Case4【祈り】
「どうした、アルミン。」
「ごめん…。」
「やだ~照れちゃって可愛い♡アルミンてばエレンじゃなくてエルヴィンが好きなの?」
「ち、違います!あ、いや、尊敬はしてて……」
ハンジは悪戯な笑みを浮かべながら、真っ赤な顔をして慌てふためくアルミンを覗き込む。
「大丈夫。エルヴィンのファンの子達って気を遣ってみんなそう言うからアルミンだけじゃないよ。」
「新兵でいちいち遊ぶな。」
「あーら。入団する度に新兵クンの匂いを嗅ぎ回ってる人に言われたくな…」
「少し用事が出来た。先に馬車へ向かってくれ。」
揉め始めた会話を遮るように話しかけてきたエルヴィンの声に2人は瞬時に目の色を変える。
「了解。リヴァイ連れて早めに来てよね。」
「ん。」
「じゃ、新兵クンたち!まったね~。」
弾んだ声で右手をヒラヒラさせながらハンジはミケと共に去って行った。
「少し顔色が悪いな。昨夜は眠れたかい?」
「は、はい。お気遣いありがとうございます。」
心配そうな表情で頬を撫でてきたエルヴィンを、エレンは緊張の面持ちで見上げる。
(…………?)
紳士的な振る舞いとは裏腹に、エルヴィンの柔和な眼差しの奥に一瞬引っかかりを感じるもエレンはそれが何かは分からなかった。
「エレン、あまり見つめられると照れてしまうな。」
「す、すみません!」
無意識のうちに食い入るように見つめていたエレンはリヴァイから手を離すと、慌ててエルヴィンに平謝りをする。
「オイ、いつまで戯れてやがる。」
三白眼の目をさらに細め2人のやり取りを見ていたリヴァイが痺れを切らして口を開くと、エルヴィンはリヴァイに視線を向けて微笑んだ。
「どうした、リヴァイ。妬いているのか?」
「会議の時間だろ。行くぞ。」
「ま、待って下さい!まだ話が…」
「さっきから随分とくだらねぇ話をしているが、てめぇは一体何様だ?」
静かだが強圧的な声音と鋭く睨みつけてくる漆黒の瞳に、エレンは身体を強張らせる。
「【契約】がてめぇの身分を上げる代物とでも勘違いしたか。調査兵団に飼われてる事を忘れてるなら今すぐ地下牢に戻れ。躾直しだ。」
「!っ…申し訳、ありません…。」
理不尽な思いに駆られながらもリヴァイの言葉は至極真っ当で、エレンは俯き拳を強く握り締める。
「リヴァイ。間違ってはいないが言い方があるだろう?」
呆れ顔のエルヴィンは背後からエレンの両肩に手を添える。
落ち着かせるように小刻みに震える肩を優しく撫でた後、柔らかな吐息と共に耳元で囁いた。
「エレン。君が【解除】された理由はね、リヴァイが私と【再契約】をしたからだ。」
「……え?」
顔を上げ大きく見開かれた金色の瞳がリヴァイを捉えると、一粒の涙がすっと頬を伝い流れ落ちる。
「本当、ですか…。」
「っ……。」
リヴァイを直視したまま茫然とするその表情に胸の奥が鈍く痛み、組んでいた腕に力がこもる。
思わず名を呼ぼうと口を開けた瞬間、エレンの髪にそっと口づけをするエルヴィンに挑発的な視線をぶつけられる。
感情を揺さぶられ苛立ちを覚えながらも、リヴァイは喉まで出かけた言葉をグッと飲み込んだ。
「…まぁ、そういう事だ。」
もたれていた壁から体を起こすと、2人の間を強引に割いて立ち尽くすエレンを残しリヴァイはその場から去って行った。
「エレン、まだあんな表情をするんだね。捨てられた子猫のようで可愛かった。」
王都に向かう馬車の中、思い出したかのようにクスクスと笑うエルヴィンの横でリヴァイはすかさず舌打ちをする。
「あれはキャンキャンうるさいから犬だ。」
「え~私もエレンは猫派だなぁ。ミケは?」
「興味ない。」
「じゃあ、2対1でエレンは猫に決定!」
「くだらねぇ。」
「もーあんた達って本当つまんない。」
横で無表情を貫くミケと目の前で冷めた視線を投げるリヴァイに対し、ハンジは頬を膨らませる。
「この2人を手なづけることが難しいのはよく分かったよ(笑)でもいいのか、リヴァイ。そんなに可愛がっていた子を地下牢に戻して。」
「問題あるか?」
「…ないね。」
「私はリヴァイとエレンの年の差カップルも好きだったんだけどな~。」
「ハンジ。」
奔放なハンジに睨みを利かせるミケをエルヴィンは穏やかに窘める。
「構わないよ。意見は自由であるべきだ。だが、我々上に立つ人間が意味を履き違えてはいけない。あくまでもシステムは兵士の性管理が目的で派生した事象はシステムの管理外、もしくは法律に委ねられる。」
エルヴィンはリヴァイを横目で流し、黒髪の襟足をさらりと撫でる。
「何が言いたい。」
「若い新兵は規律に縛られ錯覚に陥りやすいということだ。」
「はっ……じゃあ、俺とお前は何だ。」
「拗ねてるのか?」
「ちょっと~人前でいちゃつくの止めてよね。」
「眼鏡にクソでもつけたかクソメガネ。」
「痛ーーっ!!いたいいたいリヴァイごめんってば~っっ!!」
人類最強のブーツの踵にミシミシと足の甲を踏みつけられハンジは絶叫する。
「ハンジ、リヴァイと人前でいちゃいちゃするのは止めなさい。」
「悠長な事言ってないで助けて~!!」
涙目で訴えてくるハンジとゴロツキ全開のリヴァイ、何とかしろと言わんばかりのミケからの痛い視線を向けられエルヴィンはやれやれと小さく溜息をついた。
「……リヴァイ 。お前がエレンと【契約】を【解除】しても監視役である事に変わりはない。分かっているな?」
その言葉にリヴァイとハンジの動きがピタリと止まる。
リヴァイはハンジの足から踵を離すと足と腕を同時に組み直し淡々と答える。
「問題ない。」
「引き続き頼む。」
(わーお…エグいなぁ。)
【解除】してもなお続く2人の関係性にハンジの顔が引き攣る。
(…リヴァイもエルヴィンもどういうつもりなんだろ……すごく興味ある…。)
「マジかよ……こんなところで調査兵団トップが勢揃い……。」
圧倒されるほど華やかで威風堂々とした佇まいにジャンが仰ぎ見ていと、アルミンが下を向いたままジャンのジャケットの裾をギュッと握り締めてきた。
「それは本当か。」
「あ?」
「リヴァイ、余計なことは考えるな。」
「……チッ。」
ミケの言葉にリヴァイは眉を顰め、静かな戦闘態勢に入る2人に対しエルヴィンは苦言を呈する。
「2人とも馬車が壊れるから喧嘩は外でやりなさい。」
「いやいや街が壊れるから両方ダメでしょ!?ほら2人とももうおしまーーい!!」
王都に降りかかる火の粉を払うべく絶叫するハンジに場の空気を散らされ、リヴァイとミケは不服そうな表情を浮かべながらも元に戻った。
リヴァイは馬車の窓から見える景色に視線を向ける。
夜の闇に包まれながらも王都の城下町は明るく華やかで平穏そのものだった。
(そういやぁ、この角を曲がると……)
『おかえりなさい兵長。会議お疲れ様でした。』
『……なんだその両手は。』
『もぉ俺の気持ち分かってて焦らさないで下さい。』
『……ほらよ。』
『やったー!チョコレートだ!ありがとうございますいただきます!』
『お前、最近俺のこと財布と思ってるだろ。』
『いいえ!愛してます!ウマー!』
『…………。』
何気なく渡した土産の菓子を頬張るエレンの幸せそうな笑顔に負けて、その後習慣のように出先では必ず買って帰るようになっていた。
(……もう買いに行くこともねぇな。)
窓から視線を外しリヴァイは横にいるエルヴィンにもたれかかると腕を組んで目を瞑る。
「もうすぐ着くよ。」
「なら着いたら起こせ。」
「分かった。」
布越しにエルヴィンの体温を感じる。
昨夜まで触れていた体温を上書きされてしまいそうなほど、酷く懐かしい温もり。
(明日からは監視役に徹する……何か問題が起これば、俺はいつでもエレンを殺してみせる……)
馴染みの菓子屋が目に入ってしまったせいで、【元契約者】が見せた最後の表情が脳裏に焼きついて離れない。
(…あぁ、綺麗な涙だった……。)
前日早朝。
「それで、用件は何だ?さっきのメガネならともかくミケが用もないのに朝っぱらから俺の部屋に来ねぇだろ。」
「お前に頼まれていた件だが、やはりジャンにはエルヴィンが関わっていた。」
「……そうか。」
「ジャンがエレンを暴行した日、ジャンはエルヴィンに頼まれて書類を届けるためにお前を探していたそうだ。アルミンの方はエルヴィンと接触はしていたがこれと言った話は出てこなかった。」
リヴァイはクローゼットに背をもたれ両腕を組むと、小さく息を吐く。
静的に語られる内容は既に予測の範疇であり驚きはなかったが、エルヴィンが関わっているという事実が胸の内で燻り続ける。
「金髪のチビは頭がいい。エルヴィンを上手く躱したんだろ。」
「聞いてなかったが、ジャンとアルミンはどうやって見当をつけた?」
「ガキの恋愛感情なんて手に取るように分かる。エレンの【契約者】として初めて会った時からあの2人だけは俺を見る目が違っていたからな。お前こそシェルムの件にどう気づいた。」
「シェルムはエレンと接触する前日にエルヴィンの部屋に呼ばれていた。お陰でその場に居合わせた俺はお払い箱だ。」
「ただ乳繰り合ってただけかもしれねぇだろ。」
「言葉に気をつけろリヴァイ。これはお前の撒いた種だ。」
「…………。」
扉前で立っていたミケがゆっくりとリヴァイに近づいてくる。
互いに一定の距離を保ってきた相手とこうして2人きりで顔を突き合わせるのは何時ぶりか分からない。
調査兵団ナンバー2に相応しい威厳と風格があり、見下ろしてくる秘色色の瞳は鋭利な敵意を向けていた。
ミケはリヴァイに鼻先を近づけ何かを確かめるように顔や体の匂いを嗅いだ後、リヴァイの耳元で囁く。
「今回協力したのは全てエルヴィンの為だ。俺はお前の敵でも味方でもないがエルヴィンに何かあればお前を殺す……覚えておけ。」
前日夕刻。
「遅かったな。」
エルヴィンは意識を失ったエレンをベッドに寝かせると手近にあった薄い掛け布団をエレンの体にふわりとかけ、その口唇に再度キスをする。
リヴァイは静かに扉を閉めると絞り出すような声でエルヴィンに語りかけた。
「エレンを返せ…。」
冷静を装いながらも狂気を孕んだ瞳を向けるリヴァイに、エルヴィンは目を細める。
「返してほしかったらこっちへ来なさい。」
リヴァイは警戒を強めながらも2人が待つベッドにゆっくりと近づくと、エレンの足下に腰を掛けるエルヴィンの視線を感じながら横たわるエレンの枕元に立った。
「っ………。」
兵服が散乱したベッドの上で静かに眠るエレンを見てリヴァイは絶句する。
無数に散りばめられた紅い鬱血の跡は布団を掛けても隠し切れず、エレンの体に生々しく刻まれていた。
「…エレン……エレン、すまない……。」
「よく躾られてて感度もいい。反応もなかなか楽しめたよ。」
悲壮感を漂わせるリヴァイの表情とは対照的に、いつもと変わらぬ素振りでエルヴィンは乱れた衣服を整えていく。
「なぜこんな事をした?」
「私はエレンがお前にどんな抱かれ方をしているのか知りたかっただけだ。」
「ふざけるな。遊びにも限度ってもんがあるだろうが。」
「遊びが過ぎたのはお前の方だろう?」
穏やかな口調とは対照的な軽蔑の眼差し。
「私はエレンの監視と行動を共にすることは命じたが、飼い馴らせとは言っていない。」
「お前には関係ねぇ。」
「関係ない?猫の飼い方を教えたのは私だ。」
「やめろ!」
触れてこようとした手を払いのけ、リヴァイはエルヴィンを睨みつけさらに身構える。
パシンと部屋に響く乾いた音が逆鱗に触れ、エルヴィンは叩かれた手の甲に口唇を押しあてククッと笑った。
