣れてきたからだろう。
そっと重ねた手を引かれて進んだ先は、中央階段の中程。そこには、どこの王女様かはわからないが、肖像画が一枚、かかっていた。
「メアリーさん。申し訳ありません。もう一度扉を通していただけませんか。」
「…またアーシェングロットなの?先ほど出て行ったばかりではありませんか。いい加減になさい。」
『!?』
絵が喋った?!、などと言う戯言は、吐き出すすんでのところで飲み込んだ。
こんなことくらいでいちいち驚いていてはいられない。第一他の絵だって喋っていたじゃないか。
高飛車なこの声を聞く限り、機嫌を損ねたらまずいタイプの王女だろう。
そもそも私の入る隙もないので、話の行く末を固唾を呑んで見守るに徹することにする。
「今日はもうこれで最後にしますから。お願いします。」
「……そちらの女性はどうしたのかしら。初めて見る顔だけれど。」
「僕の彼女です。」
「あら…。へぇ…そうなの。フゥン…貴方が…」
「言いにくいことなのですが…二人きりになりたいんです。メアリーさんならわかるでしょう?貴女だってよくアンドレ公爵と…」
「っ!!アーシェングロット!!そのことはすでに契約したはずですよ!!口にすることは許しません」
「あぁ僕としたことが失礼しました。…それで?開けてくださいますよね?」
「…っ本当に喰えない子だこと。良いことよ。でもね、これから私は出掛けるのよ。明日の夜明けまで帰りませんから。入ったら最後、日が昇るまでは出られませんよ」
「えぇもちろん、それについては無問題です」
「あぁ忌々しい!お好きになさいな!」
「ありがとうございます」
にっこりと、モストロ・ラウンジでよく見る胡散臭い笑顔を貼り付けたアズール先輩。どうやら交渉はうまくいったようだ。
ぼんやりとしていると、再度でを引っ張られた。
「さ、メアリーさんの気が変わらないうちに行きますよ」
『えっ、あ、はい!』
いつの間に現れたのだろう。大きな絵画の右下あたりに、今までなかったはずの扉が一つ。
それを開けて、中に入り込む。すぐに後ろを振り向いたけれど、そこはすでに壁になっており、扉自体が消えてしまっていた。
戻ることは叶わない。引かれるままにアズール先輩についていく。
そのとても狭い通路を歩いて数分、パッと開けた先には、今までいたような学園の内部の風景。しかしよくよく見れば、壁の細かい装飾などが異なるようで、ここが知らない通路であることがうかがえた。
『アズール先輩、ここは…?』
「ここは、上層階へ行くための隠し通路です。一般学生は入り込めないようになっているのですが、たまたま、あのメアリーさんの秘密を握ることができましたから、個人的に使わせていただいているのですよ。貴女、上へ行きたかったんでしょう?」
『!!』
「ふふ…とっておきの部屋にご案内しますよ」
今度は屈託のない笑顔を見せたアズール先輩。その顔に、今から始まる冒険…に対してだけではない胸の高鳴りを感じたのは言うまでもない。
先輩とお付き合いをしていろんな経験もして随分経つが、そういう顔を見るたびに、好きが募って苦しいなと思う。
そんなことを考えているとなんだか気まずくなってきて、それとなく世間話を口にする。
『あ、えっと、今日って、七月七日じゃないですか』
「そうですね」
『ツイステッドワンダーランドにも、七夕ってあるんですか?』
「ここでは七夕を行事としてすることはありませんね。僕は文献で読んだことがあるので名前くらいは知っていますが」
『は~やっぱりないんだ…残念です』
「あぁ、貴女七夕がしたかったんですか?そういえばその四角い紙、なんというんでしたっけ」
『短冊ですか?』
「そう、短冊だ。それにも見覚えがあります」
話しながらも廊下をくねって階段を上がってまた進んで。
もはやどこを歩いたのかわからなくなったところで、さぁ着きました、と、何の変哲もない壁の前で足を止め、そこに向かってアズール先輩は一言「ベルーガセブルーガ」と呪文めいた言葉を低く呟いた。
するとそこにスッと扉が現れる。
なるほど。学園内にはこうした隠し扉がいくつも存在しているのか、と納得してしまった。
それは小さな、しかしそれでいて年代を感じる重厚な扉。
カチャリと古びた鍵で開けて、アズール先輩は、「お入りください」と私を促した。
