二章
その前に、大人しく手の中に収まり始めた初穂のバッタを虫かごに入れておこうと縁側に近づいた。虫かごの中に煌々と輝くものが見える。カブトムシの殻が夕陽を浴びて光っているのだと近づいて覗いたら、カブトムシの体が光を放っていた。
恒星のように、虫かごの中で発光している。
ついバッタを離し、地面に膝をついてカブトムシを凝視する。これはいったいどうなっている? 知らないだけで、初めからカブトムシとはこういう虫だったのか。好奇心は驚きを誰かと分け合おうと思う心を追い抜かし、審神者は虫かごの蓋をそっと滑らせる。
いずれ新しい空がひらけることを知っていて、そのタイミングまで確信していたのだと思わせる勢いで、光るカブトムシは羽を広げた。昆虫らしさをさらけ出した姿にたじろぐ審神者の前を、重い体を引きずるように浮遊していく。
ゆったりとした飛び方で、けれど着実に審神者から離れていくカブトムシは、早く追いかけなくてはと審神者を焦らせる。
裏門の方向に飛んでいくカブトムシを追いかけるうち、光そのものを辿っている気持ちになった。光は審神者にとっていつか必要になる何かであるという予感がする。その予感ごと光を捕まえるため、門を通り、茂みを抜けて、橙色に包まれた田園風景に出た。光は急に高度を上げ、沈もうとする夕日の、すべての光の生まれ故郷である中心と重なり、そこからはもう空のどこにもその光を見つけることはできなかった。
見失ったことに少しは落胆したものの、興奮は止まらなかった。わたしたちは夕陽のかけらのカブトムシを捕まえていた。カブトムシは太陽に溶けて、もしくは光というものはカブトムシから生まれたのかもしれないと、いくつもの夢ある発想が弾ける。
考えうるすべての夢が弾け終わったあと、あたりを見回した。
田んぼの稲穂が一本も揺れていない。風が少しも吹いていないからだ。微かなひぐらしの声もなくなった。夕焼けの道に違和感を覚える。
それより、ここはどこ──自分が今どこにいるのか分からないことに気づいて血の気が引いた。
迷子になった。
今すぐ帰りたいけれど、勝手に外に出てしまったから帰れば確実に歌仙の説教を浴びせられる。さっき和泉守を叱っていたから、きっと歌仙の怒りは増幅している、審神者のことはもっと叱るだろう。涙は不安と恐怖と和泉守への恨みのもとに流れ、これが四面楚歌の意味だろうかとどこか遠くの自分が冷静に思った。
しかし、わたしは審神者なのだ。失望にしゃがみかけて思う。泣いていられない。それに日が沈み切る前に自力で帰らなければ、星と月の光では田園風景には太刀打ちできない。走ってきたと確信できる場所まで戻り、太陽の位置と曖昧な記憶を頼りに歩く。
暑さすら感じなくなった田んぼ道をしばらく歩いて、地平線にほど近い道路の先に、橙に染まった風景から浮いた桃色が見えた。今日、何回も認識した刀の色だった。重くなっていた足が羽を得たように軽くなる。「主君!」
全力疾走の勢いで秋田に抱き着く。柔らかな汗の匂いはどちらのものか分からないが、体温のある生き物の匂いは遠い昔に嗅いだきりに思えて涙が出た。
秋田はそのまま、どうして、とだけ言った。審神者は体を離し、「カブトムシが光って、かごから逃げて、夕日になるのを追いかけてたら迷子になった」
秋田の表情が再会の安堵から疑問と怪訝に変わったのを見て、「カブトムシを追いかけたの」と付け加えた。「光ってるカブトムシを」
「秋田!」秋田の肩越しに、蛍丸が走ってくるのが見える。ひとまず帰れはする。二振りの迎えを受けて直感でそう思った。「主! もう、何してるの!」
「あのね、カブトムシが光ってて」
「カブトムシ?」蛍丸は怒ったように息をついた。
「だから。光ってる──」
審神者が説明しようとするのに被せて、午後五時を知らせるチャイムが鳴った。毎日正午と午後五時に鳴るチャイムは、時刻を知らせてくれる。生活の一部に組み込まれた音だ。「もう五時だよ、早く帰らないと」でも今はその音で、今いる場所の絶対的な異変に気付いて鳥肌が立った。
「おかしいよ」呟く審神者を心配そうに秋田が見た。審神者は光のカブトムシを溶かした夕陽を睨む。「まだ五時なら、どうしてもう夕焼けになってるの」
夏の日没はチャイムが鳴る時刻よりも遅い。夕陽の時刻まではまだ余裕があるはずだった。それならこの夕焼けは何なのか。そういえば、夕焼けの田んぼに出てきてからは少しも風を感じない。ひぐらしの鳴き声も全く聞こえない。自分たち以外の自然が一斉に呼吸を止めたように、景色が固まっていた。異常だった。
「ねえ、ここはどこ……」ひどく不安で、唇を噛んでうつむく。しかし目先にはあるのは、自分の運動靴だけじゃなかった。秋田のクリーム色の運動靴と蛍丸のひも付きスニーカーもある。ひとりじゃないと知って、自然と気持ちが落ち着いた。きっとカブトムシを追って、おかしな世界に入りこんでしまったのだろう。ならば自分がかたをつけるべきだ。「帰ろう」巻き込んでしまった彼らを守るためにも。
蛍丸は秋田と顔を見合わせて、審神者に言った。「こっちだよ」