「飼い主の手を噛むか……出会った頃のようで懐かしい……。」
蔑みから冷酷さに移り変わる碧眼の瞳に怯み、一瞬の隙を突かれたリヴァイはエレンの寝ているベッドの真横でエルヴィンに床に叩きつけられる。
「離せ!!」
仰向けに組み敷かれた状態で両手首を強く掴まれ、リヴァイは堪らず声を荒げる。
「人類最強と言われても私には敵わないよ、リヴァイ。いつまでも寄り道しているから注意をしに来ただけだ。」
「だったら直接俺に言え。関係ない奴らまで巻き込んで何を企んでやがる。」
「企む?エレンに対する彼らの気持ちは本物だった。私はきっかけを与えたに過ぎず、そこで思い留まるか行動に移すかは彼ら自身で決めたことだ。お前とエレンがそうだったように、彼らもエレンと交わる運命だった。……ただ、それだけの事だよ。」
「だから、てめぇもエレンとそうだって言いてぇのかよ。」
「そうだ。お前はもう十分すぎるくらい理解しているだろう?」
「くっ……!」
大きな左手が勢いよくリヴァイの前髪を掻き上げながら額を抑えつけてくる。
嫌でも直視せざるおえない、残酷なほど深く優しい碧の瞳。
「今まで黙って自由にさせてきたのは、私なりにずっとお前のことを想い憂いてきたからだ。だが、お前はエレンの側にいすぎた所為であまりにも汚れてしまった。」
「ふざけるな。汚したのはお前で、傷ついたのはエレンだ。俺じゃねぇ。」
「いいや、間違っていない。お前はもっと美しくキレイな存在でなければならない。」
「!?」
『Levi、hallelujah。』
過去とフラッシュバックするエルヴィンの微笑みに囚われ、胸の奥が切なく締めつけられ息が詰まりそうになる。
手首を強く握っていた右手が、リヴァイの右手に重なり愛おしむように指を絡めてきた。
「リヴァイ。エレンを完全に壊してしまう前に戻っておいで。」
「っ…そんなこと、出来るわけない……エレンが人類の希望だって言ったのはてめぇだろ……。」
「もう1度だけ言う。私の元へ戻りなさい、リヴァイ。」
低く透明感のある声に名を呼ばれ、リヴァイの身体がぞくりと震える。
忘れられない感触。
引きずり出される感情。
まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
「全てはお前次第だよ。」
『Levi、hallelujah。』
力が覚醒したあの日。
巨人と仲間の返り血で真っ赤に染まった俺を見て、エルヴィンが無意識に口走った言葉。
向けられた慈しむような瞳からは今にも涙が溢れてきそうで、俺は本能的にその言葉の意味を知りたくないと思った。
『リヴァイおいで。』
『…………。』
渋々ベッドに入り気が乗らないと無言で訴えるリヴァイを、エルヴィンの大きな体が背後から包み込むように抱き締めてくる。
『お前はいつも温かくて心地いい。』
『黙って寝ろ。』
『おやすみ。愛しているよ。』
『っ………。』
リヴァイの左手をとり薬指の第一関節にキスをすると、エルヴィンは静かな眠りにつく。
柔らかい唇の感触の余韻を残したまま早々に聞こえ始めた微かな寝息。
口約通り体の関係は一切求めらず、変わらない日々を過ごすなかで唯一求められた行為。
まるで2人だけの神聖な儀式のように清らかで、エルヴィンの腕の中にいると胸が切なく締めつけられ息が詰まりそうな感覚に陥る。
気を紛らわそうと横にあるサイドテーブルに視線を向けると、カーテンの隙間から零れる月の光に照らされた1輪の黄色いバラが目に入る。
エルヴィンの寝室に初めて入った日から、途切れる事なく美しい姿を保ったまま飾られていた。
(…今日も眠れそうにねぇな……。)
リヴァイがエルヴィンより先に眠ることはなく、穏やかで長い夜が始まる。
『ハーイ、ミケ♪…っと、皆様お揃いで(笑)人類最強の兵士リヴァイ様と一緒にお昼食べれるなんて幸せ♡』
『そのダセェ呼び方やめろ。』
『ダサいって、今やあんたの代名詞「人類最強」のキャッチコピーは一般市民にまで広がってるんだよ?!私のネーミングセンス凄くない??』
『元凶はテメェか。』
殺意を向ける三白眼を平然と無視してミケの横に着席するとハンジは笑顔でパンを頬張る。
不満オーラ全開のリヴァイの隣に座るエルヴィンはコーヒーを啜ると、ニッコリと微笑んだ。
『ハンジのセンスはなかなかのものだ。実際マイナスのイメージが付き纏う調査兵団に興味や好意を抱く人々が以前よりも増えてきている。人類最強の名にふさわしいリヴァイの真の強さと地下街から調査兵団のトップにまで上り詰めたサクセスストーリーが相乗効果を成し得ている。』
『俺は成し得てねぇよ。』
『これを機に継続的な入団希望者や資金援助に繋がると有り難い。私に免じて大目に見てはくれないか。』
『でしょでしょエルヴィン~もっと言ってやって~。』
子どもを宥めるようなエルヴィンの口調と勝ち誇った目を向けるハンジにうんざりしながらリヴァイは紅茶を啜る。
(勝手にクソみてぇな盛り上げ方をされるこっちの身にもなってみろ。)
シャーディス団長が現役を退いた後、調査兵団は類稀なる才能とカリスマ性を併せ持つエルヴィン・スミスによって統率されていた。
エルヴィンと共にリヴァイも着実に英雄の道を辿っていたが、当初こそ実力で勝ち得たものが次第に様変わりしていく。
エルヴィンと【契約】をした事によりなぜか三兵団内でのリヴァイのブランド価値は飛躍的に上がり表立って批判や嘲笑する者は誰もいなくなった。
並行してハンジが面白半分でつけた「人類最強の兵士リヴァイ」のキャッチコピーは調査兵団に対するイメージを改善しただけでなく突如現れた英雄に市民は熱狂しウォールは久々に活気づいていた。
舌を巻くほどの策士ぶりを発揮したのは勿論エルヴィンであり、本来の姿と乖離するほど綺麗な存在として扱われ始めた事にリヴァイは強い違和感を覚える。
国中を巻き込んだ歪な現象に対して何度かエルヴィンに止めさせるように申し出るが、その度に軽く遇らわれてしまうことも気に食わなかった。
『リヴァイの本当の姿を知っているのが私や団員たちだけでは勿体無いだろう?』
『またそれか。』
『そうだ。お前が巨人と戦って生き残ることこそが全て。団員の士気は上がり人々は賛美し、それが調査兵団の翼となり追い風となる。お前は変わらず、これからも私の側で私を導いてくれ。』
『だから兵団を導いてるのはお前であって俺じゃ……』
反論しようとするもリヴァイはエルヴィンの表情にハッとし言葉を詰まらせる。
分厚く大きな手が優しくリヴァイの手を取り、温かく柔らかい唇が左手薬指に触れてくる。
目を開けた時の慈しみ深い眼差しは何度も見てきた筈なのに、いつしかリヴァイの心に1つの疑念を抱かせていた。
(………何を、期待してやがる……。)
『……リヴァイ、リヴァイ聞いてる?』
鼻先まで顔を近づけガン見してくるハンジの無遠慮さにリヴァイは我に返ると、腕を組み何事もなかったかのように答える。
『聞いてる。』
『嘘つき。あんた自分の身に危険が迫ってるんだよ?』
『あ?』
『だから、ヴァーグナー夫人が資金援助を増額する代わりにリヴァイとデートしたいんだって!あの人旦那が死んでからさらに女帝ぶりを発揮してるけど、リヴァイチョイスとかマジないわ~。』
『 テメェは自分の身に危険が迫ってることには鈍感だな。』
『キャー暴力はんたーい♪』
子ども地味たケンカのやり取りも束の間、エルヴィンの一言に場の空気が一変する。
『私の【契約者】を他人に渡すつもりはない。』
それまで穏やな笑顔を振りまいていたエルヴィンからは想像出来ないほど、氷のように冷めた表情。
『それは兵団内の規律であって外部には関係ない。悪い話ではない筈だ。』
『ミケ、この私にワーグナー家の人間を根絶やしにさせたいのか?』
『エル…』
『何人たりとも私以外の人間がリヴァイに触れることは許されない。この件は断る。』
『っ……!!!』
ミケすらも敵に回す言葉の刃。
普段の姿とも巨人と闘う姿とも違う側面を目の当たりにし、4人の間に緊張の糸が張り詰める。
『援助自体を断られたらどうする。』
『責任を持って次を探すよ。』
エルヴィンは再度コーヒーを啜った後に席を立つ。
『先に部屋へ戻る。』
纏う空気は柔らかく、申し訳なさそうな笑みを浮かべた表情はいつもと変わらなかった。
『…ハァ。今の緊張感死ぬかと思った。ねぇ、エルヴィンて最近リヴァイのことになると過剰に反応しない?目つきもちょっとアレだし。束縛するタイプだっけ?』
緊張から解放されたハンジは机に肘を乗せ頬杖をついて大きな溜息をつく。
『さぁな。』
『ははっ。それにしても、さっきのエルヴィンと対等に話せるなんてミケってやっぱ凄いね!』
(笑えねぇ…。)
いつからだろうか。
見つめてくる瞳は、淑やかな声音は、包み込む体温は、何1つ変わらないのに。
『お前に次回の壁外調査の人員配置について相談したい。』
『なぜ俺に聞く。』
『補給班のゼクスと囮班のアインスを入れ替えようと考えているのだがどう思う?』
『ゼクスは駐屯から移動してきたばかりだろ。囮班にまわすには早すぎる。』
『彼はお前のためならいつでも命を投げれるそうだ。』
『弱ェ奴はすぐ死にたがるな。』
『私はね、彼のその願いを叶えてあげようと思ったんだ。』
『あ?』
『クス。お前を心酔する者が増えて私も嬉しい。……だが、お前は私の物だ。』
『…………。』
時折露わになる狂気にも似た感情が、嘘か真か考える隙を与えないほどの強烈なプレッシャーとなってリヴァイの心を静かに蝕んでいく。
『良い機会だから確認しておきたいことがある。』
『確認て?』
『お前たちは神の存在を信じるか?』
ミケから発せられた意外すぎる質問にハンジは固まる。
『ど、どうしたの急に。何言っちゃってんの?』
『信じるか信じないかどうなんだ。』
『どうって、……確かローゼが突破されてからマリアを拠点に急速に拡大してる「宗教」って勢力の事よね。あんまり興味ないな~。』
『リヴァイ、お前は?』
『お前こそどうなんだ。』
『…………。』
『あ!もしかして少し前に起こった信者の暴動のこと言ってる?王政を心酔する憲兵に神は存在しないと否定されたことによる一部の過激派信者が憲兵団に対してテロ計画を企てたのよね。テロは未遂に終わりニック司祭はテロ計画犯とは無関係の意を表明してうやむやに終わったけど。』
『彼ら1人1人は実に温厚で信心深く心優しい人物だったそうだ。だが、神の存在を否定される事は自分の身を引き裂かれるより辛く耐え難い屈辱だったと言っていたらしい。』
『ふーん。』
『人は本質的に見えない何かを信じる生き物だ。そしてそれは、人の心を豊かにもするし狂気にも変える力があるとしたら………。』
ミケはリヴァイを真っ直ぐに見据え、漆黒の瞳に問いかける。
『リヴァイ、あの力はどうやって身につけた。』
『力?』
『壁外調査で覚醒した力だ。』
『訓練の賜物だろ。』
『お前の力は1個旅団並みにある。訓練でどうこうした所で身につけられるものではない。』
『何が言いたい。』
『それが天性の力………いや、神の力だったらどうする。』
ミケの言葉に対しリヴァイは表情を強張らせる。
互いに一歩も譲らず鋭い視線がぶつかり合う。
『あははっ!何それサイコー!ミケって冗談言えるんだ~~ククッおっかし~あはは!』
場の空気を散らすハンジの高笑いをもろともせず、ミケは語気を強めて言い放つ。
