序章
空にはすでに夕暮れの名残もなく、深い夜の色が広がっていた。
その下では、軒先に吊るされた提灯や行灯が幾重にも連なり、通りを明るく照らしている。
通りを奥へ辿るにつれ、辺りの様相も少しずつ変わっていく。
小さな店々に混じって、二階、三階と構えた大きな楼が次第に目立つようになった。
どこからともなく聞こえる三味線の音に、酒の入った男たちの笑い声。
客を迎えた座敷の賑わいも重なり、廓の夜はいっそう華やかさを増していた。
そんな中、格子の前で足を止め、中を覗き込んでいた男へ声が飛ぶ。
「旦那、寄っていかないかい?」
艶のある声に男が顔を向けると、格子の向こうにいた女たちから楽しげな笑い声が上がった。
その背後を、何人かの客が談笑しながら通り過ぎていく。
格子の向こうから掛かる声にも構うことなく、そのまま通りの奥へと歩いていった。
その先にも灯りを掲げた楼が立ち並び、夜道を行き交う人の姿は絶えない。
やがて男たちは、そのうちの一軒へと近づくと、入口で待つ先客たちの後ろへ並んだ。
先客たちは、奉公人に迎えられながら次々と暖簾をくぐっていく。
店の暖簾には、『清樺楼』の屋号が染め抜かれている。
その奥からは、三味線の音や賑やかな笑い声が漏れていた。
程なくして、一行にも声が掛かった。
「倉田の旦那、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
声に促され、一行は暖簾をくぐって清樺楼の中へ入っていく。
案内されるまま、一行は廊下を進んでいく。
その傍らでは時折、酒や料理を載せた膳を手にした者が襖を開け、座敷へと入っていく。
襖が開くたび、三味線の音や客たちの笑い声が、途切れ途切れに廊下へと漏れてくる。
やがて一行は一つの座敷へと通された。
「おい、今日はお前が主役なんだ。こっち座れ」
倉田の旦那はそう言いながら、自分の隣に置かれた座布団を軽く叩いた。
「いや、俺は……」
若い男は遠慮するように向かいの席へ腰を下ろそうとする。
「いいから、ほら」
すぐさま同僚の一人に肩を押され、そのまま旦那の隣まで連れていかれた。
周囲からも笑い混じりに声が上がる。
「そいじゃぁ……あの……お言葉に甘えて」
若い男は何度か頭を下げながら、勧められた座布団へ腰を下ろした。
その様子に笑い声を上げながら、他の者たちもそれぞれ空いた場所へ収まっていく。
その中で、艶のある黒髪に端正な顔立ち、鮮やかな赤い瞳をした男が、入口に近い座布団へ静かに腰を落ち着けた。
「……失礼致します」
襖の向こうから声が掛かった。
両側に控えていた禿が襖へそっと手を添え、静かに開けると、鮮やかな着物に身を包んだ花魁たちが順に座敷へと入ってくる。
最後に、もう一人が姿を現した。
艶やかな着物を引き締める帯。その上へすらりと伸びた身体は、先に入った花魁たちよりもひときわ背が高い。
襟元から覗く首筋や肩には、華やかな装いの中にもなお、男らしい線が残っていた。
薄く紅を差した口元。
すっと通った鼻筋。
淡く彩られた瞼が僅かに伏せられ、その奥に切れ長の青い瞳がのぞく。
結い上げた赤い髪には、金塗りの簪や櫛がいくつも挿されている。
伸ばした姿勢を保ったまま、ゆったりとした足取りで座敷の中へ進んでいく。
やがて花魁たちはそれぞれ客の前へ着くと、着物の裾を整えながら、ゆるやかに身を沈めていく。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。どうぞ今宵は、皆さまとよいひとときを過ごせればうれしく思います」
赤髪の花魁はそう言って両手を畳につくと、正座したまま丁寧に頭を下げた。
他の花魁たちもそれに倣う。
やがて一同が顔を上げると、倉田が片手に杯を持ったまま、赤髪の花魁へ軽く手招きをした。
「おぉ、燐音。こっち来い」
燐音は倉田へ目を向け、身を起こすと、その傍らへ歩み寄った。
倉田と若い男の間へ入ると、腰を半ば落としたところで目の前の徳利に指を添え、静かに取り上げた。
「今日は随分と楽しそうだな。祝い事か?」
そう尋ねながら、背を崩さぬまま姿勢を戻した。
