HAPPY EVER AFTER
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あのデートの日から、彼女の元気がなくなったことは、なんとなく気づいていた。
でも、僕はその悩みを聞くことはできなかった。
理由は簡単だ。
自分が連れて行った場所、自分が一緒にいた日…その後からこのようになったということは、そういうことなのかもしれない。
こちらだって気分が落ち込むのは仕方のないことだ。
あの日は終始楽しそうにしてくれていたのに。彼女の笑顔が作り物だったとは思いたくないし、思えるはずもない。
何かしてしまったのかと、不安は募るばかりだ。
彼女がモストロにも顔を出さなくなって数日が経った。
ポイントカード制度のおかげで連日大繁盛のモストロ・ラウンジでは、そろそろポイントが集まった生徒も出始めて、契約や相談も後が立たない。寮長の僕が自分の都合だけで外に出るなどもっての他で、気が紛れてよい。…そんな風に考える自分がいることも気分を沈める要素だった。
しかしある日を境に、彼女の表情が変わった。どこで手に入れたのか、その手にはカメラが握られており、一生懸命に色々なものを収めている。
ただ、一枚撮り終わる度、とても寂しそうな、何かまぶしいものを見たような複雑な表情がかげるのを僕は見落とさなかった。
そんな姿を遠くで見かける。話しかけようとする。でも、足がすくむ。
拒絶されたら、どうする?
確信はないものの、可能性は捨てきれない。
「らしくない…」
何があったのか言いなさい、と、一言告げれば良かったのかもしれないが、彼女に対して強い言葉を振りかざしたくはなかった。
今日も今日とて、遠くからその姿を見つめるだけに留めて、踵を返そうとしたその時。
「アズール先輩っ!!」
大きな声で僕の名が呼ばれる。
「っ、ユウ...さん」
「アズール先輩!お久しぶりです!やっと会えた!」
「え?」
「最近、モストロにも伺えてなかったから…寂しかったです…ってごめんなさい、私が行けなかっただけなのに」
しおらしい声を出したので、そんな、とその続きを遮った。
「僕のほうこそ忙しさにかまけて、なかなか声をかけられなくて、その…」
どうしてこんなときに限ってうまく言葉が出てこないのだろう。いつものようにスラスラと考えを言葉にできたらいいのに。
二人とも続く言葉を探してしまって、やや間があいてしまう。
あぁ、どんな言葉をかければ、また以前のように笑ってくれるのだろう。
自分よりも頭一つ小さなこの子を笑顔にしたい。
自然と彼女の頬に向かった自身の指だったが、臆病な僕は中途半端な位置でその手を止めた。
けれど思いがけず、彼女の手がそっとその手を掬ったので、びくりと身体が跳ねた。
「っ、」
「あの…」
おず、と触れた熱は、手袋越しに僕に伝わる。
「今日、なんですけど、その、お時間、ありますか…」
彼女の意図が読み取れず、あ、とか、う、とか、言葉にならない言葉が口から漏れる。
恥ずかしい。ツボがあったら入りたい気分だ。
「モストロ・ラウンジが閉店した後で、いいんです…」
「ですが、それではだいぶ遅くなりますよ?」
ふる、とゆるく首を振る彼女は、逡巡した後、意を決したように顔を上げ。
その目が僕を捉え、潤みを増した瞳が訴える。
「遅くても、大丈夫、です…。今日、…グリムがハーツラビュルにお泊りするって聞かなくて…それで、あの、私、一人だから、…オンボロですけど、よかったら、…遊びに、来ていただけませんか…?」
「え、」
「部屋も、あの、たくさんあります、し」
「それ、は」
「時間が許すなら、お泊まり、とか」
お泊まり?それは、文字通りの「お泊まり」で大丈夫なのか?