『冗談でも構わない。絵空事や夢物語でも信じる者がいればそれは真実になる。必要であらば、お前にはその役割を担ってもらうつもりだ。』
『…………。』
リヴァイは静かに席を立つと、何も言わずにその場から去って行った。
『も~ミケが変なこと言うからリヴァイ帰っちゃったじゃんか。』
『奴は誰よりもエルヴィンの側にいる。肌で感じ、理解している筈だ。』
『は?エルヴィン?何でここでエルヴィンの名前が出てくるの~やめてよちょっと~!』
バシバシと背中を叩くハンジの右手首を強く掴み、ミケはハンジを睨みつける。
『鈍感を装うのは止めろ。お前も薄々は気づいていた筈だ。』
『!!』
逃げることの出来ない視線に心音が大きく跳ねる。
ハンジは奥歯をギュッと噛み締め、右手首を掴むミケの手をそっと外した。
『っ……いやいや。本当、ないない………だって、これじゃあ、リヴァイがあまりにも可哀想だ……兵団や世間の期待だけじゃない、……か、……っ意味分かんないよ!どれだけリヴァイに背負わせるつもりなの?!』
『お前も人類最強とチャチャを入れてリヴァイを祭り上げてただろ。』
『あれは冗だ……』
ー冗談でも構わない。絵空事や夢物語でも信じる者がいればそれは真実になる。ー
突きつけられる事の重大さにハンジは愕然となる。
『……そんな…。』
『おそらくエルヴィンに自覚はない。側から見ればあくまでも人としてリヴァイを愛している。』
『ダメ!そんなのおかしい!エルヴィンに一言言ってくる!』
動転し席を立とうとするハンジの胸ぐらをミケは瞬時に掴むと、そのまま仰向けに机に叩きつける。
『くぅっ…!!』
『お前が余計な事をするなら、俺はこの場でお前を殺す。』
穏やかな語り口とは対象的に見下ろしてくる秘色色の瞳は鋭さを増していく。
『エルヴィンの精神的支柱がリヴァイである事に間違いはない。そしてそれが兵団に多大なる影響を与えているのも事実だ。この事は俺たち2人の間で留めるんだ。』
『私には、出来ない……耐えられない……っ』
『聞け!!この情報が漏れれば兵団を潰したい外部の連中どころかエルヴィンに失望した内部から調査兵団は一気に崩壊する。お前がリヴァイを守るんだ。』
『!?』
脳裏に浮かぶ想い人にハンジの目が大きく見開く。
『奴がエルヴィンの元を、調査兵団の元を離れない理由を考えろ。お前がリヴァイを。俺がエルヴィンを。今まで以上に支えてやるんだ。』
『私が、リヴァイを守る……?』
秘めた感情は仄かに甘い蜜の香りに揺り動かされていく。
『誰にも隙を与えない、誰にも邪魔はさせない………これは4人だけの秘密だ。』
調査兵団に入って以来、数えきれない人の死を見てきた。
壁の外や巨人の謎は解明されず弔う仲間の名を把握しきれないまま屍だけが積み上がっていく。
それなのに、仲間と巨人の返り血で真っ赤に染まった俺を見てエルヴィンはいつもキレイだと言った。
沢山の人間が団長命令で死んでいく中、人間とは思えない強さを持ち簡単に死なない人間はお前にどう映って見えるのだろう。
お前が俺にだけに向ける眼差しや微笑みを見る度に胸が締めつけられ、枷を嵌められたように身動きが取れなくなる。
そして必ず頭の中で、あの言葉が浮かんでくるんだ。
ーLevi、hallelujah。ー
『何の冗談だリヴァイ。』
『【契約者】としてお前に抱かれてやるって言ってんだ。脱げ。』
『私はお前に肉体関係など求めていない。お前も私では無理だと言っていたし、それでお互い上手くやってきただろう。』
『じゃあ何で【フェイク】じゃなくて【契約】なんだ?いつまでも綺麗事ばかり並べてねぇでさっさと勃たせろよグズ野郎。』
上手く言えない、解放されたかった。
ただ、それだけだった。
『………リヴァイ、今日は止めにしよう……。お前が壊れてしまいそうで怖いんだ…。』
あの日の事は今でも忘れられない。
罪の意識に苛まれ今にも泣き出しそうな子どものような表情。
か細く震える声、縋るように抱き締めてくる両腕、一回りも大きな肩が小さく頼りなく感じるほどだった。
見たこともないエルヴィンの姿を目の当たりにして思考が停止する。
脱け殻になった心と体は自分のものではなく、エルヴィンに抱かれる様はまるで人形のようだった。
ふとサイドテーブルに飾られた黄色いバラに視線を移す。
枯れる事なく保たれたその美しい姿は、人工的な施しが加えられたものであると最近知った。
『…すまない……私を赦してくれ……。』
背後から抱き締めてくる理由も。
左手の薬指にキスをする意味も。
愛しているの言葉も。
誰に赦しを請い、愛を乞うている?
(なぁ、……お前、誰を見ているんだ……。)
なぜ俺を選んだ。
『エルヴィン、キスが欲しい……。』
枷を嵌められたように重く軋む手を伸ばし、エルヴィンの頬に触れてみる。
地下街で下され、強引に【契約者】にさせられ、それでも兵団を辞めようと思わなかったのはエルヴィンを殺すためだけではないことにとうに気付いた。
『………、愛している。』
今更戻ることなんて出来ないーー。
ー6ー
「治りが悪いね。」
実験を終えて3日目。
外傷は軽くすんだものの、失明、難聴、著しい筋力低下を引き起こしエレンは地下牢のベッドの上でほぼ寝たきり状態だった。
「どうなってやがる。」
ベッドの前で仁王立ちになり眉間にしわを寄せてエレンの顔を見下ろすリヴァイと、その横で母親のような目線で椅子に腰を掛けエレンの左手をギュッと握り締めるハンジ。
「精神的な部分が含まれてると思う。エレンはよく頑張ってるよ。あと1週間は休ませた方がいい。」
「冗談じゃない。エレン、2日で治せ。」
「今は寝てるし、起きても音が篭っててはっきり聞こえないって言ったでしょ。」
「じゃあ、お前が何とかしろ。」
八つ当たりもいいところのムチャぶりに、さすがのハンジも目が座る。
「気持ちは分かるんだけどさぁ……」
ハンジはエレンの手を離すと椅子から立ち上がり、リヴァイの顎に手をかけると強引に視線を自身に向けさせる。
「あんまりエレンのことイジメると、おしおきしちゃうよ?」
「!」
「今日はこの辺で勘弁してよ、ね。」
屈託のない笑顔から放たれる圧にリヴァイはハッと我に返る。
少し罰の悪そうな表情でプイと顔を背けると、そのまま地下牢を去って行った。
「たく、なに焦ってんだか。」
「ハンジさん凄ェ。」
少し離れた場所で椅子に座り事の始終を見ていたジャンの口から思わず感嘆の声が溢れる。
「ははっ。リヴァイのこと叱れる人少ないから。たまには友人としてお灸を据えてあげないと。」
「リヴァイ兵長と、友達。」
「そう、友達♪……と、そんな訳でジャンとアルミンにもエレンの身の回りのお世話をお願いする時があるからよろしくね。」
「了解し……」
「嘘つき。」
「ん?何か言ったアルミン。」
同じくジャンの隣に座っていたアルミンはハンジを見据えたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
心を見透かすような水色の瞳に、保つ笑顔が引きつりそうになる。
「了解しました。失礼します。」
「あ、オイ、待てよ!ハンジさん失礼します。」
部屋を出て足早に階段を登っていくアルミンと慌てて追いかけるジャンの足音が合わさり、やがて遠のいていく。
ハンジは2人の出て行った扉を見つめたまま崩れるように椅子に座り大きく溜息をついた。
「……ハァ。疲れたぁ……。」
其の夜。
「………夜間訓練か。」
静寂な闇に包まれて微かに聞こえてきた声と物音に、エルヴィンはふと視線を窓に向ける。
「そろそろエレンの寝る時間だろう。リヴァイ、就寝の準備を整えてきなさい。」
「あ?」
「他の者は皆忙しい。」
「書類待ちも立派な仕事だろうが。」
解せないとでも言いたげな表情を浮かべつつ、渋々リヴァイは席を立つと部屋を後にした。
ミケと2人きりになった部屋でエルヴィンはミケの横顔をじっと見つめる。
「お前は何も言わないな。」
「何か言って欲しいのか?」
問いには答えず微笑むエルヴィンに対し、少しの沈黙の後卓上ランプに視線を落としたままミケは呟いた。
「犬が目覚めて牙を剥いてきたらどうする。」
エルヴィンはランプに視線を向けると、一見穏やかに見える小さな灯火の中に力強く赤々と燃える揺らぎを見つけ目を細める。
「そうだな。自分の飼い主が誰のモノであるかを自覚させればいい。」
******
「エレン、入るぞ。」
「……誰だ?アルミンか?」
一拍置いてノック音に気づきエレンはドアに視線を向ける。
リヴァイはタオルと水の入った桶、薬と水差しをサイドテーブルに置くとベッドに腰を下ろす。
ゆっくりとエレンの上半身をベッドから起こすと、未だ視力と聴力の識別が困難なエレンの手を取り手の平に人差し指を乗せてスルスルと文字を書いていく。
[Levi]
「!へぃ…っ」
驚きのあまり反射的に手を払おうとするエレンの手首を強く握り、リヴァイは手の平の文字を追加していく。
[就寝の準備だ。体を拭く。]
そう伝えてエレンの手首を離した瞬間、エレンはリヴァイから身を守るように前屈みになり力の入りきらない両手でシャツをギュッと握り締めた。
「い、いいです!自分で、脱ぎます……。」
「………。」
リヴァイは無言のままベッドから立ち上がると、サイドテーブルに置いた桶の中にあるタオルを手にして固く水を絞っていく。
エレンは緊張を悟られないように服を脱ぐと、表情を隠すように俯き小さく深呼吸する。
「お願い、します……。」
リヴァイは再びエレンの背後に腰を下ろすと背中にそっと触れてみる。
しなやか身体のラインも瑞々しい肌の質感も触れる指先に反応する感度も変わらない。
淡々と業務的に事を済ませていると、ふいに溜息混じりの声が漏れてきた。
「ふう…ううっ…はぁ…。」
「疲れたか。もうすぐ終わる。」
「へいちょ…、うあ、あ、…兵長ぉ…。」
「!」
背中越しで見えないがポロポロと零れる大粒の涙を手で拭いながら嗚咽混じりに名を呼び続けるエレンにリヴァイの手が止まる。
「すみません、…こんな、つもりじゃ……。」
「エレン…。」
持っていたタオルを桶に入れもう1度エレンに触れようとした瞬間、馴染みのある声に引き止められる。
「兵長、俺が変わります。」
「……ジャンか。」
「エレンが気になって練習サボってきました。あとで罰は受けます。」
ジャンはエレンの正面に向かいベッドに腰を下ろすと手を取り手の平に人差し指を乗せて文字を書いていく。
[Jan]
「!ジャン!?ジャン!うああああああっっ!!」
タガが外れたように泣き叫ぶエレンを強く抱き締め、ジャンはエレンの頭や背中を優しく撫でる。
「エレン大丈夫だ。俺が側にいる。」
境界線を引くようにエレンの体にまわされた腕をリヴァイは目を細め束の間眺めていた。
「…後は頼む。」
やがてゆっくりとベッドから立ち上がり、リヴァイはそのまま背を向け部屋から立ち去った。
「ハァハァ、っく、あああ……」
(思った以上に荒れてんなぁ。)
勢いでリヴァイからエレンを奪ってみたものの、あれから十数分変わらず泣き続けるエレンに対しジャンは冷静さを取り戻しつつあった。
どうしたものかと周囲を見回すとリヴァイの置いていった手桶の横にある薬の袋と水差しに気づく。
ジャンは袋を目視で確認すると片手で錠剤を取り出し口に含んだ。
「エレン。」
呼ばれた気がして顔を上げると何か柔らかいものに口唇を塞がれる。
それがキスで相手はジャンしかいないと理解した瞬間、エレンは大きく目を見開きポロポロと零れる涙も一瞬で止まった。
