Case4【刹那/祈り】
小さく継続するノックの音に、ゆっくりと意識が目覚めていく。
サイドテーブルに置いた眼鏡をかけ、ハンジはベッドから起き上がり、扉を開けた。
「…リヴァイ…」
無言のままうつむくリヴァイの表情は見えず、シトシトと降る優しい雨の音だけが外から聞こえてくる。
「寝ぼけてるの?部屋、間違えてるよ」
「………」
「仕方ないな~。ほら、送って……あ、ちょっと!」
ハンジの言葉を遮るように、強引に部屋へ入ってきたリヴァイは、すぐさま扉を閉め、鍵をかけた。
「お前の部屋で寝る」
「ダメダメ。リヴァイと一夜を共にしたなんて、エルヴィンに知られたら私、殺されちゃうよ」
ドアノブを握りしめたまま、リヴァイはコツンと扉に頭をつけた。
珍しく駄々をこねて黙り込むリヴァイに、ハンジは小さくため息をついた。
「ケンカした?それとも怒られた?」
「………」
「事情は知らないけど、エルヴィンはリヴァイのこと嫌いになったりしないから。早く戻って仲直りしなよ」
「あの部屋は明るすぎる」
「え?」
「眩しすぎて眠れねぇ。本当だ」
雨音に溶けるかすかな声に、ハンジは胸騒ぎを覚えた。
リヴァイの背中からゆっくりと浮かび上がる、幻影の羽は、酷く傷つき、痩せ細っていた。
「…どうすればいい…教えてくれ…」
行き場を失い、堪えてきたものを吐き出すように、初めて見せた弱さ。
今にも崩れてしまいそうな体を支えようと、ハンジは咄嗟にその背中を抱きしめた。
―おやすみ。愛しているよ。―
「やめろ!!」
突然声を荒げ、リヴァイはハンジの腕を振り払う。
訪れぬ闇、訪れぬ安らぎの代償。
鋭い棘を張り巡らせた心と、全てを拒絶する瞳に、ハンジは言葉を失った。
我に返ったリヴァイは事態を理解できていないようで、切迫した表情のままただハンジを見つめていた。
(…バカだ…私は…)
飛べなくなった羽を背負い続けたまま、どんな思いであの人の側にいたのだろう。
「部屋に戻…」
「リヴァイ。エルヴィンとの【契約】を【解除】しよう」
「断る」
「たかが【契約】だよ?嫌ならやめればいい話じゃん」
「口出しをするな。お前には関係ない」
躊躇いのない意志の強さが、罪の意識となってハンジの胸を突き刺す。
「関係あるよ。リヴァイが守ろうとしているものは、私も命がけで守りたいものだから」
「!」
精一杯の笑顔を向けるハンジの言葉に、リヴァイの中で感情の波が一気に押し寄せてくる。
「大丈夫。離れなくていいんだよ」
込み上げる想いを飲み込み、返事の代わりに、リヴァイはハンジを抱き寄せる。
意外な行動に驚かされるも、ハンジはリヴァイをきつく抱きしめ、窓の外の雨音にだけ静かに耳を傾けた。
夜の空気に晒された肌は、悲しいほどに冷たかった。
******
「余計なことをするなと言ったはずだ」
「だったら何?私のこと、殺す?」
ハンジの挑発的な笑顔に対し、ミケは表情一つ変えず淡々と答えた。
「【契約】を【解除】したところで、何も変わらない」
「どういう意味よ」
「哀れだな、ハンジ。お前は自分の気持ちを優先させ、二人の関係から目を背けてきた。もう手遅れだ」
「っ……」
蔑むような瞳を向けられ、ハンジはミケを睨みつけるも、返す言葉が見つからなかった。
リヴァイが一方的に切り出した、エルヴィンとの【契約】の【解除】の一報は、瞬く間に三兵団に伝わり、全兵士に知れ渡っていく。
「リヴァイ兵長とエルヴィン団長が【契約】を【解除】したらしいぜ」
「マジ!?」
「修羅場で喧嘩する声が部屋の外まで響いたんだって」
「どうせ団長が飽きたんだろ」
「はぁ…一度でいいから、あの兵長に抱かれてみたい」
情報は錯綜し混乱を極めたが、二人への配慮から表立って話が出ることはなく、入れ替わりの激しい兵団内では噂話に留まり、次第に消えていった。
二人の関係は、一見すると今までの日常と何も変わらないように見えるが、【解除】を突きつけたはずのリヴァイは、契約する以前にも増してエルヴィンの側から離れなくなっていた。
それを傍らで見る度に嫌な汗が体にまとわりつき、ハンジの脳内で不協和音のようにミケの言葉が響いてくる。
寄り添うことしかできないもどかしさから抜け出せず、月日が経つにつれ気持ちは焦り始めていた。
「エレンはお前の境遇に似ていないか?」
エレンを調査兵団に迎え入れることを反対していたリヴァイに向かって、エルヴィンはそう問いかけてきた。
過酷な幼少期を経て兵団に入団し、巨人化能力の持ち主として国と兵団の畏怖と好奇の眼差しに晒されている状況が、よく似ているらしい。
詳細を比較すればきりがなく、エレンを手に入れるための強引なこじつけ話に過ぎないが、リヴァイの考えが立ち止まるきっかけになったのは確かだった。
「調査兵団に入って、とにかく巨人をブッ殺したいです」
初対面で見せたエレンの狂気は、その場にいなくとも察するものがあり、強固なまでの意志と底知れぬ闇の深さに圧倒される。
同時に心の奥底で、どうしようもなく惹かれる感覚は、本能を刺激する快楽に近く、その時の様子を饒舌に語るリヴァイの表情がとても印象的だった。
(…だから私は、エレンに賭けてみようと思ったんだ)
「エレンが可愛いからってストーカーはダメだよ」
馬小屋を掃除するエレンを離れた場所から監視するリヴァイを見つけ、声をかけるも無視された。
「そんなに好きなら、今度イイモノあげようか♡」
「くたばれ」
「もー。エレンが入ってきてから、リヴァイ私に冷た……ん?」
突然やってきた数人の先輩に取り囲まれるエレンと、その横で(いたと思われる)アルミンが困惑している。
リヴァイとハンジがいる位置から馬小屋までは程よい距離があり、細かく聞き取ることはできないが、面倒事に巻き込まれているのは見て取れた。