中は暗闇に包まれていたので、パッと見、何が何だか分からなかったが、扉が閉まると同時に壁のランプに炎が灯り、辺りを照らす。
『わ、ぁ…!』
「いらっしゃいませ、僕の隠れ家にようこそ」
そこはこじんまりした部屋ではあったが綺麗に整頓されており、いかにもアズール先輩の個人部屋といった容貌だった。
壁には所狭しと様々な資料や呪文が貼り付けられている。そんなところからも、ここに長い時間入り浸ることも多いのではと感じさせられた。
キョロキョロとしていると、見て楽しいものはないかもしれませんが、と苦笑されたが、こんなにも楽しい隠れ家があるだろうか。
アズール先輩本人しか知らない部屋に、私を入れてくれたという事実だけでも幸せいっぱいで胸がはち切れそうなのに。
「で、空を見たいんでしたよね…。とりあえずそこのソファーに座っていてもらえますか」
『ありがとうございます…って大きなソファーですね』
「ここに寝泊まりしたりもしますから。ソファー兼ベッドのようなものです」
『なるほど~。ふかふかだ…これは気持ちよく眠れそう!』
「そうでしょう?…っと!」
私をソファーへ誘導すると、先輩は、机の傍にあったレバーを動かした。同時に、がこん、と音がして、天井の一角が跳ね上がる。
『!?』
「天窓ですよ。そこからなら、星空も見やすいでしょう?」
ひゅぅ、と、夏にしては涼しい風が吹き込んだ。
気持ちいい空気に誘われて、ヒョコ、と窓から顔を覗かせると、なるほど、ここは私が求めていた、学園のてっぺん辺りにあるようだ。
視線を高くすれば、森の向こうには遠く、海が見える。
『すごい…星が掴めてしまいそう…それに、どこまでも行けてしまいそうです』
「お気に召したようで何よりです」
『ありがとうございます、連れてきてくださって』
「いつかご招待したかったので、ちょうどよかったですよ」
振り返ると、いつの間に近寄ったのか、アズール先輩が真後ろに立っていた。柔和な笑顔が私の視界を埋め尽くす。
私はふと、こんな部屋に二人きりというシチュエーションに意識が向いて、それが無性に恥ずかしくなって、不自然にならない程度に視線をそらす。
『こ、ここでは七夕はないみたいですが、流れ星に三回お願いごとを唱えると願いが叶う、という逸話もないんですか?』
「聞いたことはありませんね。魔法のランプが三つの願いを叶えてくれる、というのはありますが…」
『そうなんですね。私の世界では、流れ星って [ 神様が天の扉をあけて地上を覗くときに、その扉から漏れた天界の光 ] と言い伝えられてるんです。だから、神様が覗いている間にお願い事をしたら叶うって。七夕さながらにロマンチックだと思いませんか?』
「興味深いですね」
『今日は流れ星も見えそうで、だからここまでこれて嬉しいです!』
「…ところであなたはどんな願い事をするんですか?」
『え、』
しまった、と思っても時は既に遅い。
手にしている短冊は、存在感を放っている。
私は、こんなものが誰かに見られるとは思ってもいなかったし、既に願い事は書かれた状態だ。
ただ、これをアズール先輩に見られたら、少しきまりが悪いのだ。「え~と…」と誤魔化しても、二の句が継げずもどかしい。
「…元の世界に戻りたい」
『!』
「というところでしょう、僕に見せられないということは」
『ちがいますっ!!』
「じゃあそちらを見せてもらっても?」
『…っ…それは、』
「僕は信用がありませんか?」
『そんなことないです!、でも、その…気分は、悪くなってしまうかも…しれないから…』
「大丈夫ですよ。今更何を言われたって」
隠しきれず、差し出した短冊。
そこには、一言「これ以上、何も忘れませんように」とだけ、書いていた。
「貴女…もしかして、自分の世界のこと、忘れていっているのですか?」
『っいえ!明確に忘れたという意識があるものはないんですよ?その、ちょっとだけ、友達の名前とか顔とか、朧げになっていたりするだけで!だからその心配はっ』
それを聞いたアズール先輩は、少しだけ目を伏せて、静かに言葉を続けた。
「…少し、昔話をしても?」
『え?あ…もちろんですけど…』
長くなるかもしれませんから腰をかけましょうか、とソファーを勧められ、二人並んで腰を下ろす。
