Love shot
「こんばんは。隣、いいですか?」
フロアの中心から少し離れたバーカウンターで立ち飲みをしていると、グラスを持った長身長髪、無精髭の胡散臭そうな男に声を掛けられた。
「失せろ。女を持ち帰った後輩に置いてきぼりにされて、イラついてる最中だ」
「じゃあ、俺をお持ち帰りしてくださいよ」
クラブの常連らしい(←偏見)初対面にも関わらず、いきなり人の耳に唇を押し当ててベラベラ喋る無遠慮さ。無精髭が耳朶に擦れる感触に、背筋がゾワッと震えた。
「パリピに興味ねぇ」
「えー、残念。俺はリヴァイ先生に、すっごく興味あるのに」
突然名を呼ばれ、反射的に振り向く。すると、エメラルドグリーンの瞳が、暗がりの中でこちらをまばたきもせずに見据えている。
「何で知って…いや、先生って…?」
よく見れば、胡散臭い男というより、俺よりずっと若い青年だった。 その人懐っこい笑顔に、遠い過去の記憶が、色あせることなく蘇ってきた。
「…エレンか?」
「お久しぶりです。この階、うるさいでしょ?場所変えて話しません?」
「リヴァイ先生…」
「んぅ…っ!」
人気も少なく落ち着いたヒップホップのフロアに入ると、いきなり壁に押しつけられ、再会の余韻に浸る間もなく唇を奪われた。
さすがに我慢の限界に達し、唇が離れた瞬間、エレンの顔面に拳を振り下ろした。
「痛ぁ…教え子を殴るなんてひどい。」
「ふざけるな。場所を考えろ。それに、ここで『先生』はやめろ。」
殴られた頬を撫でながら、エレンは不満げな表情を浮かべ、また懲りずに顔を近づけてくる。
「もぉ〜、クラブでキスしたところで誰も見てませんって。みんなそこら中でしてますよ。」
その点についてはぐうの音も出ない。
実際、目の前で繰り広げられる光景も、誰もが完璧なスルースキルを発揮していた。
しかし、それとこれとは話が別だ。
やはり怒りが込み上げてくる。
「でも、先…リヴァイさんにとって、重要なのは『なぜ』じゃなくて『どこで』キスしたか、なんですね。」
「あ?」
隙あらば人の耳に唇を押し当て、吐息を吹きかけながら喋る無遠慮さ。 そのたび、背筋がゾワッと震える。
エレンの吐息には、飲んだカクテルの甘い残り香が漂い、青みがかった薄暗い間接照明と重低音のBGMが、大人になったエレンのミステリアスな雰囲気を一層引き立てていた。
「…それって、期待してもいいってことですか?」
無邪気な笑顔は変わらないのに、どうしてあんなに甘い視線を向けられるのか。
頭の中が痺れるように熱くなり、俺は出会って間もないエレンの唇を、もう拒めなくなっていた。
******
仕事が終わると私服に着替え、毎晩クラブでエレンと待ち合わせるようになった。
エレンはこの店では有名人らしく、入るといつもスタッフや客に囲まれ、楽しそうに談笑していた。
俺と会ってから髭を剃り、髪をお団子ハーフアップにしたエレンは、さらに人気を集めているらしい。
それでも、話の途中で俺を見つけると、たちまち満面の笑みを浮かべて手を振り、隣に座らせると、必ず「リヴァイさんは俺のものだから、手を出したらダメだよ」と周囲に宣言する。
小さい頃から変わらず、慕い、好きだと言ってくれるエレンを、俺も大事に思っていた。
酒を交わしながらだらだら喋り、閉店までを二人で過ごす時間が、いつしか日々の糧になっていた。
「あ、この曲好き。」
エレンは気に入った曲が流れると、ジャンルを問わずフロア中央のお立ち台に上がる。
今回はレゲエを気に入った様子。
リズムに合わせてゆっくりと、艶やかに腰をくねらせ始める。 ちらりとこちらを盗み見るその一瞬の表情に、思わず胸を衝かれた。
壁に描かれたスプレーアートの、大きく広がった二枚の翼が、まるでエレンの背中から生えているかのように見えた。その軽やかで自由な、そしてどこか神々しい姿に、俺だけでなく、フロアにいた全ての人間が釘付けになっていた。
「リヴァイさん、一緒に踊りましょう。」
「きゃああああっ♡」
「俺はいい。」
「エレン、私はいつー?」
「リードしますから、遠慮しないでください。」
「いいなー!リヴァイさん羨ましいっ!」
「………。」
