一章


 昼食は三日月の隣で食べた。食器の片付けまで終わると歌仙による勉強会が始まった。
 これまでと同じように歌仙は審神者を二階に連行し、誰も入れないために戸を閉める。締め切られた窓に阻まれてずいぶん遠くなった蝉の声が部屋を満たしていて、その中で極めて静かに、真隣に座る教師──歌仙の淡々とした授業が進められる。まず漢字のテストから始まり、今日は歴史の授業。きっと今日も分からないのだろうという予感と諦めが空中を浮遊し、審神者を包み始める。
「──じゃあ、この四択の中で、正史でないものはどれ?」
 審神者は紙の上で鉛筆を無意味に動かし、口ごもった。考えてもやはり分からなかった。無言。沈黙が責めるように訪れる。歌仙の審神者への嫌悪で空気が軋む。無言になることは答えにたどり着くまでの道のりでもあるが、限界がある。今、これ以上は進めないことだけがはっきりしていて、考え続けることも出来なかった。蝉の声に耳を澄ませ、歌仙が口を開くのをじっと待った。
「一昨日勉強した範囲だよ。一六五七年には何があった?」
 沈黙に責められて苦しむことはこれまでに何度もあった。けれど今はそれが腹立たしかった。全てに怒りを覚えた。泣くよりも力任せに乱暴なことをしたかった。
 せっかく新しく本丸に引っ越してきたのだ。だから、少しは何かが変わると思ったのに、歌仙は相変わらず審神者を嫌って、叱り続ける。長谷部の炎は恐ろしく勢いを増した。喧嘩だって同じだ。前の家よりも広い本丸に来たのだから、閉塞された部屋で勉強をするのも嫌だ。何も変わらないじゃないか。場所は変わったのに、窓も増えて風通しがよくなって、新たな世界が始まると思ったのに、どうして嫌なものは変わってくれないのか。
 蝉の声と比例するように苛立ちが膨らむ。暴れたかったが結局は涙が出た。呆れられると分かっていても止められなかった。
「まだ始めたばかりだよ。泣かないで」
 突き放すように言って、歌仙は少し足を崩した。これまでのように、審神者が泣き止むまで教科書を読んで待つつもりなのだろう。でも審神者の涙はこれまでとは違う。全く新しい、怒りの涙だ。
 審神者が涙に突き動かされた拳か何かで訴えを起こす前に、しかし教科書は閉じられた。歌仙は教科書を置いて座り直し、審神者の顔に目を向けた。
「主。今朝も言ったように、立場上きみはもう立派な審神者なんだよ。自分の刀も本丸も持った、いっぱしの審神者」
 低い声が鋭く審神者の胸を掠め、火照った体が固まる。
「子供だからといって、政府や時間遡行軍は容赦しない」
 真っ直ぐ見られるのが嫌で、顔を伏せた。歌仙は動じずに続けた。
「始まりの一振りには、主が真っ当な大人の審神者になれるように教育する義務がある。新しい世界に足を踏み入れた審神者が責務を果たせるように、何より、自分自身を守ることが出来るように」
 何かが頭に当たり、反射で肩が跳ねる。見ると、それは歌仙の手だった。優しく審神者の頭を撫でていた。驚きで涙が出なくなる。
「それに、きみのご先祖さまたちは皆、近侍に本丸運営を任せ続けていたようだけれど──」手を戻し、いくらか柔らかくなった声色で言った。「主にはいずれ自分で本丸を運営してもらいたい。いつまでも近侍に任せているのは不健全だ」
 涙が見せた幻を眺める心地でいた。何度もまばたきを繰り返し、蜃気楼でもおかしくない彼の顔を見つめる。
「だから、きみには頑張ってもらいたいんだ。正しい道を歩む人間になって欲しい」
 微かに笑みを浮かべていた。その唇は、声と言葉からは想像の出来ない、痛みに似た感情にとらえられた色をしていた。
 歌仙は口を閉じて審神者の返事を待ってるようだったが、すぐにまとめに入る口調で継いだ。
「つまり、きみは審神者だから、しっかり勉強しなくてはいけないということ」
ぼやけた視界の真ん中に映るものが、抱えた自分の膝から歌仙に変わり、叱責を思い返す。「わたしが審神者だから……」
「そう、審神者だから」
「じゃあ、ラムネ飲んじゃ駄目なのも、わたしが審神者だからなの?」
「僕に言わずに飲んだだろう? してはならないのはラムネを飲むことではなく、勝手な行動をすることだ。審神者は常に決まりを守らなくてはいけない。これはそのための練習なんだ」
「でも長谷部はいいって言った」
「長谷部の言うことよりも、僕と決めたことを守ってくれ。良いことと悪いことを自分で判別できるようにするんだよ」
「でも、秋田も飲んでた──」口に出した途端、今日見た景色のすべてが瞬く間に頭の中を流れた。それらはつながり、窓の外の葉っぱの向こうで青い空が広がるのが見えた。「じゃあ、歌仙がわたしだけを怒るのは、全部、わたしが審神者だから?」
「うん。審神者だから、誰かに惑わされず、正しさを選べる強い人間になるんだ。審神者に相応しくないことをしたら僕が𠮟る。怒っているわけではないよ」