僕の認識が間違ってなければ、お泊まりというのはお泊まり会のことで、みんなでトランプなどをしてとりとめなくしゃべり、菓子をつまみながら夜を明かすあれか?それであっているのだろうか。
「あ、はい、それは、だいじょうぶです、それではきょう、らうんじがかたづいたら、うかがいますね」
「本当ですかっ」
「ですがおそくなりますので、ねむられていてもかまいません」
「そんな!待ってます!ずっと!」
「そうですか」
「はいっ!!ありがとうございますっ!それでは、また、あとでっ…!」
タタタ、と彼女が行ってしまう。
予鈴が鳴った。
僕の心は、そのまま早鐘を打ったままだった。
それから数時間後。
その甘美な言葉に誘われて、僕は今、この夜、オンボロ寮の前に立っていた。
インターホンなどという洒落たものがこの寮にあるはずもない。
扉ですら最近立て付けを直したばかりなのだ。
二度も壊れたりしないよう気を遣いながら、控え目に玄関扉をノックするが、それだけでは聞こえないだろう。
失礼かと思ったが、扉を引いて声をかけた。
「ユウさん、アズールです」
ほどなくして、二階からパタパタと足音がして、彼女が階段を降りてきた。
僕の姿を確認して、ぽわっと笑顔になる。
つられて自分も微笑んでしまったのがわかった。
「アズール先輩っ!お疲れ様です、いらっしゃいませ!」
「こんばんは、これはつまらないものですが、お土産です」
「ええっ!いいんですか?!すみません、こちらが来ていただいているのに」
「いいんですよ。夜は長いですし、たまには夜更かしをしても許されるでしょう」
「はい…!あっ気が利かずすみません、えぇっと、その、ごめんなさい、談話室、は、まだ掃除が行き届いてなくて…なので、失礼なんですが、私の部屋へどうぞ、こちらですっ!」
「んっ?!」
部屋。
部屋といったか。
私の部屋とは、ユウさんの部屋か?
呼吸が止まりそうだ。
オンボロ寮に入るのはこれが初めてだった。
例の一件のときにはここを担保として預けてもらったものの、実際に下見をしたのはジェイドとフロイドであったし、具体的な造りも知らなければ、元のひどい状態もわからなかった。
それでも通りざまにみた談話室は、人がそこでくつろげるくらいには清潔さを保っているように見えたから、きっと一人で頑張ったのだろう。
「あっ…あのっ、オクタヴィネルに比べると本当に恥ずかしいんですけど…」
通された一室は、各寮の部屋に比べれば随分とこぢんまりしたものであったけれど、ここでユウさんが過ごしているのかと思えば特別な場所に見えた。
ローテーブルの前に置かれた小さなソファーに、勧められるがままに腰を下ろす。
部屋を見回せば、勉強机に、ユウさんが眠るにしては大きめのベットが一つ。それからバルコニーにつながるのだろう、大きなテラスドア。
「いい部屋ですね」
「本当に。住まわせてもらえるだけでも十分です…」
お世辞ではなく、なぜかわからないがこの部屋にいると安心できるような気持ちがして、息をほっと吐く。
僕は随分と緊張していたようだった。
そんな僕の横に、そっと腰をかけるユウさん。
小さなソファーは二人分の体重で、また少し沈んだ。
お互いの顔が見えない。
相手が何を思っているのか、わからない。
ドクン、ドクン、と自分の鼓動がやけに大きく耳に響く。
「あの、」
「っはい!?」
ものすごく上ずった声が出てしまい、頭が真っ白になった。
今日一日で何度失敗すればいいんだ。自分のコンディションがこんなにも最低な日は初めてかもしれない。
でも、そんな僕を嘲笑するわけでも乏しめるわけでもなく、ユウさんは控えめに声をかけてくれた。
「っふふ…先輩、緊張してます…?」
「し、してませんよっそんな、緊張なんて僕は」
「そうですか?…私は、とっても、緊張してます…」
そう言ったユウさんは、膝に乗せられていた僕の手をそっと取り、両手で、キュ、と握りしめた。