店のアイドルであるエレンからの誘いに、周囲が勝手に沸き立ち、 退路を断たれた俺は、渋々グラスを置いてエレンの待つお立ち台に上がった。
「レゲェは苦手だ。」
「レゲトンです。踊れば、楽しいですよ。」
客によく見えるようにと、エレンが俺の背後に立つ。
すると、後ろからしっかりと抱き寄せるように体を密着させ、腹部と腰に、 その手をじっと添える。
「…リヴァイさん。腕を前で組むのはさすがにダサいです。右手は俺の首の後ろ、左手は…リヴァイさんのお腹にある、俺の手の上に重ねてください。」
いつものようにエレンのダンスを一目見ようと、各フロアからなだれ込んできた観衆の前で水を差すわけにもいかず、促されるままに、右手をエレンの首筋に、左手はエレンの手の甲の上に重ねた。
「じゃあ、動きに合わせてくださいね。」
「!?」
そう言うや否や、背後からエレンに、腰を1つ、打ちつけられる。
湧き上がる歓声とは真逆に、俺はただ唖然とするしかなかった。
顔を上げてエレンを見やれば、 予想通りの反応が返ってきたとばかりに、満面の笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「そんなに睨まないで下さい。笑顔笑顔♪」
「今すぐ立ち位置変われ。」
「え〜リヴァイさんにされたら俺のケツが破壊されちゃいます。」
「チッ。もういい。」
「まさか。今更遅いですよ。」
ケツにエレンの形が分かるほど強く腰を引きつけられ、首筋にかかる息に思わず体が反応する。
「んんっ…!」
「逃げないでヴァイさん。ゆっくりでいいんです。…俺に合わせて…怖がらないで… 。」
色めき立ち、スマホを向ける観衆と、どこまでも優しく穏やかなエレンの声。
布越しに重なる肌がじんわりと熱を帯びていき、背後に感じる腰遣いに擦り合わせながら、少しずつ腰を前後に動かしやがて強弱をつけていく。
小さな波が寄せては返すように、激しい波が岩場に打ちつけられるように。
「…そのまま最後まで、俺を感じていて下さいね。」
耳元で囁く吐息混じりの言葉に、ここがクラブだということを忘れてしまいそうになる。
やはりレゲトンは苦手だ。
******
『リヴァイ先生、初めまして。エレン・イェーガーです。』
派遣学習塾を経営する大学の先輩、エルヴィンに人手不足を頼まれ、会社員の傍ら副業で始めた家庭教師。
その最初の生徒が、当時15歳のエレンだった。
彼は教え甲斐のある生徒で、一生懸命に勉学に励んだ。両親からの懇願もあり、プライベートもフォローしていくうちに、買い物やゲームを共にするような間柄になっていった。
子犬のように懐き、大きな瞳と屈託のない笑顔で俺を慕い、「好き」と言ってくれるエレンに、恋愛感情を抱くのに時間はかからなかった。
もちろん、一回りも年下の男子学生に、何かを求めるような真似はするつもりはない。
そばにいられるだけでいい。
それだけで、十分だったはずなんだ。
『リヴァイ先生って、キスしたことありますか?』
『ませたこと言ってねぇで、課題の続きやれ。』
『もしかして、未だに童貞?モテたことないんですか?』
『…モテたことくらい…ある…。』
『よかったぁ…誰にも触られてない。』
『おい、勝手に決めるな。』
『俺、リヴァイ先生が好きです。』
唐突な告白に、一瞬何が起こったか理解できず、顔を上げる。すると、頬を真っ赤に染め、潤んだ瞳でこちらをじっと見つめるエレンが、精いっぱいの、かすかな笑みを浮かべていた。
エレンが抱く感情が、自分と同じものだったことに、嬉しさよりも、得体のしれない恐怖に近い動揺が、胸を突き上げた。
『初めて会った時から、ずっと好きでした。先生は…俺のこと、どう思ってますか?』
躊躇いがちに抱きしめてきた両腕から、エレンの小さな震えが伝わってくる。
近づく唇を拒めなかったのは、きっとその微かな震えのせいだ。
そう、自分に言い聞かせてきた。
******
「リヴァイさんが好きです。リヴァイさんも、俺のこと好きですか?」
「リヴァイさんが、俺のこと好きだったらいいのに…」
「どうしたら、好きになってもらえますか?」
バーカウンターに並んで座り、ほろ酔いのエレンが、今日も俺の肩にコツンと頭を乗せて、でっかい子犬のように甘えてくる。