「あぁ。こいつが近々、祝言を挙げる予定でな」
倉田はそう言いながら、隣に座る若い男の肩へ手を置いた。
燐音は若い男へ目をやると、徳利を手にしたままそちらへ身を向けた。
「そりゃめでたいな」
そう言って、徳利を軽く持ち上げてみせる。
若い男が杯を差し出すと、燐音は徳利を傾け、静かに酒を注いだ。
「へぃ……お恥ずかしい」
若い男は照れたように頭を掻いた。
燐音は徳利を戻し、その様子に表情を和らげる。
「そんなに照れるって事は、よっぽど大切な相手なんだろうな」
「えぇ……まぁ……いただきます」
若い男ははにかむように目を伏せると、杯の酒を口へ運んだ。
燐音は隣の倉田へ目を移すと、差し出された空の杯へ徳利を傾けた。
「せっかくの祝いの席だ。今夜くらい、派手にしてもいいよな?」
注ぎ終えると、徳利を元の場所へそっと置いた。
一拍おいてから、隣の倉田へ身を寄せ、下から目を上げるようにして、唇の端にだけ笑みをのせた。
倉田は困ったように眉を下げながらも、どこか嬉しそうに表情をゆるめた。
「お前はすぐそうやって煽るなぁ」
燐音はわずかに目を細めると、袖口からのぞく白く長い指を倉田の襟元すれすれまで寄せ、触れる寸前で止める。
「気前のいいとこ、見せてくれるんだろ?」
倉田は観念したように笑い、軽く肩をすくめた。
「ああ、分かった分かった。今日は派手に頼むぞ」
そう言って倉田は懐へ手を入れると、取り出した道中財布を燐音へ見せた。
それを見た燐音は、楽しげに口元を緩める。
「そうこなくっちゃな」
倉田は道中財布を懐へしまうと、入口近くの席へ目をやった。
そこに座る零を見て、口元へ人差し指を添える。
燐音もその合図の意味を察したように、そちらへ目だけを流した。
「あぁ、それと悪いが燐音。入口近くに座ってる零にも声を掛けてやってくれ。あいつ、こういう場には慣れてねぇんだ」
燐音はわずかに目を見開き、それから目を伏せる。
「……わかったよ」
そう答えると、燐音は倉田の傍を離れた。
他の客へ酌をしながら、座敷の中を移っていく。
その流れのまま、少しずつ入口近くの席へ寄っていった。
零の前まで来ると、燐音は腰を半ば落とし、静かに声を掛けた。
「お兄さん。楽しめてるか?」
声を掛けられ、零が顔を上げる。
「あぁ……我輩、こういう場にはあまり慣れておらんのでな」
零は伏し目がちに、手元の杯へ口をつけた。
「そうか……お兄さんにも楽しんでもらいたいところだけど、無理にとは言わねぇよ」
燐音はそう言ってから、少し離れたところに控えている禿へ目を向ける。
「何かあれば、あの子に声を掛けな」
零もそちらを見やった。
「……わかった」
そう答えて燐音へ向き直ったとき、燐音は手にした徳利を控えめに持ち上げて見せた。
零はそれに小さく首を傾げる。
燐音はその様子にふっと目を細めた。
「……もう一献、どうだ?」
そう言いながら、徳利をもう一度軽く持ち上げる。
「あぁ……すまん。貰おう」
ようやく意図を汲んだ零が、手元の杯を差し出した。
燐音はわずかに口元を緩めると、目を伏せるようにして徳利を傾ける。
杯へ酒を注ぎ終えると、そっと視線を上げ、軽く会釈した。
零もそれに応えるように頭を下げる。
再び零が顔を上げた頃には、傍らにあった気配は、もう座敷の賑わいの中へ溶けていた。
その後も、三味線の音に笑い声が重なり、座敷ではあちらこちらで杯が交わされていく。
花魁たちは客の間を行き来し、空いた杯へ酒を注いでは次の席へ移っていく。
今宵の主役である若い男も、勧められるままに杯を重ね、やがて頬をすっかり赤くしていた。
そうして、宴にも終わりが見えはじめる。
宴を終えた一行が暖簾をくぐって清樺楼の外へ出ると、座敷の熱をほどくような夜気が頬を撫で、少し遅れて燐音も暖簾から姿を現した。
倉田は足を止めると、振り返って燐音を見た。
「今日は良い宴になった。ありがとな、燐音」
酒で上気した頬を、倉田は嬉しそうに緩めた。
「こちらこそ……足元、気ぃつけてな?」
燐音はそう返すと、ふと倉田の後ろへ目を向けた。
そこでは、先ほどまで皆に囲まれていた若い男が、仲間に支えられながら覚束ない足取りで歩いている。
