Case3【愛情】

「エレン、我慢しないで。」
「ん、はぁ……はぁ……」
無意識に口元を押さえていた手を外され、アルミンの手と重なり合う。
「もっと、声を聞かせて……」
「ぁあ……ん……っ、……ぁあああっ!!」
『親友』であり、心から信頼を寄せるアルミンから向けられる純粋な愛情に、エレンは無意識に抵抗を緩めていく。
「ど……しよ……っ……俺、……」
エレンにとって今されている行為に、「裏切られた」「許せない」という気持ちは、一片もなかった。
むしろ、全てを曝け出しそうな自分自身に羞恥し、葛藤する。
「……っ……!アルミン……!!!」
快感に身をよじらせ、エレンの知らぬ間にも下半身には鬱屈した熱が蓄積されていく。
薄い生地の下に、意志とは無関係に硬く膨らむその形。それを見つめて、アルミンの目が冷たい慈愛に細められた。
「辛い?」
「ひぁっ!」
人差し指と中指で布越しの膨らみを優しく撫でると、エレンの身体は弓なりに仰け反った。
「くっ……!だめ、…はぁ、…そんな、…や、だ…」
快感への防衛本能のように零れた拒絶の言葉。エレンは睫毛を濡らし、目尻に温かい涙の筋を滲ませた。
「エレン、すごく可愛い……」
エレンの無防備な痴態を目の当たりにし、アルミンの内で理性を縛る鎖が、一本、また一本と解けていく。
股間の膨らみを指でなぞり、手のひらで包み込むように転がす。互いの身体に澱のようにたまった熱に、火種が落とされていく。
ただ、どうしても消し去れない感情が、一つだけあった。
「……ふ、うぅ…くっ、あぁ……」
「エレン?」
ふと気づくと、エレンの目から大粒の涙が堰を切ったように溢れ出ていた。
アルミンは我に返り、慌ててその涙を指で丹念に拭い取る。
「エレン!ごめんね、怖がらせちゃった……?」
しっとりと汗で濡れた前髪を掻き上げ、金色の瞳を覗き込む。エレンは安心したように、さらに涙の流量を増した。
「違う……アルミンは悪くない……」
「エレン……」
「ただ、もう……俺さ、わけが分かんねぇよ」
「落ち着いて、エレン」
エレンはアルミンの腕を鷲掴みにし、嗚咽混じりに言葉を紡ぎ出す。
「……なぁ、アルミン。兵長が……ずっと、頭から離れねぇんだ」
エレンの口からこぼれ落ちたその名前に、アルミンの体中の力が、予期していたとおりに、ふわりと抜けていった。
心の奥底で否定し続けてきた現実は、エレンの涙を前にしてもう詭弁の余地などなかった。
「ごめん、なさ……あれ?……俺、なんで謝ってんだ……でも、あぁ……」
左胸のシャツをぎゅっと握り皺くちゃにしながら、エレンは苦しそうに息を吐く。
「……胸が、苦しい……」
誰かを想い、涙で頬をびっしょりと濡らすエレンを、アルミンは素直に美しいと思った。
(……ここまで、来てしまったのか)
幼い頃から自由に羽ばたく姿を願って大切にしてきた、エレンの翼。それを奪い、彼を孤独へ追い詰めた張本人のようにリヴァイを憎んでいた。
しかし、エレンを必死に繋ぎ止めようとすればするほど、その翼に縋り、引きずり降ろしているのが自分自身であることに、今、気づかされる。
(……もう、限界だ)
エレンも、兵長も、ジャンも、シェルムも、そして――自分自身も。
(このまま抱きしめ続ければ、誰も、何も救えない)
頭が良すぎるとは、つまりこういうことだ。アルミンは、逃げ場のない結論の海に、静かに身を沈めていくのを感じた。
引き際がはっきりと見えてしまえば、もう悪あがきはできない。
(……結局、振り出しに戻っただけか)
ああ、残念だ。最初のスタート地点とは、ずいぶんと景色が変わってしまったというのに。
アルミンは小さく溜息をつくと、エレンの好きな『可愛い親友』を演じ始める。
「今日は色々あったから、珍しく気持ちが不安定になってるだけだよ」
アルミンはにっこりと微笑んで、エレンの髪を優しく撫でた。