相変わらずの無遠慮さで耳に唇を押し当て、愛の言葉を囁き、隙あらばキスを仕掛けてくるが、あの日以来、俺は頑なに拒み続けてきた。
エレンのことは好きだ。
一緒にいたいとも思う。
ただ、酒の勢いに任せた口説き文句に簡単に縛られるほど俺は子供ではない。
そして、エレンの将来を思えば、大人としてこれ以上応えることは許されなかった。
「…俺も、お前が好きだ。ガキの頃からずっと見てきたからな。かわいい弟みたいなもんだ。」
いつもと変わらない、逃げの会話のつもりだった。
だが、エレンの全身から纏う空気が、一瞬で冷え切り、硬直するのを、肌で感じた。
「エレン?」
「やっぱり…そうやって、俺を突き放すんですね。このままじゃ、何にも変わらないかぁ…」
見上げてきたエメラルドグリーンの瞳が、一瞬で、漆黒のように深く、魔性の光を宿した。
「いっ…!?」
首筋を噛みちぎられるような鋭い痛みと、同時に締め付けられてくるエレンの両腕。
噛み跡の痛みを癒すように、エレンの熱く湿った舌が、じっとりと何度も舐め上げ、そのまま唇を奪う。気持ちとは裏腹に、体が思わず跳ねるように反応した。
「エレン、やめろ…っ…」
バーカウンターの周囲は相変わらず、完璧なスルースキルを発揮するスタッフや客ばかり。
この程度では、誰の目にも留まらない。
自力で首筋に顔を埋めるエレンを引き剥がそうにも、鋼のような腕にがっちりと抱き締められ、身動きが取れない。
その圧倒的な、呑み込まれるような力強さに、俺はただ、なす術もなく押し流されていた。
「…はぁ。痛くしてすみません。綺麗な痕にしたかったので。」
ようやく唇が離れ、自らの仕業を確かめるように、エレンの指先が俺の首筋を撫でる。
気を張りすぎて、悪酔いでもしたのか。
ぐったりと疲れきった体を、無様にもエレンに預けてしまった。
「ハンジさん、VIPルーム空いてますか?」
「ごゆっくり。あんまり無茶しないでよ。」
「はーい!」
バーテンダー兼オーナーからカードキーを受け取るや、エレンは俺をいきなりお姫様抱っこした。
「うわっ…」
理不尽なほど視界が一気に広がり、 フロア全体から一斉に浴びせられる好奇と笑いの視線に、顔が火照る。
「いいぞエレンー!」
「お幸せにー!」
「ありがと♡」
酔っ払いたちの呑気な野次にエレンが気持ちよく手を振り返し、俺を抱えたまま、軽やかな足取りで階段を登り始める。
「…っ、降ろせ、バカ!恥ずかしいだろうが!」
「恥ずかしいですか?」
「当たり前だ!大の大人が、しかも男が、お姫様抱っこなんて…あり得ねぇだろ!」
「それが、一回りも離れた俺を中途半端に突き放す理由の、すべてですね。よーく、分かりました。」
核心を寸分の狂いもなく突く言葉に、俺は何も言い返せなかった。
俺を抱く彼の太く逞しい腕や、寄りかかるしかない分厚い胸板が、未だに15歳のエレンを引きずる俺に、無情なまでの月日の重みを突きつけてくる。
階段を登る間、エレンは一度もこちらを振り返らなかった。俺を抱えたまま器用にカードキーをロックに挿し込み、ドアを開けて入室する。
ドアが閉まり、自動で施錠される金属音が、この無言の部屋の中で、やけに大きく響いた。
「もういいだろ。早く降ろせ。」
「そうですね。」
早足で部屋の中央まで運ばれ、分厚い皮張りのソファに放り出されたかと思うと、体勢を立て直す間もなく、エレンが俺の上に覆いかぶさってきた。
「リヴァイさん…。」
「な…っ!やめ…ろ、エレン…」
これ以上はダメだ。
これ以上踏み込まれたら、俺はもう…。
「大丈夫ですよ。何もしませんから。」
「っ…。」
エレンがようやく微かに体を起こし、二人の間に隙間を作る。
俺がやっと身を起こし、ソファの肘掛けに頭を預けようとした時、彼はすでにそちらに陣取っていた。
「オーナーとの会話の通り、ここはVIPルームです。周りを気にせず、二人で話し合いましょう。」
「話すことなんて、ねぇよ。」
「リヴァイさんにはなくても、俺にはあります。覚えてますか?中学の時、リヴァイさんに告白して、キスしたこと。」
「……。」