「今日は、わざわざ来ていただいて本当にありがとうございました…」
心なしか声が震えている気がする。
「私…アズール先輩に頼みたいことがあって」
そっと手を離したと思ったら、着ていた服のポケットから、一つの小さな紙袋を取り出した彼女。身振りで、開けてくださいと言われて、中を見る。すると、一見すると透明と見間違うような薄い水色がかったピアスが一つと、同じ色の石がはまったネクタイピンが一つ出てきた。
「これは…?」
「これを、私につけてくれませんか」
「ピアスを、ですか?」
「はい…あの、ピアッサーも用意はしてるのですけど、痛いと聞いているので、もし魔法でパッとつけてもらえるのであれば、痛くない方でやってもらえると嬉しいです」
「それは、まぁ、そういう魔法はありますし、やることもできますが…」
なぜ?疑問が拭えず、小首を傾げて見せれば、例の悲しそうな顔をして呟かれる言葉は僕の心を波打たせる。
「私が、いなくなっても、私のことを覚えていてほしいから…アズール先輩に、つけてほしい、です」
「え…?ま、さか、元の世界に帰る方法が見つかったのですか?」
「いえ、いいえ…そういうことでは、なくて、その…」
言いにくそうに説明された理由が脳で処理されるまでに時間がかかる。
博物館で見たものによって、自分の存在がいかにおかしなものかに気づいたこと。
よく考えれば、いつ、この世界からいなくなるか自分にもわからないこと。
自分が消えてしまった後、自分も、この世界の人たちも、何を覚えていられるのかわからないこと。
だから、写真を撮って、この世界に生きた証を残しておこうと思ったこと。
どれも最もなことで、また、どれも考えないようにしていたことばかりだった。
「だから、いつそうなってもいいように。私の記憶が消えても、アズール先輩の記憶が消えても、写真だけじゃなくて他にも何かが残るように」
その目が強い意志を持って、僕を見つめる。
「私はこのピアスを、それからアズール先輩には、ピアスの片割れを埋めてもらったネクタイピンを持っていてほしいんです。ネクタイピンなら、オクタヴィネルの寮服にも合うかと思って…それから、その…ベタで申し訳ないんですけど…ネクタイピンを贈る意味があって、」
ジンジンと心が痛くなる。
「あなたをずっと見守っています、という意味と、あなたは私のもの、っていう、意味が、あって…」
目の前の彼女は涙をこらえながらも懸命に気持ちを伝えてくれていた。
あぁ、そうか。こんなに辛い思いをしていたから、ずっと僕に近づけないでいたのか。
それなのに僕は自分のことばかり考えて。
こらえきれない気持ちが身体を突き動かした。
華奢な身体を二本の腕で強く強く抱きしめる。
「っ、!!」
「ありがとうございます、ユウさん…それから、ごめんなさい…そんな辛い思いを一人で抱えさせてしまった」
「せんぱ」
「僕は、貴女のことを忘れたりなんかしない」
「…ふ…そうだと、いい、なぁ…」
ボロボロとこぼれだした涙が僕の胸を濡らしていく。
「でも、っ…もしも、もしも忘れちゃってもっ…思い出してくださいねっ…!私がそうなっても、絶対、絶対思い出しますからっ…!」
「はい…、心配しないでください…僕を誰だと思っているんです…?アズール・アーシェングロット、貴女がこの世界で愛してくれたたった一人の男ですよ…忘れるわけ、ないでしょう、忘れたって、思い出してみせる…だから泣くな」
「うっ…っ…絶対ですよぉっ…」
僕の背中にすがりつくように手を回して、ユウさんはとめどなく涙を流した。
暫く涙も呼吸も落ち着いてウサギみたいに目を真っ赤にしたユウさんをみて、ピアスをつけることにした。
開けるのは、左がいいとのこと。曰く、僕が髪を流している方向が左だからだとか。
どこまで可愛い人なんだ。
「魔法でやりますが、チクリとはするかもしれません、念の為、気持ちの準備はしておいてくださいね」