ふ、と息を吐き出したアズール先輩は、私の短冊を指で弄びながら言った。
「僕が、小さな頃いじめられていたのは少しお話しましたね。」
『はい』
「その頃から僕は、いじめた奴らを見返すために学問やその他あらゆることに真剣に取り組んで、そうして努力で全てを習得していきました。ただ、それはとても孤独な作業でした。誰も見てくれない。褒めてくれない。頼ってくるのは、[ 完成したユニーク魔法 ] そのもののみ。たしかにIt's a dealは僕にとっての最高の魔法。でも、僕にはそれ以上の力も頭脳もあるのに。誰に見向きもされない。」
『…』
「先生方に褒められはしました。もちろん。でもそんなものは形だけの褒め言葉だし、何の意味ももたなかった。本当は、人から奪った魔法や力なんて一つも使っちゃいない。使わなくたって僕の方が力があるんだ。でも誰もそんなことは分かってはくれなかったし、見ようとも聞こうともしなかった。僕はいつでも、孤独だった。」
一人でいる。それは一体どういうことなんだろうか。受け止めることはできても、理解が追いついていない気がする。
私は、昔も今も、優しい仲間に囲まれているし、とても運の良い人生を送っているに違いない。
「そんなとき、ふと、陸の世界をみた。あの日は銀波が美しい、ちょうど満月の夜でした。ぷかぷか波に漂って空を見やっていると、海岸沿いに男女が寄り添って歩いているのが見えました。その二人の表情がとても眩しくて、多分僕は、二人に憧れを抱いたんだと思います。いつか、僕にもあんな風に想い合える相手ができたらいいのに。自分を認めてくれる人と出会えたらいいのに、と。」
そこで言葉を切って、アズール先輩は立ち上がる。天窓に近づいて、短冊を持った手をそこからスッと外へ伸ばした。
「僕は、運命という言葉はあまり信じません。けれど、貴女との出会いはそれだったと思います」
『私も、きっとここに来たのは運命的な何かだったと思います。じゃないとこんな夢みたいなこと、平凡な私の身に、起こるわけありませんから』
「そう言いますが、こちらに呼ばれたということは、何かしらの力はあったんじゃないんですか?今はそう、思えますけどね」
『そうだといいんですけどね』
お互い、ふふ、と口を緩めると同時に、アズール先輩の手から短冊が離れて、夜空に消えて行った。
あ、と呟いた時には視界から失せる。どうして?という気持ちを込めてアズール先輩を見れば、彼はこう言った。
「貴女の寂しさは、十分に理解しているつもりです。ただ…僕も、貴女を失うわけにはいきません…僕を認めてくれる人を、想い合える人を、失いたくない」
『アズール先輩…』
「元の世界を忘れるな、とは言いません。忘れていいとも思いません。でも、思い出が多いほど、帰りたい気持ちは大きくなるでしょう?だから」
『大丈夫ですよ』
「、でも」
『大丈夫です、と、言っても…あんな短冊見たら、不安にさせちゃいますよね。ごめんなさい。でも本当に、帰りたいとかそいう気持ちは、正直もうあまりないんです。』
ポカン、とこちらを見るアズール先輩は遅れて声を出す。
「そう、なんですか?」
『はい。ただ、やっぱり、自分が生きてきた全てを一つ一つ失ってゆくのは怖いので、忘れたくないって書いたんですけど…』
「は…」
『ごめんなさい。でも、私だって、アズール先輩を置いて帰りたいなんて思ってないって、思えるはずないって、信じてください?いつも言っているじゃないですか。大好きですよって。ね?』
「…そう、でした…。すみません、取り乱してしまって」
『ふふっ!いいんですよ。私も、すみませんでした。おあいこです』
立ち上がって、アズール先輩の横に立つ。暗い夜空には未だ、明るい星が散りばめられている。
『願い事って、自分への言い聞かせだと思うんですよね。これがしたい、あれを叶えたい…願掛けって結局のところ、自分を支える軸を立てることなのかなって思います。忘れないように努力するために、星に願います。これまでのこと、忘れていいわけもありませんから。それで、アズール先輩みたいに、私だって努力してみます。かっこいい先輩の、真似をして』
ね?と小首を傾げて先輩の顔を見ると、キョトン、とした後、次第に顔を赤らめて、ずれてもいない眼鏡の位置を何度も直しはじめてしまった。