「んぅっ…!」
歯列を割って入ってきた舌に呼吸を奪われ、体が覚えているその感覚にエレンの体がビクンと跳ねる。
筋力低下により大した抵抗も出来ず熱くぬめる感触に気を取られている内に、溢れる唾液と共にゴクンと何かを呑み込んだ。
ジャンはエレンの口内が空である事を確認すると、口唇を離し腕の中にいるエレンをさらに強く抱き締める。
「はぁはぁ…ふっ…ざけんな!離せこの馬面ァ!」
ブチ切れて叫ぶも無言のまま離れようとしないジャンの強情さに負け、暫くするとエレンも諦めて大人しくなった。
「……分かった。多分俺が悪かったと思うからとにかく離れろ。」
[さっきのは薬。水飲め。]
背中を滑る文字に納得し、エレンは小さく溜息をつく。
「バーカ。口移しされないと飲めないほど弱ってねぇよ。」
ジャンは水差しを使ってエレンに水を飲ませると、再びエレンを強く抱き締める。
「しつこいなお前。さっきから何なんだよ。」
[俺と【契約】しろ。]
「はぁ?お前【契約】したくないから【フェイク】なんだろ?」
[【解除】する。俺の物になれ。]
「あ~。さては、俺と兵長の修羅場見ちまったから気ぃ遣ってるんだろ。……お前に同情されるなんて、情けねぇ……。」
「だから違うって」
すれ違う会話に焦りを感じエレンと顔を向き合わせようとするもエレンは俯いたままだった。
「エレン、エレン?」
「すぅ……。」
顔を覗くと両目を閉じ静かな寝息を立てているエレンにジャンは愕然とする。
「おまっこのタイミングで寝るかフツー??あ、睡眠薬……っっ!」
飲ませた薬の効能を思い出してがっくりと項垂れるジャンはエレンを抱き締めたままベッドに寝転がる。
「はぁ~つくづく俺って運がねぇわ。お前に振り回されていい迷惑だバカヤロー。兵長も兵長だ。何でエレンを手離してよりにもよって団長なんだ?大人のクセにちゃんとしないからこっちが困るんだよ。…本当、みっともないくらい…諦めきれねぇ…。」
触れる肌から伝わる温かな体温に胸が締めつけられる。
ジャンはエレンの髪に頬を寄せ、静かに目を閉じた。
調査兵団に入って以来、数えきれない人の死を見てきた。
壁の外や巨人の謎は解明されず弔う仲間の名を把握しきれないまま屍だけが積み上がっていく。
それなのに、仲間と巨人の返り血で真っ赤に染まった俺を見てエルヴィンはいつもキレイだと言った。
沢山の人間が団長命令で死んでいく中、人間とは思えない強さを持ち簡単に死なない人間はお前にどう映って見えるのだろう。
お前が俺にだけに向ける眼差しや微笑みを見る度に胸が締めつけられ、枷を嵌められたように身動きが取れなくなる。
そして必ず頭の中で、あの言葉が浮かんでくるんだ。
ーLevi、hallelujah。ー
『何の冗談だリヴァイ。』
『【契約者】としてお前に抱かれてやるって言ってんだ。脱げ。』
『私はお前に肉体関係など求めていない。お前も私では無理だと言っていたし、それでお互い上手くやってきただろう。』
『じゃあ何で【フェイク】じゃなくて【契約】なんだ?いつまでも綺麗事ばかり並べてねぇでさっさと勃たせろよグズ野郎。』
上手く言えない、解放されたかった。
ただ、それだけだった。
『………リヴァイ、今日は止めにしよう……。お前が壊れてしまいそうで怖いんだ…。』
あの日の事は今でも忘れられない。
罪の意識に苛まれ今にも泣き出しそうな子どものような表情。
か細く震える声、縋るように抱き締めてくる両腕、一回りも大きな肩が小さく頼りなく感じるほどだった。
見たこともないエルヴィンの姿を目の当たりにして思考が停止する。
脱け殻になった心と体は自分のものではなく、エルヴィンに抱かれる様はまるで人形のようだった。
ふとサイドテーブルに飾られた黄色いバラに視線を移す。
枯れる事なく保たれたその美しい姿は、人工的な施しが加えられたものであると最近知った。
『…すまない……私を赦してくれ……。』
背後から抱き締めてくる理由も。
左手の薬指にキスをする意味も。
愛しているの言葉も。
誰に赦しを請い、愛を乞うている?
(なぁ、……お前、誰を見ているんだ……。)
なぜ俺を選んだ。
『エルヴィン、キスが欲しい……。』
枷を嵌められたように重く軋む手を伸ばし、エルヴィンの頬に触れてみる。
地下街で下され、強引に【契約者】にさせられ、それでも兵団を辞めようと思わなかったのはエルヴィンを殺すためだけではないことにとうに気付いた。
『………、愛している。』
今更戻ることなんて出来ないーー。
ー6ー
「治りが悪いね。」
実験を終えて3日目。
外傷は軽くすんだものの、失明、難聴、著しい筋力低下を引き起こしエレンは地下牢のベッドの上でほぼ寝たきり状態だった。
「どうなってやがる。」
ベッドの前で仁王立ちになり眉間にしわを寄せてエレンの顔を見下ろすリヴァイと、その横で母親のような目線で椅子に腰を掛けエレンの左手をギュッと握り締めるハンジ。
「精神的な部分が含まれてると思う。エレンはよく頑張ってるよ。あと1週間は休ませた方がいい。」
「冗談じゃない。エレン、2日で治せ。」
「今は寝てるし、起きても音が篭っててはっきり聞こえないって言ったでしょ。」
「じゃあ、お前が何とかしろ。」
八つ当たりもいいところのムチャぶりに、さすがのハンジも目が座る。
「気持ちは分かるんだけどさぁ……」
ハンジはエレンの手を離すと椅子から立ち上がり、リヴァイの顎に手をかけると強引に視線を自身に向けさせる。
「あんまりエレンのことイジメると、おしおきしちゃうよ?」
「!」
「今日はこの辺で勘弁してよ、ね。」
屈託のない笑顔から放たれる圧にリヴァイはハッと我に返る。
少し罰の悪そうな表情でプイと顔を背けると、そのまま地下牢を去って行った。
「たく、なに焦ってんだか。」
「ハンジさん凄ェ。」
少し離れた場所で椅子に座り事の始終を見ていたジャンの口から思わず感嘆の声が溢れる。
「ははっ。リヴァイのこと叱れる人少ないから。たまには友人としてお灸を据えてあげないと。」
「リヴァイ兵長と、友達。」
「そう、友達♪……と、そんな訳でジャンとアルミンにもエレンの身の回りのお世話をお願いする時があるからよろしくね。」
「了解し……」
「嘘つき。」
「ん?何か言ったアルミン。」
同じくジャンの隣に座っていたアルミンはハンジを見据えたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
心を見透かすような水色の瞳に、保つ笑顔が引きつりそうになる。
「了解しました。失礼します。」
「あ、オイ、待てよ!ハンジさん失礼します。」
部屋を出て足早に階段を登っていくアルミンと慌てて追いかけるジャンの足音が合わさり、やがて遠のいていく。
ハンジは2人の出て行った扉を見つめたまま崩れるように椅子に座り大きく溜息をついた。
「……ハァ。疲れたぁ……。」
其の夜。
「………夜間訓練か。」
静寂な闇に包まれて微かに聞こえてきた声と物音に、エルヴィンはふと視線を窓に向ける。
「そろそろエレンの寝る時間だろう。リヴァイ、就寝の準備を整えてきなさい。」
「あ?」
「他の者は皆忙しい。」
「書類待ちも立派な仕事だろうが。」
解せないとでも言いたげな表情を浮かべつつ、渋々リヴァイは席を立つと部屋を後にした。
ミケと2人きりになった部屋でエルヴィンはミケの横顔をじっと見つめる。
「お前は何も言わないな。」
「何か言って欲しいのか?」
問いには答えず微笑むエルヴィンに対し、少しの沈黙の後卓上ランプに視線を落としたままミケは呟いた。
「犬が目覚めて牙を剥いてきたらどうする。」
エルヴィンはランプに視線を向けると、一見穏やかに見える小さな灯火の中に力強く赤々と燃える揺らぎを見つけ目を細める。
「そうだな。自分の飼い主が誰のモノであるかを自覚させればいい。」
「エレン、入るぞ。」
「……誰だ?アルミンか?」
一拍置いてノック音に気づきエレンはドアに視線を向ける。
リヴァイはタオルと水の入った桶、薬と水差しをサイドテーブルに置くとベッドに腰を下ろす。
ゆっくりとエレンの上半身をベッドから起こすと、未だ視力と聴力の識別が困難なエレンの手を取り手の平に人差し指を乗せてスルスルと文字を書いていく。
[Levi]
「!へぃ…っ」
驚きのあまり反射的に手を払おうとするエレンの手首を強く握り、リヴァイは手の平の文字を追加していく。
[就寝の準備だ。体を拭く。]
そう伝えてエレンの手首を離した瞬間、エレンはリヴァイから身を守るように前屈みになり力の入りきらない両手でシャツをギュッと握り締めた。
「い、いいです!自分で、脱ぎます……。」
「………。」
リヴァイは無言のままベッドから立ち上がると、サイドテーブルに置いた桶の中にあるタオルを手にして固く水を絞っていく。
エレンは緊張を悟られないように服を脱ぐと、表情を隠すように俯き小さく深呼吸する。
「お願い、します……。」
リヴァイは再びエレンの背後に腰を下ろすと背中にそっと触れてみる。
しなやか身体のラインも瑞々しい肌の質感も触れる指先に反応する感度も変わらない。
淡々と業務的に事を済ませていると、ふいに溜息混じりの声が漏れてきた。
「ふう…ううっ…はぁ…。」
「疲れたか。もうすぐ終わる。」
「へいちょ…、うあ、あ、…兵長ぉ…。」
「!」
背中越しで見えないがポロポロと零れる大粒の涙を手で拭いながら嗚咽混じりに名を呼び続けるエレンにリヴァイの手が止まる。
「すみません、…こんな、つもりじゃ……。」
「エレン…。」
持っていたタオルを桶に入れもう1度エレンに触れようとした瞬間、馴染みのある声に引き止められる。
「兵長、俺が変わります。」
「……ジャンか。」
「エレンが気になって練習サボってきました。あとで罰は受けます。」
ジャンはエレンの正面に向かいベッドに腰を下ろすと手を取り手の平に人差し指を乗せて文字を書いていく。
[Jan]
「!ジャン!?ジャン!うああああああっっ!!」
タガが外れたように泣き叫ぶエレンを強く抱き締め、ジャンはエレンの頭や背中を優しく撫でる。
「エレン大丈夫だ。俺が側にいる。」
境界線を引くようにエレンの体にまわされた腕をリヴァイは目を細め束の間眺めていた。
「…後は頼む。」
ゆっくりとベッドから立ち上がり、リヴァイはそのまま背を向け部屋から立ち去った。
「ごめん…。」
「やだ~照れちゃって可愛い♡アルミンてばエレンじゃなくてエルヴィンが好きなの?」
「ち、違います!あ、いや、尊敬はしてて……」
ハンジは悪戯な笑みを浮かべながら、真っ赤な顔をして慌てふためくアルミンを覗き込む。
「大丈夫。エルヴィンのファンの子達って気を遣ってみんなそう言うからアルミンだけじゃないよ。」
「新兵でいちいち遊ぶな。」
「あーら。入団する度に新兵クンの匂いを嗅ぎ回ってる人に言われたくな…」
「少し用事が出来た。先に馬車へ向かってくれ。」
揉め始めた会話を遮るように話しかけてきたエルヴィンの声に2人は瞬時に目の色を変える。
「了解。リヴァイ連れて早めに来てよね。」
「ん。」
「じゃ、新兵クンたち!まったね~。」
弾んだ声で右手をヒラヒラさせながらハンジはミケと共に去って行った。
「少し顔色が悪いな。昨夜は眠れたかい?」
「は、はい。お気遣いありがとうございます。」
心配そうな表情で頬を撫でてきたエルヴィンを、エレンは緊張の面持ちで見上げる。
(…………?)
