二章


 秋田は黙って、これから壊れると分かっているものに触れるように審神者を見つめた。触れる手のほうがよっぽど痛々しい。ならばこっちからぎゅっと握って安心させてあげる方が良い。わたしは大丈夫。刀たちを不安にさせないために、歌仙が厳しく育ててくれたことを秋田は知っているのだから。
 秋田が意を決したように、審神者の手を握り返した。
「知る覚悟が出来たら、端末のこんのすけに聞いてください」
「端末って?」
「政府に支給された、審神者用の端末です。審神者をサポートするこんのすけが内蔵されています。そこに……あなたの知りたいことがある」
「でも、一人で見るのは駄目です、必ず僕が一緒に──」「ううん、見る時は一人で見て。それで、自分が何を思ったか考えて」
「あいつらは絶対こんなこと言わないから、隠してるんだよみんな、主が子供だからって。あんたも立派な審神者なのにね。散々持ち上げて、どうして信じてあげないんだろ。守るって、真実を隠すことじゃないのに」
 審神者への指導の言葉はだんだんと誰宛てでもない訴えに変わっていき、嘆くように言い切ってから背を向けた。
「勉強会、やっぱり俺も参加するよ。歌仙が正しい歴史を教えてるかどうか見張っておく」
 公園の入り口を睨む蛍丸の背中を目線で追った。少し前まで望んでいた彼の参加の意思を聞けても、素直に喜ぶ気にはなれない。もっと意識を向けるべきことがあると知った。
 審神者が知らなくてはいけないことのひとつに、この偽物の夕暮れから出られなくなっている理由がある。歌仙の隠し事がある。蛍丸の主張の本意がある。他にももっとたくさんある。刀たちが、子供のわたしに隠していること。覚悟の前に義務であり、いつか見なくてはいけない真実。その「いつか」は、きっともう来ている。それが夕空に影となって盛り上がった山の向こうにあるものとして、まだ知らない真実を得る確かな予感と共に見つめた。
「じゃあ、わたしたちが今ここにいるのは──」遮るかのように、靴を叩かれる感覚があった。見ると、黒く艶のあるゴムボールが足元に転がっていた。驚いて片足を引っ込め、顔をあげると、見知らぬ男の子がこちらを向いて立っていた。蛍丸と秋田はほとんど無表情で、顔だけを向けて男の子をまっすぐ見据えていた。
「誰?」
 男の子は半袖のシャツに半ズボンと運動靴を履いていて、黒いキャップを被っている点以外は何の特徴もない。顔は濃い影の中にあるが、その顔が微笑んでいることは分かった。審神者は蛍丸と秋田が微動だにしないのを不思議に思いながら、足元のボールを拾い上げた。傷ひとつないボールは夕陽を浴びて滑らかに光った。右肘を引いて、両手を目いっぱい使って投げ返す。ボールは力無く二度バウンドしたあと男の子の手の平に吸い付いた。
 この男の子は誰か。審神者がカブトムシを追いかけて偽物の夕暮れが広がる場所に来てしまったのと同じように、ボールを追いかけて迷い込んだ仲間なのかもしれない。両手の間をじっと見つめて、彼はボールを審神者に投げつけてきた。構える間もなくボールは審神者の手の甲に当たって地面に落ちる。
 意図を探ってしばし地面を見つめる。もしかしてこれで遊びたいのかと、問いかけと一緒にボールを投げかけた。
 男の子は頷いて、またボールを投げてきた。
 キャッチボールが始まった。会話はなかったが、同じ程度の運動神経の持ち主と様々な投げ方を試しあったり取り損ねたボールを全力で追いかけていれば、十分楽しかった。ここが公園であることを思い出し、昼に乗り損ねたブランコに乗ってすべり台も何回か滑ろうと、ひさびさの開放感に胸を躍らせた。
 出せるだけの力を出してボールを高く放り投げたところで、「そろそろ帰りますよー」と、秋田の声が後ろから聞こえた。振り返るといつの間にか二振りがすべり台側の出入り口の近くに立っていて、審神者の「帰れるの?」に返事をする代わりに手招きをする。歩き出そうとすると背中にボールが当てられた。背中を向けているのだから今投げるのは反則だ。心の中で文句を言いながら、最後にとっておきをお見舞いするためにボールを拾おうとしたら、瞬時に距離を詰めてきた秋田に腕を掴まれた。
 疑問はすべて秋田の朝焼け色の微笑みに封じられた。蛍丸がボールを拾い上げて、男の子の身長をはるかに越した、公園の敷地から出てしまうのではないかと思うほどの彼方に投げる。
「遠くまで投げすぎちゃった」平坦な声だった。
 男の子は弧を描いたボールを追いかける。秋田が審神者の脇をするりと抜けると強烈な銀色の光が審神者の目を刺した。視界が戻ったときには、秋田は男の子の足跡を辿って既に手の届かないところまで離れていた。二振りが何をしているのか分からずにぼんやりとその様子を眺めていたら、戻ってきた蛍丸に腕を強く引かれて、ボールの飛んで行った先とは逆方向の、出入り口にある金属のアーチのところまで走らされた。
「何? なんで走るの? あの人あんなに高いボール取れないよ」
「そうだろうね。でももう十分遊んだでしょ」
「え……?」
 まだこちらに背を向けて立っている秋田の影が長く伸びている。今影踏みをすれば審神者にも勝機はありそうだ。蛍丸の言う通りボールでは十分遊んだから次は陰踏みを、秋田と蛍丸も一緒にみんなでしようと決めて、男の子の姿を探した。けれど、どこにも見当たらない。
「あの人はどこに行ったの?」
 秋田が振り返り、黄昏に初めて風が吹いた。暖色に寄った重ための前髪がふんわりと片目を覆い、彼の目の中の朝焼けは、夕焼けにもなるのだと言うように、朱色の光が差し込んだ。
「帰りましたよ。僕たちも帰りましょう」朱色はすぐいつもの曙色に上書きされた。
 自分の頬にも風が当たって、世界が動き出したのが分かった。砂の匂いとカラスの鳴き声がして、元の世界に戻ってきたのだと確信した。意外にも大きな感動や安心感はなく、平静でいられた。
 審神者は秋田の向こう側を見る。反対側の出入り口までは距離があったはずなのに、男の子が去っていく後ろ姿すらこれほど早く見えなくなるものか。若干の不可解な気持ちはあるものの、帰れることの方が重要だった。男の子が誰なのかは分からなかったが、それでも一緒に遊んだのは楽しかった。また会えるだろうか。
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