二章
午後の強い日差しを受けた肌の熱を、風が微かにさらう。入道雲が山のさらに向こうからまばゆい白さを見せつけていた。虫かごを斜めにかけ、田んぼ道に沿って掘られた両端の溝に落ちないようにコンクリートの真ん中を歩いていて、目の前では和泉守のひとつに括られた長い髪と虫捕り網が揺れている。審神者の隣を歩く秋田は本丸探検をしたときよりもずっと楽しそうに、風をはらんだ靴で軽やかにステップを踏んでいた。
蛍丸によると、万屋までの近道を少し外れて数分歩いたところにある公園に、実として生っているのかと思うほどに甲虫類が群がる木があるらしい。
「誰に聞いたんだ?」
「三日月」
先頭を歩く蛍丸は平然と答えたが、聞き手の二振りは意外さに驚いていた。
「よく分かんねえんだよな、あの刀」和泉守が言った。
「わかんない?」
「そう。何考えてるか分かんねえ。いっつも涼しい顔して、喜怒哀楽がないように見える。かと思えば虫捕りの穴場を知ってる」
「怒ったり悲しんだりしてるところ、僕も見たことないです。三日月さん、顕現したときからずっとご機嫌そうにしてます」
「ふーん、人間らしさが薄いのか……」
和泉守は不意に言葉を切って、明るく続けた。
「まっ、オレと同じくらい強くてカッコいいから、ライバル視はしてるけどな」
「ライバル視してるの? 和泉守じゃ三日月には勝てないよー。三日月はたくさんカブトムシが来る木を知ってる。でも和泉守は知らない。三日月はにんじん食べられる。和泉守はにんじん食べられない」
冗談めかした蛍丸に、なんだと、と和泉守は異議ありげに返す。「にんじんは関係ないだろ」
「立派な弱点だよ。あと起きるの遅ーい。和泉守は早起きでも三日月に勝てなーい」歌うような調子で蛍丸が笑った。
「三日月、寝てないよ」唐突にそう言った審神者を和泉守が振り返る。髪が爽やかな甘さを香らせてなびき、秋田の顔に直撃した。
「夜にトイレ行きたくなったとき、三日月か長谷部を起こすんだけど──」顔を抑える秋田を、心配しているわけではないが見る。「三日月はいつもすぐ起きるんだよ」
「声かけただけで起きる。だから、たぶん最初から寝てない」
何それ、怖ーい、と蛍丸が笑う。「天下五剣の刀剣男士は睡眠も取らなくていいのか、勝てないかもな」と、本気とも冗談ともつかない声色で和泉守が呟いた。
それから、三日月が入った後の風呂が熱すぎるだとか、なら水風呂で勝てるんじゃないかとか、歌仙の風呂が長いだとか、いつも飴玉のぶどう味だけを食べ尽くす犯人は誰だとか、今そこにでっかい蛙がいたとかいないとか、水路の縁に大量にくっついているピンクの物体の正体は何だとか、好き勝手話しているうちに公園が見えてきた。ピンクの物体の正体がただのゴミに落ち着いたことに納得いかなかったが、公園に足を踏み入れた瞬間それらはどうでもよくなった。
公園ではそこそこの広さの敷地に簡素な砂場と滑り台とブランコが佇んでいて、柵の内側をなぞって等間隔に木が生えている。誰もおらず、見ようによっては陰気だ。しかし、やはりここも蝉がやかましいほど鳴いていたので怖くはなく、むしろ貸し切りとなった遊び場に喜んで飛び込んだ。
「どの木がカブトムシの巣なんですか?」秋田が聞いて、虫捕りのために来たことを忘れていたと気づく。蛍丸は質問には答えず、「じゃあいきまーす」いきなり一本の木を蹴り飛ばし、後ろに飛び退いた。
「おい、何してるんだ?」「どれかの木が、揺らすだけで虫がいっぱい落ちてくるんだって」
蛍丸はそう言って、隣の木をまた蹴って飛び退く。すると蛍丸がいた場所に、ぼとりとカブトムシが一匹落ちてきた。審神者が驚いて小さい悲鳴をあげる。蛍丸は拾い上げ、得意げな顔で「ほらね」と、審神者の持つ虫かごに入れた。