紳士的な振る舞いとは裏腹に、エルヴィンの柔和な眼差しの奥に一瞬引っかかりを感じるもエレンはそれが何かは分からなかった。
「エレン、あまり見つめられると照れてしまうな。」
「す、すみません!」
無意識のうちに食い入るように見つめていたエレンはリヴァイから手を離すと、慌ててエルヴィンに平謝りをする。
「オイ、いつまで戯れてやがる。」
三白眼の目をさらに細め2人のやり取りを見ていたリヴァイが痺れを切らして口を開くと、エルヴィンはリヴァイに視線を向けて微笑んだ。
「どうした、リヴァイ。妬いているのか?」
「会議の時間だろ。行くぞ。」
「ま、待って下さい!まだ話が…」
「さっきから随分とくだらねぇ話をしているが、てめぇは一体何様だ?」
静かだが強圧的な声音と鋭く睨みつけてくる漆黒の瞳に、エレンは身体を強張らせる。
「【契約】がてめぇの身分を上げる代物とでも勘違いしたか。調査兵団に飼われてる事を忘れてるなら今すぐ地下牢に戻れ。躾直しだ。」
「!っ…申し訳、ありません…。」
理不尽な思いに駆られながらもリヴァイの言葉は至極真っ当で、エレンは俯き拳を強く握り締める。
「リヴァイ。間違ってはいないが言い方があるだろう?」
呆れ顔のエルヴィンは背後からエレンの両肩に手を添える。
落ち着かせるように小刻みに震える肩を優しく撫でた後、柔らかな吐息と共に耳元で囁いた。
「エレン。君が【解除】された理由はね、リヴァイが私と【再契約】をしたからだ。」
「……え?」
顔を上げ大きく見開かれた金色の瞳がリヴァイを捉えると、一粒の涙がすっと頬を伝い流れ落ちる。
「本当、ですか…。」
「っ……。」
リヴァイを直視したまま茫然とするその表情に胸の奥が鈍く痛み、組んでいた腕に力がこもる。
思わず名を呼ぼうと口を開けた瞬間、エレンの髪にそっと口づけをするエルヴィンに挑発的な視線をぶつけられる。
感情を揺さぶられ苛立ちを覚えながらも、リヴァイは喉まで出かけた言葉をグッと飲み込んだ。
「…まぁ、そういう事だ。」
もたれていた壁から体を起こすと、2人の間を強引に割いて立ち尽くすエレンを残しリヴァイはその場から去って行った。
「エレン、まだあんな表情をするんだね。捨てられた子猫のようで可愛かった。」
王都に向かう馬車の中、思い出したかのようにクスクスと笑うエルヴィンの横でリヴァイはすかさず舌打ちをする。
「あれはキャンキャンうるさいから犬だ。」
「え~私もエレンは猫派だなぁ。ミケは?」
「興味ない。」
「じゃあ、2対1でエレンは猫に決定!」
「くだらねぇ。」
「もーあんた達って本当つまんない。」
横で無表情を貫くミケと目の前で冷めた視線を投げるリヴァイに対し、ハンジは頬を膨らませる。
「この2人を手なづけることが難しいのはよく分かったよ(笑)でもいいのか、リヴァイ。そんなに可愛がっていた子を地下牢に戻して。」
「問題あるか?」
「…ないね。」
「私はリヴァイとエレンの年の差カップルも好きだったんだけどな~。」
「ハンジ。」
奔放なハンジに睨みを利かせるミケをエルヴィンは穏やかに窘める。
「構わないよ。意見は自由であるべきだ。だが、我々上に立つ人間が意味を履き違えてはいけない。あくまでもシステムは兵士の性管理が目的で派生した事象はシステムの管理外、もしくは法律に委ねられる。」
エルヴィンはリヴァイを横目で流し、黒髪の襟足をさらりと撫でる。
「何が言いたい。」
「若い新兵は規律に縛られ錯覚に陥りやすいということだ。」
「はっ……じゃあ、俺とお前は何だ。」
「拗ねてるのか?」
「ちょっと~人前でいちゃつくの止めてよね。」
「眼鏡にクソでもつけたかクソメガネ。」
「痛ーーっ!!いたいいたいリヴァイごめんってば~っっ!!」
人類最強のブーツの踵にミシミシと足の甲を踏みつけられハンジは絶叫する。
「ハンジ、リヴァイと人前でいちゃいちゃするのは止めなさい。」
「悠長な事言ってないで助けて~!!」
涙目で訴えてくるハンジとゴロツキ全開のリヴァイ、何とかしろと言わんばかりのミケからの痛い視線を向けられエルヴィンはやれやれと小さく溜息をついた。
「……リヴァイ 。お前がエレンと【契約】を【解除】しても監視役である事に変わりはない。分かっているな?」
その言葉にリヴァイとハンジの動きがピタリと止まる。
リヴァイはハンジの足から踵を離すと足と腕を同時に組み直し淡々と答える。
「問題ない。」
「引き続き頼む。」
(わーお…エグいなぁ。)
【解除】してもなお続く2人の関係性にハンジの顔が引き攣る。
(…リヴァイもエルヴィンもどういうつもりなんだろ……すごく興味ある…。)
「マジかよ……こんなところで調査兵団トップが勢揃い……。」
圧倒されるほど華やかで威風堂々とした佇まいにジャンが仰ぎ見ていと、アルミンが下を向いたままジャンのジャケットの裾をギュッと握り締めてきた。
「それは本当か。」
「あ?」
「リヴァイ、余計なことは考えるな。」
「……チッ。」
ミケの言葉にリヴァイは眉を顰め、静かな戦闘態勢に入る2人に対しエルヴィンは苦言を呈する。
「2人とも馬車が壊れるから喧嘩は外でやりなさい。」
「いやいや街が壊れるから両方ダメでしょ!?ほら2人とももうおしまーーい!!」
王都に降りかかる火の粉を払うべく絶叫するハンジに場の空気を散らされ、リヴァイとミケは不服そうな表情を浮かべながらも元に戻った。
リヴァイは馬車の窓から見える景色に視線を向ける。
夜の闇に包まれながらも王都の城下町は明るく華やかで平穏そのものだった。
(そういやぁ、この角を曲がると……)
『おかえりなさい兵長。会議お疲れ様でした。』
『……なんだその両手は。』
『もぉ俺の気持ち分かってて焦らさないで下さい。』
『……ほらよ。』
『やったー!チョコレートだ!ありがとうございますいただきます!』
『お前、最近俺のこと財布と思ってるだろ。』
『いいえ!愛してます!ウマー!』
『…………。』
何気なく渡した土産の菓子を頬張るエレンの幸せそうな笑顔に負けて、その後習慣のように出先では必ず買って帰るようになっていた。
(……もう買いに行くこともねぇな。)
窓から視線を外しリヴァイは横にいるエルヴィンにもたれかかると腕を組んで目を瞑る。
「もうすぐ着くよ。」
「なら着いたら起こせ。」
「分かった。」
布越しにエルヴィンの体温を感じる。
昨夜まで触れていた体温を上書きされてしまいそうなほど、酷く懐かしい温もり。
(明日からは監視役に徹する……何か問題が起これば、俺はいつでもエレンを殺してみせる……)
馴染みの菓子屋が目に入ってしまったせいで、【元契約者】が見せた最後の表情が脳裏に焼きついて離れない。
(…あぁ、綺麗な涙だった……。)
前日早朝。
「それで、用件は何だ?さっきのメガネならともかくミケが用もないのに朝っぱらから俺の部屋に来ねぇだろ。」
「お前に頼まれていた件だが、やはりジャンにはエルヴィンが関わっていた。」
「……そうか。」
「ジャンがエレンを暴行した日、ジャンはエルヴィンに頼まれて書類を届けるためにお前を探していたそうだ。アルミンの方はエルヴィンと接触はしていたがこれと言った話は出てこなかった。」
リヴァイはクローゼットに背をもたれ両腕を組むと、小さく息を吐く。
静的に語られる内容は既に予測の範疇であり驚きはなかったが、エルヴィンが関わっているという事実が胸の内で燻り続ける。
「金髪のチビは頭がいい。エルヴィンを上手く躱したんだろ。」
「聞いてなかったが、ジャンとアルミンはどうやって見当をつけた?」
「ガキの恋愛感情なんて手に取るように分かる。エレンの【契約者】として初めて会った時からあの2人だけは俺を見る目が違っていたからな。お前こそシェルムの件にどう気づいた。」
「シェルムはエレンと接触する前日にエルヴィンの部屋に呼ばれていた。お陰でその場に居合わせた俺はお払い箱だ。」
「ただ乳繰り合ってただけかもしれねぇだろ。」
「言葉に気をつけろリヴァイ。これはお前の撒いた種だ。」
「…………。」
扉前で立っていたミケがゆっくりとリヴァイに近づいてくる。
互いに一定の距離を保ってきた相手とこうして2人きりで顔を突き合わせるのは何時ぶりか分からない。
調査兵団ナンバー2に相応しい威厳と風格があり、見下ろしてくる秘色色の瞳は鋭利な敵意を向けていた。
ミケはリヴァイに鼻先を近づけ何かを確かめるように顔や体の匂いを嗅いだ後、リヴァイの耳元で囁く。
「今回協力したのは全てエルヴィンの為だ。俺はお前の敵でも味方でもないがエルヴィンに何かあればお前を殺す……覚えておけ。」
前日夕刻。
「遅かったな。」
エルヴィンは意識を失ったエレンをベッドに寝かせると手近にあった薄い掛け布団をエレンの体にふわりとかけ、その口唇に再度キスをする。
リヴァイは静かに扉を閉めると絞り出すような声でエルヴィンに語りかけた。
「エレンを返せ…。」
冷静を装いながらも狂気を孕んだ瞳を向けるリヴァイに、エルヴィンは目を細める。
「返してほしかったらこっちへ来なさい。」
リヴァイは警戒を強めながらも2人が待つベッドにゆっくりと近づくと、エレンの足下に腰を掛けるエルヴィンの視線を感じながら横たわるエレンの枕元に立った。
「っ………。」
兵服が散乱したベッドの上で静かに眠るエレンを見てリヴァイは絶句する。
無数に散りばめられた紅い鬱血の跡は布団を掛けても隠し切れず、エレンの体に生々しく刻まれていた。
「…エレン……エレン、すまない……。」
「よく躾られてて感度もいい。反応もなかなか楽しめたよ。」
悲壮感を漂わせるリヴァイの表情とは対照的に、いつもと変わらぬ素振りでエルヴィンは乱れた衣服を整えていく。
「なぜこんな事をした?」
「私はエレンがお前にどんな抱かれ方をしているのか知りたかっただけだ。」
「ふざけるな。遊びにも限度ってもんがあるだろうが。」
「遊びが過ぎたのはお前の方だろう?」
穏やかな口調とは対照的な軽蔑の眼差し。
「私はエレンの監視と行動を共にすることは命じたが、飼い馴らせとは言っていない。」
「お前には関係ねぇ。」
「関係ない?猫の飼い方を教えたのは私だ。」
「やめろ!」
触れてこようとした手を払いのけ、リヴァイはエルヴィンを睨みつけさらに身構える。
パシンと部屋に響く乾いた音が逆鱗に触れ、エルヴィンは叩かれた手の甲に口唇を押しあてククッと笑った。
「飼い主の手を噛むか……出会った頃のようで懐かしい……。」
蔑みから冷酷さに移り変わる碧眼の瞳に怯み、一瞬の隙を突かれたリヴァイはエレンの寝ているベッドの真横でエルヴィンに床に叩きつけられる。
「離せ!!」
仰向けに組み敷かれた状態で両手首を強く掴まれ、リヴァイは堪らず声を荒げる。
「人類最強と言われても私には敵わないよ、リヴァイ。いつまでも寄り道しているから注意をしに来ただけだ。」
「だったら直接俺に言え。関係ない奴らまで巻き込んで何を企んでやがる。」