その姿を見やり、燐音はくすりと口元をゆるめた。
燐音の視線を追うように、倉田も後ろを振り返る。
その様子を見て、倉田の目元がふっと和らいだ。
「まったく、だらしがないなぁ」
そうこぼしてから、倉田は燐音へ向き直り、気安く片手を振った。
「じゃあ、またな」
「あぁ。また来てくれよ」
燐音も小さく手を上げてそれに応えると、倉田は先を行く者たちの後を追って歩き出した。
零も後に続き、清樺楼を離れていく。
数歩進んだところで、零の歩みが緩む。
「……燐音?」
どこかで耳にした覚えのある名に、ふと足が止まる。
零は振り返り、今しがた出てきた店へ目を向けた。
顔を上げると、入口に掛けられた暖簾が夜風に揺れている。
そこには、清樺楼の屋号が染め抜かれていた。
零の視線が、その暖簾に一瞬留まる。
――清樺楼。燐音。
暖簾から目を下ろすと、その傍らに立つ燐音の姿が映る。
燐音はまだその場に残り、帰っていく客たちを見送っていた。
零の視線に気づいたのか、燐音が小首を傾げた。
零は向きを変えると、数歩戻ってその前で足を止めた。
「お主、もしや――」
言い終えるより先に、燐音が音もなく距離を詰め、人差し指を零の口元へそっと添えた。
「おっと……ここで聞くのは、野暮ってもんだぜ?」
不意に言葉を封じられ、零は目を見開く。
それを見た燐音の口元が、愉しげに緩んだ。
「口説きたいなら、座敷でしな」
そう言って、燐音はようやく零の口元から指を離した。
そのまま背を向けかけ、顔だけをわずかに傾け、視線を零へ送る。
「その時は聞いてやるよ。俺っちの気が乗れば、だけどな?」
言い残して歩き出すと、袖だけが一拍遅れて零の前をさらりと過ぎた。
零がしばらく遠ざかる燐音を見つめていると、少し先を歩いていた倉田から声が飛んだ。
「零、どうした? 行くぞ」
零はそちらへ向き直った。
「あ、あぁ……今行く」
そう答えてもう一度燐音へ目をやると、燐音は新たに訪れた客と言葉を交わしながら、暖簾をくぐっていった。
零も踵を返し、先を行く倉田の後を追った。
その下では、軒先に吊るされた提灯や行灯が幾重にも連なり、通りを明るく照らしている。
通りを奥へ辿るにつれ、辺りの様相も少しずつ変わっていく。
小さな店々に混じって、二階、三階と構えた大きな楼が次第に目立つようになった。
どこからともなく聞こえる三味線の音に、酒の入った男たちの笑い声。
客を迎えた座敷の賑わいも重なり、廓の夜はいっそう華やかさを増していた。
そんな中、格子の前で足を止め、中を覗き込んでいた男へ声が飛ぶ。
「旦那、寄っていかないかい?」
艶のある声に男が顔を向けると、格子の向こうにいた女たちから楽しげな笑い声が上がった。
その背後を、何人かの客が談笑しながら通り過ぎていく。
格子の向こうから掛かる声にも構うことなく、そのまま通りの奥へと歩いていった。
その先にも灯りを掲げた楼が立ち並び、夜道を行き交う人の姿は絶えない。
やがて男たちは、そのうちの一軒へと近づくと、入口で待つ先客たちの後ろへ並んだ。
先客たちは、奉公人に迎えられながら次々と暖簾をくぐっていく。
店の暖簾には、『清樺楼』の屋号が染め抜かれている。
その奥からは、三味線の音や賑やかな笑い声が漏れていた。
程なくして、一行にも声が掛かった。
「倉田の旦那、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
声に促され、一行は暖簾をくぐって清樺楼の中へ入っていく。
案内されるまま、一行は廊下を進んでいく。
その傍らでは時折、酒や料理を載せた膳を手にした者が襖を開け、座敷へと入っていく。
襖が開くたび、三味線の音や客たちの笑い声が、途切れ途切れに廊下へと漏れてくる。
やがて一行は一つの座敷へと通された。
「おい、今日はお前が主役なんだ。こっち座れ」
倉田の旦那はそう言いながら、自分の隣に置かれた座布団を軽く叩いた。
「いや、俺は……」
若い男は遠慮するように向かいの席へ腰を下ろそうとする。
「いいから、ほら」
すぐさま同僚の一人に肩を押され、そのまま旦那の隣まで連れていかれた。
周囲からも笑い混じりに声が上がる。