「アルミン……」
「安心して。ずっと側にいるから」
「ごめん……」
「遠慮しないの!」
近くにあった枕をエレンに押し付けると、アルミンは目線をエレンの下半身へとちらりと走らせた。
「そうだ、エレン、まだ……辛い?」
「え?」
「さっきのが溜まってるなら、続き、してあげるけど?」
「なっ……!!」
アルミンの小悪魔めいた発言に振り回され、エレンは顔を沸騰するかのように真っ赤にする。
「ふふ……また今度にしよっか」
「お前、意地が悪いぞ」
「少しだけ、イジワルしたかったんだもん」
アルミンは目を細め、小さな舌をぺろりと見せた。
「ったく、お前には敵わねぇよ」
互いの目線が合い、何となく気恥ずかしくて、思わずくすっと笑った。
「おやすみ、エレン」
「おやすみ、アルミン」
程なくして、浅く、子どもっぽい寝息を立て始めたエレン。アルミンはその顔を、月光に照らされるがごとく、微動だにせず見つめ続けた。
手のひらに残る、もう一人の体温。その偽りのない温もりだけが、アルミンの胸のなかで、静かな波紋を広げては消えていった。

「エレン、こっちだ。」
午後の日射しがやわらかく降り注ぐ兵団敷地内の中庭。エレンは、背の高い青年に呼び止められた。
「悪いな、急に呼び出したりして。」
「暇だったから気にすんな。……アルミンはどうした?」
「先に部屋に戻るってさ。」
たわいもない会話を交わしながら、二人は雑草の生えた地面に腰を下ろした。
「で、話って何だよ。」
「あぁ。……お前、こないだのアレ、役に立ったか?」
「!?」
切り出された質問に、エレンの頬が一気に紅潮した。
「ま、まぁな……」
「そうか。」
「お、お前らみたいな……夫婦みたいには……無理だったけど、……えっと」
「お前、兵長のことを本気で好きになったのか?」
(直接的すぎんだろっ!!!)
頭がパニックになり、全身が沸騰する。しかし、実直な性格を持つライナーの真剣な眼差しに、エレンはすぐに冷静さを取り戻した。
(昨日アルミンにも、それっぽいこと言われたな……。俺、そんなに態度に出てるのか?)
頭をくしゃくしゃと掻きながら、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「正直言って……よく分かんねぇ」
足元にひっそりと咲く小さな花を見つめながら、エレンは物憂げな表情を浮かべた。
「ライナー。お前、いつからベルトルトを好きになったんだ?」
改めて投げ返された質問に、ライナーは目を丸くした。
「そうだな……随分前から好きだったと思う。ただ、【契約】を機に、その想いが確信に変わっていったって感じだ。……ただ」
「ただ?」
「時々、自分の気持ちが分からなくなるんだ。この想いも、感情も、システムが作り上げた幻なんじゃないかって」
握りしめた拳を額に擦りつけ、普段の頼もしいライナーからは想像もつかない苦悩の表情がのぞいた。
「幻……か。俺のこの気持ちも、そうなのかな」
ライナーの影響だろうか。堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「俺と兵長の関係ってさ……そもそもキッカケが最悪だろ?【loverssystem】の必要性は嫌というほど理解してるけど、兵長にとって俺は……本能の捌け口でしかないんだ」
(あの日――)
ミカサを盾にして、【契約】に引きずり込んだ兵長を、心底恨んだ。
結局、あいつらと同じなんだ、と。
母さんを目の前で喰らった巨人。ミカサを誘拐した人買い。訳の分からない薬を打って消えた親父。俺を人間扱いしなかった連中。
裏切られ、絶望に追い詰められた少年の胸中には、抱えきれないほどのものが渦巻いていた。
内側で蠢く、やり場のない憤り。ドス黒い感情。
(……あれ?)