「あちゃー。人気者はつらいねぇ」
「………」
興味なさそうな態度のリヴァイに対し、ハンジは呆れ顔でため息をついた。
「どうでもいいって顔してるけど、ケンカの見守りだけじゃないって分かってる?」
「エレンの下まで監視しろと?」
「そこまで言ってないけど……。104期の子たちもそろそろシステムの存在に気づく頃でしょ。属性が大規模に変動するデリケートな時期なだけに、エレンの精神状態が安定しないと実験に影響を与えかねないよ」
「ひゃああっ!」
「お前ら、アルミンに何した!」
「ケツ触るくらい、いいだろ。減るもんじゃねーし」
「なっ…死んじゃえよ、クソ野郎!」
会話を遮るようにエレンの怒声が聞こえ、今まさに取っ組み合いの喧嘩が始まろうとしていた。
すると突然現れたミカサに男たちは瞬殺され、エレンとアルミンが唖然としている間に、5メートル先まで吹っ飛んで事なきを得る。
始終を見て苦い顔をするハンジに向かい、リヴァイが涼やかに言い放った。
「十分、成立しそうだな」
「あんな例外、兵団内でそうそう通用しないから。ねぇ、覚えてる?以前、同じように先輩方に絡まれて輪姦されそうになってた新兵の子を、リヴァイが助けてあげたこと。あの子、エレンによく似てた」
「…まぁ、一定の人間を黙らせる効率的な方法は、考えねぇとな」
リヴァイの変化を感じ取ったハンジが気を利かせて視線を外す。
しかし、その先に見えた窓からこちらを見つめる碧の瞳に気づき、背筋がぞくりと震えた。
―【契約】?俺とエルヴィンがか?―
―そうだ。私と君のこれからのことを、真剣に考えて欲しい。―
ハンジは喉をゴクリと鳴らし、眼鏡のブリッジを中指で押さえ、視線を元に戻した。
幼馴染の前で屈託のない笑顔を向けるエレンを見つめるリヴァイの心はここにあらず、横顔は愁いを帯びていた。
(業、とでも言うべきか。)
******
あの日はとても穏やかで、私がリヴァイへの気持ちと決別するには、少しだけ胸が痛む夜だった。
「…テメェ…」
「リヴァイって、本当私に甘いよね。身内だからって油断しちゃダメだよぉ?」
「コレ(紅茶)に、何入れた…!!」
「今度イイモノあげるって言ったでしょ♡ エレンは顔が可愛いし、スタートはそこからでいいと思うんだ」
「はぁはぁ…エレン?…っ…さっきから、何言って…」
「起爆剤が欲しい。ダメだったら次。それだけだよ」
「…クソが…待ちやがれ、ハンジ…」
口の悪さとは裏腹に、必死に堪えようと机に置いた拳を固く握りしめ、眉を顰めるリヴァイの息遣いが、少しずつ荒くなっていく。
地下街で手に入れた媚薬は想像以上で、理性と本能の狭間で揺れる表情はとても美しかった。
椅子から立ち上がり、眼下の黒髪にキスをすると、リヴァイの体が小さく反応する。
「…じゃあね」
確認を終え部屋を出ると、エレンが対面から廊下を歩いて来るのが見えた。
こちらに気づき会釈するエレンの表情は重く険しい。
すれ違いざまに別れた後、すぐ背後からドアをノックする音が聞こえ、ゆっくりと扉が開き閉まる音がした。
自然と足が止まり、両目を閉じて小さく深呼吸をする。
身勝手で愚かな行動。
それを上回る期待感。
言葉にできない感情が込み上げてきて、声を殺して笑った。
******
「治りが悪いね。」
実験を終えて3日目。
外傷は軽くすんだものの、失明、難聴、著しい筋力低下を引き起こし、エレンは地下牢のベッドの上でほぼ寝たきり状態だった。
「どうなってやがる。」
ベッドの前で仁王立ちになり、眉間にしわを寄せてエレンの顔を見下ろすリヴァイと、その横で母親のような目線で椅子に腰を掛け、エレンの左手をギュッと握り締めるハンジ。
「精神的な部分が含まれてると思う。エレンはよく頑張ってるよ。あと1週間は休ませた方がいい。」
「冗談じゃない。エレン、今すぐ治せ。」
「今は寝てるし、起きても音が篭っててはっきり聞こえないって言ったでしょ。」
「じゃあ、お前が何とかしろ。」
八つ当たりもいいところのムチャぶりに、さすがのハンジも目が座る。
「気持ちは分かるんだけどさぁ……」
ハンジはエレンの手を離すと椅子から立ち上がり、リヴァイの顎に手をかけると、強引に視線を自身に向けさせる。
「あんまりエレンのことイジメると、おしおきしちゃうよ?」
「!」
「今日はこの辺で勘弁してよ、ね。」
屈託のない笑顔から放たれる圧に、リヴァイはハッと我に返る。
少し罰の悪そうな表情でプイと顔を背けると、そのまま地下牢を去って行った。
「たく、なに焦ってんだか。」
「ハンジさん凄ぇ。」
少し離れた場所で椅子に座り事の始終を見ていたジャンの口から、思わず感嘆の声が溢れる。
「ははっ。リヴァイのこと叱れる人少ないから。たまには友人としてお灸を据えてあげないと。」
「リヴァイ兵長と、友達。」
「そう、友達♪……と、そんな訳でジャンとアルミンにもエレンの身の回りのお世話をお願いする時があるからよろしくね。」
「了解し……」
「嘘つき。」
「ん?何か言ったアルミン。」
同じくジャンの隣に座っていたアルミンはハンジを見据えたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
心を見透かすような水色の瞳に、保つ笑顔が引きつりそうになる。
「了解しました。失礼します。」
「あ、オイ、待てよ!ハンジさん失礼します。」
部屋を出て足早に階段を登っていくアルミンと、慌てて追いかけるジャンの足音が合わさり、やがて遠のいていく。
ハンジは2人の出て行った扉を見つめたまま崩れるように椅子に座り、大きく溜息をついた。
「……ハァ。疲れたぁ……。」
******
その夜。
