しおざかい


 青色は珍しい。

 自然界をくまなく探しても、青色を身に宿している生命体は少ない。人類がなんとか見つけたのは、花、蝶や鳥、魚の数種類。なのに、顔を上げるか、あるいは陸がなくなるところまで歩くと、青はあまりあるほど広がっていることを知る。地上に分け与えなかった分を持て余すか、自慢しているみたいにそこにある。空の青と海の青。手に取ることのできない、広大な、雄大な自然の色。
 確かそういった感じのことを子供の頃に考えていたな、と急に思い出し、そのことにさして違和感を覚えないまま、僕は畳に仰向けで寝転んだ。
 開けっ放しになった障子から見える空の青さが目に染みた。僕は背中を畳に張り付けたまま腕を伸ばし、座布団を折りたたんで簡易な枕を作り、頭の下に敷いた。体を横に向けて体の位置を変え、再び仰向けになった。い草の隙間のざらつきを手のひらで感じ、そうして充分準備を整えてからようやく目を閉じた。
 張り詰めた意識の糸を緩めるため、わざとゆっくり息を吐く。体から出ていく空気と同調して、まるでエレベーターに乗ったみたいに意識が下っていく。
 意識は最下階まで行かずに、ふたつ下の階くらいのところで緩やかに動きを止めた。い草と手の輪郭の境目が溶け合う。五感を三感にまで絞った代わりに聴覚が研ぎ澄まされる。僕は床に寝転がっている人間ではなく、遠い昔に建てられ、錆びてもなおあり続けている銅像になる。やっとここまで来られた、という安らかな達成感が僕を満たしていった。
 まず風の音が、六月の湿り気を帯びた風の音が聞こえた。間を置かずに足音がひっきりなしに聞こえる。音は具象的に、持ち主の像を僕の脳内に浮かび上がらせた。短刀か脇差の駆ける軽い音。自分と大して体重が変わらないであろう刀の足音。彼らよりは重量のある刀の、ゆったりとした歩みの間隔。規則的な音が強弱を持っていくつも交差し、混沌を作っている。刀たちの姿が次々と呼び起こされては混ざり、そしてボリュームを上げるひとつの足音にかき消された。
 その足音は畳を掠る音に切り替わり、勢いが急激に弱まった。
「主、さっきの……」
 続くであろう言葉が吸い込まれたように消え入る。えっ、寝てるの、と彼は呟き、しばらくして畳に掠れた音は遠ざかった。燭台切の声だった。僕は少々申し訳なく思いながら、一度深呼吸をした。
 最も大きく聞こえるところでいったん止まり、また小さくなっていく、という足音のサイクルが何度も繰り返される。「こんなところで主が寝てる、珍しい」「疲れているんだろうな。そっとしておこう」ささやき声の会話もすべて、僕の耳には届いていた。彼らの気遣いは優しい風となって流れ、僕の胸にわずかな痛みを走らせたが、それらはじきに癒えた。
 さらに遠くで発せられる声も、敏感になった耳が拾っていった。「餃子がいい」「本がなくなった」「いや、笑い事じゃなくて」あたりをはじめとする他愛のないざわめきの上を通過していく、道場からの覇気ある刀の金属音と掛け声、それらを上書きする巨大な「ウノって言ってない!」。
 本丸の様子はいつもと変わらないのだった。遠くの騒がしさにも僕の意識は添い、徐々に溶け出していく。カードゲームの名前だ、久々に聞いた。子供の頃は、僕も少しはゲームなどもしていたか。こんな大人になったのはいつからだろう、と、感情の伴わない頭で思う。瞼の裏に見えるものが暖色の霞から黒い背景に映し出される光の粒子に変わっていた。粒子は伸びたり縮んだりして不規則に動き回り、ぼやけた像を映し出した。手札を持つ自分の手と、乱雑に捨てられた山のカード。「――連隊戦が始まるから、刀装……」
 通りすがった誰かの言葉を得て、カードはすぐさま小さな兵士たちに形を変え、目の前の世界が傾く。夜光貝の白い輝きに照り映える北谷の困ったような笑い顔が思い出されて、 「――夏になったら花火がしたい、」虹色の貝はまばゆい光と共に弾け、飛び散って視界を明るく満たした。「夏祭り、やっと――」 
 意味を紐づけられた音のつながりが分裂する。手繰るように、じんわりと思い出が呼び起こされる。砕け散ったアイスキャンディーのかけらが、夏の暑さで無抵抗のまま溶けるように。ソーダ味の青い欠片が透明な水滴になる。僕はそれをただ眺めている。
 数々の言葉と浮かぶ像に紛れ、また足音がした。畳が掠れる音も。ゆっくりとこちらに向かってくる。誰かが部屋に入って来たのが分かる。彼は僕の寝ている場所からは少し離れたところで、しばらく衣擦れを響かせた。
「隣、いいか」
 彼はおそらく座りきってから、独特のイントネーションとテンポでそう言った。返答への義務感によって浮上しかけた意識は、彼のその六文字に帰属するゆるい波動によってあっさり押し戻された。特徴的な声だったけれど、その声と姿を結びつけるのに時間を要した。ようやくぼんやりと見えたのは、これも特徴的な、そして鮮やかな単色だった。
 千代金丸。つい最近顕現した刀であったことに納得し、思い出と現実の狭間でさざめく意識の中で、海、と漠然と思った。千代金丸の単純明快な印象だ。琉球の刀、沖縄の海の緑がかった青色をした髪、服。太陽の光を受けた浅い海はきらきらと、青い輝きを細かく放っている。僕は小さな手をきらめきに浸す。お椀のかたちにした手のひらで海の水を掬っても、青いきらめきは手の中のどこにも残らなかった。それに対して何かを思った──何故か記憶が呼び起こされる。思い出を感傷的に振り返ったことはこれまでない。過去は過ぎたものであり、重要なのは未来だ、そう割り切っている。だからこの仕事に向いていると言われたのだろう。でも何故か、今日はずっと、昔の記憶を辿っている。思い出している。
 海の青色が手に取れないことに文句を言った。手の中の水はいつまでも透明に漉され続け、僕は不満を露にしながら水面をはたいてまわった。飛び散った水が浦島や陸奥守の顔にかかったらしく、水をかける遊びに誘っていると勘違いした彼らに容赦なく水を浴びせられ、すごく嫌な気持ちになった。
 僕が怒って砂浜にあがったのを、千代金丸はすぐに見つけたらしい。気づいたときには――いったいどんな景色を見てどんな言葉を聞いて彼と浜辺を歩くことになったのか、いきさつが薄い靄に包まれていてわからない――僕は彼と静かな浜辺を歩いていた。僕は砂浜に跡を残すためにわざと足を引きずりながら歩いた。千代金丸は半身に模様が入ったワイシャツの裾と長い髪をなびかせていた。
「海はきらいか?」と千代金丸は言った。僕は首を振った。
「怒っているのか」
 僕は返事をしなかった。いつの間にか太陽に雲がかかり、僕らが歩く海の色はワントーン暗くなっていた。千代金丸はまるで波音に返事をしているみたいに相槌をうった。
「うん、海を眺めていれば、じきに怒りも忘れるさー」
「忘れないし」と僕はつっけんどんに返した。本気でそう思っていたわけではないが、かけられる言葉をすべてはねのけたい気分だったのだ。
「そうか。それも、いい」
 僕の態度は彼にすこしの影響も及ぼさなかった。大きく押し寄せた波が僕らの足元を何度も濡らし、足跡を更地にした。
「もし忘れていても、それは主のなかで眠っているだけだ。声をかければ、いつでも起こせる」
「忘れないってば」
 今度は千代金丸が口をつぐんだ。海の方に顔を向けた彼の髪が風にあおられ、一瞬だけ視界を遮られた僕は、少し立ち止まった。
 