いつの間にか、それが消えていた。
(いや、違う……)
エレンの心拍数が、徐々に、そして確実に高まっていく。あの日以来、初めてまっすぐに自分の内面と向き合っているような感覚があった。
(全部、兵長のせいにしたかったんだ……俺は)
「どうした、エレン」
「……ぇ」
「大丈夫か?」
無意識に頬を伝う涙を、ライナーに指摘されて初めて気づく。
「何だろうな……本当……」
エレンは苦笑いを浮かべると、ライナーの広い肩に、そっと額を預けた。
「……ただ感情を発散してるだけで、何の進歩もしてやしねぇ」
(その方が、楽だったから)
――リヴァイは、初めから知っていたのではないだろうか。
全てを承知の上でエレンと【契約】を結び、憎悪の矛先を全て自分一人に向けさせていたのだとしたら。
シェルムの事件が本当なら、【loverssystem】というシステムそのものを逆手に取り、エレンを守ろうとしていたことになる。
憧れ続けた調査兵団で、これ以上深く傷つかぬように。何も言わず、ただ。
『システムの本質も理解できねぇガキが』
「……っ……!」
リヴァイのあの言葉が、今、胸を貫く。息がつまる。
「エレン、規律に惑わされるな」
力強く、芯のある声に、エレンははっと我に返った。
「ライナー……」
無骨で大きな手が、エレンの頭にそっと置かれる。
「心と身体が繋がっているからこそ厄介だが、【loverssystem】は肉体の規制が目的だ。心まで縛ったりはしていない」
優しく頭を撫でるその温かな手の感触に、エレンの目から、さらなる大粒の涙がこぼれ落ちた。
「真実なのか幻なのか……誤魔化さずに、自分の気持ちと向き合えば、自ずと答えは出てくるはずだ」
「ライナー。エレン」
ふと気づくと、ベルトルトが中庭に佇む二人の元へ近づいてきていた。
「ベルトルト」
「エレン、また泣いてたんだね」
エレンの足元にしゃがみ込み、ベルトルトは両膝をついて、真っ赤に染まったその瞳を覗き込んだ。
「う……まぁ……」
目をこすりながらもじもじとするエレンを見て、ベルトルトはにっこりと微笑んだ。
「どう?僕の旦那様の肩は、逞しくて安心するでしょ」
「おい、ベルトルト……」
「うん……お前ら、本当に俺の兄貴みたいだ」
「ありがとう」
「あのなぁ……」
ポンポンと頭を撫でてくるベルトルトの手に、ほっこりと癒されるエレン。一方のライナーは、何とも言えない気恥ずかしさに軽く頭を抱える。
そんなライナーを横目で見ながらくすくすと笑うベルトルトは、あっと思い出したようにエレンに尋ねた。
「そうだ、エレン。さっきアルミンが知らない先輩たちと、どこかへ向かってたんだけど……最近仲良くなった人たち?」
「!?」
一瞬で表情を険しく変えたエレンに、ライナーとベルトルトは動揺を隠せなかった。
「それ……ついさっきの話か?」
「うん」
「お前、なんでアルミンに声をかけなかったんだ」
「っ!な、なんでそんな怖い顔するんだよ……仕方ないだろ。通りすがりに見かけただけだし、正直……先輩たちに囲まれてた、アルミンくらいの背丈の子、ってしか分からなかったんだ」
「どの辺にいた?」
「確か……倉庫が建ち並んだ辺りだった気がするけど……」
エレンはベルトルトの肩に手を添えると、ゆっくりと立ち上がった。
「いや……それだけで十分だ。ありがとうな、ベルトルト」
そう言うと、彼は背を向けて走り去った。
「……よく分からないけど、加勢して、って言わないところがエレンらしいよね」
「お前、助けに行ってやれよ」
「ライナーも、何となく気づいてるんだろ?これはたぶん……僕たちの出番じゃない」
「まぁな」
二人は会話をしながら立ち上がり、エレンとは反対の方向へ歩き始めた。
「エレンが兵長と【契約】したせいで、僕ら104期も訓練兵時代とは随分変わっちゃったよね……ジャンとアルミンは、特に」
「昨日はジャンが突然やってきて、ずっとお前にくっついてたしな。エレンと何かあったんだろ」
「ん?もしかして……嫉妬?」
「今更焼いてどうする」
「聞いた僕が間違ってたよ……」
期待を込めた質問をライナーの無頓着な返しに流され、ベルトルトは残念そうに肩をすくめた。
