二章
公園を出ようとして、またブランコに乗っていないことを思い出した。同時に湧き上がってきた欲求──今すぐ揺れる椅子に座って風を切りたい、あわよくば立ち漕ぎしたい──を審神者として何とかこらえ、妥協して、「最後にすべり台滑りたい」
二振りの返事を待たずに走って階段をのぼり、いざお尻をつけようとした場所に、黒い塊が落ちていた。近づいて見るとそれはゆっくり動き、固まった。カブトムシだった。
「主、何してるのー。早くー」
「カブトムシがいる」
「またカブトムシ?」
審神者はしゃがみ、カブトムシの硬い角を掴んで持ち上げた。抵抗して足をばたつかせることもしなかった。審神者はカブトムシを両手に乗せてすべり台の階段を一歩一歩踏みしめながら降り、二振りに見せた。
「カブトムシって……逃がしちゃったカブトムシですか?」
「分かんない──」殻や長い角を見つめても虫の個体の違いは分からない。まったく動かないこれが、前まで光そのもののように飛んでいたものと同じだとは思えなかったが、再会の可能性を思うだけでも嬉しかった。「けど、そうかも」
「死んでない?」
もう一度角を掴んでも、ひっくり返してもカブトムシは固まったままだった。蛍丸の言う通りのようだった。
「あ……」もしこのカブトムシが、この公園で捕まえた光るカブトムシと同じ個体だったら。「光を太陽に届けて、死んじゃったんだね」
ひぐらしの声がいつしか聞こえ始めていた。
「ここに戻ってきたかったんだ」
ひぐらしはみんな、ずっと遠くで鳴いている。すべり台の周りに木はなかった。
「すべり台の上で死んでたのは、遊んでみたかったからかな」
すべり台の上にカブトムシがいるのは不自然だった。現実的ではなくても、カブトムシが意思を持ってここまで登ってきたと考えるのが自然だった。光ることができるのだから、意思だってあるかもしれない。
「それで、頑張って階段を上ってきて、間に合わずにここで死んだんだ」
手の中を眺める。表情も言葉も持たない虫は、動かないことが命の尽きた証拠だ。このカブトムシはもう死んでいる。それでも。
「もしちょっとの時間だけでも生き返ったら、わたしが滑らせてあげられるのに。今なら……」
「ねえ。審神者はそういうこと言っちゃいけないんだよ」
蛍丸の、これまでで最も固い声が飛んできた。驚いて、「なんで?」
「審神者は特別なんだよ。あの歌仙に言われてるんでしょ、審神者だからやってはいけないことがある、審神者だからやらなくちゃいけないことがある、って。それと一緒」
「どう一緒なの?」
「だから、もし死んでいなかったらとか生き返らせるとか、そういう発想を持っちゃいけないの審神者は。決まりなの。主みたいな子供の審神者は特に。死んだら死んだで終わり、生き返らせたいとか思ったら絶対に駄目。審神者だから」
「どういうこと? わたしが審神者じゃなかったら生き返らせられたの?」
「そうじゃない、普通の人間にも無理だし。でも審神者は思うことも駄目なの。みんな、死んだら終わり。これだけは絶対守らなきゃ駄目!」
「ふーん……」
心から生き返らせたいとは思っていなかったけれど、蛍丸の迫力に押されて、それ以上話すのはやめた。
「じゃあ、せめてお墓作ってあげようよ。その前に滑らせてあげるのはいい?」
「どうやって?」
「一緒に滑るの」
すべり台の階段を上がって、カブトムシを手に持ったまま滑った。初めてのすべり台の感覚はどうか、返事がないと分かっていて聞くのも駄目なのだろうか。
二振りは審神者を笑顔で迎えてはいなかった。
「ねえ、これの名前何がいいかな、捕まえた時からずっと悩んでたんだよね、すべり台が好きって分かったから、すべりカブト助とか……」
「嫌です!」
突然、彼にしては最大音量かもしれないくらいの大きな声で秋田が叫んだ。
「え?」
「だってまだこんな、まだ子供なんですよ! 審神者の前に子供なんです! どうして主君を審神者としてしか見れないんですか!」
何の話をしているのか、また会話が繋がらない。すべりカブト助という名前が嫌なのか。しかし聞ける雰囲気ではない。
「いきなり何?」黄緑の目が鋭く睨む。「主は審神者だよ」
「そうだけど、だって聞いたでしょう、死んだ虫に、遊ばせてあげたいって、そのために生き返ったらって、審神者がこんなこと言えますか!?」
「審神者が言っちゃいけないから教えたの。子供だからまだ分かんなかったんだよ」
「主君は審神者の前に子供だから! ボールで遊んで虫に名前をつけて……僕が怪異を切ったのをあなたは主君に見せなかった、それと何が違うんですか……! 真実だって隠すべき理由があるから隠されてるんです、この子の心を守るよりも歴史の真実を見せつける方が大事だって言うんですか?」
「主は俺たちの持ち主なんだよ! 真実の中で生きた刀の主だ。これから知るんだ、子供だろうが関係ない、知らなくちゃいけない!」
「この子、子供なんですよ……」秋田は強く、痛いほど審神者の両肩を掴んだ。目を丸くする審神者の顔を見て悲しそうにうつむく。「主君、絶対こんのすけに何も聞かないで。僕、子供に戦を見せたくない。あなたが悲しむのはもう嫌です、だってずっと、あなたが味わう苦しみは、あなたが審神者じゃなかったら──」
「秋田!!」蛍丸が叫んで、秋田を突き飛ばした。衝撃に巻き込まれた審神者の手からカブトムシが落ちた。
「ねえ今、自分が何を言おうとしたか分かってる!?」
蛍丸は倒れこんだ秋田の胸ぐらを掴み、秋田は負けじと睨み返す。二振りの間に何が起きているのか全く分からない。でも分からないなりに止めなくてはいけないと思った。わたしは審神者だから刀を守らなくては。審神者だから。
──じゃあもし、わたしが審神者じゃなかったら?
