二章


 本丸の門をくぐって、庭に直行した。カブトムシを一匹かごに入れられただけで満足した気になっていたが、これから橙色に染まる草を踏み、まだ何ひとつ自力で捕まえていないことに気づく。審神者は虫かごを和泉守に押し付け、さらなる虫を捕まえることに燃えながら遠ざかる桃色と薄灰色の頭に呼びかけた。「わたしも入れて!」
「えー、主じゃ俺たちには歯が立たないよ」
 審神者は一瞬足を止めた。似たような体格をしていても、刀剣男士と人間の運動神経の差は歴然だった。鬼ごっこでもかくれんぼでも、たまに勝利するのは両手いっぱいの花を持たせられているときだと気付いたのは最近になってからだ。でも今日の虫捕り勝負なら、もしかしたら勝てるかもしれない、そういう根拠のない自信が今はある。一歩踏み出した。
「そんなことないよ。わたしだって虫いっぱい捕まえられるよ」
「でも絶対──」
「なら、ルールを変えましょうか!」蛍丸を遮って言った。「一番大きいバッタを捕まえたら勝ちというのはどうでしょう?」
「いいよ。俺が勝つけどね」ふん、と鼻で笑い、肩にかけていた虫かごを外す。「和泉守も参加ね!」
 縁側に腰を下ろそうとしていた遠くの和泉守が、虚をつかれて「オレもかよ!」と叫んだ。「バッタ捕まえるって、小さいお前らに比べて不利なんだけど?」
「さっきから座ってばっかりじゃーん」手をメガホンの形にして口に当てた。「身長高くて見つけにくいなら、這いつくばって探しなよ。似合うよ」悪魔じみた笑みを浮かべた蛍丸と共犯者を捕らえるため、和泉守がものすごい勢いでこちらに走ってくるものだから、三人は笑いの混ざった声をあげて散り散りになった。
 逃げ切ったところで気持ちを切り替え、足を大きく払いながら、その動きに驚いて草から顔を出す緑色がいないか目を凝らす。名前も知らない小さな虫が跳ね、米粒サイズのイナゴも跳ねた。何度かその動きを続けていると、草刈り機で地面から切り離された草のように飛び跳ねた色が見えた。逃げようともがくほど輪郭が浮かび上がる獲物に、狙いを定めるより先に体が動く。伏せたおわん型の手から一度すり抜け、審神者は止まらずに体ごと手を伸ばす。地面と手のひらの間で小さいものが跳ね回る感覚がして、興奮と獲物を潰さないように両手を握りこんだ。握った指の隙間を少し開けると、そこから間の抜けた黄緑色の顔が出てきた。
 とにかく誰かに見せたくて辺りを見回すと、桃色の人が目に入ったので駆け寄った。「見てー! 捕まえた!」
 「わあ! すごい!」審神者の手の中の、さほど大きくもないバッタを見て秋田は少々大袈裟に手を叩く。今の審神者にはそのくらい豪勢な祝いが最も嬉しかった。
 「もう捕まえたの? やるじゃん」蛍丸がいつの間にか近くに来ていて、審神者の手の中を覗いた。「ちっちゃいけど」
 秋田はしきりに、やりましたね、すごいですね主、と花びらを散らしていた。蛍丸が褒めすぎだと、にやりと笑う。
 落ち着きを取り戻した秋田は「主君と虫捕りで勝負できる日が来るなんて」と、落ち着きを超えてしみじみと言った。審神者のずっとそばにいた、自分と同じ年齢に見える男の子が距離を感じさせる物言いをしたことに違和感を覚える。そういえば、彼らの容姿はずっと変わらないままだ。
「まあ、時代が変われば人間との関係性も変わるよね」
「そんな壮大なことじゃなくて、主君が成長したって話ですよお。あんなに小さかったのに……」審神者を見つめ、大きな朝焼けの目を慈しみで細める。「でも、蛍丸の言うことも正しいですね」
 夏空の青色は、秋田の目に吸い取られたかのように薄くなっている。風の音が変わった。
「僕たちが打たれた頃……戦の時代では刀が人間の身を守っていたけれど、戦が終わってからは人間が、保護のかたちで刀を守るようになった」
 秋田の目線を辿って、審神者も空を見る。細い雲が何筋かたなびいている。
 何世紀もの間、日本刀を中心に続いていた戦乱の時代が彼らの物語を作った。その時代と物語の話は歌仙から、本丸の刀から幾度となく聞かされてきた。
「それなら今は」蛍丸が地面を蹴りながら、秋田に続いた。「刀と人間がお互いに守り合う時代だね」
 刀が人間の歴史を守り、人間は刀の本体と神様としての存在を守る。審神者は人間の先頭に立つ存在なのだという事実が、和泉守と話したきり忘れていた審神者の自覚と共に蘇った。
 暑い野外に、僅かに溶け込んでいた冷気が肺に落ちるのを感じる。手のひらに包み込まれたバッタが暴れようと意気込んでいる。縁側に置かれた虫かごの黄緑色が、木造の本丸の景色で存在感を放っていた。
 自分は審神者として刀たちをどうやって守ればいいのか。まずこれから始まる時間遡行軍との戦いの中で、傷を負った刀を手入れ部屋に連れていくこと。ほかには?
「和泉守!!」建物の方から聞き覚えのある怒号が飛んできて目をやると、割烹着に身を包んだ歌仙が縁側で、審神者たちのいる位置でも怒りの火炎に巻き込まれそうなほどの凄みをきかせて立っていた。「夕食当番はどうした!」
 和泉守が縁側から本丸に駆け込んだ。靴を脱ぎ散らかしながら平謝りをしている姿を笑ってから、三人は笑いの中でバッタ捕獲を再開した。
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