「っ、はい…!」
「じゃあ、いきますよ」
マジカルペンを取り出して、ピアスに息を吹きかける。小さな声で呪文をふりかけ、そのまま耳に押し付けた。
パチン
「はい、終わりです」
「…もうできたんですか…?」
「もちろん。触っても大丈夫ですよ」
「本当だ…ついてる」
細い指が今しがたついたばかりのピアスを撫でる。愛おしそうに目が細められた。
「では、僕はこちらをいただきますね。ありがとうございます」
「はいっ!使っていただけたら、嬉しいです」
「明日から使わせてもらいますよ、大切にします」
「また見に行きますね!…っと、もう一つ、頼みがあるんですけど…いいですか?」
「ふふっ、もちろんですよ。貴女の頼みなら何なりと。もちろん対価はいただきますが」
「えっ!?それは困ります…今日、何か渡せるものあったっけ…」
「それは後で構いませんよ。それで?次はなんでしょう」
そう問えば、ソファーから一度立ち上がって、勉強机から何かを取ってきたユウさん。
戻ってくると、その手には最近いつも持っているカメラが抱えられていた。
「写真も、一緒に撮ってもらえませんか」
「なんだ。写真くらい…と思いましたが、ダメです。今この服装で取るのは気が引けます」
「えぇ!いいじゃないですかぁ…いつもと違う雰囲気で…そういう先輩も、かっこいいです…」
「…っまぁ…貴女がそういうなら…仕方ありませんね…1枚だけですよ」
その言葉に乗せられたわけじゃない。どうせユウさんしか見ないのだ、と気持ちに整理をつけただけだ。それに他にもまた、別の場所でも撮ればいいだろう、とも思ったから。
「う~ん自撮りは難しいかなぁ…」
「そんなもの浮かせておけばいいですよ。ほら、」
「わぁ…やっぱり魔法っていいなぁ」
ふわふわとカメラを浮かべてやれば、羨ましげな顔がこちらに向けられた。
「グリムさんがそのうちできるようになるんじゃないですか?」
「自分でやりたいんですよ。憧れじゃないですか、やっぱり」
「まぁ、グリムさんができるようになるかもわかりませんしね。ん…写る範囲が狭そうですね…もう少しこっちに寄れますか?」
そういえば、意図せずして密着してくる身体に、少し焦る。けれど心の乱れが魔法に出てはまずいので、気を引き締めて集中した。
「、よしこれなら入るでしょう。とりますよ?3、2」
「…アズール先輩、」
「なんで、」
カシャリ
名前を呼ばれ、ついそちらに顔を向けた。
その瞬間にシャッターが降りる。
一秒
本当に一瞬だった。
ゆっくりと唇が触れ合って、離れて。
息をするのを忘れてしまった僕の時は止まった。
「すき…」
濡れた瞳の奥に燻る熱に確かに見てとれた劣情に、どうしようもなく高ぶった己の気持ち。それを抑えられるほど、自分は大人ではなかったことを知る。
浮かせていたカメラが、カタンと、床に落ちたことも気に留めず、今度はこちらから口付けた。
「ん、ぅ」
「ン…」
唇を割って舌を差し入れ、欲望のままに咥内を荒らすと、ユウさんのくぐもった声が僕の脳を犯す。
「っハ…、」
「ふ、ん、ぅは…ぁ」
「ユウ…」
「…、せんぱ、卑怯、ですよっ…」
「…はい?」
「こんな時だけ…また、呼び捨てにもどるなんてっ…」
少し距離を置いていたせいで、元のさん呼びに戻っていたらしく、それが気に入らないと、不機嫌そうな顔をした。
「ふ…僕のお姫様はこんな時に、そんなことを気にしているなんて、」
「っ!!」
「ユウ」
「っだから、」
「ユウ、ユウ、ユウ」
「んっ…!!」
今度は唇ではなく、耳元で何度も囁いて、そして、らしくないけど、言ってやろうか。
「愛しています」
こんなこと、一生涯自分の身には起こらないと、そう思っていた。こんな気持ちが自分の中にもあるだなんて驚いているくらいだ。
愛しいと心がうるさい。息をするのすら苦しい。
「努力はしますが、抑えられるか、わかりません。どうしましょうか」