「企む?エレンに対する彼らの気持ちは本物だった。私はきっかけを与えたに過ぎず、そこで思い留まるか行動に移すかは彼ら自身で決めたことだ。お前とエレンがそうだったように、彼らもエレンと交わる運命だった。……ただ、それだけの事だよ。」
「だから、てめぇもエレンとそうだって言いてぇのかよ。」
「そうだ。お前はもう十分すぎるくらい理解しているだろう?」
「くっ……!」
大きな左手が勢いよくリヴァイの前髪を掻き上げながら額を抑えつけてくる。
嫌でも直視せざるおえない、残酷なほど深く優しい碧の瞳。
「今まで黙って自由にさせてきたのは、私なりにずっとお前のことを想い憂いてきたからだ。だが、お前はエレンの側にいすぎた所為であまりにも汚れてしまった。」
「ふざけるな。汚したのはお前で、傷ついたのはエレンだ。俺じゃねぇ。」
「いいや、間違っていない。お前はもっと美しくキレイな存在でなければならない。」
「!?」
『Levi、hallelujah。』
過去とフラッシュバックするエルヴィンの微笑みに囚われ、胸の奥が切なく締めつけられ息が詰まりそうになる。
手首を強く握っていた右手が、リヴァイの右手に重なり愛おしむように指を絡めてきた。
「リヴァイ。エレンを完全に壊してしまう前に戻っておいで。」
「っ…そんなこと、出来るわけない……エレンが人類の希望だって言ったのはてめぇだろ……。」
「もう1度だけ言う。私の元へ戻りなさい、リヴァイ。」
低く透明感のある声に名を呼ばれ、リヴァイの身体がぞくりと震える。
忘れられない感触。
引きずり出される感情。
まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
「全てはお前次第だよ。」
『Levi、hallelujah。』
力が覚醒したあの日。
巨人と仲間の返り血で真っ赤に染まった俺を見て、エルヴィンが無意識に口走った言葉。
向けられた慈しむような瞳からは今にも涙が溢れてきそうで、俺は本能的にその言葉の意味を知りたくないと思った。
『リヴァイおいで。』
『…………。』
渋々ベッドに入り気が乗らないと無言で訴えるリヴァイを、エルヴィンの大きな体が背後から包み込むように抱き締めてくる。
『お前はいつも温かくて心地いい。』
『黙って寝ろ。』
『おやすみ。愛しているよ。』
『っ………。』
リヴァイの左手をとり薬指の第一関節にキスをすると、エルヴィンは静かな眠りにつく。
柔らかい唇の感触の余韻を残したまま早々に聞こえ始めた微かな寝息。
口約通り体の関係は一切求めらず、変わらない日々を過ごすなかで唯一求められた行為。
まるで2人だけの神聖な儀式のように清らかで、エルヴィンの腕の中にいると胸が切なく締めつけられ息が詰まりそうな感覚に陥る。
気を紛らわそうと横にあるサイドテーブルに視線を向けると、カーテンの隙間から零れる月の光に照らされた1輪の黄色いバラが目に入る。
エルヴィンの寝室に初めて入った日から、途切れる事なく美しい姿を保ったまま飾られていた。
(…今日も眠れそうにねぇな……。)
リヴァイがエルヴィンより先に眠ることはなく、穏やかで長い夜が始まる。
『ハーイ、ミケ♪…っと、皆様お揃いで(笑)人類最強の兵士リヴァイ様と一緒にお昼食べれるなんて幸せ♡』
『そのダセェ呼び方やめろ。』
『ダサいって、今やあんたの代名詞「人類最強」のキャッチコピーは一般市民にまで広がってるんだよ?!私のネーミングセンス凄くない??』
『元凶はテメェか。』
殺意を向ける三白眼を平然と無視してミケの横に着席するとハンジは笑顔でパンを頬張る。
不満オーラ全開のリヴァイの隣に座るエルヴィンはコーヒーを啜ると、ニッコリと微笑んだ。
『ハンジのセンスはなかなかのものだ。実際マイナスのイメージが付き纏う調査兵団に興味や好意を抱く人々が以前よりも増えてきている。人類最強の名にふさわしいリヴァイの真の強さと地下街から調査兵団のトップにまで上り詰めたサクセスストーリーが相乗効果を成し得ている。』
『俺は成し得てねぇよ。』
『これを機に継続的な入団希望者や資金援助に繋がると有り難い。私に免じて大目に見てはくれないか。』
『でしょでしょエルヴィン~もっと言ってやって~。』
子どもを宥めるようなエルヴィンの口調と勝ち誇った目を向けるハンジにうんざりしながらリヴァイは紅茶を啜る。
(勝手にクソみてぇな盛り上げ方をされるこっちの身にもなってみろ。)
シャーディス団長が現役を退いた後、調査兵団は類稀なる才能とカリスマ性を併せ持つエルヴィン・スミスによって統率されていた。
エルヴィンと共にリヴァイも着実に英雄の道を辿っていたが、当初こそ実力で勝ち得たものが次第に様変わりしていく。
エルヴィンと【契約】をした事によりなぜか三兵団内でのリヴァイのブランド価値は飛躍的に上がり表立って批判や嘲笑する者は誰もいなくなった。
並行してハンジが面白半分でつけた「人類最強の兵士リヴァイ」のキャッチコピーは調査兵団に対するイメージを改善しただけでなく突如現れた英雄に市民は熱狂しウォールは久々に活気づいていた。
舌を巻くほどの策士ぶりを発揮したのは勿論エルヴィンであり、本来の姿と乖離するほど綺麗な存在として扱われ始めた事にリヴァイは強い違和感を覚える。
国中を巻き込んだ歪な現象に対して何度かエルヴィンに止めさせるように申し出るが、その度に軽く遇らわれてしまうことも気に食わなかった。
『リヴァイの本当の姿を知っているのが私や団員たちだけでは勿体無いだろう?』
『またそれか。』
『そうだ。お前が巨人と戦って生き残ることこそが全て。団員の士気は上がり人々は賛美し、それが調査兵団の翼となり追い風となる。お前は変わらず、これからも私の側で私を導いてくれ。』
『だから兵団を導いてるのはお前であって俺じゃ……』
反論しようとするもリヴァイはエルヴィンの表情にハッとし言葉を詰まらせる。
分厚く大きな手が優しくリヴァイの手を取り、温かく柔らかい唇が左手薬指に触れてくる。
目を開けた時の慈しみ深い眼差しは何度も見てきた筈なのに、いつしかリヴァイの心に1つの疑念を抱かせていた。
(………何を、期待してやがる……。)
『……リヴァイ、リヴァイ聞いてる?』
鼻先まで顔を近づけガン見してくるハンジの無遠慮さにリヴァイは我に返ると、腕を組み何事もなかったかのように答える。
『聞いてる。』
『嘘つき。あんた自分の身に危険が迫ってるんだよ?』
『あ?』
『だから、ヴァーグナー夫人が資金援助を増額する代わりにリヴァイとデートしたいんだって!あの人旦那が死んでからさらに女帝ぶりを発揮してるけど、リヴァイチョイスとかマジないわ~。』
『 テメェは自分の身に危険が迫ってることには鈍感だな。』
『キャー暴力はんたーい♪』
子ども地味たケンカのやり取りも束の間、エルヴィンの一言に場の空気が一変する。
『私の【契約者】を他人に渡すつもりはない。』
それまで穏やな笑顔を振りまいていたエルヴィンからは想像出来ないほど、氷のように冷めた表情。
『それは兵団内の規律であって外部には関係ない。悪い話ではない筈だ。』
『ミケ、この私にワーグナー家の人間を根絶やしにさせたいのか?』
『エル…』
『何人たりとも私以外の人間がリヴァイに触れることは許されない。この件は断る。』
『っ……!!!』
ミケすらも敵に回す言葉の刃。
普段の姿とも巨人と闘う姿とも違う側面を目の当たりにし、4人の間に緊張の糸が張り詰める。
『援助自体を断られたらどうする。』
『責任を持って次を探すよ。』
エルヴィンは再度コーヒーを啜った後に席を立つ。
『先に部屋へ戻る。』
纏う空気は柔らかく、申し訳なさそうな笑みを浮かべた表情はいつもと変わらなかった。
『…ハァ。今の緊張感死ぬかと思った。ねぇ、エルヴィンて最近リヴァイのことになると過剰に反応しない?目つきもちょっとアレだし。束縛するタイプだっけ?』
緊張から解放されたハンジは机に肘を乗せ頬杖をついて大きな溜息をつく。
『さぁな。』
『ははっ。それにしても、さっきのエルヴィンと対等に話せるなんてミケってやっぱ凄いね!』
(笑えねぇ…。)
いつからだろうか。
見つめてくる瞳は、淑やかな声音は、包み込む体温は、何1つ変わらないのに。
『お前に次回の壁外調査の人員配置について相談したい。』
『なぜ俺に聞く。』
『補給班のゼクスと囮班のアインスを入れ替えようと考えているのだがどう思う?』
『ゼクスは駐屯から移動してきたばかりだろ。囮班にまわすには早すぎる。』
『彼はお前のためならいつでも命を投げれるそうだ。』
『弱ェ奴はすぐ死にたがるな。』
『私はね、彼のその願いを叶えてあげようと思ったんだ。』
『あ?』
『クス。お前を心酔する者が増えて私も嬉しい。……だが、お前は私の物だ。』
『…………。』
時折露わになる狂気にも似た感情が、嘘か真か考える隙を与えないほどの強烈なプレッシャーとなってリヴァイの心を静かに蝕んでいく。
『良い機会だから確認しておきたいことがある。』
『確認て?』
『お前たちは神の存在を信じるか?』
ミケから発せられた意外すぎる質問にハンジは固まる。
『ど、どうしたの急に。何言っちゃってんの?』
『信じるか信じないかどうなんだ。』
『どうって、……確かローゼが突破されてからマリアを拠点に急速に拡大してる「宗教」って勢力の事よね。あんまり興味ないな~。』
『リヴァイ、お前は?』
『お前こそどうなんだ。』
『…………。』
『あ!もしかして少し前に起こった信者の暴動のこと言ってる?王政を心酔する憲兵に神は存在しないと否定されたことによる一部の過激派信者が憲兵団に対してテロ計画を企てたのよね。テロは未遂に終わりニック司祭はテロ計画犯とは無関係の意を表明してうやむやに終わったけど。』
『彼ら1人1人は実に温厚で信心深く心優しい人物だったそうだ。だが、神の存在を否定される事は自分の身を引き裂かれるより辛く耐え難い屈辱だったと言っていたらしい。』
『ふーん。』
『人は本質的に見えない何かを信じる生き物だ。そしてそれは、人の心を豊かにもするし狂気にも変える力があるとしたら………。』
ミケはリヴァイを真っ直ぐに見据え、漆黒の瞳に問いかける。
『リヴァイ、あの力はどうやって身につけた。』
『力?』
『壁外調査で覚醒した力だ。』
『訓練の賜物だろ。』
『お前の力は1個旅団並みにある。訓練でどうこうした所で身につけられるものではない。』
『何が言いたい。』
『それが天性の力………いや、神の力だったらどうする。』
ミケの言葉に対しリヴァイは表情を強張らせる。
互いに一歩も譲らず鋭い視線がぶつかり合う。
『あははっ!何それサイコー!ミケって冗談言えるんだ~~ククッおっかし~あはは!』
場の空気を散らすハンジの高笑いをもろともせず、ミケは語気を強めて言い放つ。