 初めて自分の目で空を見た気がして、今日に限って言えばそれは本当だった。二階の窓からの方が空はよく見える。好きとか嫌いとか、そういう感情は広い空の下ではきっと存在しないか、全く重要ではないのだと、目が覚めるように理解する。
 歌仙の目を見つめる。彼の鋭い眼光だと思っていた青は天の色に比べて控えめで、本来はずっと優しいのかもしれないとまで思えた。
 歌仙はつまり、審神者のことは嫌いじゃない。清らかな水を飲んだ朝のように、心から安心したとき特有の温かさが胃から全身に広がる。単純だった。彼が厳しいのは、わたしが審神者だから。それだけ。
 新たな気づきと安心に身を浸していると、戸の向こう側で誰かの声がして、同時に戸を叩く無遠慮な音と「開けるぜ」の一言があって、誰の反応も待たずに戸が開けられた。
 和泉守だった。姿を見ただけで、この安全が脅かされる日は永遠に来ないと確信できる。力強い来訪だった。
乱雑に戸を開けた割に部屋まで入って来ることはせず、和泉守は足を開いて一歩横にずれた。和泉守が空けた空間に骨喰と秋田が顔を出す。
「何の用だい、大勢で。主は勉強中だから手短に頼むよ」
「あの、僕たちも勉強会に入れてくれませんか」
 突然の申し出に歌仙はゆっくりと眉をひそめた。「どうして?」
「前から、骨喰兄さんと歴史の勉強をしてたんです。僕たちも知らないことが多いから……でもやっぱり、二人じゃ限界があって、なら勉学に明るい歌仙さんに教わった方がいいんじゃないかって。ずっと機を伺っていて」
 一気にそう言ったあと歌仙をちらっと見て、決まり悪そうに続ける。「だから主君と一緒に、勉強したいなって、思ったんですけど……」
「駄目だよ」精一杯の頼み事を刀らしく一刀両断され、秋田は顔を曇らせて黙り込んだ。
 審神者が理由を尋ねる前に、諦めの無音に包まれた。すると和泉守が闇を切り裂く流れ星を思わせる勢いでずかずかと部屋に入り、審神者の正面で膝と膝の間を豪快に広げながらしゃがんだ。
 審神者を見つめる和泉守の目は、光を帯びたラムネみたいな色をしていて、とても綺麗で、目を合わせただけで心が奪われるのが分かった。「なあ、あんたは歌仙と二人がいい? それともオレたちと一緒にやりたい? 好きな方を選んでいい」
「和泉守」歌仙がじれったいような声を出す。和泉守は無視して、審神者に聞き続けた。
「主。あんたはどうしたいんだ」
 和泉守は強いのだった。甘さと同等の優しさ。誰かを傷つけることのない、強化ガラスの割れないラムネ瓶。彼が自称する強さはこれなのだと、気付いて再び涙が滲んだ。きっと星よりも光る。
「一緒がいい」
 今朝のと同じ攻撃である、けれど遥かに希望が込められた審神者の頭突きを、和泉守は尻餅をつきつつ受け止めた。
「勉強した内容を定着させるには、誰かに説明するのが良いと聞いた。自分で説明できて初めて理解したことになると」
「いずれ無知な人々に歴史を教える立場にもなるんだろ。『審神者だから』、な」ようやく口を開いた骨喰の言葉の続きを、ずっと狙っていたように付け加えた。「練習になるんじゃねえか?」
「……聞いていたの? いつから?」
「漢字テストが始まってからです」
「初めからじゃないか」
 歌仙が諦めたようにかぶりを振るのを、和泉守の腕の中で見た。先ほどまでの厳しさが溶ける気配を感じる。
「之定。少しは優しくしてやったらどうだ」
「優しい優しくないではなく、主に相応しい環境を整えるまでだよ」
 歌仙は観念したように目を閉じて、次に目を開けたときは珍しく早口になっていた。
「主、僕と二人でやるよりも集中出来ていないと判断したら、すぐに彼らを追い出すからね」審神者を真っ直ぐ見たあと、業務連絡のように言う。「これは主のための勉強会だ。主の理解に合わせて進めるから、きみたちが遅れても知らないよ」
「本当ですか!」
 秋田が喜ぶ傍ら、審神者は息を呑む。
「でも今日からじゃない。やり方を考えるから、来週の月曜まで待って」
 歌仙は教科書を持ち直し、戸の方を振り返った。「さあ、ほら出て行って。今日はまだ少ししか進んでいないんだ。主、頑張れるね?」
「うん」和泉守から抜け出し、自ら机に向かった。あ! と大きな声を出した秋田が戸の枠に手をかけて顔を出す。
「主君、冷蔵庫に主君のためのラムネ、いっぱいありますからね! アイスも、好きなのを一番最初に選んでいいですよ!」
「いいの?」思わず声が跳ねる。秋田は大声を出すこと自体が楽しいのだと全身で主張するように両手を振った。
「もちろん! あなたは主君なんですから! 僕たちだけの審神者様ですから!」
 蝉の声は祝歌として鳴りやまなかった。新しい世界は夏と共に始まり、そこでわたしは審神者だった。
 
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