「この先もずっと、側にいるんだ。俺を信じられないのか?」
ごく自然に、しかし確かに伝えられた真摯な想い。ベルトルトの胸の内が、じんわりと温かく満たされていく。
「……やっぱり、僕は幸せだ」
束の間の休息。何気ない日常を、愛する人と過ごせるこの喜び。
「残酷かもしれないけど……今の僕らに彼らにしてあげられることは、一つしかない」
「エレンを……戻るべき場所へ帰してやる、か」
「そうだね」
二人は目を見合わせ、静かに、しかし強くうなずき合った。

******

「シェルム!!!」
無理矢理こじ開けた扉を蹴り飛ばし、エレンは倉庫に駆け込んだ。
小窓からわずかに射し込む光で、薄暗い内部の様子がかろうじて見渡せる。
「やぁ……思ったより早かったね」
倉庫の奥から、澄んだ、どこか艶めいた声が響いた。
乱雑に積まれた備品の山に囲まれ、その中心で声の主は椅子に腰かけていた。
小さな毛束をつまんでは指にくるくると巻き付け、退屈そうにもてあそぶシェルム。同じ顔とは思えないほどに整った美貌は、冷たく、周囲を寄せ付けぬ威圧感を放っていた。
「散々探させやがって……」
「エレン……?」
「!!」
シェルムの足元に視線を走らせたエレンは、そこで項垂れる少年の姿を目にした。
上半身の制服は裂かれ、後ろ手に縛られたまま。乱れた金髪の間から覗く蒼い瞳が、恐怖に潤んでいる。その姿を見た瞬間、エレンの怒りが爆発した。
「てめぇ……!!! アルミンを離しやがれっ……!!!」
殴りかからんと一歩を踏み出したその瞬間だった。
ドア脇に潜んでいた男たちが、四人がかりでエレンに襲いかかる。たちまち羽交い締めにされ、その勢いのまま床に顔面を打ちつけられた。
「ぐあっ……!!」
「エレン!? やめて……っあう!!!」
泣き声を上げて立ち上がろうとするアルミンを、シェルムは軽く床に蹴りつけた。そして、クスクスと小さく笑う。
「僕はただ、【フリー】同士で仲良くしようって誘ってるだけだよ……ね?」
「い……っ! ぁあっ……!」
自分の足元に転がるアルミンの頭を、シェルムはぞんざいに踏みつけた。アルミンは苦痛に顔を歪め、嗚咽をもらす。
「シェルム……! このくそったれ……離せっ! アルミンっ!!!」
幾度身をよじっても、がっしりとした腕は微動だにしない。頭を押さえつけられたまま、エレンは必死に叫び続けた。
「おい、シェルム……本当に大丈夫なのかよ?」
暗がりで気づかなかったが、シェルムの周りにも数人の兵士がいた。低い話し声が、薄暗い倉庫にひそひそと響く。
「こいつ、巨人にでもなったらどうするんだ……」
調査兵団の上層部でさえ、エレンの巨人化能力は未だ未知数だ。制御不能な不確定要素として、危惧する者も少なくなかった。

「下級になればなるほど知識は薄くなり、未だにエレンを他の巨人と同じ脅威としか見ていない者も少なくない。」

「巨人になるなら、とっくに唇でもなんでも噛み切ってるよ……兵団内でそれができないってこと、本人が一番理解してるんじゃないの?」
空気を壊されたとばかりにつまらなさそうに言うシェルムに、エレンは嘲るように嗤った。
「ハッ……ふざけんな。何でてめぇらごときに、巨人の力を使わなきゃなんねぇんだよ。」
「こいつ……!!」
見下されたことに腹を立て、羽交い締めにしていた一人が立ち上がり、エレンの腹部を思いっきり蹴り上げた。
「ぐぁっ……!!」
「やめて……っ!シェルムさん!!」
痛みに悶えるエレンを見るに耐えかね、アルミンがシェルムの名を叫ぶ。
「続けて。」
「いっ……!っあ!ぐふっ……!!っあ、ああっ……!!」
羽交い締めにしていた全員の蹴りが次々とエレンの体に降り注ぐ。薄暗い倉庫には、男たちの足音と舞い上がる埃、そして断ち切れるようなエレンのうめき声だけが響いた。
「やめて……!それ以上は……!エレン!エレンッッ!!!」
「審議所で兵長に蹴られて吹っ飛んだ前歯が、すぐ生えたって噂で聞いたよ……どうせすぐ直るんだから」
足元で泣き続けるアルミンに一瞬目を落とすが、シェルムはそのまま傍観を続けた。
「はぁ……はぁ……っ、う……ゴホッ」
倉庫に来てから、どれほどの時間が経ったのか。