かっこいいけど、可愛いんだよなぁ。こう言うところも、ほっとけない。
「努力することは、良いことです」
『はい!それと、ずっと一緒にいれますように。こっちは、約束です』
少し背伸びをして、その頬にキスを。
それから、そんなに思い詰めなくて大丈夫ですよ、という気持ちを込めて、クスリとイタズラに笑って見せる。
何度でも何度でも。先輩が不安なら、何度でも囁いてその心の穴を満たしてあげるから。
『流れ星に…神様に、それから天の川にも、見せつけちゃいましょう。こんなに想いあってるから、離れることはないですよって』
「…そんな、神様などという不確かなものに頼らなくとも、僕がどうにかしてみせますけれど…まぁ…それも悪くはありませんかね」
無気力におろされていたアズール先輩の手を取って、ぎゅ、と握った。
七夕の夜に、星に願いを。
さりとてそれを叶えるのは、私たち自身の力。
この小さな部屋で二人。誓いを立てて。
こちらではゴーストマリッジの企画がされていたところを見ると、もしかしたら七夕の文化は私の故郷にしかないのかもしれない。それでもそれは、私にとっては、馴染み深い大切な文化だ。
日に日に失われていく故郷の記憶。大切だったはずの人たちの表情。
そんなものに心を痛めつつも、こちらの世界でも一つ、また一つと愛しいものが増えてゆく現実。
隠していてももたげてくるのは、そんな様々な、痛み。
誰にも告げられないのだから、せめてお星様くらいには祈ってもいいだろう。
そう思って、オンボロ寮よりも、もっともっと空に近いその場所へ、私は闇を切って走る。
『はぁ…はぁ…』
夜の校舎に忍び込むのだからと、コソコソと走り込んできたために、息がだいぶ上がっている。
薄暗い廊下に一人。それでも、月が明るいので少しは心が安らいだ。
普段は上らない階へと歩を進める。
『??あれ…?』
外側から見たときには、どう考えてもまだ上があったはずなのに、廊下の端から端まで歩いてみても、回廊を一周してみても、どこにも階段がない。
これではこの階より上へ行くことが叶わないじゃないか。
『おかしいな…これより上の階が確かにあるはずなのに…』
塔のてっぺんからなら、さぞかし綺麗な夜空と周辺の土地が見渡せるだろうと期待に胸を膨らませてきた、その思いがしおしおと萎えていく。
ここからでも十分な高さではあるけれど、少し、いやかなり残念である。
『あーあ…てっぺんまで行きたかったな…。せっかく短冊も作ってきたのに』
窓辺に寄り添い、お月様に短冊を見せつけるように手を伸ばす。
と。
「おや。それはなんですか?」
『!?』
突然耳元で声がして、盛大に仰け反ってしまった。
今の今までこの階を歩き回っていたが、人っ子一人、ゴーストですらいなかったはず。
『あ、アズール先輩、一体、どっ、どこから!?』
「どこからって…あぁ、そうでした。貴女は知らないですよね」
『へ?』
「どうぞこちらへ。ここでお会いしたのもなにかのご縁です。秘密の場所へご案内いたしましょう」
暗がりに溶けていた黒い手袋がそっと目の前に浮かび上がる。
恭しいその仕草に、若干体温が上がるも取り乱したりするほどでなくなったのは、この関係性に慣れてきたからだろう。
そっと重ねた手を引かれて進んだ先は、中央階段の中程。そこには、どこの王女様かはわからないが、肖像画が一枚、かかっていた。
「メアリーさん。申し訳ありません。もう一度扉を通していただけませんか。」
「…またアーシェングロットなの?先ほど出て行ったばかりではありませんか。いい加減になさい。」
『!?』
絵が喋った?!、などと言う戯言は、吐き出すすんでのところで飲み込んだ。
こんなことくらいでいちいち驚いていてはいられない。第一他の絵だって喋っていたじゃないか。
高飛車なこの声を聞く限り、機嫌を損ねたらまずいタイプの王女だろう。
そもそも私の入る隙もないので、話の行く末を固唾を呑んで見守るに徹することにする。
「今日はもうこれで最後にしますから。お願いします。」
「……そちらの女性はどうしたのかしら。初めて見る顔だけれど。」
「僕の彼女です。」
「あら…。へぇ…そうなの。フゥン…貴方が…」
