2025VD

 二月に入ってから森には甘い匂いが立ち込めている。それもそのはず、森のパン屋さん『赤ずきん』でチョコレートパンが大放出されているからである。
 ハルオリがパン屋に住むようになってからそれなりの時間が経った。その間、人間の生活や最低限のおきての理解、それからお店の手伝いをして過ごしていたので、このイベントも大張り切りなハルオリを見て、バルバトスは微笑ましく思う。
「まずは粉をふるいます。その後、卵、それから冷たい牛乳」
「こな、たまご、つめたいぎゅーにゅー」
「その通りです。ではやってみましょう」
 その言葉に神妙な顔つきでこくりと頷いたハルオリは、真剣そのものだ。
 やり方を見せ、続いて真似してもらう、を繰り返すのは、ハルオリが自分の仕事をキラキラした瞳で見るから。ちょっとしたことを任せるだけでも張り切って、嬉しそうに手を貸してくれる。そんなふうだから、だんだんと仕事を教えているのであった。
「できた!」
「おや、もうできましたか。さすがですね」
「えへへ……!」
「そうですね、良さそうです。それでは続いて、クッキーに文字を書いていきましょうか」
「なんて書くの?」
「見本はこちらです。読めますか?」
「えと、」
 最近文字の練習をはじめたハルオリだったので、一文字ずつおぼつかなく、ときおり指をおりながらもなんとか確認し「あ・り・が・と・う」と口にする。
「ええ、正解です。勉強の成果がでていて偉いですよ」
 よしよしと頭を撫でられたハルオリはしっぽをぶんぶん、おみみをぴるぴるさせて嬉しさマックス。早速やってみましょうか、と言われてキリッと気合いを入れ直す。
 しかし、しばらくして、ガタン!と大きな音がしたかと思えば、ハルオリがダダダっと厨房を飛び出して行ったので、なにごとかと追いかけようとしてバルバトスは、はた、と机の上を見た。そこには、「ありがう」と書かれたクッキーが一枚。どうやら「と」を書き落としたらしかったハルオリは、あれでいて完璧主義なので我慢ならなかったようである。
 追いかけようと外に出て、しかし、その足跡が工房の隣の倉庫に続いていたのを認めたバルバトス。これは少し一人にしてやったほうが逆にいいのかもしれないと結論づけ、そっと工房に戻った。

 外は雪が降りはじめる。
 山の天気は変わりやすく、予報は晴れだったのに残念だと住人たちは思う。雪が得意なものもいれば、寒さに弱いものもあってしかりというところだ。
 でもハルオリは違った。ハルオリは雪は嫌いではなかった。
 もともと山の中で一人で暮らしていたこともあり、寂しさを紛らわすような、しんしんと音を奪っていく、あの独特のカンとした空気が、むしろ好きだった。なので今にも走りたくなる衝動を抑えるのに必死だ。なぜならバルバトスから、工房周りでは突然走り出したりしてはならない、と言われていたからである。バルバトスはハルオリにとって絶対の存在だ。ここから追い出されたくないその一心でウズウズしても気持ちを抑えられるようになったのは大きな変化だった。
「ゆきっ……!」
 外に出れば、工房の周りを囲んでいる花壇の花に、すでにうっすらと雪が積もっているではないか。まだ降りはじめたばかりだというのに、気温の低さが甚だしいことが如実に現れていることだ。
「おはなのかたち……」
 みるみる内に出来上がってゆく花の形の雪。それに心をくすぐられたハルオリは、これを持って帰ってバルバトスにも見せたいと強く思った。ありがとう、しっぱいして、ごめんなさい、でも、いつもありがとうってほんとうに伝えたかった、と。
 何度も何度も頭の中で思い出す。バルバトスがダメと言ったか、いいと言ったか。約束に反していないかどうだったか。
「……うん、だいじょうぶ」
 お散歩途中でバルバトスが花を摘む姿は何度か見ている。その際、「必要以上にたくさん取ってはなりません」と言われたが、これは"たくさん"とはならないことも、今のハルオリは理解できている。
 ぷつり。たった一つ、雪の花を手に取ると、崩れないよう掌ごとそっと胸に近づけて、すっくと立ち上がったハルオリは、工房へと歩を進めた。その手は真っ赤に冷えている。寒さを忘れてじっと考え抜いた証拠だった。

(ハルオリ、戻ってきませんね……)
彼女が出ていってしばらく。全てのパンをオーブンに入れたバルバトスは、窓の外に目をやりながら、迎えにいくべきかもうしばらく待つべきか考えあぐねていた。
 しかしその時。キィ、と小さく工房の扉が軋んだ。その音が何かを確認する前にとんっと背中に触れた熱が、何かわからないバルバトスではない。振り向くことなく、ただ一言「おかえりなさい」と受け入れて。
 その答えには、さて、どんな気持ちが帰ってきただろうか。
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