「………夜間訓練か。」
静寂な闇に包まれ、微かに聞こえてきた声と物音に、エルヴィンはふと窓へ視線を向けた。
「そろそろエレンの就寝時間だ。リヴァイ、就寝の準備を整えてきなさい。」
「あ?」
「他の者は皆忙しい。」
「休息も立派な仕事だろうが。」
解せないと言わんばかりの表情を浮かべながら、渋々リヴァイは席を立ち部屋を後にした。
ミケと二人きりになった部屋で、エルヴィンはミケの横顔をじっと見つめる。
「お前は何も言わないな。」
「何か言って欲しいのか?」
問いには答えず微笑むエルヴィンに対し、少しの沈黙の後卓上ランプに視線を落としたまま、ミケは呟いた。
「犬が目覚めて牙を剥いてきたらどうする。」
エルヴィンはランプに視線を向けると、一見穏やかに見える小さな灯火の中に、力強く赤々と燃える揺らぎを見つけ目を細める。
「そうだな。自分の飼い主が誰のモノであるかを自覚させればいい。」
「エレン、入るぞ。」
「……誰だ?アルミンか?」
一拍置いてノック音に気づき、エレンはドアに視線を向ける。
リヴァイはタオルと水の入った桶、薬と水差しをサイドテーブルに置くと、ベッドに腰を下ろす。
ゆっくりとエレンの上半身をベッドから起こすと、未だ視力と聴力の識別が困難なエレンの手を取り、手の平に人差し指を乗せてスルスルと文字を書いていく。
[Levi]
「!へぃ…っ」
驚きのあまり反射的に手を払おうとするエレンの手首を強く握り、リヴァイは手の平の文字を追加していく。
[就寝の準備だ。体を拭く。]
そう伝えてエレンの手首を離した瞬間、エレンはリヴァイから身を守るように前屈みになり、力の入りきらない両手でシャツをギュッと握り締めた。
リヴァイは無言のままベッドから立ち上がると、サイドテーブルに置いた桶の中にあるタオルを手にして、固く水を絞っていく。
エレンは緊張を悟られないように服を脱ぐと、表情を隠すように俯き小さく深呼吸する。
「お願い、します……。」
リヴァイは再びエレンの背後に腰を下ろすと、背中にそっと触れてみる。
しなやか身体のラインも、瑞々しい肌の質感も、触れる指先に反応する感度も変わらない。
淡々と業務的に事を済ませていると、ふいに溜息混じりの声が漏れてきた。
「ふう…ううっ…はぁ…。」
「疲れたか。もうすぐ終わる。」
「へいちょ…、うあ、あ、…兵長ぉ…。」
「!」
背中越しで見えないが、ポロポロと零れる大粒の涙を手で拭いながら嗚咽混じりに名を呼び続けるエレンに、リヴァイの手が止まる。
「すみません、…こんな、つもりじゃ……。」
「エレン…。」
持っていたタオルを桶に入れ、もう1度エレンに触れようとした。
「リヴァイ、終わったか?」
「っ…!ノックくらいしろ、エルヴィン。エレンがビビるだろうが。」
「団長…?」
涙で濡れた睫毛をぱちぱちとさせ、必死に耳を研ぎ澄ますエレン。
エルヴィンは彼に微笑みかける。
「すまないね。帰りが遅いから心配して来たたんだ。」
「チッ。普段そんなことしねぇだろうが。」
リヴァイはエルヴィンに背を向け、再びタオルを絞る素振りを見せる。
しかし、その手には何もなかった。
「分かった分かった。帰るよ。」
「ま、待って、…兵長…待ってください…」
エレンの震える手が、リヴァイの袖の端を、偶然にもかすかに掴んだ。
「…じゃあな。」
リヴァイは一瞬、その手を見た。
そして、無表情のまま、そっと腕を振りほどいた。
「いやだ、…兵長…行かないで…あああ…」
「エレン、ゆっくりお休み。」
地下牢の扉が閉まる金属音が、部屋に冷たく響く。
「良い夢を。」
******
「エレンに、リヴァイ兵長とエルヴィン団長を交えて話せる場を設けて下さい。」
二倍もある体格差を感じさせない、鋭く真っ直ぐな眼差し。
ミケは鼻をスンと鳴らし、無視して通り過ぎようとすると、さらに低く、しかし確かな声が追いかけてくる。
「エレンが今、兵団の規律と兵長への想いの間で、心を削られていることを、あなたもご存知でしょう? このまま何もなければ、彼は壊れます。……壊れても、構いませんか?」
「エレンが壊れても構わない。脅しなら、もっと上手くやれ。」
「脅しではありません。懸念です。エレンが壊れた先に、兵長が無事でいられると思いますか?」
ミケの呼吸が、一瞬だけ止まった。
脳裏に、エルヴィンの顔がくっきりと浮かんだ。
「エレンが壊れても構わない…という言葉も、やはり嘘ですね。ハンジさんと【契約】をしているのも嘘。あなたは、現状維持を貫くために嘘を積み重ねて、それに飲み込まれようとしている。」
沈黙が、重く流れる。
ミケの鋭い瞳が、アルミンを、言葉ではなく存在そのものとして測る。
その眼差しは、もはや小生意気な若造などではなく、傷ついた仲間を救うため、牙を剥いて知恵を絞る一匹の獣を見つめていた。
「……随分と、そのガキに惚れ込んでいるんだな」
ミケは嘲るようにそう呟く。
スッと視線を背後に向け、重いため息を一つ吐いた。
「今夜、リヴァイの部屋へ。時間は……21時だ。それ以外のことは、俺が調整する」
「……! ありがとうございます!」
「だが、忘れるな。お前がそこで望む結果が得られるとは限らん。リヴァイもエルヴィンも、情に流されるような甘い男ではない。」
「それが、望む結果です。彼らが真剣に話し合う場さえ設けられれば。」
アルミンの目に、一瞬だけ、少年らしい強い決意が光った。
ミケはそれを一瞥すると、今度こそ背を向けて歩き去った。
(これで、第一歩は踏み出せた……)
アルミンは胸の高鳴りを抑え、拳を少しだけ握りしめた。手のひらには、冷や汗がにじんでいた。
(思った以上に事が上手く進んでしまったけど、本当に大丈夫かな……いやいや、弱気になるな!)