『冗談でも構わない。絵空事や夢物語でも信じる者がいればそれは真実になる。必要であらば、お前にはその役割を担ってもらうつもりだ。』
『…………。』
リヴァイは静かに席を立つと、何も言わずにその場から去って行った。
『も~ミケが変なこと言うからリヴァイ帰っちゃったじゃんか。』
『奴は誰よりもエルヴィンの側にいる。肌で感じ、理解している筈だ。』
『は?エルヴィン?何でここでエルヴィンの名前が出てくるの~やめてよちょっと~!』
バシバシと背中を叩くハンジの右手首を強く掴み、ミケはハンジを睨みつける。
『鈍感を装うのは止めろ。お前も薄々は気づいていた筈だ。』
『!!』
逃げることの出来ない視線に心音が大きく跳ねる。
ハンジは奥歯をギュッと噛み締め、右手首を掴むミケの手をそっと外した。
『っ……いやいや。本当、ないない………だって、これじゃあ、リヴァイがあまりにも可哀想だ……兵団や世間の期待だけじゃない、……か、……っ意味分かんないよ!どれだけリヴァイに背負わせるつもりなの?!』
『お前も人類最強とチャチャを入れてリヴァイを祭り上げてただろ。』
『あれは冗だ……』
ー冗談でも構わない。絵空事や夢物語でも信じる者がいればそれは真実になる。ー
突きつけられる事の重大さにハンジは愕然となる。
『……そんな…。』
『おそらくエルヴィンに自覚はない。側から見ればあくまでも人としてリヴァイを愛している。』
『ダメ!そんなのおかしい!エルヴィンに一言言ってくる!』
動転し席を立とうとするハンジの胸ぐらをミケは瞬時に掴むと、そのまま仰向けに机に叩きつける。
『くぅっ…!!』
『お前が余計な事をするなら、俺はこの場でお前を殺す。』
穏やかな語り口とは対象的に見下ろしてくる秘色色の瞳は鋭さを増していく。
『エルヴィンの精神的支柱がリヴァイである事に間違いはない。そしてそれが兵団に多大なる影響を与えているのも事実だ。この事は俺たち2人の間で留めるんだ。』
『私には、出来ない……耐えられない……っ』
『聞け!!この情報が漏れれば兵団を潰したい外部の連中どころかエルヴィンに失望した内部から調査兵団は一気に崩壊する。お前がリヴァイを守るんだ。』
『!?』
脳裏に浮かぶ想い人にハンジの目が大きく見開く。
『奴がエルヴィンの元を、調査兵団の元を離れない理由を考えろ。お前がリヴァイを。俺がエルヴィンを。今まで以上に支えてやるんだ。』
『私が、リヴァイを守る……?』
秘めた感情は仄かに甘い蜜の香りに揺り動かされていく。
『誰にも隙を与えない、誰にも邪魔はさせない………これは4人だけの秘密だ。』
調査兵団に入って以来、数えきれない人の死を見てきた。
壁の外や巨人の謎は解明されず弔う仲間の名を把握しきれないまま屍だけが積み上がっていく。
それなのに、仲間と巨人の返り血で真っ赤に染まった俺を見てエルヴィンはいつもキレイだと言った。
沢山の人間が団長命令で死んでいく中、人間とは思えない強さを持ち簡単に死なない人間はお前にどう映って見えるのだろう。
お前が俺にだけに向ける眼差しや微笑みを見る度に胸が締めつけられ、枷を嵌められたように身動きが取れなくなる。
そして必ず頭の中で、あの言葉が浮かんでくるんだ。
ーLevi、hallelujah。ー
『何の冗談だリヴァイ。』
『【契約者】としてお前に抱かれてやるって言ってんだ。脱げ。』
『私はお前に肉体関係など求めていない。お前も私では無理だと言っていたし、それでお互い上手くやってきただろう。』
『じゃあ何で【フェイク】じゃなくて【契約】なんだ?いつまでも綺麗事ばかり並べてねぇでさっさと勃たせろよグズ野郎。』
上手く言えない、解放されたかった。
ただ、それだけだった。
『………リヴァイ、今日は止めにしよう……。お前が壊れてしまいそうで怖いんだ…。』
あの日の事は今でも忘れられない。
罪の意識に苛まれ今にも泣き出しそうな子どものような表情。
か細く震える声、縋るように抱き締めてくる両腕、一回りも大きな肩が小さく頼りなく感じるほどだった。
見たこともないエルヴィンの姿を目の当たりにして思考が停止する。
脱け殻になった心と体は自分のものではなく、エルヴィンに抱かれる様はまるで人形のようだった。
ふとサイドテーブルに飾られた黄色いバラに視線を移す。
枯れる事なく保たれたその美しい姿は、人工的な施しが加えられたものであると最近知った。
『…すまない……私を赦してくれ……。』
背後から抱き締めてくる理由も。
左手の薬指にキスをする意味も。
愛しているの言葉も。
誰に赦しを請い、愛を乞うている?
(なぁ、……お前、誰を見ているんだ……。)
なぜ俺を選んだ。
『エルヴィン、キスが欲しい……。』
枷を嵌められたように重く軋む手を伸ばし、エルヴィンの頬に触れてみる。
地下街で下され、強引に【契約者】にさせられ、それでも兵団を辞めようと思わなかったのはエルヴィンを殺すためだけではないことにとうに気付いた。
『………、愛している。』
今更戻ることなんて出来ないーー。
ー6ー
「治りが悪いね。」
実験を終えて3日目。
外傷は軽くすんだものの、失明、難聴、著しい筋力低下を引き起こしエレンは地下牢のベッドの上でほぼ寝たきり状態だった。
「どうなってやがる。」
ベッドの前で仁王立ちになり眉間にしわを寄せてエレンの顔を見下ろすリヴァイと、その横で母親のような目線で椅子に腰を掛けエレンの左手をギュッと握り締めるハンジ。
「精神的な部分が含まれてると思う。エレンはよく頑張ってるよ。あと1週間は休ませた方がいい。」
「冗談じゃない。エレン、2日で治せ。」
「今は寝てるし、起きても音が篭っててはっきり聞こえないって言ったでしょ。」
「じゃあ、お前が何とかしろ。」
八つ当たりもいいところのムチャぶりに、さすがのハンジも目が座る。
「気持ちは分かるんだけどさぁ……」
ハンジはエレンの手を離すと椅子から立ち上がり、リヴァイの顎に手をかけると強引に視線を自身に向けさせる。
「あんまりエレンのことイジメると、おしおきしちゃうよ?」
「!」
「今日はこの辺で勘弁してよ、ね。」
屈託のない笑顔から放たれる圧にリヴァイはハッと我に返る。
少し罰の悪そうな表情でプイと顔を背けると、そのまま地下牢を去って行った。
「たく、なに焦ってんだか。」
「ハンジさん凄ェ。」
少し離れた場所で椅子に座り事の始終を見ていたジャンの口から思わず感嘆の声が溢れる。
「ははっ。リヴァイのこと叱れる人少ないから。たまには友人としてお灸を据えてあげないと。」
「リヴァイ兵長と、友達。」
「そう、友達♪……と、そんな訳でジャンとアルミンにもエレンの身の回りのお世話をお願いする時があるからよろしくね。」
「了解し……」
「嘘つき。」
「ん?何か言ったアルミン。」
同じくジャンの隣に座っていたアルミンはハンジを見据えたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
心を見透かすような水色の瞳に、保つ笑顔が引きつりそうになる。
「了解しました。失礼します。」
「あ、オイ、待てよ!ハンジさん失礼します。」
部屋を出て足早に階段を登っていくアルミンと慌てて追いかけるジャンの足音が合わさり、やがて遠のいていく。
ハンジは2人の出て行った扉を見つめたまま崩れるように椅子に座り大きく溜息をついた。
「……ハァ。疲れたぁ……。」
其の夜。
「………夜間訓練か。」
静寂な闇に包まれて微かに聞こえてきた声と物音に、エルヴィンはふと視線を窓に向ける。
「そろそろエレンの寝る時間だろう。リヴァイ、就寝の準備を整えてきなさい。」
「あ?」
「他の者は皆忙しい。」
「書類待ちも立派な仕事だろうが。」
解せないとでも言いたげな表情を浮かべつつ、渋々リヴァイは席を立つと部屋を後にした。
ミケと2人きりになった部屋でエルヴィンはミケの横顔をじっと見つめる。
「お前は何も言わないな。」
「何か言って欲しいのか?」
問いには答えず微笑むエルヴィンに対し、少しの沈黙の後卓上ランプに視線を落としたままミケは呟いた。
「犬が目覚めて牙を剥いてきたらどうする。」
エルヴィンはランプに視線を向けると、一見穏やかに見える小さな灯火の中に力強く赤々と燃える揺らぎを見つけ目を細める。
「そうだな。自分の飼い主が誰のモノであるかを自覚させればいい。」
******
「エレン、入るぞ。」
「……誰だ?アルミンか?」
一拍置いてノック音に気づきエレンはドアに視線を向ける。
リヴァイはタオルと水の入った桶、薬と水差しをサイドテーブルに置くとベッドに腰を下ろす。
ゆっくりとエレンの上半身をベッドから起こすと、未だ視力と聴力の識別が困難なエレンの手を取り手の平に人差し指を乗せてスルスルと文字を書いていく。
[Levi]
「!へぃ…っ」
驚きのあまり反射的に手を払おうとするエレンの手首を強く握り、リヴァイは手の平の文字を追加していく。
[就寝の準備だ。体を拭く。]
そう伝えてエレンの手首を離した瞬間、エレンはリヴァイから身を守るように前屈みになり力の入りきらない両手でシャツをギュッと握り締めた。
「い、いいです!自分で、脱ぎます……。」
「………。」
リヴァイは無言のままベッドから立ち上がると、サイドテーブルに置いた桶の中にあるタオルを手にして固く水を絞っていく。
エレンは緊張を悟られないように服を脱ぐと、表情を隠すように俯き小さく深呼吸する。
「お願い、します……。」
リヴァイは再びエレンの背後に腰を下ろすと背中にそっと触れてみる。
しなやか身体のラインも瑞々しい肌の質感も触れる指先に反応する感度も変わらない。
淡々と業務的に事を済ませていると、ふいに溜息混じりの声が漏れてきた。
「ふう…ううっ…はぁ…。」
「疲れたか。もうすぐ終わる。」
「へいちょ…、うあ、あ、…兵長ぉ…。」
「!」
背中越しで見えないがポロポロと零れる大粒の涙を手で拭いながら嗚咽混じりに名を呼び続けるエレンにリヴァイの手が止まる。
「すみません、…こんな、つもりじゃ……。」
「エレン…。」
持っていたタオルを桶に入れもう1度エレンに触れようとした瞬間、馴染みのある声に引き止められる。
「兵長、俺が変わります。」
「……ジャンか。」
「エレンが気になって練習サボってきました。あとで罰は受けます。」
ジャンはエレンの正面に向かいベッドに腰を下ろすと手を取り手の平に人差し指を乗せて文字を書いていく。
[Jan]
「!ジャン!?ジャン!うああああああっっ!!」
タガが外れたように泣き叫ぶエレンを強く抱き締め、ジャンはエレンの頭や背中を優しく撫でる。
「エレン大丈夫だ。俺が側にいる。」
境界線を引くようにエレンの体にまわされた腕をリヴァイは目を細め束の間眺めていた。
「…後は頼む。」
やがてゆっくりとベッドから立ち上がり、リヴァイはそのまま背を向け部屋から立ち去った。
「ハァハァ、っく、あああ……」
(思った以上に荒れてんなぁ。)
