一章


 朝食を食べたあと、全員がもう一度座卓を囲んで座った。本丸運営の手始めに歌仙がいつの間にか作っていた本丸のルールやらを話していたようだが、審神者は窓から見える雲のうちもしひとつだけに乗れるならどれに乗りたいか熟考したあと、自身のお腹の上あたりにこぼしていた炒り卵のかけらを見つけて、誰にも気づかれないように食べるミッションに集中していた。
 話を聞かないうちに、やりかけだった引っ越しの片付けの続きをする流れになったようだった。手伝うことがあるか聞く前に、秋田に「本丸探検しましょう!」と誘われ、審神者の心はすぐ探検という期待に満ちた響きに引き寄せられた。
 探検、探検と口ずさむ秋田と二人で横並びになって廊下を進む。蛍丸も誘ったけれど、力持ちの彼には片付け要員の重役として先約があった。ぴかぴかの新居の、まだ数回しか歩かれていないであろう廊下の冷たさが足の裏を媒介して全身に広がるも、空調の効いていない場所の暑さは簡単にそれを上回る。
 天井の木の継目が太いストライプを作っている。どの場所も光を満たしていた。本丸内のつくりは前に住んでいたところとよく似ている。一室ごとの広さは前の家よりもあり、廊下もずっと長いが迷うことはなさそうだ。
 探検という遊びだから、足を向けるのは誰も引っ越しの荷解きに使っていない無人の場所だ。未開の地に足を踏み入れたはずなのに、和泉守が中途半端に広げた荷物の中に漫画を見つけて読み耽っているのを長谷部に注意されているところにでも遭遇したら興ざめだ。そうして誰の気配のしない部屋に入るたび、秋田は素早く全ての障子や襖を全開にする。かと思えばうずくまるなり畳に耳を当てて静かになる。審神者は探検を飛び越えて探索するような秋田の鮮やかな動きが愉快で、短刀の男士は、刀を模した枝を持ったリスなのかもしれない、と連想する。
 何番目かに入った部屋の、横に滑る板をことごとく滑らせた秋田は不意に審神者を見た。「主君、楽しいですか?」
「うん。広いし、楽しい。暑いけど」
「よかった!」
 小走りで審神者の隣に戻って来て、また二人で廊下を進む。
「秋田は外で遊ばなくていいの」
「遊びますよ! でもまずは本丸の中を探検したいです!」
「なんで?」
 人差し指を立てた。「新しい場所を探検するのは、外じゃなくても楽しいから」中指も立てて、ピースの形になる。「迷わないように、早く本丸の構造を覚えたいから」
 別の和室に入った。寝間として使っている部屋の二倍は広い。
「迷わないよ。だって前の家とちょっとしか違わないよ、ここ」
「でも、大きく違うところもあるかもしれないし……」
 歯切れ悪く言いながらも、秋田はすぱん、すぱんと軽快な手捌きで襖を開け放つ。
「なんで襖を開けるの?」
 秋田は少し手を止め、また開け始めた。「もし押し入れや地袋の中に、虫とか、いたら困るなと思って……」
「ふーん」
「主君、さっきは大丈夫でしたか」疑問を込めて秋田に視線をやる。「足、ぶつけてましたよね。けっこう大きな音してましたけど……」
「足は平気。ぶつけたって言うより、蹴った感じだし」返しながら、自然とその直後のことを思い出して、拗ねた声が出た。「歌仙に怒られたのが大丈夫じゃない」
 秋田は手を止めて、審神者に顔を向けた。同情の重ねられた表情から、なだめようとしているのがもう分かる。
「歌仙さんは、主君が怪我をしないか心配だったんですよ」
 優しい物言いだが見当違いだ。むっとして返す。「違うよ」
 突き返した勢いで、誰にも打ち明けていなかった事実が引きずり出された。「だって歌仙はわたしが嫌いなの、だから怒った」
 自分の口からそれが出たことを疑い、取り返しのつかないことをした気になって一瞬焦ったが、事実なのだ。
 歌仙が審神者を嫌っているということを初めて口に出して、お腹の奥に沈んで燻ぶっていた思いが、ホウセンカの実を真似したみたいに弾ける。弾けた実から、悲しみを閉じ込めた種が散らばり、諦観まで得た。
「そんなことないですよ!」と、秋田は大きな目を見開く。驚きが転じた純度の高い否定だった。その否定に寄りかかりたくなる、当たり前だ。嫌われるのは悲しい。
「嫌いだなんて、ありえないですよ。歌仙さんは主君のこと大好きです」
 大好き? そっちの方がありえないよ。言おうとしたが、悲しさが激しい痛みとなって、言葉はうめき声っぽい何かに代わる。
「本当です」秋田は審神者にぐいっと顔を近づけ、目をそらさずに断言した。
「……そうかな」
 希望的観測であることは頭ではわかっていたが、断言の力強さと、空色が抱えた桃色の、朝焼けに染まったような秋田の目を前にして、もしかしたら、という感覚が胸に降りる。冷たい言葉と目線の数々には別のわけがあるかもしれない。自信に満ちた秋田の顔を見ているうちに、とにかく違った見方をしてみようと思えるところまで来ていた。
 秋田はもう一度深く頷いてから、襖を開け放つ作業に戻った。秋田の背中を見届けて、審神者は部屋から広縁に出た。広縁は窓ガラスを通した太陽光が直に当たるから、さらに暑くてまぶしい。歌仙が近くにいないことを確認し、駆け抜ける。