「言いにくいことなのですが…二人きりになりたいんです。メアリーさんならわかるでしょう?貴女だってよくアンドレ公爵と…」
「っ!!アーシェングロット!!そのことはすでに契約したはずですよ!!口にすることは許しません」
「あぁ僕としたことが失礼しました。…それで?開けてくださいますよね?」
「…っ本当に喰えない子だこと。良いことよ。でもね、これから私は出掛けるのよ。明日の夜明けまで帰りませんから。入ったら最後、日が昇るまでは出られませんよ」
「えぇもちろん、それについては無問題です」
「あぁ忌々しい!お好きになさいな!」
「ありがとうございます」
にっこりと、モストロ・ラウンジでよく見る胡散臭い笑顔を貼り付けたアズール先輩。どうやら交渉はうまくいったようだ。
ぼんやりとしていると、再度でを引っ張られた。
「さ、メアリーさんの気が変わらないうちに行きますよ」
『えっ、あ、はい!』
いつの間に現れたのだろう。大きな絵画の右下あたりに、今までなかったはずの扉が一つ。
それを開けて、中に入り込む。すぐに後ろを振り向いたけれど、そこはすでに壁になっており、扉自体が消えてしまっていた。
戻ることは叶わない。引かれるままにアズール先輩についていく。
そのとても狭い通路を歩いて数分、パッと開けた先には、今までいたような学園の内部の風景。しかしよくよく見れば、壁の細かい装飾などが異なるようで、ここが知らない通路であることがうかがえた。
『アズール先輩、ここは…?』
「ここは、上層階へ行くための隠し通路です。一般学生は入り込めないようになっているのですが、たまたま、あのメアリーさんの秘密を握ることができましたから、個人的に使わせていただいているのですよ。貴女、上へ行きたかったんでしょう?」
『!!』
「ふふ…とっておきの部屋にご案内しますよ」
今度は屈託のない笑顔を見せたアズール先輩。その顔に、今から始まる冒険…に対してだけではない胸の高鳴りを感じたのは言うまでもない。
先輩とお付き合いをしていろんな経験もして随分経つが、そういう顔を見るたびに、好きが募って苦しいなと思う。
そんなことを考えているとなんだか気まずくなってきて、それとなく世間話を口にする。
『あ、えっと、今日って、七月七日じゃないですか』
「そうですね」
『ツイステッドワンダーランドにも、七夕ってあるんですか?』
「ここでは七夕を行事としてすることはありませんね。僕は文献で読んだことがあるので名前くらいは知っていますが」
『は~やっぱりないんだ…残念です』
「あぁ、貴女七夕がしたかったんですか?そういえばその四角い紙、なんというんでしたっけ」
『短冊ですか?』
「そう、短冊だ。それにも見覚えがあります」
話しながらも廊下をくねって階段を上がってまた進んで。
もはやどこを歩いたのかわからなくなったところで、さぁ着きました、と、何の変哲もない壁の前で足を止め、そこに向かってアズール先輩は一言「ベルーガセブルーガ」と呪文めいた言葉を低く呟いた。
するとそこにスッと扉が現れる。
なるほど。学園内にはこうした隠し扉がいくつも存在しているのか、と納得してしまった。
それは小さな、しかしそれでいて年代を感じる重厚な扉。
カチャリと古びた鍵で開けて、アズール先輩は、「お入りください」と私を促した。
中は暗闇に包まれていたので、パッと見、何が何だか分からなかったが、扉が閉まると同時に壁のランプに炎が灯り、辺りを照らす。
『わ、ぁ…!』
「いらっしゃいませ、僕の隠れ家にようこそ」
そこはこじんまりした部屋ではあったが綺麗に整頓されており、いかにもアズール先輩の個人部屋といった容貌だった。
壁には所狭しと様々な資料や呪文が貼り付けられている。そんなところからも、ここに長い時間入り浸ることも多いのではと感じさせられた。
キョロキョロとしていると、見て楽しいものはないかもしれませんが、と苦笑されたが、こんなにも楽しい隠れ家があるだろうか。
アズール先輩本人しか知らない部屋に、私を入れてくれたという事実だけでも幸せいっぱいで胸がはち切れそうなのに。
「で、空を見たいんでしたよね…。とりあえずそこのソファーに座っていてもらえますか」
『ありがとうございます…って大きなソファーですね』