「…それを、私から言わせるんですか…っ」
「確かに…。では、先程の対価、ということで、僕は貴女をもらいましょう」
もう一度唇を奪うと同時に、部屋の電気は落としておいた。
テラスドアからは月明かり。
僕に何と似合わないシチュエーションなんだろう。
そのまま二人、夜の闇に溶けようじゃないか。
暗く冷たい深海ではなく、暖かいベッドの上で、貴女を抱きしめながら。
でも、僕はその悩みを聞くことはできなかった。
理由は簡単だ。
自分が連れて行った場所、自分が一緒にいた日…その後からこのようになったということは、そういうことなのかもしれない。
こちらだって気分が落ち込むのは仕方のないことだ。
あの日は終始楽しそうにしてくれていたのに。彼女の笑顔が作り物だったとは思いたくないし、思えるはずもない。
何かしてしまったのかと、不安は募るばかりだ。
彼女がモストロにも顔を出さなくなって数日が経った。
ポイントカード制度のおかげで連日大繁盛のモストロ・ラウンジでは、そろそろポイントが集まった生徒も出始めて、契約や相談も後が立たない。寮長の僕が自分の都合だけで外に出るなどもっての他で、気が紛れてよい。…そんな風に考える自分がいることも気分を沈める要素だった。
しかしある日を境に、彼女の表情が変わった。どこで手に入れたのか、その手にはカメラが握られており、一生懸命に色々なものを収めている。
ただ、一枚撮り終わる度、とても寂しそうな、何かまぶしいものを見たような複雑な表情がかげるのを僕は見落とさなかった。
そんな姿を遠くで見かける。話しかけようとする。でも、足がすくむ。
拒絶されたら、どうする?
確信はないものの、可能性は捨てきれない。
「らしくない…」
何があったのか言いなさい、と、一言告げれば良かったのかもしれないが、彼女に対して強い言葉を振りかざしたくはなかった。
今日も今日とて、遠くからその姿を見つめるだけに留めて、踵を返そうとしたその時。
「アズール先輩っ!!」
大きな声で僕の名が呼ばれる。
「っ、ユウ...さん」
「アズール先輩!お久しぶりです!やっと会えた!」
「え?」
「最近、モストロにも伺えてなかったから…寂しかったです…ってごめんなさい、私が行けなかっただけなのに」
しおらしい声を出したので、そんな、とその続きを遮った。
「僕のほうこそ忙しさにかまけて、なかなか声をかけられなくて、その…」
どうしてこんなときに限ってうまく言葉が出てこないのだろう。いつものようにスラスラと考えを言葉にできたらいいのに。
二人とも続く言葉を探してしまって、やや間があいてしまう。
あぁ、どんな言葉をかければ、また以前のように笑ってくれるのだろう。
自分よりも頭一つ小さなこの子を笑顔にしたい。
自然と彼女の頬に向かった自身の指だったが、臆病な僕は中途半端な位置でその手を止めた。
けれど思いがけず、彼女の手がそっとその手を掬ったので、びくりと身体が跳ねた。
「っ、」
「あの…」
おず、と触れた熱は、手袋越しに僕に伝わる。
「今日、なんですけど、その、お時間、ありますか…」
彼女の意図が読み取れず、あ、とか、う、とか、言葉にならない言葉が口から漏れる。
恥ずかしい。ツボがあったら入りたい気分だ。
「モストロ・ラウンジが閉店した後で、いいんです…」
「ですが、それではだいぶ遅くなりますよ?」
ふる、とゆるく首を振る彼女は、逡巡した後、意を決したように顔を上げ。
その目が僕を捉え、潤みを増した瞳が訴える。
「遅くても、大丈夫、です…。今日、…グリムがハーツラビュルにお泊りするって聞かなくて…それで、あの、私、一人だから、…オンボロですけど、よかったら、…遊びに、来ていただけませんか…?」
「え、」
「部屋も、あの、たくさんあります、し」
「それ、は」
「時間が許すなら、お泊まり、とか」
お泊まり?それは、文字通りの「お泊まり」で大丈夫なのか?