 審神者は、歌仙のことは嫌いではない。冷たい態度を取られても、嫌いだとはどうしても言えない、思えない。嫌われているのだから嫌い返そうと意地を張った時期もあった。でも無理だった。彼の前では尖った心も圧され、無効化される。
 翳りに入った。明度のコントラストのなかにある厠の戸がまず目に飛び込む。厠は居間からも寝間からも遠い。陽が落ちてから厠に行きたくなったときは誰かについてきてもらうことにする。
 ここには洗面器と浴室があり、少し先には二階への階段があるが、この場所は陽が当たりにくくて昼でも少し暗い。昨日何度か来た場所ではあるものの、不気味さ故の不安は拭えない。厠の戸を開けたら知らない誰かがいるかもしれないとか、ハンドソープのポンプに描かれている家族のイラストが鬼の顔に変わっているんじゃないかとか、そういうことを考えてじっとりと汗がにじむ。うるさいほどの蝉の鳴き声が聞こえていなかったら、きっともっと怖い。
 その蝉の声に違和感があった。何故か足元から響いてくるような気がして、秋田がやっていたのと同じようにしゃがんで手を着き、床に耳を当てた。氷を思わせる艶めきと冷たさを持った木は足の裏にあったときよりも涼をもたらした。蝉の声の出どころは床下ではないようだったが、床に這いつくばった審神者の目線の先には小さな窓があった。前の家にはなかった窓だ。子供一人がやっと通り抜けられるくらいの大きさのその窓は開いており、そこから蝉の声が聞こえていたのだと分かる。
 見渡してみると、窓は天井近くにもあった。あれも前の家にはなかった。
 考えてみたら、かつての広縁はあんなに太陽の光を受け入れてはいなかった。外に見える木の葉っぱがあれほど若々しい緑色だったことはなかった。ここは、暗くて怖い場所ではなかった。全然違うのだ、前とは。同じはずがない。歌仙に嫌われていることを恐れず打ち明けられたのも、きっと前の家とは違う、この広さがあったからだ。
 新しい場所に来た。本丸を持って、新しい世界が訪れたのだ。だから、もしかしたら、歌仙も新しくなって、審神者のことを嫌わなくなるのかもしれない。
 希望を持って足元の窓にいざり寄り、頭を目いっぱい下げて外を覗こうとすると、どたどたと足音が聞こえてきた。こんな姿勢では怒られる。審神者は咄嗟に立ち上がった。背中を壁につけて何も持っていない両手を隠し、足音の持ち主を待ち構えた。
「いた! 主君!」
 勢いよく飛び込んできたのは秋田だった。「勝手にいなくならないでくださいよお」
 審神者は安心し、足音の騒がしさから歌仙ではないことを早めに気づけたな、と思い、足音の種類から刀剣男士が分かるようになったたら便利だろうとも思った。
「主? こんなところにいたのですね」
 機嫌のよさそうな声だけが聞こえ、しかし長谷部が無音で現れた。秋田が驚いた顔で長谷部を見る。「あっ、長谷部さん……」
「異常はないか」長谷部が真剣な顔で軍隊のような言葉を使うときは、審神者には関係のない話をしているときだと決まっている。
「はい、今のところはどこにも。気配もないですし、大丈夫だと思います」前髪を手で整え、秋田は早口で言った。
「俺もそう思う。とはいえ油断は禁物だ」
 審神者はどうしてもあの発見を早く誰かに教えたくて、窓を指して笑いかけた。「ねえ見て、窓。前の家にはなかったよね。ここから出られるかな」
 秋田の言うとおりだ。本丸は前とは全然違う。興奮気味に言う審神者を捉えた長谷部の顔がぱっと明るくなり、しかし窓を見てさっと表情を消した。秋田の大きな目は長谷部の反応を伺っているようだった。
 長谷部は「本当だ、気付きませんでした。よく見つけましたね、主」とすぐに笑って膝をつき、素早く窓を閉めた。秋田が襖を開け放つ動きよりも速かった。「でもこの窓から出てはいけませんよ。危ないですから」
 そのままの姿勢で審神者の方を向き、従者らしく審神者を見上げた。
「ここは暑いでしょう。主は涼しい所で休んでいてください。必要なものがあればお持ちしますよ」
 審神者は戸惑って、ひとまず長谷部の顔に視線を投げる。
 目元から読める感情は柔らかいものだと分かるのに、奥の瞳があるだけの光を吸収し、凝縮させた光で審神者を焼きたがっているように、じっと返事を待っていた。彼の目の色は藤の花に似ているが、目が合うときは常に燃えるような色を宿していて、だんだん正体不明の焦りがじりじりと迫ってくる。
「ご要望があれば、なんなりとお申し付けください。主の御心のままに」
 緩やかに弧を描いた口で、長谷部はいつも何度も主と言う。他の刀が気軽に呼んでくる音と同じなのに、彼が発する「主」にはしっとりと重い響きになるような成分が混ぜられていると感じる。お湯で湿らせたガーゼが肌に密着するような重さだ。探検に向けられた前向きな気持ちは枯れ、何を求めているわけでもないのに、熱に圧されて別方向の返事をしてしまう。「うん……じゃあ、ラムネ飲みたい」
「分かりました」
 もう一段階上の微笑みを見せた長谷部は立ち上がる。審神者は長谷部の後ろに着いていこうとしたが、長谷部は審神者の歩く速さに合わせて歩いた。足元の蝉の声は遠ざかり、代わりに太陽の白い光が肌を刺してきたので長谷部の影に隠れた。それでも熱かった。
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