「また、沈黙ですか。いつもいつも、都合よく近づいては突き放す…俺はずっと、リヴァイさんに振り回され続けてるんです。『弟』なんて一言で片づける、その偽りの優しさが、一番残酷なんですよ。人の気持ちを弄んで、楽しいんですか?」
違う…。
俺だって、どうしていいか、分からなかったんだ。
「いいから、どけ。」
「ふぅん。じゃあ、キスしてください。」
「はぁ…?」
この流れで、なぜそうなる。
飄々としたエレンのあまりにも自然な口調に、呆然として言葉を失う。
「一回、キスしてくれたら、必ずどきます。帰っていただいても構いません。」
トントンと人差し指で自分の唇を軽く叩き、悪戯っぽく微笑むエレンに、心臓がぎゅっと握りつぶされそうになる。
『俺、リヴァイ先生が好きです。』
「…チッ。体が痛ぇから、もっと離れろ。」
上半身を起こし、視線を合わせる。ほとんど瞬きもしないエレンの瞳に見据えられ、 頬に添えようとした手が、微かに震えていた。
ゆっくりと、鼻先が触れるほどまで顔を近づけ、俺は瞼を閉じた。
『初めて会った時から、ずっと好きでした。先生は…俺のこと、どう思ってますか?』
ああ、あの時のあいつは、こんな気持ちでいたのか。
…一度だけ。これで、全てを終わらせよう。
「ハイ、お預けです♡」
「んむっ!」
パフッと、口元全体を柔らかく覆われる感覚に、はっと我に返る。
眼前に見えるエレンの、楽しげに緩んだ目元を見て状況を理解し、 怒りに任せて彼の手を払いのけた。
「リヴァイさんの、キス顔、かわいかったんですけどね。」
「…ふざけるな…」
「それを長い間、俺にしてきたのは、リヴァイさんでしょう?嫌なら、殴り倒してでも逃げればいい。なのに、なんでいつも、本気で逃げようとしないんですか?」
睨みつけても動じることなく、不思議そうな表情でにじり寄られ、心臓が早鐘を打つ。
答えを待つエレンが、払いのけたはずの手で、俺の顎に再び指をかけてくる。
互いの吐息が混じり合う距離に耐え切れず、思わずぎゅっと目をつぶった。
「聞かせてください。なんで、リヴァイさんはあの時、俺にキスしようと思ったんですか…?」
「っ…それは…」
耳元に押し当てられた唇から、甘い声が脳内に染み渡
頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。
エレンの手を振り払うことを恐れる自分と、それでもなお彼が求め続けてくれることに、どこかほっとしている自分がいた。
「…すみません。いきなり色々言い過ぎました。意地悪でしたね。」
数秒の沈黙が流れた。
ポン、と頭に手を置かれ、撫でられる。
その唐突な愛撫に、体が硬直した。
(…え?)
頭が追いつかない。
さっきまでの鋭い言葉はどこへやら。
目の前の青年は、いつもの甘えた子犬に戻っている。
「仲直り、してもらえますか?」
理解が追いつかず、思考が空転する。
そもそも…これは喧嘩だったのか?
「…そうだな。」
「よかったぁ!ありがとうございます!」
「おい、まだ何も言ってねぇぞ。」
「リヴァイさん、大好きっ!」
「重っ…!抱きつくなら、上で暴れるな。」
人の話を聞かず、コロコロと豹変する表情で、でっかい子犬のように抱きついて甘えてくる。
さっきまでの緊迫は、いったい何だったのだろう。
まるで、一瞬の悪夢でも見ていたような、現実感のない虚脱感が、じわりと広がった。
「…少し、寝る。30分経ったら起こせ。」
「分かりました。おやすみなさい、リヴァイさん。」
緊張から解放されたせいか、エレンの体温が心地よかった。
VIPルームの広いソファにごろ寝し、俺の上に覆いかぶさるような格好で居るエレンの髪を、手櫛でゆっくりと梳いていると、次第に意識が遠のいていくのを感じた。
ふと、唇に、柔らかく温かな何かが触れた。
その感触が、あまりにも懐かしくて――俺がずっと欲しかったものに、ぴたりと重なった。
もう一度だけ、確かめたくて。
後を追うように、そっと甘噛みをし、 それから、名残惜しいが唇を離した。
「…エレン…。」
「…寝ているのに、無意識にキスを求めたり、寝言で俺の名前を呼んだり…かわいすぎて、反則ですよ。」
そっと、俺の瞼にキスをしながら、エレンが囁く。
「早く、目を覚まして下さいね。あなた自身の気持ちに。」
end.