「アルミン」
「エレ……」
今、最も側にいてほしい声がする方に、アルミンは顔を向ける。
鋭くも澄んだ銀色の瞳に見つめられ、アルミンは唖然となった。
『俺は、誰よりも兵長を愛してるって言っただろ。』
艶やかで凛とした空気を纏う、もう1人のエレン。
鮮明に蘇る記憶に、足が竦んで動けなかった。
「久しぶり。相変わらず小さいな、お前。」
「…今朝、懲罰室から出られたんですよね。」
「お陰様で規則正しい生活を送らせてもらったよ。」
「っ……か、髪、少し伸びましたね…喋り方も、その…」
「あぁ、あれは仕事用。お前相手に今更演技しても意味ねぇし。」
エレンと一緒の声と容姿にも関わらず、どこかゆるく掴み所のないシェルムに対し、アルミンは困惑の色を隠せない。
「そう言えば、ミケ分隊長とハンジ分隊長って【フェイク】だったんだな。」
「!見てたんですか。」
「男娼してるから誰がどの【属性】にいるか何となく分かるんだけど、2人の【契約】に少し違和感あったからすげー納得。お前尾けてたお陰で面白いネタ貰ったわ。」
(あの人が去った後すぐにシェルムさんは僕のところに来た…気配に気づいてない筈がない。なんで何も言わなかったんだ…。)
「ま、俺はリヴァイ兵長以外興味ねぇからどうでもいい……」
シェルムは獲物を上から下まで品定めをするように眺めながら、じりじりとアルミンを壁に追い詰めていく。
「俺はイェーガーに対して接近禁止令が出ている。ここに来た意味が分かるな?」
逃げ場を失った体がピタリと壁につくと、アルミンの頭上の壁に手をつき、水色の瞳を覗き込む。
「噂はすぐに耳に入った。あれだけ啖呵切っておきながらあっさりと兵長に【解除】されるなんてざまぁねぇな。」
「い、色々事情があるんです。簡単な話じゃない。」
「じゃあ何だ?俺は茶番に付き合わされたあげく、意味もなく懲罰室にブチ込まれたのか?舐めるのも大概にしろよ。」
「っ……。」
シェルムの言葉を論破するだけのものがない事実に、アルミンは首を垂れ悔しさと歯痒さを滲ませる。
倉庫に拉致監禁され、複数の男に囲まれ傷つけられても尚ブレる事のなかった姿とはあまりにも真逆な態度に、シェルムは溜息をつく。
「お前、本当は何からあいつを守ってるのかよく分かってねぇだろ。好きなら今のうちに奪っちまえよ。その方がこっちも楽だ。」
「……??」
「は?マジ?」
驚き見上げてきたアルミンの声にならない声で口をパクパクする動揺ぶりに、シェルムは思わず吹き出した。
「…ふふふ…これだからお子ちゃまは……。くくっ…お前どう見てもあいつの事好きだろ。」
引きつった笑いで必死に耐えようとするシェルムに対し、アルミンは頭の中が真っ白になる。
「ちち、違います!やめてください!」
「お、反抗する気か?…クス。『なぁアルミン。触れていいか?』」
「!」
シェルムのスイッチが入り、セリフと共に妖艶さから凛々しい表情に切り替わっていく。
「『俺はアルミンのものだから、お前の望むようにしていいんだ。』」
同じ容姿と声音を使い、あからさまな誘惑をしてくるエレンを別人だと頭では理解していても、澄んだ銀色の瞳に心を奪われ、奥底にしまい込んだ感情を揺さぶられる。
触れてきた手がアルミンの頬をそっと包み込み、親指が口唇の弾力や感触を味わうように撫でてくる。
もう1度だけで、あと1度だけ。
その優しい眼差しと近づく口唇を、自分だけのものに出来たなら。
「『好きだ…ずっとそばにいる…。』」
「~~っっエレンはそんな事言わない!!」
勢い任せにシェルムを突き飛ばし、アルミンはハァハァと大きく肩を上下させる。
(だ、男娼をしてるだけあって、なんて恐ろしい人なんだ……。)
「てぇ……なんだ失敗かよ。懲罰室に入ってる間に腕が鈍っちまったな。」
シェルムは残念そうに小さく頬を膨らませた後、呆然とするアルミンに向かって、エレンと同じ満面の笑みを浮かべて言い放つ。
「つまんねぇ友情ごっこはいつか身を滅ぼすぞ。」
瞬時に豹変する銀色の瞳は、以前にも増して妖しく光り輝く。
「次にあいつに会ったら伝えておけ。俺はあの人を手に入れるためなら手段を選ばない。お前が指を咥えて見てるだけなら、俺が団長から奪ってやる。」
シェルムが去り1人になった廊下の壁に背を預け、アルミンは目を瞑り、そっと唇に触れてみる。
(つまんない友情ごっこか…。)
弄ばれた無意味な行為だとしても、そこには確かにエレンがいた。
『俺はアルミンのものだから、お前の望むようにしていいんだ。』
……随分と、そのガキに惚れ込んでいるんだな。
突如脳裏に浮かぶ言葉に、アルミンは目を見開き、唇に触れていた手を離す。
(やられた…僕の気持ちを試された…。)
取引の条件をあっさりと受け入れた事も、シェルムの気配に気づきながら何も言わなかった事も。
(僕は本当の意味で覚悟が出来ていなかった…。)
遠くの方から聞こえてきた自分を探す愛しい声に気づき、アルミンは視線を向ける。
好きだからこそ幸せになって欲しくて身を引いた筈だった。
(――ブレるな!)