鋭い痛みが走り、身体は鈍く重い。
「アル……ミン……無事か……?」
鉄の味がする口内は、気持ち悪くて仕方なかった。
「エレン……エレン……」
涙と乱れた前髪でぐしゃぐしゃになった顔で、この打開できない状況に、アルミンはただエレンの名前を呼び続けていた。
「……くだらない」
周囲の粗暴な状況とは裏腹に、シェルムの纏う凛とした空気は変わらない。
ボロボロになったエレンを見てもなお、虚無感は消えず、むしろ苛立ちが募る。
アルミンと同じく後ろ手に縛らせ、エレンを目の前で跪かせる。
「……う……」
顎を掴み、虚ろな金色の瞳に銀色の瞳が映り込む。
「ねえ、エレン?……君の親友を返してあげる代わりに、兵長との【契約】を【解除】してよ」
「……っ……」
切れた唇の端をなぶられ、ヒリつく痛みにエレンは眉をひそめた。
「君さ、本当に目障りなんだよね……何で僕じゃなくて、君が兵長の【契約者】なんだ」
「俺だって……知らねぇよ」
「君は望んで【契約】したんじゃないんだろ?」
朦朧とする意識の中、耳元で囁くシェルムの声が、ますます自分の声と重なっていく。
生き残るために演じ続けてきた『高級男娼』の仮面が剥がれ、シェルムは次第に、本来の自分の意志と言葉で語り始める。
それはより一層エレンそのものに近づき、リヴァイを巡る二人の「エレン」のやり取りは、周囲から見れば異様な光景となっていた。
「お前みたいないい加減な奴が兵長の隣にいる資格はないし、振り回される兵長が迷惑だって思わないのか?」
(……同じ声で……喋るな……)
目の前の人物が別人だと頭では理解していても、まるで自分自身に言い聞かされているような錯覚に陥っていく。
「はぁ……何で、そこまで言われなきゃなんねぇんだよ」
「俺は、誰よりも兵長を愛してるって言っただろ」
「……ハッ……」
漆黒の瞳が脳裏に浮かび、エレンは小さく息を吐いた。
(愛してる……? 誰が……?)
「あの人の優しさも、哀しみも、温かさも……俺なら、全て受け入れられる」
やるせない想いで紡がれる言葉は、もはやどちらのものか判別がつかなくなっていた。
(……何、言ってんだ……俺は……)
ただ一つだけ、エレンの胸の内に確かな感情が芽生えてくる。
「俺にはあの人しかいない!!兵長を返せよっっ!!!」
「いい加減にしろっっ!!!」
ほぼ同時に発せられた叫び声に、シェルムは大きく目を見開いた。
一瞬、静寂が訪れる。その場を動く者は誰もいない。
張り上げた声が身体に痛みを走らせ、エレンは再びうずくまる。
それでも抑えきれない想いは、後から後から溢れ出してくる。
「俺は……兵長の【契約者】だ……!何にも知らないクセに、勝手なこと言ってんじゃねぇ……っっ!!」
拒絶し続け、認めることが怖かった。その本心が、今、剥き出しになっていた。
「おい、シェルム。ツケを払う代わりにお前に付き合ってるんだ。誰かが来る前にさっさと終わらせろよ」
痺れを切らした兵士の声に、シェルムは我に返る。
揺るぎない意志の強さと、入り込む余地のない絆。それに対する言いようのない焦燥感が、彼を駆り立てていた。
「分かってる……だったら、こうしよう、エレン。」
「?」
「兵長との【契約】を【解除】しなくていい。君の親友も返してあげる」
シェルムは縛りを解き、エレンの頬に手を添えた。
「その代わり、僕の目の前で今から、こいつらを相手してみせてよ」
「なっ……!」
突然の要求は、エレンだけでなく周囲の兵士たちにも動揺を走らせた。
「待て待て! 仮にもこいつはあのリヴァイ兵士長の【契約者】だぞ!」
「見つかったら、俺たちがヤバイだろ!」
恐怖に慄く仲間をなだめるように、シェルムは目を細めて薄く微笑んだ。
「ふふっ……安心してよ。だって、エレン? 君が自ら『相手をさせてください』ってお願いするんだから」
「!?」
銀色の瞳は既に冷めきっており、人形のような作り笑いを浮かべるシェルムに、エレンはぞくりと身震いした。
「へぇ……そりゃ面白いな」
「確かに、こいつから誘ってきたなら、兵士長殿も文句言えねぇだろ」
シェルムに煽られ、兵士たちはゲームのような興奮と高揚に沸き立ち始めた。
「いいアイデアでしょ?」