踏み出しあぐねて靴裏を地面に擦る。砂を踏みしめ、秋田が蛍丸の手を乱暴に振り払うのを棒立ちで眺めていると、硬い足音が聞こえてきていた。
「主ー!」
光の声だ。和泉守だった! 和泉守と骨喰が、反対側の入り口から公園に入ってくるのが見える。
和泉守はこちらまで走ってきて、切迫した二振りの様子を見て険しい顔をしたあと、骨喰に審神者を連れて先に帰るように促した。審神者は救世主たる和泉守に駆け寄って、何か言葉を交わすか手を握るか、あわよくば抱き上げてもらいたかったが、微笑み合うだけにとどまった。
本丸の庭に埋める予定の、両手に乗ったカブトムシを見つめながら本物の夕焼け道を骨喰と歩く。先ほど落とした時に足が一本ちぎれてしまっていて、何故だかそれが何よりも悲しくて、拭えない涙がひたすらに顔を濡らした。
骨喰は口を開く気はなさそうで、何もない田園風景に広がる沈黙が、叱られるときの空気に似ていて焦りが来る。
「これ」涙声で骨喰にカブトムシを見せた。「さっき、太陽みたいに光りながら飛んでたカブトムシなんだ。わたしはこれを追いかけて迷ったの」
「本当なんだからね、このカブトムシは光ったんだよ」
「そうか」
「うん」
「嘘だと思ってる?」
「思ってない」
「本当?」骨喰は無表情を貫いている。
「今は光らないのか」
「もう死んじゃったから光らない。でね、すべり台で遊びたがってたから一緒に滑ったんだ。本丸にお墓作ってあげようと思ってて、だから名前考えてて、すべりカブト助にしようと思ってたの」
耳を傾けてくれたのかと思い、鼻をすすりながら必死に話したが、帰り道を見やる色彩の乏しい骨喰の目には何の感情もない。審神者に呆れ切っているように見えて、話したことを後悔した。
「すべりカブト助だと呼びにくい。すべ助の方がいいんじゃないか」
骨喰は一切表情を変えず、驚く審神者の顔も見ないで唐突に言った。
「次にカブトムシが光ったときは誰かに知らせろ。一人で追いかけるな」
審神者は斜め上にある骨喰の顔を見続ける。自分の言葉を信じてくれる誰かがいることがこんなにも嬉しいものかと、これまで当たり前だった感覚が夕陽の光を増幅させた喜びに変わる。光るカブトムシは本物だ。だって、骨喰も認めた。名前も考えてくれた。
「俺も見てみたいから」
やはり無表情で静かに言った。
話を否定せずに飛躍させてくれる、この嬉しさを既に知っていたのだろうか、記憶がないはずの骨喰は──昔の記憶をほとんど持っていないと彼が言っていたことを思い出し、無垢から生まれた清らかな優しさに胸があたたかくなった。
「約束するね」
「指切りしよう」カブトムシを片手で持って、反対の手で骨喰の手を掴む。骨喰の手は一瞬引っ込められたが、すぐ審神者に預けられた。「指切り?」
「約束するときに、こうやって小指同士を巻き付けるの」されるがままに手を広げられて小指だけを引っ張られる骨喰の、無表情の中に困惑が見て取れた。審神者はそれを見て「おまじないだよ」と笑った。
遠くの空は星を散りばめ、夜に向けて濃紺を塗り始めている。小指同士をそっと絡ませて、約束と祈りを心にしまった。
それから夕焼けの中のいくつもの疑問を、心の、いつでもすぐに取り出せる場所にしまった。
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