サイドテーブルに置いた眼鏡をかけ、ハンジはベッドから起き上がり、扉を開けた。
「…リヴァイ…」
無言のままうつむくリヴァイの表情は見えず、シトシトと降る優しい雨の音だけが外から聞こえてくる。
「寝ぼけてるの?部屋、間違えてるよ」
「………」
「仕方ないな~。ほら、送って……あ、ちょっと!」
ハンジの言葉を遮るように、強引に部屋へ入ってきたリヴァイは、すぐさま扉を閉め、鍵をかけた。
「お前の部屋で寝る」
「ダメダメ。リヴァイと一夜を共にしたなんて、エルヴィンに知られたら私、殺されちゃうよ」
ドアノブを握りしめたまま、リヴァイはコツンと扉に頭をつけた。
珍しく駄々をこねて黙り込むリヴァイに、ハンジは小さくため息をついた。
「ケンカした?それとも怒られた?」
「………」
「事情は知らないけど、エルヴィンはリヴァイのこと嫌いになったりしないから。早く戻って仲直りしなよ」
「あの部屋は明るすぎる」
「え?」
「眩しすぎて眠れねぇ。本当だ」
雨音に溶けるかすかな声に、ハンジは胸騒ぎを覚えた。
リヴァイの背中からゆっくりと浮かび上がる、幻影の羽は、酷く傷つき、痩せ細っていた。
「…どうすればいい…教えてくれ…」
行き場を失い、堪えてきたものを吐き出すように、初めて見せた弱さ。
今にも崩れてしまいそうな体を支えようと、ハンジは咄嗟にその背中を抱きしめた。
―おやすみ。愛しているよ。―
「やめろ!!」
突然声を荒げ、リヴァイはハンジの腕を振り払う。
訪れぬ闇、訪れぬ安らぎの代償。
鋭い棘を張り巡らせた心と、全てを拒絶する瞳に、ハンジは言葉を失った。
我に返ったリヴァイは事態を理解できていないようで、切迫した表情のままただハンジを見つめていた。
(…バカだ…私は…)
飛べなくなった羽を背負い続けたまま、どんな思いであの人の側にいたのだろう。
「部屋に戻…」
「リヴァイ。エルヴィンとの【契約】を【解除】しよう」
「断る」
「たかが【契約】だよ?嫌ならやめればいい話じゃん」
「口出しをするな。お前には関係ない」
躊躇いのない意志の強さが、罪の意識となってハンジの胸を突き刺す。
「関係あるよ。リヴァイが守ろうとしているものは、私も命がけで守りたいものだから」
「!」
精一杯の笑顔を向けるハンジの言葉に、リヴァイの中で感情の波が一気に押し寄せてくる。
「大丈夫。離れなくていいんだよ」
込み上げる想いを飲み込み、返事の代わりに、リヴァイはハンジを抱き寄せる。
意外な行動に驚かされるも、ハンジはリヴァイをきつく抱きしめ、窓の外の雨音にだけ静かに耳を傾けた。
夜の空気に晒された肌は、悲しいほどに冷たかった。
******
「余計なことをするなと言ったはずだ」
「だったら何?私のこと、殺す?」
ハンジの挑発的な笑顔に対し、ミケは表情一つ変えず淡々と答えた。
「【契約】を【解除】したところで、何も変わらない」
「どういう意味よ」
「哀れだな、ハンジ。お前は自分の気持ちを優先させ、二人の関係から目を背けてきた。もう手遅れだ」
「っ……」
蔑むような瞳を向けられ、ハンジはミケを睨みつけるも、返す言葉が見つからなかった。
リヴァイが一方的に切り出した、エルヴィンとの【契約】の【解除】の一報は、瞬く間に三兵団に伝わり、全兵士に知れ渡っていく。
「リヴァイ兵長とエルヴィン団長が【契約】を【解除】したらしいぜ」
「マジ!?」
「修羅場で喧嘩する声が部屋の外まで響いたんだって」
「どうせ団長が飽きたんだろ」
「はぁ…一度でいいから、あの兵長に抱かれてみたい」
情報は錯綜し混乱を極めたが、二人への配慮から表立って話が出ることはなく、入れ替わりの激しい兵団内では噂話に留まり、次第に消えていった。
二人の関係は、一見すると今までの日常と何も変わらないように見えるが、【解除】を突きつけたはずのリヴァイは、契約する以前にも増してエルヴィンの側から離れなくなっていた。
それを傍らで見る度に嫌な汗が体にまとわりつき、ハンジの脳内で不協和音のようにミケの言葉が響いてくる。
寄り添うことしかできないもどかしさから抜け出せず、月日が経つにつれ気持ちは焦り始めていた。
「エレンはお前の境遇に似ていないか?」
エレンを調査兵団に迎え入れることを反対していたリヴァイに向かって、エルヴィンはそう問いかけてきた。
過酷な幼少期を経て兵団に入団し、巨人化能力の持ち主として国と兵団の畏怖と好奇の眼差しに晒されている状況が、よく似ているらしい。
詳細を比較すればきりがなく、エレンを手に入れるための強引なこじつけ話に過ぎないが、リヴァイの考えが立ち止まるきっかけになったのは確かだった。
「調査兵団に入って、とにかく巨人をブッ殺したいです」
初対面で見せたエレンの狂気は、その場にいなくとも察するものがあり、強固なまでの意志と底知れぬ闇の深さに圧倒される。
同時に心の奥底で、どうしようもなく惹かれる感覚は、本能を刺激する快楽に近く、その時の様子を饒舌に語るリヴァイの表情がとても印象的だった。
(…だから私は、エレンに賭けてみようと思ったんだ)
「エレンが可愛いからってストーカーはダメだよ」
馬小屋を掃除するエレンを離れた場所から監視するリヴァイを見つけ、声をかけるも無視された。
「そんなに好きなら、今度イイモノあげようか♡」
「くたばれ」
「もー。エレンが入ってきてから、リヴァイ私に冷た……ん?」
突然やってきた数人の先輩に取り囲まれるエレンと、その横で(いたと思われる)アルミンが困惑している。
リヴァイとハンジがいる位置から馬小屋までは程よい距離があり、細かく聞き取ることはできないが、面倒事に巻き込まれているのは見て取れた。
「あちゃー。人気者はつらいねぇ」
