一章


 厨という古風な呼び名にはそぐわない一般的なキッチンの、和室との仕切りとして据えられた段差に座って、長谷部が開栓したラムネを一口飲んだ。炭酸から生まれた閃光が喉を走る。その感覚は大して好きではないけれど、ラムネの、可愛らしい名前の響きと透き通った瓶と、ビー玉のささやかな輝きが好きだった。欲しいとは思っていなくても、与えられれば嬉しいものだ。
 流れ込む風は薫風の名残をやわらかにまとってカーテンを揺らす。食器棚の近くで立ち飲みをしている秋田の桃色の毛先も揺れている。
 ガラス瓶の青色に濾された景色を閉じこめるビー玉が見たくて、それが最も綺麗に見える位置で光にかざした瓶を下から覗き込んだら、少しこぼして膝が濡れた。きらめいたままの冷たさに驚いて、叩き起こされた心地になる。
 審神者がまばたきをする間に長谷部が近くに来た。審神者が顔を上げると、長谷部はすぐに起こったことを理解して、跪き、手ぬぐいで膝を拭いてくれた。
「裾が少し濡れてしまいましたね。替えの服を持ってきましょうか?」
 残念そうに伏せた燃える目を、今度は審神者に向ける。心臓が音を立てた。
 選択を迫られて、この目が怖いのだとやっと理解する。長谷部は刀の中で一番の新参者なのに、誰よりも「主」と審神者を仰ぎ、指令を受けようとする。彼の熱意が、熱意に燃える目が少し怖い。
 ラムネの瓶を両手で握りしめた審神者が何か言う前に、長谷部の目の色が炎ごと凍り付いた。急激な温度変化にあっけにとられたが、どうやら彼は審神者の後ろに視線を飛ばしているようだった。
 振り返ると、目の前は黄みがかった灰色の壁になった。目線をゆっくり上に滑らせ、白っぽい着物に絡む紅白の紐に差し掛かったところでやめた。歌仙の内番着を着た壁だったらどんなによかったのに。審神者はさらに強く瓶を握りしめた。
 静かな威圧感が空気を震わせて背中を刺す。どうして彼のことを忘れてラムネが飲めたのか、ただただ不思議だった。
 食器棚にしまわれてある審神者用のフォークの隙間まで威圧して、歌仙は言った。「主。今、手にしているそれは何だい?」
 冷ややかな声が頭上に降り注ぐ。審神者は黙り込んだ。「お菓子や甘い飲み物を勝手に口にしてはいけない。ずっと前に決めたことだ。忘れたわけではないよね?」
 もしかしたら嫌いなわけじゃないかもしれない。希望は、極限の冷淡さに固められた歌仙の実体に制圧され、哀れなまでに散っていった。間違えようがなかった。やっぱり歌仙はわたしのことが嫌いなんだ。「聞いているかい?」
「俺が差し上げた」長谷部が立ち上がり、低い声で審神者の代わりに返事をした。
 歌仙はあからさまにため息をつき、「またきみか。やめてくれないかな。きみの行動は主に悪影響を及ぼす」
 目の前の手は手ぬぐいを容赦なく握りこんでいた。
「どうして好きな飲み物を飲んでもらうことが悪影響になる?」
「彼女を、決まり事を守らない人間に育てるつもりなのかい?」
 審神者は手の中のラムネを見つめた。
「主にとって何が良いのか考えろ」
「こっちの台詞だ」深く叩き込むように言葉を放つ。「きみがやってるのは、主をそそのかす愚行だよ」
「意味のない規則を設ける方がよっぽど愚行だろうが。主の意向が最優先だ。主に従うことが、俺たちが肉体を持ってこの世に存在するための最低限の規則だろう」
 歌仙は先ほどよりも短くため息をついた。
「あのね。第一、もうすぐ昼食の時間だ。炭酸はお腹が膨れるじゃないか。もっと考えて行動するべきだ」
 歌仙の声が確かな足取りになって迫る。「主のためになりたいのなら」
 風が首の後ろに通った。「論点をずらすな」
「ご飯の時間に合わせてお腹を空かせておくことは、主にとって良いことではないのかい」
 人の気配が離れるのを感じた。直前まで二振りに挟まれて身動きが取れなくなっていた審神者だが、それでもまだ動こうとは思えなかった。長谷部が再び跪き、怒りよりは悲しみを隠したがっているような困り顔で微笑んだ。
 ラムネは審神者の手の中で、立ち上がった長谷部と審神者の手の影に覆われて色を消していた。これをどうするのが正しいのか、本当に分からなかった。まだ割れていないのに誰かを傷つけるかもしれない鋭利なガラスになったのかと、暴れ出したくなるのを押さえつけた心で静かに思う。
 長谷部が顕現してからずっと、二人はこうやって審神者を巡る言い争いをしている。以前は審神者の目に触れないところでやっていたが(それでも隠しきれてはいなかった)、今となっては文字通り審神者を挟んで争うまでになった。審神者は二人が言葉をぶつけあい、火花を散らすたびに何も言えなくなる。何か発言をすればどちらかの味方になることに繋がりそうで、水に潜るのと同じ要領で息をひそめて、戦いが終わるか誰かが救い上げてくれるのを待った。どちらの味方にもなりたくなかった。長谷部の味方になったら、歌仙は審神者をもっと嫌うだろうし、嫌われているから歌仙の味方にもつけない。
 長谷部は審神者の前にしゃがんだ。熱を残した瞳に見つめられて体がこわばる。一言断って、動かない審神者を抱き寄せるように近づいた。竹を思わせる匂いがすっと鼻をかすめた。長谷部の片手は、小さな両手に握りしめられていたラムネを優しく抜き取った。
「お許しください、主」
 これはまた後ほど、とラムネを冷蔵庫にしまった。冷蔵庫のドアポケットの向こうで長谷部の眉が苦しげにしかめられているのを、その下で赤くちらつく火の粉を確かに見た。

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