フロアの中心から少し離れたバーカウンターで立ち飲みをしていると、グラスを持った長身長髪、無精髭の胡散臭そうな男に声を掛けられた。
「失せろ。女を持ち帰った後輩に置いてきぼりにされて、イラついてる最中だ」
「じゃあ、俺をお持ち帰りしてくださいよ」
クラブの常連らしい(←偏見)初対面にも関わらず、いきなり人の耳に唇を押し当ててベラベラ喋る無遠慮さ。無精髭が耳朶に擦れる感触に、背筋がゾワッと震えた。
「パリピに興味ねぇ」
「えー、残念。俺はリヴァイ先生に、すっごく興味あるのに」
突然名を呼ばれ、反射的に振り向く。すると、エメラルドグリーンの瞳が、暗がりの中でこちらをまばたきもせずに見据えている。
「何で知って…いや、先生って…?」
よく見れば、胡散臭い男というより、俺よりずっと若い青年だった。 その人懐っこい笑顔に、遠い過去の記憶が、色あせることなく蘇ってきた。
「…エレンか?」
「お久しぶりです。この階、うるさいでしょ?場所変えて話しません?」
「リヴァイ先生…」
「んぅ…っ!」
人気も少なく落ち着いたヒップホップのフロアに入ると、いきなり壁に押しつけられ、再会の余韻に浸る間もなく唇を奪われた。
さすがに我慢の限界に達し、唇が離れた瞬間、エレンの顔面に拳を振り下ろした。
「痛ぁ…教え子を殴るなんてひどい。」
「ふざけるな。場所を考えろ。それに、ここで『先生』はやめろ。」
殴られた頬を撫でながら、エレンは不満げな表情を浮かべ、また懲りずに顔を近づけてくる。
「もぉ〜、クラブでキスしたところで誰も見てませんって。みんなそこら中でしてますよ。」
その点についてはぐうの音も出ない。
実際、目の前で繰り広げられる光景も、誰もが完璧なスルースキルを発揮していた。
しかし、それとこれとは話が別だ。
やはり怒りが込み上げてくる。
「でも、先…リヴァイさんにとって、重要なのは『なぜ』じゃなくて『どこで』キスしたか、なんですね。」
「あ?」
隙あらば人の耳に唇を押し当て、吐息を吹きかけながら喋る無遠慮さ。 そのたび、背筋がゾワッと震える。
エレンの吐息には、飲んだカクテルの甘い残り香が漂い、青みがかった薄暗い間接照明と重低音のBGMが、大人になったエレンのミステリアスな雰囲気を一層引き立てていた。
「…それって、期待してもいいってことですか?」
無邪気な笑顔は変わらないのに、どうしてあんなに甘い視線を向けられるのか。
頭の中が痺れるように熱くなり、俺は出会って間もないエレンの唇を、もう拒めなくなっていた。
******
仕事が終わると私服に着替え、毎晩クラブでエレンと待ち合わせるようになった。
エレンはこの店では有名人らしく、入るといつもスタッフや客に囲まれ、楽しそうに談笑していた。
俺と会ってから髭を剃り、髪をお団子ハーフアップにしたエレンは、さらに人気を集めているらしい。
それでも、話の途中で俺を見つけると、たちまち満面の笑みを浮かべて手を振り、隣に座らせると、必ず「リヴァイさんは俺のものだから、手を出したらダメだよ」と周囲に宣言する。
小さい頃から変わらず、慕い、好きだと言ってくれるエレンを、俺も大事に思っていた。
酒を交わしながらだらだら喋り、閉店までを二人で過ごす時間が、いつしか日々の糧になっていた。
「あ、この曲好き。」
エレンは気に入った曲が流れると、ジャンルを問わずフロア中央のお立ち台に上がる。
今回はレゲエを気に入った様子。
リズムに合わせてゆっくりと、艶やかに腰をくねらせ始める。 ちらりとこちらを盗み見るその一瞬の表情に、思わず胸を衝かれた。
壁に描かれたスプレーアートの、大きく広がった二枚の翼が、まるでエレンの背中から生えているかのように見えた。その軽やかで自由な、そしてどこか神々しい姿に、俺だけでなく、フロアにいた全ての人間が釘付けになっていた。
「リヴァイさん、一緒に踊りましょう。」
「きゃああああっ♡」
「俺はいい。」
「エレン、私はいつー?」
「リードしますから、遠慮しないでください。」
「いいなー!リヴァイさん羨ましいっ!」
「………。」
店のアイドルであるエレンからの誘いに、周囲が勝手に沸き立ち、 退路を断たれた俺は、渋々グラスを置いてエレンの待つお立ち台に上がった。