「俺たちも人類最強の仲間入りってか!」
異常な盛り上がりの中、新たな形で男たちの欲望の的に晒されるエレン。
一見冷静だが明らかに平静を失ったシェルムに、アルミンは必死に声を張り上げた。
「それはあまりにも無茶です! 発覚したら規律違反どころの騒ぎじゃ……」
「っうあっ!」
シェルムは立ち上がり、アルミンの腕を掴むと、近くにいた兵士の一人に無造作に投げつけた。
「だったら、君がこいつらを相手すればいい」
「!?」
エレンが来るまでの短時間に味わった痛みと恐怖がフラッシュバックし、アルミンの顔から血の気が引いた。
「やめろっ! ……アルミンに、それ以上手を出すな……っ!!」
「君次第だよ」
親友を盾にされ、逃げることも立ち向かうこともできず、エレンは悔しさに唇を噛みしめた。
「ダメだ、エレン……」
自分のために涙を流すアルミンに、胸が締めつけられる。
(俺の知らないところで、こいつはどれだけ泣いたんだろう……)
「大丈夫だ、アルミン……俺は今度こそ、お前を守るって決めたんだ……」
震える手を固く握り締め、エレンはゆっくりと立ち上がった。
「……俺は、お前らが欲しがってる人類最強の【契約者】だ」
一斉に向けられる淫猥で好奇な眼差しに、エレンは本能的に怖気づく。
(……いや、だ……)
システムの本質に辿り着いた時には既に遅く、後戻りできず後悔しか残らない。
兵士たちはエレンを囲み、いくつもの手が全身に触れてくる。
「くれてやるよ……こんな身体……」
ここには、いつも守ってくれていたあの人はいない。
『汚ねぇ身体で俺に触るな』
ここには、欲して止まないあの人はいない。
「一緒に地獄に堕ちよう……エレン・イェーガー……」
小窓から見える外の景色を、シェルムはぼんやりと見つめ続けた。
「お前ら全員、その場から動くな」
「!?」
入口から聞こえてきた低く静かな声に、倉庫内の空気が一変した。
「一ミリでも動いたら、その場で削ぎ落としてやる」
逆光に浮かぶシルエットに兵士たちは震え上がり、その場に立ち尽くした。
声の主はつかつかと倉庫内に入ると、庫内の様子をぐるりと見渡し、目を細めた。
「……これは、どういう状況だ?」
人類最強の存在に怯える兵士たちに、質問に答える余裕などない。
しかし、リヴァイがそのことに気づくはずもなく、苛立ちを募らせて近くにあった備品を蹴り飛ばした。
「さっさと答えろ」
「ひぃっ!!!」
蹴られた箇所の異常なへこみ具合に戦慄が走り、皆が騒然となる。
「兵長……なんで……?」
周りにいた兵士たちはいつの間にか離れ、目の前にリヴァイがいることが信じられず、エレンはぽかんと口を開けていた。

リヴァイはエレンに歩み寄ると、ぼろぼろになった身体を上から下まで眺め、眉間に皺を寄せた。
「テメェは俺と少し離れただけで、よくこんな面倒事を起こしたな」
「す、すみません……」
優しい言葉を期待していたわけではないが、案の定の不機嫌な口調に、エレンは肩を小さくすくめた。
リヴァイはさらに、近くで床にへたり込むアルミンを見つけ、大きくため息をついた。
「本来、【フリー】が襲われても助ける人間はいない。きちんと自覚しろ」
「……すみません」
アルミンの縄を解き、二人の状態を確認し終えると、リヴァイはシェルムの前に立った。
「シェルム、こっちを向け」
俯いていた視線がリヴァイを捉えた瞬間、リヴァイはシェルムの頬を平手で打った。
「……っ……」
「やり過ぎだ」
いつになく語気の強いリヴァイの口調がすべてを物語り、三人は言葉を失った。
「リヴァイ兵士長、こちらでよろしいでしょうか」
程なくして、慌ただしい足音と共に見慣れない制服の兵士たちが倉庫へ入ってきた。
「あぁ、面倒をかける」
リヴァイの言葉を合図に、兵士たちはシェルムの仲間たちに手際よく手錠をかけていった。
「この者たちを連れていけ」
「ハッ!」
事態は一気に収束に向かっていた。
シェルムの細い手首にも手錠をかけられ、兵士に倉庫を出るよう促されるが、彼はリヴァイを見つめたまま微動だにしなかった。
「……何で、俺じゃないんだ……」
事の成り行きを見ていたリヴァイの視線が、シェルムに向けられる。