僕の認識が間違ってなければ、お泊まりというのはお泊まり会のことで、みんなでトランプなどをしてとりとめなくしゃべり、菓子をつまみながら夜を明かすあれか?それであっているのだろうか。
「あ、はい、それは、だいじょうぶです、それではきょう、らうんじがかたづいたら、うかがいますね」
「本当ですかっ」
「ですがおそくなりますので、ねむられていてもかまいません」
「そんな!待ってます!ずっと!」
「そうですか」
「はいっ!!ありがとうございますっ!それでは、また、あとでっ…!」
タタタ、と彼女が行ってしまう。
予鈴が鳴った。
僕の心は、そのまま早鐘を打ったままだった。
それから数時間後。
その甘美な言葉に誘われて、僕は今、この夜、オンボロ寮の前に立っていた。
インターホンなどという洒落たものがこの寮にあるはずもない。
扉ですら最近立て付けを直したばかりなのだ。
二度も壊れたりしないよう気を遣いながら、控え目に玄関扉をノックするが、それだけでは聞こえないだろう。
失礼かと思ったが、扉を引いて声をかけた。
「ユウさん、アズールです」
ほどなくして、二階からパタパタと足音がして、彼女が階段を降りてきた。
僕の姿を確認して、ぽわっと笑顔になる。
つられて自分も微笑んでしまったのがわかった。
「アズール先輩っ!お疲れ様です、いらっしゃいませ!」
「こんばんは、これはつまらないものですが、お土産です」
「ええっ!いいんですか?!すみません、こちらが来ていただいているのに」
「いいんですよ。夜は長いですし、たまには夜更かしをしても許されるでしょう」
「はい…!あっ気が利かずすみません、えぇっと、その、ごめんなさい、談話室、は、まだ掃除が行き届いてなくて…なので、失礼なんですが、私の部屋へどうぞ、こちらですっ!」
「んっ?!」
部屋。
部屋といったか。
私の部屋とは、ユウさんの部屋か?
呼吸が止まりそうだ。
オンボロ寮に入るのはこれが初めてだった。
例の一件のときにはここを担保として預けてもらったものの、実際に下見をしたのはジェイドとフロイドであったし、具体的な造りも知らなければ、元のひどい状態もわからなかった。
それでも通りざまにみた談話室は、人がそこでくつろげるくらいには清潔さを保っているように見えたから、きっと一人で頑張ったのだろう。
「あっ…あのっ、オクタヴィネルに比べると本当に恥ずかしいんですけど…」
通された一室は、各寮の部屋に比べれば随分とこぢんまりしたものであったけれど、ここでユウさんが過ごしているのかと思えば特別な場所に見えた。
ローテーブルの前に置かれた小さなソファーに、勧められるがままに腰を下ろす。
部屋を見回せば、勉強机に、ユウさんが眠るにしては大きめのベットが一つ。それからバルコニーにつながるのだろう、大きなテラスドア。
「いい部屋ですね」
「本当に。住まわせてもらえるだけでも十分です…」
お世辞ではなく、なぜかわからないがこの部屋にいると安心できるような気持ちがして、息をほっと吐く。
僕は随分と緊張していたようだった。
そんな僕の横に、そっと腰をかけるユウさん。
小さなソファーは二人分の体重で、また少し沈んだ。
お互いの顔が見えない。
相手が何を思っているのか、わからない。
ドクン、ドクン、と自分の鼓動がやけに大きく耳に響く。
「あの、」
「っはい!?」
ものすごく上ずった声が出てしまい、頭が真っ白になった。
今日一日で何度失敗すればいいんだ。自分のコンディションがこんなにも最低な日は初めてかもしれない。
でも、そんな僕を嘲笑するわけでも乏しめるわけでもなく、ユウさんは控えめに声をかけてくれた。
「っふふ…先輩、緊張してます…?」
「し、してませんよっそんな、緊張なんて僕は」
「そうですか?…私は、とっても、緊張してます…」
そう言ったユウさんは、膝に乗せられていた僕の手をそっと取り、両手で、キュ、と握りしめた。
「今日は、わざわざ来ていただいて本当にありがとうございました…」
心なしか声が震えている気がする。