「レゲェは苦手だ。」
「レゲトンです。踊れば、楽しいですよ。」
客によく見えるようにと、エレンが俺の背後に立つ。
すると、後ろからしっかりと抱き寄せるように体を密着させ、腹部と腰に、 その手をじっと添える。
「…リヴァイさん。腕を前で組むのはさすがにダサいです。右手は俺の首の後ろ、左手は…リヴァイさんのお腹にある、俺の手の上に重ねてください。」
いつものようにエレンのダンスを一目見ようと、各フロアからなだれ込んできた観衆の前で水を差すわけにもいかず、促されるままに、右手をエレンの首筋に、左手はエレンの手の甲の上に重ねた。
「じゃあ、動きに合わせてくださいね。」
「!?」
そう言うや否や、背後からエレンに、腰を1つ、打ちつけられる。
湧き上がる歓声とは真逆に、俺はただ唖然とするしかなかった。
顔を上げてエレンを見やれば、 予想通りの反応が返ってきたとばかりに、満面の笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
「そんなに睨まないで下さい。笑顔笑顔♪」
「今すぐ立ち位置変われ。」
「え〜リヴァイさんにされたら俺のケツが破壊されちゃいます。」
「チッ。もういい。」
「まさか。今更遅いですよ。」
ケツにエレンの形が分かるほど強く腰を引きつけられ、首筋にかかる息に思わず体が反応する。
「んんっ…!」
「逃げないでヴァイさん。ゆっくりでいいんです。…俺に合わせて…怖がらないで… 。」
色めき立ち、スマホを向ける観衆と、どこまでも優しく穏やかなエレンの声。
布越しに重なる肌がじんわりと熱を帯びていき、背後に感じる腰遣いに擦り合わせながら、少しずつ腰を前後に動かしやがて強弱をつけていく。
小さな波が寄せては返すように、激しい波が岩場に打ちつけられるように。
「…そのまま最後まで、俺を感じていて下さいね。」
耳元で囁く吐息混じりの言葉に、ここがクラブだということを忘れてしまいそうになる。
やはりレゲトンは苦手だ。
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『リヴァイ先生、初めまして。エレン・イェーガーです。』
派遣学習塾を経営する大学の先輩、エルヴィンに人手不足を頼まれ、会社員の傍ら副業で始めた家庭教師。
その最初の生徒が、当時15歳のエレンだった。
彼は教え甲斐のある生徒で、一生懸命に勉学に励んだ。両親からの懇願もあり、プライベートもフォローしていくうちに、買い物やゲームを共にするような間柄になっていった。
子犬のように懐き、大きな瞳と屈託のない笑顔で俺を慕い、「好き」と言ってくれるエレンに、恋愛感情を抱くのに時間はかからなかった。
もちろん、一回りも年下の男子学生に、何かを求めるような真似はするつもりはない。
そばにいられるだけでいい。
それだけで、十分だったはずなんだ。
『リヴァイ先生って、キスしたことありますか?』
『ませたこと言ってねぇで、課題の続きやれ。』
『もしかして、未だに童貞?モテたことないんですか?』
『…モテたことくらい…ある…。』
『よかったぁ…誰にも触られてない。』
『おい、勝手に決めるな。』
『俺、リヴァイ先生が好きです。』
唐突な告白に、一瞬何が起こったか理解できず、顔を上げる。すると、頬を真っ赤に染め、潤んだ瞳でこちらをじっと見つめるエレンが、精いっぱいの、かすかな笑みを浮かべていた。
エレンが抱く感情が、自分と同じものだったことに、嬉しさよりも、得体のしれない恐怖に近い動揺が、胸を突き上げた。
『初めて会った時から、ずっと好きでした。先生は…俺のこと、どう思ってますか?』
躊躇いがちに抱きしめてきた両腕から、エレンの小さな震えが伝わってくる。
近づく唇を拒めなかったのは、きっとその微かな震えのせいだ。
そう、自分に言い聞かせてきた。
******
「リヴァイさんが好きです。リヴァイさんも、俺のこと好きですか?」
「リヴァイさんが、俺のこと好きだったらいいのに…」
「どうしたら、好きになってもらえますか?」
バーカウンターに並んで座り、ほろ酔いのエレンが、今日も俺の肩にコツンと頭を乗せて、でっかい子犬のように甘えてくる。