「俺は貴方に【契約】を断られました……何でよりによって、あいつなんですか……」
リヴァイはしばらくシェルムを見つめていたが、過去の記憶を辿りながらおもむろに口を開いた。
「あの頃は色々あって、誰かと【契約】する余裕は俺になかった」
「…………」
不服そうな表情に対し、リヴァイは少し困惑しながら横目でエレンを盗み見る。
「……しいて言うなら、昔の俺によく似ているところだ」
未だ忘れられない記憶に、胸が痛んだ。
「シェルム」
改めてリヴァイに名前を呼ばれ、シェルムの鼓動が大きく波打つ。
「俺がお前をここまで追い詰めたんだな……」
漆黒の瞳を直視できず、シェルムは目を伏せて小さく首を振った。
「……いいえ。自分の身を守りたかっただけです」
『たく……盛りのついたガキどもが。余計な仕事を増やしやがって』
『……た、助けて下さって、ありがとうございます……』
あの日、貴方に出会わなければよかったと、何度繰り返しただろうか。
【契約】を断られたあの日から、心だけが置き去りで、酷く汚れてしまった事実を悔やんでも仕方がなかった。
「お前は今でも、澄んだ銀色の瞳をしている」
「……!!」
「あの頃と変わらず、綺麗なままだ」
『シェルム……魅力、魔力の意か』
『そうみたいですね』
戻らない時間、欲しかったものは――
『お前の綺麗な瞳に相応しい名だな、エレンよ』
愛する人の穏やかな微笑み。
「……失礼します」
表情を隠すように一礼をすると、リヴァイに背を向け、兵士と共に歩き出した。
シェルムが倉庫から出るのを見届けると、リヴァイはエレンとアルミンの方を振り返った。
エレンは兵士から借りた薄いブランケットをアルミンに羽織らせ、乱れた髪を整えたり服の埃を払っていた。
「エレンてば! もういいよ!」
血相を変えて必死に汚れを払おうとするエレンに、アルミンは戸惑いを隠せない。
「ダメだ! まだ汚れてる……服だって、……こんなに……」
アルミンの両肩を掴んだその手は、小刻みに震えていた。
「ごめん……また俺は、お前を守ってやれなかった……」
「……エレン……」
幾重にも頬を伝うエレンの涙を、アルミンは丁寧に拭い取った。
(違う……僕がエレンの優しさにつけ込んできたんだ……)
エレンの背中越しに、リヴァイと視線がぶつかる。
すべてを見透かしてなお、静かに見守るように佇む姿に、アルミンは目を細めた。
(……ずっと、大好きだよ……)
アルミンは決心したように小さく頷くと、エレンの身体を強引にリヴァイの方へと向ける。
「なんだよアルミン……! へいちょ……」
再び見えたリヴァイの顔に涙が一瞬で止まり、エレンは恥ずかしさや気まずさで頭の中が真っ白になる。
「兵長が待ってるよ、ね?」
「いや、でも……」
小声で会話をやり取りしつつ、いつまでも前に進もうとしないエレンにやきもきし、アルミンは背中から手を離してリヴァイに近づいた。
「アルミン!?」
アルミンはリヴァイを見上げ、にっこりと微笑んだ。
「兵長。エレンをよろしくお願いします」
リヴァイに一礼をし、アルミンは近くにいた女性兵士に声をかけた。
「すみません。医務室に連れて行ってもらえませんか?」
「待てよ! 俺も行くって……」
「エレンはある程度傷が塞がってきてるでしょ」
どこまでも親友を優先しようとする姿に苦笑いをし、アルミンはエレンの肩に手をかけ、耳元で囁いた。
「素直に甘えればいいんだよ、エレン」
「はぁ!?」
上目遣いでいたずらっぽく笑うアルミンを見て、エレンは顔を真っ赤にする。
文句を言う前にエレンから離れたアルミンは、ひらひらと手を振り、女性兵士と共に倉庫を後にした。
「…………」
現場に残った一部の調査兵を除き、エレンはリヴァイと二人きりになる。
どうしたら良いのか分からず俯いていると、小さくついたため息と共にリヴァイがエレンの元に歩み寄ってきた。
「帰るぞ」
変わらないその一言に、エレンの胸の奥が熱くなり、ぎゅっと締めつけられる。
「はい……」
離れていたのは少しのはずなのに、ずいぶん遠回りをして帰ってきた気がした。
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