「………」
興味なさそうな態度のリヴァイに対し、ハンジは呆れ顔でため息をついた。
「どうでもいいって顔してるけど、ケンカの見守りだけじゃないって分かってる?」
「エレンの下まで監視しろと?」
「そこまで言ってないけど……。104期の子たちもそろそろシステムの存在に気づく頃でしょ。属性が大規模に変動するデリケートな時期なだけに、エレンの精神状態が安定しないと実験に影響を与えかねないよ」
「ひゃああっ!」
「お前ら、アルミンに何した!」
「ケツ触るくらい、いいだろ。減るもんじゃねーし」
「なっ…死んじゃえよ、クソ野郎!」
会話を遮るようにエレンの怒声が聞こえ、今まさに取っ組み合いの喧嘩が始まろうとしていた。
すると突然現れたミカサに男たちは瞬殺され、エレンとアルミンが唖然としている間に、5メートル先まで吹っ飛んで事なきを得る。
始終を見て苦い顔をするハンジに向かい、リヴァイが涼やかに言い放った。
「十分、成立しそうだな」
「あんな例外、兵団内でそうそう通用しないから。ねぇ、覚えてる?以前、同じように先輩方に絡まれて輪姦されそうになってた新兵の子を、リヴァイが助けてあげたこと。あの子、エレンによく似てた」
「…まぁ、一定の人間を黙らせる効率的な方法は、考えねぇとな」
リヴァイの変化を感じ取ったハンジが気を利かせて視線を外す。
しかし、その先に見えた窓からこちらを見つめる碧の瞳に気づき、背筋がぞくりと震えた。
―【契約】?俺とエルヴィンがか?―
―そうだ。私と君のこれからのことを、真剣に考えて欲しい。―
ハンジは喉をゴクリと鳴らし、眼鏡のブリッジを中指で押さえ、視線を元に戻した。
幼馴染の前で屈託のない笑顔を向けるエレンを見つめるリヴァイの心はここにあらず、横顔は愁いを帯びていた。
(業、とでも言うべきか。)
******
あの日はとても穏やかで、私がリヴァイへの気持ちと決別するには、少しだけ胸が痛む夜だった。
「…テメェ…」
「リヴァイって、本当私に甘いよね。身内だからって油断しちゃダメだよぉ?」
「コレ(紅茶)に、何入れた…!!」
「今度イイモノあげるって言ったでしょ♡ エレンは顔が可愛いし、スタートはそこからでいいと思うんだ」
「はぁはぁ…エレン?…っ…さっきから、何言って…」
「起爆剤が欲しい。ダメだったら次。それだけだよ」
「…クソが…待ちやがれ、ハンジ…」
口の悪さとは裏腹に、必死に堪えようと机に置いた拳を固く握りしめ、眉を顰めるリヴァイの息遣いが、少しずつ荒くなっていく。
地下街で手に入れた媚薬は想像以上で、理性と本能の狭間で揺れる表情はとても美しかった。
椅子から立ち上がり、眼下の黒髪にキスをすると、リヴァイの体が小さく反応する。
「…じゃあね」
確認を終え部屋を出ると、エレンが対面から廊下を歩いて来るのが見えた。
こちらに気づき会釈するエレンの表情は重く険しい。
すれ違いざまに別れた後、すぐ背後からドアをノックする音が聞こえ、ゆっくりと扉が開き閉まる音がした。
自然と足が止まり、両目を閉じて小さく深呼吸をする。
身勝手で愚かな行動。
それを上回る期待感。
言葉にできない感情が込み上げてきて、声を殺して笑った。
******
「治りが悪いね。」
実験を終えて3日目。
外傷は軽くすんだものの、失明、難聴、著しい筋力低下を引き起こし、エレンは地下牢のベッドの上でほぼ寝たきり状態だった。
「どうなってやがる。」
ベッドの前で仁王立ちになり、眉間にしわを寄せてエレンの顔を見下ろすリヴァイと、その横で母親のような目線で椅子に腰を掛け、エレンの左手をギュッと握り締めるハンジ。
「精神的な部分が含まれてると思う。エレンはよく頑張ってるよ。あと1週間は休ませた方がいい。」
「冗談じゃない。エレン、今すぐ治せ。」
「今は寝てるし、起きても音が篭っててはっきり聞こえないって言ったでしょ。」
「じゃあ、お前が何とかしろ。」
八つ当たりもいいところのムチャぶりに、さすがのハンジも目が座る。
「気持ちは分かるんだけどさぁ……」
ハンジはエレンの手を離すと椅子から立ち上がり、リヴァイの顎に手をかけると、強引に視線を自身に向けさせる。
「あんまりエレンのことイジメると、おしおきしちゃうよ?」
「!」
「今日はこの辺で勘弁してよ、ね。」
屈託のない笑顔から放たれる圧に、リヴァイはハッと我に返る。
少し罰の悪そうな表情でプイと顔を背けると、そのまま地下牢を去って行った。
「たく、なに焦ってんだか。」
「ハンジさん凄ぇ。」
少し離れた場所で椅子に座り事の始終を見ていたジャンの口から、思わず感嘆の声が溢れる。
「ははっ。リヴァイのこと叱れる人少ないから。たまには友人としてお灸を据えてあげないと。」
「リヴァイ兵長と、友達。」
「そう、友達♪……と、そんな訳でジャンとアルミンにもエレンの身の回りのお世話をお願いする時があるからよろしくね。」
「了解し……」
「嘘つき。」
「ん?何か言ったアルミン。」
同じくジャンの隣に座っていたアルミンはハンジを見据えたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
心を見透かすような水色の瞳に、保つ笑顔が引きつりそうになる。
「了解しました。失礼します。」
「あ、オイ、待てよ!ハンジさん失礼します。」
部屋を出て足早に階段を登っていくアルミンと、慌てて追いかけるジャンの足音が合わさり、やがて遠のいていく。
ハンジは2人の出て行った扉を見つめたまま崩れるように椅子に座り、大きく溜息をついた。
「……ハァ。疲れたぁ……。」
******
その夜。
「………夜間訓練か。」