「そいじゃぁ……あの……お言葉に甘えて」
若い男は何度か頭を下げながら、勧められた座布団へ腰を下ろした。
その様子に笑い声を上げながら、他の者たちもそれぞれ空いた場所へ収まっていく。
その中で、艶のある黒髪に端正な顔立ち、鮮やかな赤い瞳をした男が、入口に近い座布団へ静かに腰を落ち着けた。
「……失礼致します」
襖の向こうから声が掛かった。
両側に控えていた禿が襖へそっと手を添え、静かに開けると、鮮やかな着物に身を包んだ花魁たちが順に座敷へと入ってくる。
最後に、もう一人が姿を現した。
艶やかな着物を引き締める帯。その上へすらりと伸びた身体は、先に入った花魁たちよりもひときわ背が高い。
襟元から覗く首筋や肩には、華やかな装いの中にもなお、男らしい線が残っていた。
薄く紅を差した口元。
すっと通った鼻筋。
淡く彩られた瞼が僅かに伏せられ、その奥に切れ長の青い瞳がのぞく。
結い上げた赤い髪には、金塗りの簪や櫛がいくつも挿されている。
伸ばした姿勢を保ったまま、ゆったりとした足取りで座敷の中へ進んでいく。
やがて花魁たちはそれぞれ客の前へ着くと、着物の裾を整えながら、ゆるやかに身を沈めていく。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます。どうぞ今宵は、皆さまとよいひとときを過ごせればうれしく思います」
赤髪の花魁はそう言って両手を畳につくと、正座したまま丁寧に頭を下げた。
他の花魁たちもそれに倣う。
やがて一同が顔を上げると、倉田が片手に杯を持ったまま、赤髪の花魁へ軽く手招きをした。
「おぉ、燐音。こっち来い」
燐音は倉田へ目を向け、身を起こすと、その傍らへ歩み寄った。
倉田と若い男の間へ入ると、腰を半ば落としたところで目の前の徳利に指を添え、静かに取り上げた。
「今日は随分と楽しそうだな。祝い事か?」
そう尋ねながら、背を崩さぬまま姿勢を戻した。
「あぁ。こいつが近々、祝言を挙げる予定でな」
倉田はそう言いながら、隣に座る若い男の肩へ手を置いた。
燐音は若い男へ目をやると、徳利を手にしたままそちらへ身を向けた。
「そりゃめでたいな」
そう言って、徳利を軽く持ち上げてみせる。
若い男が杯を差し出すと、燐音は徳利を傾け、静かに酒を注いだ。
「へぃ……お恥ずかしい」
若い男は照れたように頭を掻いた。
燐音は徳利を戻し、その様子に表情を和らげる。
「そんなに照れるって事は、よっぽど大切な相手なんだろうな」
「えぇ……まぁ……いただきます」
若い男ははにかむように目を伏せると、杯の酒を口へ運んだ。
燐音は隣の倉田へ目を移すと、差し出された空の杯へ徳利を傾けた。
「せっかくの祝いの席だ。今夜くらい、派手にしてもいいよな?」
注ぎ終えると、徳利を元の場所へそっと置いた。
一拍おいてから、隣の倉田へ身を寄せ、下から目を上げるようにして、唇の端にだけ笑みをのせた。
倉田は困ったように眉を下げながらも、どこか嬉しそうに表情をゆるめた。
「お前はすぐそうやって煽るなぁ」
燐音はわずかに目を細めると、袖口からのぞく白く長い指を倉田の襟元すれすれまで寄せ、触れる寸前で止める。
「気前のいいとこ、見せてくれるんだろ?」
倉田は観念したように笑い、軽く肩をすくめた。
「ああ、分かった分かった。今日は派手に頼むぞ」
そう言って倉田は懐へ手を入れると、取り出した道中財布を燐音へ見せた。
それを見た燐音は、楽しげに口元を緩める。
「そうこなくっちゃな」
倉田は道中財布を懐へしまうと、入口近くの席へ目をやった。
そこに座る零を見て、口元へ人差し指を添える。
燐音もその合図の意味を察したように、そちらへ目だけを流した。
「あぁ、それと悪いが燐音。入口近くに座ってる零にも声を掛けてやってくれ。あいつ、こういう場には慣れてねぇんだ」
燐音はわずかに目を見開き、それから目を伏せる。
「……わかったよ」
そう答えると、燐音は倉田の傍を離れた。
他の客へ酌をしながら、座敷の中を移っていく。
その流れのまま、少しずつ入口近くの席へ寄っていった。
零の前まで来ると、燐音は腰を半ば落とし、静かに声を掛けた。