相変わらずの無遠慮さで耳に唇を押し当て、愛の言葉を囁き、隙あらばキスを仕掛けてくるが、あの日以来、俺は頑なに拒み続けてきた。
エレンのことは好きだ。
一緒にいたいとも思う。
ただ、酒の勢いに任せた口説き文句に簡単に縛られるほど俺は子供ではない。
そして、エレンの将来を思えば、大人としてこれ以上応えることは許されなかった。
「…俺も、お前が好きだ。ガキの頃からずっと見てきたからな。かわいい弟みたいなもんだ。」
いつもと変わらない、逃げの会話のつもりだった。
だが、エレンの全身から纏う空気が、一瞬で冷え切り、硬直するのを、肌で感じた。
「エレン?」
「やっぱり…そうやって、俺を突き放すんですね。このままじゃ、何にも変わらないかぁ…」
見上げてきたエメラルドグリーンの瞳が、一瞬で、漆黒のように深く、魔性の光を宿した。
「いっ…!?」
首筋を噛みちぎられるような鋭い痛みと、同時に締め付けられてくるエレンの両腕。
噛み跡の痛みを癒すように、エレンの熱く湿った舌が、じっとりと何度も舐め上げ、そのまま唇を奪う。気持ちとは裏腹に、体が思わず跳ねるように反応した。
「エレン、やめろ…っ…」
バーカウンターの周囲は相変わらず、完璧なスルースキルを発揮するスタッフや客ばかり。
この程度では、誰の目にも留まらない。
自力で首筋に顔を埋めるエレンを引き剥がそうにも、鋼のような腕にがっちりと抱き締められ、身動きが取れない。
その圧倒的な、呑み込まれるような力強さに、俺はただ、なす術もなく押し流されていた。
「…はぁ。痛くしてすみません。綺麗な痕にしたかったので。」
ようやく唇が離れ、自らの仕業を確かめるように、エレンの指先が俺の首筋を撫でる。
気を張りすぎて、悪酔いでもしたのか。
ぐったりと疲れきった体を、無様にもエレンに預けてしまった。
「ハンジさん、VIPルーム空いてますか?」
「ごゆっくり。あんまり無茶しないでよ。」
「はーい!」
バーテンダー兼オーナーからカードキーを受け取るや、エレンは俺をいきなりお姫様抱っこした。
「うわっ…」
理不尽なほど視界が一気に広がり、 フロア全体から一斉に浴びせられる好奇と笑いの視線に、顔が火照る。
「いいぞエレンー!」
「お幸せにー!」
「ありがと♡」
酔っ払いたちの呑気な野次にエレンが気持ちよく手を振り返し、俺を抱えたまま、軽やかな足取りで階段を登り始める。
「…っ、降ろせ、バカ!恥ずかしいだろうが!」
「恥ずかしいですか?」
「当たり前だ!大の大人が、しかも男が、お姫様抱っこなんて…あり得ねぇだろ!」
「それが、一回りも離れた俺を中途半端に突き放す理由の、すべてですね。よーく、分かりました。」
核心を寸分の狂いもなく突く言葉に、俺は何も言い返せなかった。
俺を抱く彼の太く逞しい腕や、寄りかかるしかない分厚い胸板が、未だに15歳のエレンを引きずる俺に、無情なまでの月日の重みを突きつけてくる。
階段を登る間、エレンは一度もこちらを振り返らなかった。俺を抱えたまま器用にカードキーをロックに挿し込み、ドアを開けて入室する。
ドアが閉まり、自動で施錠される金属音が、この無言の部屋の中で、やけに大きく響いた。
「もういいだろ。早く降ろせ。」
「そうですね。」
早足で部屋の中央まで運ばれ、分厚い皮張りのソファに放り出されたかと思うと、体勢を立て直す間もなく、エレンが俺の上に覆いかぶさってきた。
「リヴァイさん…。」
「な…っ!やめ…ろ、エレン…」
これ以上はダメだ。
これ以上踏み込まれたら、俺はもう…。
「大丈夫ですよ。何もしませんから。」
「っ…。」
エレンがようやく微かに体を起こし、二人の間に隙間を作る。
俺がやっと身を起こし、ソファの肘掛けに頭を預けようとした時、彼はすでにそちらに陣取っていた。
「オーナーとの会話の通り、ここはVIPルームです。周りを気にせず、二人で話し合いましょう。」
「話すことなんて、ねぇよ。」
「リヴァイさんにはなくても、俺にはあります。覚えてますか?中学の時、リヴァイさんに告白して、キスしたこと。」
「……。」
「また、沈黙ですか。いつもいつも、都合よく近づいては突き放す…俺はずっと、リヴァイさんに振り回され続けてるんです。『弟』なんて一言で片づける、その偽りの優しさが、一番残酷なんですよ。人の気持ちを弄んで、楽しいんですか?」