審神者は虫かごを持ち上げて、おぼつかない足取りで歩き始めたカブトムシを見つめた。カブトムシは入道雲が連れてくるのと同じ光の夏を背負うように、陽を浴びた殻を、名前の通り甲冑のごとくつやつやと光らせていた。オスの証である長いツノがケースの壁に触れて柔らかくしなるのを夏の熱気を通して眺めていると、同じくカブトムシを眺めていた秋田とプラスチック越しに目が合った。
「元気そうですね!」
「ね。動いてる」
二人でケースを覗き込んでいる間も、蛍丸は木を蹴飛ばし続けていた。しかし、たまに蝉が飛び立ち、たまにカナブンが降ってくる程度で、大量に甲虫類が生る木はどこにもないようだった。
「おかしいなー」首を捻った蛍丸は、最初に蹴った木をもう一度蹴ろうとして、あ、と顔を上げた。「あいつら、夜行性だ。こんな時間にはいないんだった」
蛍丸の行動を見守っていた和泉守が、二本ある虫捕り網のうち一本を蛍丸に手渡した。「まーそう落ち込むなって。虫捕りの醍醐味は虫を捕るまでの過程だろ。簡単に捕れちゃあ楽しくねえよ」
「落ち込んでないしー」和泉守から網をひったくって、秋田に駆け寄り手渡した。「虫。どっちが多く捕まえられるか勝負!」蛍丸は和泉守のもう一本の網も奪い取り、「オレのだろ!」という文句を背に受けながら駆け出した。
審神者は満足して木陰のベンチに座り、抱え込んだ虫かごの中を見続けていると、真横にまず大きなスポーツ用の鞄が置かれ、和泉守が鞄を挟んで審神者の隣に座った。長い髪の躍動にはもう涼風をまとわせているのに、和泉守は鞄から和紙でできたうちわを取り出してさらに風を起こす。
和泉守は鞄から水色の水筒を取り出して「飲んどけよ」の言葉と共に審神者に渡した。自身も一本取り出して飲んだあと、ひと呼吸置いて言った。「勉強会、オレたちと一緒にやっててどうだ?」
現在の勉強会は、本丸初日に秋田たちが提案した通り、教師の歌仙に、審神者と秋田と骨喰と和泉守が学ぶ形で進められている。座学だけではなく、理解した内容を互いに説明しあう学習方法も取り入れられた。
「楽しい、すごく。勉強するのあんまり嫌じゃなくなったし、前より問題解けるようになった」
「そりゃ良かった」
ベンチに後ろ手をついた和泉守は、勉強会の、拙い言葉で学んだことを説明している審神者を見るときと同じ、優しい顔をしていた。審神者が問題の答えに詰まったとき、いつも和泉守が助け舟を出してくれていることを思い出す。それから当たり前の論理を通って、勉強会に参加するほど和泉守の歴史の知識が浅いとは思えないことに初めて気がついた。ならばどうしてこの人はわざわざ勉強会に参加しているのだろう? そんな疑問を持つほど鈍感ではない。彼がかつて起こしてくれた行動をもう一度頭の中で辿る。紛れもなく審神者のためなのだ、と、勉強会への参加を申し出たあの日の、彼の目の美しいラムネ色の輝きに答えを得ていた。
かっこよくて強い。和泉守は本当にそうだった。自称する以上にかっこよくて強く、そして優しいことを審神者は知っている。盗み見た横顔には木漏れ日に照らされて透き通るほどまっすぐな気高さと誇りがあった。この人の元主が本当にあのアニメの主役なら、モデルとなった人物がもっとかっこいい──和泉守と同じくらいには──ことは言うまでもなかったのだろう。和泉守は審神者の視線に気づいて、気高いまま問うように眉を上げた。
しばらく彼の輝きを見ていたけれど気恥ずかしくなってやめた。それで虫かごの蛍光黄緑に目を落としてから、やっと言えたのだった。「ありがとう」
「和泉守のおかげで楽しい」
「言い出したのは秋田と骨喰だけどな。オレは乗っかっただけ」
和泉守はからかうように、うちわで審神者の顔に風を浴びせた。軽やかな冷たさにぎゅっと目を閉じる。
「之定は厳しすぎるよなあ? 自由にやらせりゃいいのに」