「私…アズール先輩に頼みたいことがあって」
そっと手を離したと思ったら、着ていた服のポケットから、一つの小さな紙袋を取り出した彼女。身振りで、開けてくださいと言われて、中を見る。すると、一見すると透明と見間違うような薄い水色がかったピアスが一つと、同じ色の石がはまったネクタイピンが一つ出てきた。
「これは…?」
「これを、私につけてくれませんか」
「ピアスを、ですか?」
「はい…あの、ピアッサーも用意はしてるのですけど、痛いと聞いているので、もし魔法でパッとつけてもらえるのであれば、痛くない方でやってもらえると嬉しいです」
「それは、まぁ、そういう魔法はありますし、やることもできますが…」
なぜ?疑問が拭えず、小首を傾げて見せれば、例の悲しそうな顔をして呟かれる言葉は僕の心を波打たせる。
「私が、いなくなっても、私のことを覚えていてほしいから…アズール先輩に、つけてほしい、です」
「え…?ま、さか、元の世界に帰る方法が見つかったのですか?」
「いえ、いいえ…そういうことでは、なくて、その…」
言いにくそうに説明された理由が脳で処理されるまでに時間がかかる。
博物館で見たものによって、自分の存在がいかにおかしなものかに気づいたこと。
よく考えれば、いつ、この世界からいなくなるか自分にもわからないこと。
自分が消えてしまった後、自分も、この世界の人たちも、何を覚えていられるのかわからないこと。
だから、写真を撮って、この世界に生きた証を残しておこうと思ったこと。
どれも最もなことで、また、どれも考えないようにしていたことばかりだった。
「だから、いつそうなってもいいように。私の記憶が消えても、アズール先輩の記憶が消えても、写真だけじゃなくて他にも何かが残るように」
その目が強い意志を持って、僕を見つめる。
「私はこのピアスを、それからアズール先輩には、ピアスの片割れを埋めてもらったネクタイピンを持っていてほしいんです。ネクタイピンなら、オクタヴィネルの寮服にも合うかと思って…それから、その…ベタで申し訳ないんですけど…ネクタイピンを贈る意味があって、」
ジンジンと心が痛くなる。
「あなたをずっと見守っています、という意味と、あなたは私のもの、っていう、意味が、あって…」
目の前の彼女は涙をこらえながらも懸命に気持ちを伝えてくれていた。
あぁ、そうか。こんなに辛い思いをしていたから、ずっと僕に近づけないでいたのか。
それなのに僕は自分のことばかり考えて。
こらえきれない気持ちが身体を突き動かした。
華奢な身体を二本の腕で強く強く抱きしめる。
「っ、!!」
「ありがとうございます、ユウさん…それから、ごめんなさい…そんな辛い思いを一人で抱えさせてしまった」
「せんぱ」
「僕は、貴女のことを忘れたりなんかしない」
「…ふ…そうだと、いい、なぁ…」
ボロボロとこぼれだした涙が僕の胸を濡らしていく。
「でも、っ…もしも、もしも忘れちゃってもっ…思い出してくださいねっ…!私がそうなっても、絶対、絶対思い出しますからっ…!」
「はい…、心配しないでください…僕を誰だと思っているんです…?アズール・アーシェングロット、貴女がこの世界で愛してくれたたった一人の男ですよ…忘れるわけ、ないでしょう、忘れたって、思い出してみせる…だから泣くな」
「うっ…っ…絶対ですよぉっ…」
僕の背中にすがりつくように手を回して、ユウさんはとめどなく涙を流した。
暫く涙も呼吸も落ち着いてウサギみたいに目を真っ赤にしたユウさんをみて、ピアスをつけることにした。
開けるのは、左がいいとのこと。曰く、僕が髪を流している方向が左だからだとか。
どこまで可愛い人なんだ。
「魔法でやりますが、チクリとはするかもしれません、念の為、気持ちの準備はしておいてくださいね」
「っ、はい…!」
「じゃあ、いきますよ」
マジカルペンを取り出して、ピアスに息を吹きかける。小さな声で呪文をふりかけ、そのまま耳に押し付けた。
パチン
「はい、終わりです」
「…もうできたんですか…?」
「もちろん。触っても大丈夫ですよ」