勢いでリヴァイからエレンを奪ってみたものの、あれから十数分変わらず泣き続けるエレンに対しジャンは冷静さを取り戻しつつあった。
どうしたものかと周囲を見回すとリヴァイの置いていった手桶の横にある薬の袋と水差しに気づく。
ジャンは袋を目視で確認すると片手で錠剤を取り出し口に含んだ。
「エレン。」
呼ばれた気がして顔を上げると何か柔らかいものに口唇を塞がれる。
それがキスで相手はジャンしかいないと理解した瞬間、エレンは大きく目を見開きポロポロと零れる涙も一瞬で止まった。
「んぅっ…!」
歯列を割って入ってきた舌に呼吸を奪われ、体が覚えているその感覚にエレンの体がビクンと跳ねる。
筋力低下により大した抵抗も出来ず熱くぬめる感触に気を取られている内に、溢れる唾液と共にゴクンと何かを呑み込んだ。
ジャンはエレンの口内が空である事を確認すると、口唇を離し腕の中にいるエレンをさらに強く抱き締める。
「はぁはぁ…ふっ…ざけんな!離せこの馬面ァ!」
ブチ切れて叫ぶも無言のまま離れようとしないジャンの強情さに負け、暫くするとエレンも諦めて大人しくなった。
「……分かった。多分俺が悪かったと思うからとにかく離れろ。」
[さっきのは薬。水飲め。]
背中を滑る文字に納得し、エレンは小さく溜息をつく。
「バーカ。口移しされないと飲めないほど弱ってねぇよ。」
ジャンは水差しを使ってエレンに水を飲ませると、再びエレンを強く抱き締める。
「しつこいなお前。さっきから何なんだよ。」
[俺と【契約】しろ。]
「はぁ?お前【契約】したくないから【フェイク】なんだろ?」
[【解除】する。俺の物になれ。]
「あ~。さては、俺と兵長の修羅場見ちまったから気ぃ遣ってるんだろ。……お前に同情されるなんて、情けねぇ……。」
「だから違うって」
すれ違う会話に焦りを感じエレンと顔を向き合わせようとするもエレンは俯いたままだった。
「エレン、エレン?」
「すぅ……。」
顔を覗くと両目を閉じ静かな寝息を立てているエレンにジャンは愕然とする。
「おまっこのタイミングで寝るかフツー??あ、睡眠薬……っっ!」
飲ませた薬の効能を思い出してがっくりと項垂れるジャンはエレンを抱き締めたままベッドに寝転がる。
「はぁ~つくづく俺って運がねぇわ。お前に振り回されていい迷惑だバカヤロー。兵長も兵長だ。何でエレンを手離してよりにもよって団長なんだ?大人のクセにちゃんとしないからこっちが困るんだよ。…本当、みっともないくらい…諦めきれねぇ…。」
触れる肌から伝わる温かな体温に胸が締めつけられる。
ジャンはエレンの髪に頬を寄せ、静かに目を閉じた。
調査兵団に入って以来、数えきれない人の死を見てきた。
壁の外や巨人の謎は解明されず弔う仲間の名を把握しきれないまま屍だけが積み上がっていく。
それなのに、仲間と巨人の返り血で真っ赤に染まった俺を見てエルヴィンはいつもキレイだと言った。
沢山の人間が団長命令で死んでいく中、人間とは思えない強さを持ち簡単に死なない人間はお前にどう映って見えるのだろう。
お前が俺にだけに向ける眼差しや微笑みを見る度に胸が締めつけられ、枷を嵌められたように身動きが取れなくなる。
そして必ず頭の中で、あの言葉が浮かんでくるんだ。
ーLevi、hallelujah。ー
『何の冗談だリヴァイ。』
『【契約者】としてお前に抱かれてやるって言ってんだ。脱げ。』
『私はお前に肉体関係など求めていない。お前も私では無理だと言っていたし、それでお互い上手くやってきただろう。』
『じゃあ何で【フェイク】じゃなくて【契約】なんだ?いつまでも綺麗事ばかり並べてねぇでさっさと勃たせろよグズ野郎。』
上手く言えない、解放されたかった。
ただ、それだけだった。
『………リヴァイ、今日は止めにしよう……。お前が壊れてしまいそうで怖いんだ…。』
あの日の事は今でも忘れられない。
罪の意識に苛まれ今にも泣き出しそうな子どものような表情。
か細く震える声、縋るように抱き締めてくる両腕、一回りも大きな肩が小さく頼りなく感じるほどだった。
見たこともないエルヴィンの姿を目の当たりにして思考が停止する。
脱け殻になった心と体は自分のものではなく、エルヴィンに抱かれる様はまるで人形のようだった。
ふとサイドテーブルに飾られた黄色いバラに視線を移す。
枯れる事なく保たれたその美しい姿は、人工的な施しが加えられたものであると最近知った。
『…すまない……私を赦してくれ……。』
背後から抱き締めてくる理由も。
左手の薬指にキスをする意味も。
愛しているの言葉も。
誰に赦しを請い、愛を乞うている?
(なぁ、……お前、誰を見ているんだ……。)
なぜ俺を選んだ。
『エルヴィン、キスが欲しい……。』
枷を嵌められたように重く軋む手を伸ばし、エルヴィンの頬に触れてみる。
地下街で下され、強引に【契約者】にさせられ、それでも兵団を辞めようと思わなかったのはエルヴィンを殺すためだけではないことにとうに気付いた。
『………、愛している。』
今更戻ることなんて出来ないーー。
ー6ー
「治りが悪いね。」
実験を終えて3日目。
外傷は軽くすんだものの、失明、難聴、著しい筋力低下を引き起こしエレンは地下牢のベッドの上でほぼ寝たきり状態だった。
「どうなってやがる。」
ベッドの前で仁王立ちになり眉間にしわを寄せてエレンの顔を見下ろすリヴァイと、その横で母親のような目線で椅子に腰を掛けエレンの左手をギュッと握り締めるハンジ。
「精神的な部分が含まれてると思う。エレンはよく頑張ってるよ。あと1週間は休ませた方がいい。」
「冗談じゃない。エレン、2日で治せ。」
「今は寝てるし、起きても音が篭っててはっきり聞こえないって言ったでしょ。」
「じゃあ、お前が何とかしろ。」
八つ当たりもいいところのムチャぶりに、さすがのハンジも目が座る。
「気持ちは分かるんだけどさぁ……」
ハンジはエレンの手を離すと椅子から立ち上がり、リヴァイの顎に手をかけると強引に視線を自身に向けさせる。
「あんまりエレンのことイジメると、おしおきしちゃうよ?」
「!」
「今日はこの辺で勘弁してよ、ね。」
屈託のない笑顔から放たれる圧にリヴァイはハッと我に返る。
少し罰の悪そうな表情でプイと顔を背けると、そのまま地下牢を去って行った。
「たく、なに焦ってんだか。」
「ハンジさん凄ェ。」
少し離れた場所で椅子に座り事の始終を見ていたジャンの口から思わず感嘆の声が溢れる。
「ははっ。リヴァイのこと叱れる人少ないから。たまには友人としてお灸を据えてあげないと。」
「リヴァイ兵長と、友達。」
「そう、友達♪……と、そんな訳でジャンとアルミンにもエレンの身の回りのお世話をお願いする時があるからよろしくね。」
「了解し……」
「嘘つき。」
「ん?何か言ったアルミン。」
同じくジャンの隣に座っていたアルミンはハンジを見据えたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
心を見透かすような水色の瞳に、保つ笑顔が引きつりそうになる。
「了解しました。失礼します。」
「あ、オイ、待てよ!ハンジさん失礼します。」
部屋を出て足早に階段を登っていくアルミンと慌てて追いかけるジャンの足音が合わさり、やがて遠のいていく。
ハンジは2人の出て行った扉を見つめたまま崩れるように椅子に座り大きく溜息をついた。
「……ハァ。疲れたぁ……。」
其の夜。
「………夜間訓練か。」
静寂な闇に包まれて微かに聞こえてきた声と物音に、エルヴィンはふと視線を窓に向ける。
「そろそろエレンの寝る時間だろう。リヴァイ、就寝の準備を整えてきなさい。」
「あ?」
「他の者は皆忙しい。」
「書類待ちも立派な仕事だろうが。」
解せないとでも言いたげな表情を浮かべつつ、渋々リヴァイは席を立つと部屋を後にした。
ミケと2人きりになった部屋でエルヴィンはミケの横顔をじっと見つめる。
「お前は何も言わないな。」
「何か言って欲しいのか?」
問いには答えず微笑むエルヴィンに対し、少しの沈黙の後卓上ランプに視線を落としたままミケは呟いた。
「犬が目覚めて牙を剥いてきたらどうする。」
エルヴィンはランプに視線を向けると、一見穏やかに見える小さな灯火の中に力強く赤々と燃える揺らぎを見つけ目を細める。
「そうだな。自分の飼い主が誰のモノであるかを自覚させればいい。」
「エレン、入るぞ。」
「……誰だ?アルミンか?」
一拍置いてノック音に気づきエレンはドアに視線を向ける。
リヴァイはタオルと水の入った桶、薬と水差しをサイドテーブルに置くとベッドに腰を下ろす。
ゆっくりとエレンの上半身をベッドから起こすと、未だ視力と聴力の識別が困難なエレンの手を取り手の平に人差し指を乗せてスルスルと文字を書いていく。
[Levi]
「!へぃ…っ」
驚きのあまり反射的に手を払おうとするエレンの手首を強く握り、リヴァイは手の平の文字を追加していく。
[就寝の準備だ。体を拭く。]
そう伝えてエレンの手首を離した瞬間、エレンはリヴァイから身を守るように前屈みになり力の入りきらない両手でシャツをギュッと握り締めた。
「い、いいです!自分で、脱ぎます……。」
「………。」
リヴァイは無言のままベッドから立ち上がると、サイドテーブルに置いた桶の中にあるタオルを手にして固く水を絞っていく。
エレンは緊張を悟られないように服を脱ぐと、表情を隠すように俯き小さく深呼吸する。
「お願い、します……。」
リヴァイは再びエレンの背後に腰を下ろすと背中にそっと触れてみる。
しなやか身体のラインも瑞々しい肌の質感も触れる指先に反応する感度も変わらない。
淡々と業務的に事を済ませていると、ふいに溜息混じりの声が漏れてきた。
「ふう…ううっ…はぁ…。」
「疲れたか。もうすぐ終わる。」
「へいちょ…、うあ、あ、…兵長ぉ…。」
「!」
背中越しで見えないがポロポロと零れる大粒の涙を手で拭いながら嗚咽混じりに名を呼び続けるエレンにリヴァイの手が止まる。
「すみません、…こんな、つもりじゃ……。」
「エレン…。」
持っていたタオルを桶に入れもう1度エレンに触れようとした瞬間、馴染みのある声に引き止められる。
「兵長、俺が変わります。」
「……ジャンか。」
「エレンが気になって練習サボってきました。あとで罰は受けます。」
ジャンはエレンの正面に向かいベッドに腰を下ろすと手を取り手の平に人差し指を乗せて文字を書いていく。
[Jan]
「!ジャン!?ジャン!うああああああっっ!!」
タガが外れたように泣き叫ぶエレンを強く抱き締め、ジャンはエレンの頭や背中を優しく撫でる。
「エレン大丈夫だ。俺が側にいる。」
境界線を引くようにエレンの体にまわされた腕をリヴァイは目を細め束の間眺めていた。
「…後は頼む。」
ゆっくりとベッドから立ち上がり、リヴァイはそのまま背を向け部屋から立ち去った。