「歌仙が厳しいのはわたしが審神者だからだよ」
「ふーん、そうか。あんたが納得してんならいい」和泉守は扇ぐのをやめて、審神者の前髪を少々雑に梳いた。
「でも、審神者が苦にならない程度に手加減するよう、之定には言っておかなきゃいけねえな」優しさの象徴みたいな独り言を呟いて、木の葉に明るく陰った綺麗な顔で笑う。「主も楽しい方が良いだろ?」
「うん。でも今も楽しいよ。和泉守たちがいるから」そう言って、顔を上げた。「勉強会、本丸の全員でやったらもっと楽しいかな?」
息を弾ませた蛍丸と秋田がこちらに走ってくる。和泉守の持ってきた鞄を勝手に漁ってそれぞれの水筒を取り出し、勢いよくあおった。呆れ気味の笑顔を浮かべ、和泉守が二振りにうちわで風を送る。
「あーつーいー」蛍丸なりの勢いを途絶えさせずに続ける。「何匹捕った?」秋田の虫かごを覗いて、珍しく大声をあげた。「はあー? 何これ!」
「蟻、二十二匹です!」火照った頬が二個のりんごみたいになっている顔で、秋田が誇らしげに笑う。
「ずるい、そんなの認めませーん」蛍丸はむくれて、しかしすぐに冷静さを取り戻す。「じゃあ蟻捕ってただけなのになんでそんなに顔赤いの」
審神者は二振りのやり取りも虫捕り勝負に参加したいという思いも全てスキップして言った。「ねえ、蛍丸も勉強会参加しない?」
熱を帯びたまま怪訝そうにした視線が飛んでくる。「何、急に?」
「みんなで勉強したら楽しそうじゃない?」
「何の話か知らないけど、勉強は楽しくない」もう一度水筒の中身を飲んで、興味なさそうに言った。「歌仙がやってるやつの話?」
「うん。今日見てたアニメも歌仙がくれたやつ。楽しいよ」
「ふーん。あれで勉強してるの?」
「ううん、歴史がどういうものか知るために見てる。桶狭間の戦いとか、長篠とか、どんなやつなのか、文字だけじゃ分からないから。みんなの元主がどんな人なのかも知れるし……あとね、戦の場面もすごいんだよ、刀を振ったら一斉に敵がやられてね」
蛍丸は雑に水筒を置いて、問うように和泉守の顔を見た。それから秋田も見た。和泉守は蛍丸の方は見ておらず、秋田の表情は審神者からは見えなかった。相槌の帰りを待つ審神者を再び見た。
「あれは作り物でしょ。分かりやすくするために嘘を混ぜてる」
「嘘?」
「嘘ではないですよ」秋田が言った。
「でも、真実じゃない」
蛍丸の、立っているフィールドのようなものが変わった気がして、言葉の意味を探るのを躊躇っていると、和泉守が入道雲を突き抜ける声と一緒に立ち上がった。「そろそろ帰るぞ!」
水分補給する前に持っていた熱気で、「秋田、本丸の庭で勝負の続きするからね。蟻はなし!」
「ええ、こんなに捕まえたのに! ずるいです!」
「だって蟻は虫かごの蓋の隙間から出てくるじゃん。捕まえたとは言わないよ」
捕まえていた三匹の蝉を鷲掴みにし、空に投げつけた。「本丸についたらやり直しだよ」
ブランコに乗るのを忘れていたなと、虫かごを抱えて立ち上がりながら思った。このカブトムシをどうするのかは考えていなかったが、とりあえず持って帰ることにする。西陽に近づいた田んぼ道ではカブトムシにつける名前を考えた。しかし、いいものが思いつく前に、さっきの「真実じゃない」という言葉と、それを言った蛍丸の顔が名前の候補を塗りつぶした。
その言葉で審神者が思い当たるのは、和泉守と同じで、自分の元主はアニメよりもかっこいいからという理由しかない。でもそれにしては、元主を自慢するような誇りは見られなかった。むしろ、嫌悪に近い表情をしていた。
蛍丸が勉強会に参加するかどうか明確な返事は得られなかったが、あの表情の裏に隠れた思いがある限りきっと参加はしないのだろうと、なんとなくわかった。全員が揃えばもっと楽しくなっただろうに。