「お兄さん。楽しめてるか?」
声を掛けられ、零が顔を上げる。
「あぁ……我輩、こういう場にはあまり慣れておらんのでな」
零は伏し目がちに、手元の杯へ口をつけた。
「そうか……お兄さんにも楽しんでもらいたいところだけど、無理にとは言わねぇよ」
燐音はそう言ってから、少し離れたところに控えている禿へ目を向ける。
「何かあれば、あの子に声を掛けな」
零もそちらを見やった。
「……わかった」
そう答えて燐音へ向き直ったとき、燐音は手にした徳利を控えめに持ち上げて見せた。
零はそれに小さく首を傾げる。
燐音はその様子にふっと目を細めた。
「……もう一献、どうだ?」
そう言いながら、徳利をもう一度軽く持ち上げる。
「あぁ……すまん。貰おう」
ようやく意図を汲んだ零が、手元の杯を差し出した。
燐音はわずかに口元を緩めると、目を伏せるようにして徳利を傾ける。
杯へ酒を注ぎ終えると、そっと視線を上げ、軽く会釈した。
零もそれに応えるように頭を下げる。
再び零が顔を上げた頃には、傍らにあった気配は、もう座敷の賑わいの中へ溶けていた。
その後も、三味線の音に笑い声が重なり、座敷ではあちらこちらで杯が交わされていく。
花魁たちは客の間を行き来し、空いた杯へ酒を注いでは次の席へ移っていく。
今宵の主役である若い男も、勧められるままに杯を重ね、やがて頬をすっかり赤くしていた。
そうして、宴にも終わりが見えはじめる。
宴を終えた一行が暖簾をくぐって清樺楼の外へ出ると、座敷の熱をほどくような夜気が頬を撫で、少し遅れて燐音も暖簾から姿を現した。
倉田は足を止めると、振り返って燐音を見た。
「今日は良い宴になった。ありがとな、燐音」
酒で上気した頬を、倉田は嬉しそうに緩めた。
「こちらこそ……足元、気ぃつけてな?」
燐音はそう返すと、ふと倉田の後ろへ目を向けた。
そこでは、先ほどまで皆に囲まれていた若い男が、仲間に支えられながら覚束ない足取りで歩いている。
その姿を見やり、燐音はくすりと口元をゆるめた。
燐音の視線を追うように、倉田も後ろを振り返る。
その様子を見て、倉田の目元がふっと和らいだ。
「まったく、だらしがないなぁ」
そうこぼしてから、倉田は燐音へ向き直り、気安く片手を振った。
「じゃあ、またな」
「あぁ。また来てくれよ」
燐音も小さく手を上げてそれに応えると、倉田は先を行く者たちの後を追って歩き出した。
零も後に続き、清樺楼を離れていく。
数歩進んだところで、零の歩みが緩む。
「……燐音?」
どこかで耳にした覚えのある名に、ふと足が止まる。
零は振り返り、今しがた出てきた店へ目を向けた。
顔を上げると、入口に掛けられた暖簾が夜風に揺れている。
そこには、清樺楼の屋号が染め抜かれていた。
零の視線が、その暖簾に一瞬留まる。
――清樺楼。燐音。
暖簾から目を下ろすと、その傍らに立つ燐音の姿が映る。
燐音はまだその場に残り、帰っていく客たちを見送っていた。
零の視線に気づいたのか、燐音が小首を傾げた。
零は向きを変えると、数歩戻ってその前で足を止めた。
「お主、もしや――」
言い終えるより先に、燐音が音もなく距離を詰め、人差し指を零の口元へそっと添えた。
「おっと……ここで聞くのは、野暮ってもんだぜ?」
不意に言葉を封じられ、零は目を見開く。
それを見た燐音の口元が、愉しげに緩んだ。
「口説きたいなら、座敷でしな」
そう言って、燐音はようやく零の口元から指を離した。
そのまま背を向けかけ、顔だけをわずかに傾け、視線を零へ送る。
「その時は聞いてやるよ。俺っちの気が乗れば、だけどな?」
言い残して歩き出すと、袖だけが一拍遅れて零の前をさらりと過ぎた。
零がしばらく遠ざかる燐音を見つめていると、少し先を歩いていた倉田から声が飛んだ。
「零、どうした? 行くぞ」
零はそちらへ向き直った。
「あ、あぁ……今行く」
そう答えてもう一度燐音へ目をやると、燐音は新たに訪れた客と言葉を交わしながら、暖簾をくぐっていった。
零も踵を返し、先を行く倉田の後を追った。
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