「ここに寝泊まりしたりもしますから。ソファー兼ベッドのようなものです」
『なるほど~。ふかふかだ…これは気持ちよく眠れそう!』
「そうでしょう?…っと!」
私をソファーへ誘導すると、先輩は、机の傍にあったレバーを動かした。同時に、がこん、と音がして、天井の一角が跳ね上がる。
『!?』
「天窓ですよ。そこからなら、星空も見やすいでしょう?」
ひゅぅ、と、夏にしては涼しい風が吹き込んだ。
気持ちいい空気に誘われて、ヒョコ、と窓から顔を覗かせると、なるほど、ここは私が求めていた、学園のてっぺん辺りにあるようだ。
視線を高くすれば、森の向こうには遠く、海が見える。
『すごい…星が掴めてしまいそう…それに、どこまでも行けてしまいそうです』
「お気に召したようで何よりです」
『ありがとうございます、連れてきてくださって』
「いつかご招待したかったので、ちょうどよかったですよ」
振り返ると、いつの間に近寄ったのか、アズール先輩が真後ろに立っていた。柔和な笑顔が私の視界を埋め尽くす。
私はふと、こんな部屋に二人きりというシチュエーションに意識が向いて、それが無性に恥ずかしくなって、不自然にならない程度に視線をそらす。
『こ、ここでは七夕はないみたいですが、流れ星に三回お願いごとを唱えると願いが叶う、という逸話もないんですか?』
「聞いたことはありませんね。魔法のランプが三つの願いを叶えてくれる、というのはありますが…」
『そうなんですね。私の世界では、流れ星って [ 神様が天の扉をあけて地上を覗くときに、その扉から漏れた天界の光 ] と言い伝えられてるんです。だから、神様が覗いている間にお願い事をしたら叶うって。七夕さながらにロマンチックだと思いませんか?』
「興味深いですね」
『今日は流れ星も見えそうで、だからここまでこれて嬉しいです!』
「…ところであなたはどんな願い事をするんですか?」
『え、』
しまった、と思っても時は既に遅い。
手にしている短冊は、存在感を放っている。
私は、こんなものが誰かに見られるとは思ってもいなかったし、既に願い事は書かれた状態だ。
ただ、これをアズール先輩に見られたら、少しきまりが悪いのだ。「え~と…」と誤魔化しても、二の句が継げずもどかしい。
「…元の世界に戻りたい」
『!』
「というところでしょう、僕に見せられないということは」
『ちがいますっ!!』
「じゃあそちらを見せてもらっても?」
『…っ…それは、』
「僕は信用がありませんか?」
『そんなことないです!、でも、その…気分は、悪くなってしまうかも…しれないから…』
「大丈夫ですよ。今更何を言われたって」
隠しきれず、差し出した短冊。
そこには、一言「これ以上、何も忘れませんように」とだけ、書いていた。
「貴女…もしかして、自分の世界のこと、忘れていっているのですか?」
『っいえ!明確に忘れたという意識があるものはないんですよ?その、ちょっとだけ、友達の名前とか顔とか、朧げになっていたりするだけで!だからその心配はっ』
それを聞いたアズール先輩は、少しだけ目を伏せて、静かに言葉を続けた。
「…少し、昔話をしても?」
『え?あ…もちろんですけど…』
長くなるかもしれませんから腰をかけましょうか、とソファーを勧められ、二人並んで腰を下ろす。
ふ、と息を吐き出したアズール先輩は、私の短冊を指で弄びながら言った。
「僕が、小さな頃いじめられていたのは少しお話しましたね。」
『はい』
「その頃から僕は、いじめた奴らを見返すために学問やその他あらゆることに真剣に取り組んで、そうして努力で全てを習得していきました。ただ、それはとても孤独な作業でした。誰も見てくれない。褒めてくれない。頼ってくるのは、[ 完成したユニーク魔法 ] そのもののみ。たしかにIt's a dealは僕にとっての最高の魔法。でも、僕にはそれ以上の力も頭脳もあるのに。誰に見向きもされない。」
『…』
「先生方に褒められはしました。もちろん。でもそんなものは形だけの褒め言葉だし、何の意味ももたなかった。本当は、人から奪った魔法や力なんて一つも使っちゃいない。使わなくたって僕の方が力があるんだ。でも誰もそんなことは分かってはくれなかったし、見ようとも聞こうともしなかった。僕はいつでも、孤独だった。」
