誤差数センチ

(アースver.)

夜の街は静かだった。
ホテルの一室。
広いソファを背に、二つの影が並ぶ。

「……どうして、
返事をくれなかったんだい?」

穏やかな低い声。

緊張感が走る。

「俺のお師匠様は、いつから女々しい事を
言うようになったんだ〜?」

「こちとら暇じゃねぇんだわ。」

千空は喉をククッと鳴らす。

沈黙が落ちる。

増していく緊張感に体が強張った。

「フフッ」

「逃げるなんて、君らしくない。」

その一言が胸の奥で静かに弾ける。

ゼノは手袋を外す。
視線は、千空を捉えて離さない。

近い。
近すぎる。

「……逃げてねぇよ。」

「素直じゃないな。」

ゼノは微笑む。

「小さい頃はあんなに、
熱烈なラブコールをくれていたのに。」

間違っていない。
研究のためだ。
本当に、それだけ。

「研究以外の外出が、面倒なだけだ。」

「ほぅ……?」
ゼノの体が千空に向けられる。
「じゃあ、なぜ今ここにいる?」

答えられなかった。

沈黙の中で、
ゼノの手がそっと千空の手に重なる。

その一瞬で、
身体の奥が熱くなる。

「あぁ。」
ゼノはため息混じりに呟く。

「いいね、その表情。」

カラン…
机に置かれたグラスの中の氷が、
溶けて動く音がする。

ゼノの冷たく優しい瞳に、
頭の中が蕩けそうになる。

「正直に言わせてもらうと。」

ゼノは少しだけ目を細めた。

「君が逃げるたびに追いかけるのは、
少々飽きた。」

「っ……。」

胸が痛む。

「そんな話、初めて聞いたわ。」

「頭ん中、お花畑かよ。」

「君を物理的に拘束することは簡単だ。」

ゼノは静かに言う。

「ここにある飲み物に薬を混ぜて、
体を麻痺させればいい。」

「それとも、君の思考拡張チップから侵入して、脳をハックしようか。」

ゼノは手を伸ばす。
千空の頬に優しく触れた。

「でも、僕はそれをしないよ。」

「君が大切だからね。」

二人の影が、ゆっくりと溶け合っていく。

「逃げないで、ちゃんと僕を見てごらん。」

ゼノが距離を詰める度、
千空は小動物のように体を縮こませる。

「千空。」

低い声が、
耳のすぐそばで落ちる。

息が触れた。
それだけで、胸がざわつく。

「離れろ」
そう言おうとしたのに、声が出ない。

ゼノはゆっくりと顔を傾け、
視線を合わせてくる。

行動。
言動。
感情。
揺らぎ。

観察対象を研究する眼差しは、
熱を帯びている。

全てを見透かされ、
思わず呼吸が浅くなる。

「君は、」
相手の声は静かで、逃げ場がない。
「こうやって近づくと、黙るね。」

図星だった。

「……圧が強ぇんだよ。」

「じゃあ、離れればいい?」

声は軽やか。
さらに距離を詰めてくる。

「君には、無理だよね。」

囁きが落ちた瞬間、
胸の奥が熱くなる。

逃げたいのに、
逃げられない。

戻れなくなるのが、
怖い。

ゼノの唇が、
触れそうで触れないまま、
その距離を保っていた。

ほんの数センチ。
その“数センチ”が、
どうしようもなく意識に刺さる。

「……何か言って?」

相手の声は低くて、
逃げ場を与えてくれない。

「嫌だ。」

「そう…。」

ゼノの手が唇に触れる。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬で呼吸が乱れる。

「ほら」
ゼノは囁く。
「触れたら、ちゃんと反応する」

「……うるさい」

「じゃあ、もう逃げないって約束して」

その言葉が
胸の奥を締めつけてくる。

その目が、
“本音だけ”を見透かしてくる。

思わず視線を逸らした。

「……見るな」

「見るよ」
相手は静かに言う。
「君が私を見ない分、私が見る」

背筋がぞくっと震える。
胸の奥が熱い。

「言葉にして欲しい。」

「千空、君はどうしたい?」

「………。」

躊躇いがちに伸びる手。
胸元を掴む指先が微かに震えてる。

「欲しい。」
その声は聞こえない。
求める瞳が訴えてくる。

「……良い子だね。」

答えはもう、始めから出ていたんだ。

end.
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