 本丸に帰り、玄関の石畳に足を乗せようとしたところで肩をたたかれた。千代金丸だった。
「聞こえるか?」日の暮れかけた薄闇の中、彼はかがみこみ、巻貝を取り出して有無を言わせず僕の耳に寄せた。「波の音がするだろう」
 渋々耳を澄ませると、サー、サー、と、強弱のある波の音が、貝殻の中から確かに聞こえてきた。
「ザーザー言ってる。どうして?」
 驚いて反射的に貝殻を奪い取った僕を微笑みで許し、千代金丸は柔らかな声で答えた。
「貝には、海の記憶があるからさー」
 自分でそう言ったのに、納得していない様子で続けた。「うーん? それは、貝だけじゃないなあ。俺にも海の記憶は残っている」
「まあ、そうだろうね」
 会話が途切れ、千代金丸の鮮やかな双眸は僕の肩の向こう側を見た。僕がその視線を追って振り返る前に、彼が口を開いた。
「俺からも、波の音はするか」
 僕は何の疑問も抱かず正直に、千代金丸の肩を掴んで、自分の耳を彼の耳にぴったりくっつけた。当たり前に変な感覚だった。僕の聴覚には耳と耳がくっつく音と、髪が触れるざりっとした音のみが響いた。
「しない」
 千代金丸は小さく声を立てて笑ったあと、「そうか」と言った。そして、少々真剣さの帯びた、それでもいつもと変わらない、柔らかな声で言った。
「でも主からは、波の音がした」
「え? なんで?」
 風が吹きつけ、彼の青色の髪を大きくあおる。
「きみのことを覚えているんだ」
 目の前が海の色に満ち、彼の肩に置いていた手が支えを失って落ちた。最後に見た彼の顔は、どこまでも優しい笑みを湛えていた。彼の姿が海の水にかわっていったのを僕はただ眺めていた。手に当たった水しぶきは僕の血の色を透かしていた。
 本のページをめくる音で目を覚ました。
 僕の腹には薄い毛布が掛けられていた。顎を上げ、首と目だけ動かしてあたりを見る。思っていたよりも離れた位置で、千代金丸が本を読んでいた。
「千代金丸」
 喉の奥から鈍くつっかかった声が出る。千代金丸は僕の声に気付いて本から顔を上げた。何かを伝えようとしているふうに見えたのだろう。本を片手に持って僕の寝転がる方へといざり寄り、顔を覗き込むように耳を傾けた。「なんだ」
 その拍子に彼の肩から、青い毛束がするっと落ちた。ずっと堰き止められていた水がようやく流れ出したような動きだった。畳と同化していた腕を伸ばす。何も考えずに、海の青色をした髪に指先で触れた。手のひらに載せた。何度掬っても手の中に収めることの出来なかったこの色に、すり抜けて去っていった青の色に、触れている。今の方がよっぽど夢のようだと思う。
 僕の幼稚な手遊びに気付いてもなお、千代金丸はじっと耳を澄ませていた。聞こうとしているのは僕の声ではないのかもしれない。きっと彼もまた、遠くの思い出の音を聞いている。彼にしかわからない、記憶の中の遠いさざなみの音を。
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