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甘い香りを俺はまだ知らない

その日、『とある機械』の分解に没頭してたら、
セバスが焼いたアップルパイを食べ損ねた。
菓子に目がないただでさえ貪欲なあの住人達が、俺の分を律儀に残してくれてるはずもない。
今日のスイーツはもう諦めてたのに、――どうして?

「アイザック、これよかったら食べて。冷めちゃったけど」

アンタはわざわざ俺の部屋を訪ねて、一切れのアップルパイと淹れたてのコーヒーを持ってきてくれた。
こんなことするなんて、セバスなら理解できるけど、
メイドでもないアンタがどうして?
驚きとちょっとの喜びを悟られたくなくて俺は目を逸らした。

「でも、これはアンタの分でしょ? それを俺にくれる義理はないと思うけど」

「あるよ! だってその機械を壊しちゃったのは私だし、アイザックはずっと修理してくれてたんだもの」

愛嬌のある大きな瞳で、真っ直ぐに見つめられると、正直どうしていいかわかんない。
いま、抱き締められそうなくらい近い距離にアンタがいる。
ほんと無防備で、こっちが困るから。
何かのスイッチが入ったみたいに、俺の頬は自動的に熱を持つ。

「…っ、わかった。食べればいいんでしょ」

そのとき、廊下の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
二人の男がこちらにやってくる。

(この声は、アーサーさんと太宰だ)

ほとんど反射的に動いていた。
あの二人の目から隠すように、俺は彼女を部屋に引き入れた。

「アイザック…!?」

扉が閉まった音と一緒に、勢い余って俺の胸にアンタが顔をトンとぶつける。

「…ごめん、大丈夫?」

慌てて両肩に触れた瞬間、視線が合った。
俺の…過去に一度は止まったことがある…心臓が、うるさいくらい音を立て始めた。
アンタは俺に半分抱き寄せられる格好になってたけど、怯えるでもなく、ただ純粋に驚いていた。
温かいぬくもりが、触れた指先から伝わって、俺を痺れさせる。
甘い香りが、襟元からのぞく肌から仄かにして動悸がした。
俺のヴァンパイアの血が騒ぐ。言い訳を。早く。言って。

「…アーサーさん達に二人でいるところ見られるとあとが面倒くさいから、それで俺の部屋に隠れただけだから。それに、最後の一つのアップルパイを横取りされるのも嫌だしね」

早口でボソボソつぶやくと、アンタは目を瞠り、それからうっとりするくらい柔らかく笑った。

「そういうことか。うん、わかるよ。アーサーはすぐにからかってくるもんね。でも、アップルパイ潰れてないかな?」

くっついていた俺とアンタの体がすっと離れる。
離れたのに、俺の心臓はドクドクいっぱなしだし、甘い痺れはずっと身体中を走り回ってる。
コトンと、テーブルに置かれた一人分のアップルパイが俺に何かを訴えてくる気がした。

「それじゃ、私はこれで」

何事もなかったかのように去ろうとするアンタの後ろ姿に、俺は声をかけずにはいられなかった。

「ねえ…アンタも一緒に食べていけば?」

「え? でも…」

振り向き、戸惑うアンタに俺は苦笑した。

(俺がアンタと一緒に食べたいの)

そう言えればいいのに。言えない。いまは、まだ。

「機械はもともとちゃんと動いてなかったから、アンタが壊したとか気にする必要もないよ」

俺の言葉に、アンタはほっとしたように息をついた。その仕草にまた目を奪われる。可愛いと思ってる自分が信じられない。

「アイザック……ありがとう」

また、アンタが俺の近くに来る。
アップルパイよりもとびきり甘い香りをさせて…   
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