一人でいる。それは一体どういうことなんだろうか。受け止めることはできても、理解が追いついていない気がする。
私は、昔も今も、優しい仲間に囲まれているし、とても運の良い人生を送っているに違いない。
「そんなとき、ふと、陸の世界をみた。あの日は銀波が美しい、ちょうど満月の夜でした。ぷかぷか波に漂って空を見やっていると、海岸沿いに男女が寄り添って歩いているのが見えました。その二人の表情がとても眩しくて、多分僕は、二人に憧れを抱いたんだと思います。いつか、僕にもあんな風に想い合える相手ができたらいいのに。自分を認めてくれる人と出会えたらいいのに、と。」
そこで言葉を切って、アズール先輩は立ち上がる。天窓に近づいて、短冊を持った手をそこからスッと外へ伸ばした。
「僕は、運命という言葉はあまり信じません。けれど、貴女との出会いはそれだったと思います」
『私も、きっとここに来たのは運命的な何かだったと思います。じゃないとこんな夢みたいなこと、平凡な私の身に、起こるわけありませんから』
「そう言いますが、こちらに呼ばれたということは、何かしらの力はあったんじゃないんですか?今はそう、思えますけどね」
『そうだといいんですけどね』
お互い、ふふ、と口を緩めると同時に、アズール先輩の手から短冊が離れて、夜空に消えて行った。
あ、と呟いた時には視界から失せる。どうして?という気持ちを込めてアズール先輩を見れば、彼はこう言った。
「貴女の寂しさは、十分に理解しているつもりです。ただ…僕も、貴女を失うわけにはいきません…僕を認めてくれる人を、想い合える人を、失いたくない」
『アズール先輩…』
「元の世界を忘れるな、とは言いません。忘れていいとも思いません。でも、思い出が多いほど、帰りたい気持ちは大きくなるでしょう?だから」
『大丈夫ですよ』
「、でも」
『大丈夫です、と、言っても…あんな短冊見たら、不安にさせちゃいますよね。ごめんなさい。でも本当に、帰りたいとかそいう気持ちは、正直もうあまりないんです。』
ポカン、とこちらを見るアズール先輩は遅れて声を出す。
「そう、なんですか?」
『はい。ただ、やっぱり、自分が生きてきた全てを一つ一つ失ってゆくのは怖いので、忘れたくないって書いたんですけど…』
「は…」
『ごめんなさい。でも、私だって、アズール先輩を置いて帰りたいなんて思ってないって、思えるはずないって、信じてください?いつも言っているじゃないですか。大好きですよって。ね?』
「…そう、でした…。すみません、取り乱してしまって」
『ふふっ!いいんですよ。私も、すみませんでした。おあいこです』
立ち上がって、アズール先輩の横に立つ。暗い夜空には未だ、明るい星が散りばめられている。
『願い事って、自分への言い聞かせだと思うんですよね。これがしたい、あれを叶えたい…願掛けって結局のところ、自分を支える軸を立てることなのかなって思います。忘れないように努力するために、星に願います。これまでのこと、忘れていいわけもありませんから。それで、アズール先輩みたいに、私だって努力してみます。かっこいい先輩の、真似をして』
ね?と小首を傾げて先輩の顔を見ると、キョトン、とした後、次第に顔を赤らめて、ずれてもいない眼鏡の位置を何度も直しはじめてしまった。
かっこいいけど、可愛いんだよなぁ。こう言うところも、ほっとけない。
「努力することは、良いことです」
『はい!それと、ずっと一緒にいれますように。こっちは、約束です』
少し背伸びをして、その頬にキスを。
それから、そんなに思い詰めなくて大丈夫ですよ、という気持ちを込めて、クスリとイタズラに笑って見せる。
何度でも何度でも。先輩が不安なら、何度でも囁いてその心の穴を満たしてあげるから。
『流れ星に…神様に、それから天の川にも、見せつけちゃいましょう。こんなに想いあってるから、離れることはないですよって』
「…そんな、神様などという不確かなものに頼らなくとも、僕がどうにかしてみせますけれど…まぁ…それも悪くはありませんかね」
無気力におろされていたアズール先輩の手を取って、ぎゅ、と握った。
七夕の夜に、星に願いを。
さりとてそれを叶えるのは、私たち自身の力。
この小さな部屋で二人。誓いを立てて。