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畑仕事を済ませて汗でじっとりと濡れた内番着を脱ぐ。湯あみをして着替え終わってもなお陽は差したままで、静形薙刀はまだ慣れない人体の器で感じるけだるさに眉をひそめた。しかも太陽は日を繰り返すごとにぴかぴか強くなっている気がして、着物の合わせをもう少しだけ開けた。でもそこまでは日常だった。
水を飲もうかと思った。透き通った冷たい水、金属のままでは避けるべき、かたちのない、美しいもの。厨につながる縁側に主が座っていた。ひとりで手遊びをしているようだった。主の後ろを通り過ぎて、しかし足元に抵抗を感じ、目を落とすと裾が引っ張られていた。小さな手によって。もちろん主の手だ。
つま足から頭のてっぺんまで固まっていく。静形薙刀はその手が苦手だった。壊してしまいそうで、小さな、柔らかい手。さすれば主のからだのどこもかしこも苦手だった。
「しずかちゃん、遊ぼう」そのことを知って、主は静形薙刀をいつもそう呼び、遠慮のかけらもなく触ってくる。
静形薙刀を引っぱり下ろし縁側に座らせた主は、手ぇ出して、とのぞき込むような笑みを浮かべて言った。従うと、天に向けた手のひらにぺとりと物体が置かれた。なんらかの形を模しているらしい水色だった。「作ったの、うさぎ」
静形薙刀が動物として認識する前にはもう、うさぎは崩壊を始めていた。手のひらの中でどうしようもなくへたり、崩れ、溶けるみたいに無力に壊れていく小さなうさぎ。「あ、主ぃ……」腕が震えて、助けを求める声が薄い空気になる。愕然とする。
「大丈夫だよ」主はくすくす笑っていた。静形薙刀の悪魔の手からうさぎだったらしい水色を取り上げる。ぺとり、と名残り惜しがるあさましい感触を覚える。
「そういうおもちゃだから。柔らかいの。こねたりちぎったりして遊ぶの」
「今のは、俺が壊した」
「違うよ、大丈夫だってば」主は手を口に当ててまた笑う。「えっとね、壊れるようにできてるの。もともと形がなくて、だからしずかちゃんでも遊べる」
すらいむって名前。そこまで言うと主は座りなおし、手の中の水色を握り始める。それはやがて丸みを帯びてお手玉になった。お椀型にした両手の指をぎゅっと折りたたみ、拳同士を荒っぽく離れさせる。千切った。片方の拳の中身を静形薙刀に差し出す。その間ずっと恐ろしかったが、これが一体何なのか、頭では理解はしていた。
大人しく受け取る。ぺとり。生暖かい。
「触ってみてよ。握って」
言われた通りにする。ゆっくり、左手のひらから指の間に奇妙な温度と粘度が広がってゆく。開けばひどい有様だった、ぐちゃぐちゃとまとわりついて離れない。慌て、握る、開くを繰り返せばいつの間にか爪の間にまで浸食していた。水色に捕らわれた。ひどく熱を持っていると感じた。
「力入れすぎだよ。あとゆっくり触ってたらべたべたするから」楽し気に跳ねる声がさらに近づく。主は静形薙刀の手から容易くすらいむを剥がす。細かく残り続けた粘液の粒はとりもちの要領であっさり回収されていった。
「じゃあ両手でこねてみて、手は素早く動かすこと!」
同じように載せられる。ぺとり。右手で覆ってみる。平たくなった。はみ出た部分を手のひらでつまんで、伸ばしてみると宙に浮いた部分が重力にたわみ、急いで掬う。
「ほら、氷みたいで、きれいでしょう?」
揉まれる水色を見て、主はしみじみ言った。
「涼しくなれるよねぇ、気持ちだけでも」
人体の熱がどんどん移っていく。粘り気が強まる。
「ちぎってみて」
人差し指と親指の側面で——爪が当たらないように——強く引っ張る。
「この面、まんま氷だよね」
ちぎられた断面を指さす。流動体に不似合いな直角が生まれていた。草花の茎を切ったときに似ている、ぬめり、光を反射しているのが特に似ている。
「きれいだよねー……」「現世ではこういう氷が、海からいっぱい流れ着く場所、あるんだって」
身体の一部をもがれたすらいむが砂浜に転がっている。たくさん。
「いつか行ってみたいなぁ。ここはずっと夏だから……」
手からこぼれ落ちそうに、すらいむはしなり、形を変える。
「そうだ、ちょっと貸して」主は唐突に静形薙刀からすらいむを取り上げ、自分の手持ちと合わせた。器用に引き延ばし、両端を合わせる、という動きを何度か繰り返し、不意に両手でぐっと握った。
ぱきぱき、ぱちぱち。音が鳴る。
水が飲みたい。そう思い出した。それは氷をたっぷり入れたグラスに水を注いだ瞬間、氷が奏ではじめる音だった。
ぱきぱき、ぱちぱち。
「確かに、氷みたいだ……」
そうでしょう。主が笑った。やってみてと手渡されたすらいむに、主のやった動きを見よう見まねで実践してみる。力を込める。すらいむはぐちゃりと潰され、小指側からいくらかはみ出るだけだった。無音だった。
主が笑った。それきり、黙ってしまった。
またべたべたと指の隙間に細かくひっついた物体たちを、静形薙刀は必死で回収する。
「いつ終わるんだろう、この戦争」
主が呟いた。
蝉は鳴いていた。それまでずっと鳴き続けていたはずの蝉の鳴き声に気づいた。既に汗もかいていた。主は縁側からの景色を、見ているはずなのに見ていないような、茫漠とした瞳をしていた。つやつやとした眼の玉。
「連れて行ってよ」
「え」何の話だ。聞き返す前に継いだ。
「しずかちゃんならできるよ」
主は静形薙刀の視界の下から、膝によじ登り、両腕の間に頭を突っ込んで浮上した。あつい。思考と呼吸が一度に停止する。ぐちゃり、嫌な感触が手に広がる。
「私からもきっと氷の音がするよ」
抱きつき、胸に顔を押し当て、主は言った。
「あなたが一番上手に鳴らせる」
生き物の温度。ちいさな生き物はちいさな臓器を循環させて生きている。
「そしたら私は氷の町に行けるの」
静かに息をしていた。どろどろに捕らわれた両手では何もできない。優しく突き放すことも優しく抱き下ろすことも。ただただ生暖かく、ひたすらに鳴り響く永遠のままでそこにいた。
水が飲みたかった。
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