違う…。
俺だって、どうしていいか、分からなかったんだ。
「いいから、どけ。」
「ふぅん。じゃあ、キスしてください。」
「はぁ…?」
この流れで、なぜそうなる。
飄々としたエレンのあまりにも自然な口調に、呆然として言葉を失う。
「一回、キスしてくれたら、必ずどきます。帰っていただいても構いません。」
トントンと人差し指で自分の唇を軽く叩き、悪戯っぽく微笑むエレンに、心臓がぎゅっと握りつぶされそうになる。
『俺、リヴァイ先生が好きです。』
「…チッ。体が痛ぇから、もっと離れろ。」
上半身を起こし、視線を合わせる。ほとんど瞬きもしないエレンの瞳に見据えられ、 頬に添えようとした手が、微かに震えていた。
ゆっくりと、鼻先が触れるほどまで顔を近づけ、俺は瞼を閉じた。
『初めて会った時から、ずっと好きでした。先生は…俺のこと、どう思ってますか?』
ああ、あの時のあいつは、こんな気持ちでいたのか。
…一度だけ。これで、全てを終わらせよう。
「ハイ、お預けです♡」
「んむっ!」
パフッと、口元全体を柔らかく覆われる感覚に、はっと我に返る。
眼前に見えるエレンの、楽しげに緩んだ目元を見て状況を理解し、 怒りに任せて彼の手を払いのけた。
「リヴァイさんの、キス顔、かわいかったんですけどね。」
「…ふざけるな…」
「それを長い間、俺にしてきたのは、リヴァイさんでしょう?嫌なら、殴り倒してでも逃げればいい。なのに、なんでいつも、本気で逃げようとしないんですか?」
睨みつけても動じることなく、不思議そうな表情でにじり寄られ、心臓が早鐘を打つ。
答えを待つエレンが、払いのけたはずの手で、俺の顎に再び指をかけてくる。
互いの吐息が混じり合う距離に耐え切れず、思わずぎゅっと目をつぶった。
「聞かせてください。なんで、リヴァイさんはあの時、俺にキスしようと思ったんですか…?」
「っ…それは…」
耳元に押し当てられた唇から、甘い声が脳内に染み渡
頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。
エレンの手を振り払うことを恐れる自分と、それでもなお彼が求め続けてくれることに、どこかほっとしている自分がいた。
「…すみません。いきなり色々言い過ぎました。意地悪でしたね。」
数秒の沈黙が流れた。
ポン、と頭に手を置かれ、撫でられる。
その唐突な愛撫に、体が硬直した。
(…え?)
頭が追いつかない。
さっきまでの鋭い言葉はどこへやら。
目の前の青年は、いつもの甘えた子犬に戻っている。
「仲直り、してもらえますか?」
理解が追いつかず、思考が空転する。
そもそも…これは喧嘩だったのか?
「…そうだな。」
「よかったぁ!ありがとうございます!」
「おい、まだ何も言ってねぇぞ。」
「リヴァイさん、大好きっ!」
「重っ…!抱きつくなら、上で暴れるな。」
人の話を聞かず、コロコロと豹変する表情で、でっかい子犬のように抱きついて甘えてくる。
さっきまでの緊迫は、いったい何だったのだろう。
まるで、一瞬の悪夢でも見ていたような、現実感のない虚脱感が、じわりと広がった。
「…少し、寝る。30分経ったら起こせ。」
「分かりました。おやすみなさい、リヴァイさん。」
緊張から解放されたせいか、エレンの体温が心地よかった。
VIPルームの広いソファにごろ寝し、俺の上に覆いかぶさるような格好で居るエレンの髪を、手櫛でゆっくりと梳いていると、次第に意識が遠のいていくのを感じた。
ふと、唇に、柔らかく温かな何かが触れた。
その感触が、あまりにも懐かしくて――俺がずっと欲しかったものに、ぴたりと重なった。
もう一度だけ、確かめたくて。
後を追うように、そっと甘噛みをし、 それから、名残惜しいが唇を離した。
「…エレン…。」
「…寝ているのに、無意識にキスを求めたり、寝言で俺の名前を呼んだり…かわいすぎて、反則ですよ。」
そっと、俺の瞼にキスをしながら、エレンが囁く。
「早く、目を覚まして下さいね。あなた自身の気持ちに。」
end.
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