静寂な闇に包まれ、微かに聞こえてきた声と物音に、エルヴィンはふと窓へ視線を向けた。
「そろそろエレンの就寝時間だ。リヴァイ、就寝の準備を整えてきなさい。」
「あ?」
「他の者は皆忙しい。」
「休息も立派な仕事だろうが。」
解せないと言わんばかりの表情を浮かべながら、渋々リヴァイは席を立ち部屋を後にした。
ミケと二人きりになった部屋で、エルヴィンはミケの横顔をじっと見つめる。
「お前は何も言わないな。」
「何か言って欲しいのか?」
問いには答えず微笑むエルヴィンに対し、少しの沈黙の後卓上ランプに視線を落としたまま、ミケは呟いた。
「犬が目覚めて牙を剥いてきたらどうする。」
エルヴィンはランプに視線を向けると、一見穏やかに見える小さな灯火の中に、力強く赤々と燃える揺らぎを見つけ目を細める。
「そうだな。自分の飼い主が誰のモノであるかを自覚させればいい。」
「エレン、入るぞ。」
「……誰だ?アルミンか?」
一拍置いてノック音に気づき、エレンはドアに視線を向ける。
リヴァイはタオルと水の入った桶、薬と水差しをサイドテーブルに置くと、ベッドに腰を下ろす。
ゆっくりとエレンの上半身をベッドから起こすと、未だ視力と聴力の識別が困難なエレンの手を取り、手の平に人差し指を乗せてスルスルと文字を書いていく。
[Levi]
「!へぃ…っ」
驚きのあまり反射的に手を払おうとするエレンの手首を強く握り、リヴァイは手の平の文字を追加していく。
[就寝の準備だ。体を拭く。]
そう伝えてエレンの手首を離した瞬間、エレンはリヴァイから身を守るように前屈みになり、力の入りきらない両手でシャツをギュッと握り締めた。
リヴァイは無言のままベッドから立ち上がると、サイドテーブルに置いた桶の中にあるタオルを手にして、固く水を絞っていく。
エレンは緊張を悟られないように服を脱ぐと、表情を隠すように俯き小さく深呼吸する。
「お願い、します……。」
リヴァイは再びエレンの背後に腰を下ろすと、背中にそっと触れてみる。
しなやか身体のラインも、瑞々しい肌の質感も、触れる指先に反応する感度も変わらない。
淡々と業務的に事を済ませていると、ふいに溜息混じりの声が漏れてきた。
「ふう…ううっ…はぁ…。」
「疲れたか。もうすぐ終わる。」
「へいちょ…、うあ、あ、…兵長ぉ…。」
「!」
背中越しで見えないが、ポロポロと零れる大粒の涙を手で拭いながら嗚咽混じりに名を呼び続けるエレンに、リヴァイの手が止まる。
「すみません、…こんな、つもりじゃ……。」
「エレン…。」
持っていたタオルを桶に入れ、もう1度エレンに触れようとした。
「リヴァイ、終わったか?」
「っ…!ノックくらいしろ、エルヴィン。エレンがビビるだろうが。」
「団長…?」
涙で濡れた睫毛をぱちぱちとさせ、必死に耳を研ぎ澄ますエレン。
エルヴィンは彼に微笑みかける。
「すまないね。帰りが遅いから心配して来たたんだ。」
「チッ。普段そんなことしねぇだろうが。」
リヴァイはエルヴィンに背を向け、再びタオルを絞る素振りを見せる。
しかし、その手には何もなかった。
「分かった分かった。帰るよ。」
「ま、待って、…兵長…待ってください…」
エレンの震える手が、リヴァイの袖の端を、偶然にもかすかに掴んだ。
「…じゃあな。」
リヴァイは一瞬、その手を見た。
そして、無表情のまま、そっと腕を振りほどいた。
「いやだ、…兵長…行かないで…あああ…」
「エレン、ゆっくりお休み。」
地下牢の扉が閉まる金属音が、部屋に冷たく響く。
「良い夢を。」
******
「エレンに、リヴァイ兵長とエルヴィン団長を交えて話せる場を設けて下さい。」
二倍もある体格差を感じさせない、鋭く真っ直ぐな眼差し。
ミケは鼻をスンと鳴らし、無視して通り過ぎようとすると、さらに低く、しかし確かな声が追いかけてくる。
「エレンが今、兵団の規律と兵長への想いの間で、心を削られていることを、あなたもご存知でしょう? このまま何もなければ、彼は壊れます。……壊れても、構いませんか?」
「エレンが壊れても構わない。脅しなら、もっと上手くやれ。」
「脅しではありません。懸念です。エレンが壊れた先に、兵長が無事でいられると思いますか?」
ミケの呼吸が、一瞬だけ止まった。
脳裏に、エルヴィンの顔がくっきりと浮かんだ。
「エレンが壊れても構わない…という言葉も、やはり嘘ですね。ハンジさんと【契約】をしているのも嘘。あなたは、現状維持を貫くために嘘を積み重ねて、それに飲み込まれようとしている。」
沈黙が、重く流れる。
ミケの鋭い瞳が、アルミンを、言葉ではなく存在そのものとして測る。
その眼差しは、もはや小生意気な若造などではなく、傷ついた仲間を救うため、牙を剥いて知恵を絞る一匹の獣を見つめていた。
「……随分と、そのガキに惚れ込んでいるんだな」
ミケは嘲るようにそう呟く。
スッと視線を背後に向け、重いため息を一つ吐いた。
「今夜、リヴァイの部屋へ。時間は……21時だ。それ以外のことは、俺が調整する」
「……! ありがとうございます!」
「だが、忘れるな。お前がそこで望む結果が得られるとは限らん。リヴァイもエルヴィンも、情に流されるような甘い男ではない。」
「それが、望む結果です。彼らが真剣に話し合う場さえ設けられれば。」
アルミンの目に、一瞬だけ、少年らしい強い決意が光った。
ミケはそれを一瞥すると、今度こそ背を向けて歩き去った。
(これで、第一歩は踏み出せた……)
アルミンは胸の高鳴りを抑え、拳を少しだけ握りしめた。手のひらには、冷や汗がにじんでいた。
(思った以上に事が上手く進んでしまったけど、本当に大丈夫かな……いやいや、弱気になるな!)