「本当だ…ついてる」
細い指が今しがたついたばかりのピアスを撫でる。愛おしそうに目が細められた。
「では、僕はこちらをいただきますね。ありがとうございます」
「はいっ!使っていただけたら、嬉しいです」
「明日から使わせてもらいますよ、大切にします」
「また見に行きますね!…っと、もう一つ、頼みがあるんですけど…いいですか?」
「ふふっ、もちろんですよ。貴女の頼みなら何なりと。もちろん対価はいただきますが」
「えっ!?それは困ります…今日、何か渡せるものあったっけ…」
「それは後で構いませんよ。それで?次はなんでしょう」
そう問えば、ソファーから一度立ち上がって、勉強机から何かを取ってきたユウさん。
戻ってくると、その手には最近いつも持っているカメラが抱えられていた。
「写真も、一緒に撮ってもらえませんか」
「なんだ。写真くらい…と思いましたが、ダメです。今この服装で取るのは気が引けます」
「えぇ!いいじゃないですかぁ…いつもと違う雰囲気で…そういう先輩も、かっこいいです…」
「…っまぁ…貴女がそういうなら…仕方ありませんね…1枚だけですよ」
その言葉に乗せられたわけじゃない。どうせユウさんしか見ないのだ、と気持ちに整理をつけただけだ。それに他にもまた、別の場所でも撮ればいいだろう、とも思ったから。
「う~ん自撮りは難しいかなぁ…」
「そんなもの浮かせておけばいいですよ。ほら、」
「わぁ…やっぱり魔法っていいなぁ」
ふわふわとカメラを浮かべてやれば、羨ましげな顔がこちらに向けられた。
「グリムさんがそのうちできるようになるんじゃないですか?」
「自分でやりたいんですよ。憧れじゃないですか、やっぱり」
「まぁ、グリムさんができるようになるかもわかりませんしね。ん…写る範囲が狭そうですね…もう少しこっちに寄れますか?」
そういえば、意図せずして密着してくる身体に、少し焦る。けれど心の乱れが魔法に出てはまずいので、気を引き締めて集中した。
「、よしこれなら入るでしょう。とりますよ?3、2」
「…アズール先輩、」
「なんで、」
カシャリ
名前を呼ばれ、ついそちらに顔を向けた。
その瞬間にシャッターが降りる。
一秒
本当に一瞬だった。
ゆっくりと唇が触れ合って、離れて。
息をするのを忘れてしまった僕の時は止まった。
「すき…」
濡れた瞳の奥に燻る熱に確かに見てとれた劣情に、どうしようもなく高ぶった己の気持ち。それを抑えられるほど、自分は大人ではなかったことを知る。
浮かせていたカメラが、カタンと、床に落ちたことも気に留めず、今度はこちらから口付けた。
「ん、ぅ」
「ン…」
唇を割って舌を差し入れ、欲望のままに咥内を荒らすと、ユウさんのくぐもった声が僕の脳を犯す。
「っハ…、」
「ふ、ん、ぅは…ぁ」
「ユウ…」
「…、せんぱ、卑怯、ですよっ…」
「…はい?」
「こんな時だけ…また、呼び捨てにもどるなんてっ…」
少し距離を置いていたせいで、元のさん呼びに戻っていたらしく、それが気に入らないと、不機嫌そうな顔をした。
「ふ…僕のお姫様はこんな時に、そんなことを気にしているなんて、」
「っ!!」
「ユウ」
「っだから、」
「ユウ、ユウ、ユウ」
「んっ…!!」
今度は唇ではなく、耳元で何度も囁いて、そして、らしくないけど、言ってやろうか。
「愛しています」
こんなこと、一生涯自分の身には起こらないと、そう思っていた。こんな気持ちが自分の中にもあるだなんて驚いているくらいだ。
愛しいと心がうるさい。息をするのすら苦しい。
「努力はしますが、抑えられるか、わかりません。どうしましょうか」
「…それを、私から言わせるんですか…っ」
「確かに…。では、先程の対価、ということで、僕は貴女をもらいましょう」
もう一度唇を奪うと同時に、部屋の電気は落としておいた。
テラスドアからは月明かり。
僕に何と似合わないシチュエーションなんだろう。
そのまま二人、夜の闇に溶けようじゃないか。
暗く冷たい深海ではなく、暖かいベッドの上で、貴女を抱きしめながら。