「アルミン」
「エレ……」
今、最も側にいてほしい声がする方に、アルミンは顔を向ける。
鋭くも澄んだ銀色の瞳に見つめられ、アルミンは唖然となった。
『俺は、誰よりも兵長を愛してるって言っただろ。』
艶やかで凛とした空気を纏う、もう1人のエレン。
鮮明に蘇る記憶に、足が竦んで動けなかった。
「久しぶり。相変わらず小さいな、お前。」
「…今朝、懲罰室から出られたんですよね。」
「お陰様で規則正しい生活を送らせてもらったよ。」
「っ……か、髪、少し伸びましたね…喋り方も、その…」
「あぁ、あれは仕事用。お前相手に今更演技しても意味ねぇし。」
エレンと一緒の声と容姿にも関わらず、どこかゆるく掴み所のないシェルムに対し、アルミンは困惑の色を隠せない。
「そう言えば、ミケ分隊長とハンジ分隊長って【フェイク】だったんだな。」
「!見てたんですか。」
「男娼してるから誰がどの【属性】にいるか何となく分かるんだけど、2人の【契約】に少し違和感あったからすげー納得。お前尾けてたお陰で面白いネタ貰ったわ。」
(あの人が去った後すぐにシェルムさんは僕のところに来た…気配に気づいてない筈がない。なんで何も言わなかったんだ…。)
「ま、俺はリヴァイ兵長以外興味ねぇからどうでもいい……」
シェルムは獲物を上から下まで品定めをするように眺めながら、じりじりとアルミンを壁に追い詰めていく。
「俺はイェーガーに対して接近禁止令が出ている。ここに来た意味が分かるな?」
逃げ場を失った体がピタリと壁につくと、アルミンの頭上の壁に手をつき、水色の瞳を覗き込む。
「噂はすぐに耳に入った。あれだけ啖呵切っておきながらあっさりと兵長に【解除】されるなんてざまぁねぇな。」
「い、色々事情があるんです。簡単な話じゃない。」
「じゃあ何だ?俺は茶番に付き合わされたあげく、意味もなく懲罰室にブチ込まれたのか?舐めるのも大概にしろよ。」
「っ……。」
シェルムの言葉を論破するだけのものがない事実に、アルミンは首を垂れ悔しさと歯痒さを滲ませる。
倉庫に拉致監禁され、複数の男に囲まれ傷つけられても尚ブレる事のなかった姿とはあまりにも真逆な態度に、シェルムは溜息をつく。
「お前、本当は何からあいつを守ってるのかよく分かってねぇだろ。好きなら今のうちに奪っちまえよ。その方がこっちも楽だ。」
「……??」
「は?マジ?」
驚き見上げてきたアルミンの声にならない声で口をパクパクする動揺ぶりに、シェルムは思わず吹き出した。
「…ふふふ…これだからお子ちゃまは……。くくっ…お前どう見てもあいつの事好きだろ。」
引きつった笑いで必死に耐えようとするシェルムに対し、アルミンは頭の中が真っ白になる。
「ちち、違います!やめてください!」
「お、反抗する気か?…クス。『なぁアルミン。触れていいか?』」
「!」
シェルムのスイッチが入り、セリフと共に妖艶さから凛々しい表情に切り替わっていく。
「『俺はアルミンのものだから、お前の望むようにしていいんだ。』」
同じ容姿と声音を使い、あからさまな誘惑をしてくるエレンを別人だと頭では理解していても、澄んだ銀色の瞳に心を奪われ、奥底にしまい込んだ感情を揺さぶられる。
触れてきた手がアルミンの頬をそっと包み込み、親指が口唇の弾力や感触を味わうように撫でてくる。
もう1度だけで、あと1度だけ。
その優しい眼差しと近づく口唇を、自分だけのものに出来たなら。
「『好きだ…ずっとそばにいる…。』」
「~~っっエレンはそんな事言わない!!」
勢い任せにシェルムを突き飛ばし、アルミンはハァハァと大きく肩を上下させる。
(だ、男娼をしてるだけあって、なんて恐ろしい人なんだ……。)
「てぇ……なんだ失敗かよ。懲罰室に入ってる間に腕が鈍っちまったな。」
シェルムは残念そうに小さく頬を膨らませた後、呆然とするアルミンに向かって、エレンと同じ満面の笑みを浮かべて言い放つ。
「つまんねぇ友情ごっこはいつか身を滅ぼすぞ。」
瞬時に豹変する銀色の瞳は、以前にも増して妖しく光り輝く。
「次にあいつに会ったら伝えておけ。俺はあの人を手に入れるためなら手段を選ばない。お前が指を咥えて見てるだけなら、俺が団長から奪ってやる。」
シェルムが去り1人になった廊下の壁に背を預け、アルミンは目を瞑り、そっと唇に触れてみる。
(つまんない友情ごっこか…。)
弄ばれた無意味な行為だとしても、そこには確かにエレンがいた。
『俺はアルミンのものだから、お前の望むようにしていいんだ。』
……随分と、そのガキに惚れ込んでいるんだな。
突如脳裏に浮かぶ言葉に、アルミンは目を見開き、唇に触れていた手を離す。
(やられた…僕の気持ちを試された…。)
取引の条件をあっさりと受け入れた事も、シェルムの気配に気づきながら何も言わなかった事も。
(僕は本当の意味で覚悟が出来ていなかった…。)
遠くの方から聞こえてきた自分を探す愛しい声に気づき、アルミンは視線を向ける。
好きだからこそ幸せになって欲しくて身を引いた筈だった。
(――ブレるな!)