口内炎
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ハッと詩音は顔を上げる。
そろそろ陽太郎が畑から帰ってくる時間なのではと詩音は夕飯の下ごしらえの手を止めた。大根をひたすら千切りにしていると時間の感覚って狂うんだなぁ…、といつの間にか迫っていた夕闇に独りごちると大根を皿に盛りつけた。
村にはしっかりと冬が来ていた。
雪こそ降っていないが、木々は衣を落とし高い空からは空風が吹き、人々は少し身体を丸めて歩いていく。
そんな毎朝誰もが「起きるか二度寝するか」争いを繰り広げるほどの寒さの中でも、陽太郎はいつも通りに起き、部屋を暖め配達をして、冬の野菜を美味しく作るのは農家の腕の見せ所だと畑仕事に精を出す。ここ数日の陽太郎の様子から、今日は何かを収穫して来るかもしれないなと詩音が陽太郎の得意顔を思い浮かべたところで縁側から重い籠を下ろすような音が聞こえてきたのだった。
いつだって変わらず仕事に励む陽太郎を労りたくて、詩音は熱いお茶とみかんを用意する。このみかんは甘いよと、村のご婦人に頂いた折り紙付きのものだ。今日は畑を手伝えなかったから、数時間ぶりに陽太郎に会うことにも心を浮き立たせる。それなりに長く共に暮らしているけれど、やっぱり陽太郎と顔を合わせている時間は特別なのだ。少しだけ早くなる鼓動に合わせるように、弾むような足取りで詩音は縁側へ向かった。
「みかんだ!」
先に陽太郎を出迎えていたのか陽太郎に抱えられていた虎が詩音の持つみかんに反応して振り返る。怪モノはやっぱり鼻が利くのか、これが甘いみかんだとわかっているちょっと悪い顔に「みんなで食べようね」と詩音は笑ってからこの家の主に声をかけた。
「陽太郎、おかえりなさい」
「はい、ただいま」
薄暗く寒風が吹く冬の寒さも吹き飛ばしてしまいそうな陽太郎の笑顔が詩音は好きだった。ただいま、と返事をくれる声も、虎を抱えながら縁側に腰を下ろす仕草も愛おしい。
「今日もお疲れ様でした。みかんもどうぞ」
思わずにやけてしまいそうな顔の筋肉に喝を入れながら甘いみかんを差し出して、詩音はいつもの定位置に座ると陽太郎から虎を引き受ける。
詩音がみかんを剥いて虎に渡せば、虎は待ちきれないといった面持ちで小さな手をいっぱいに広げて器用にひと房口に入れた。
「んん〜!あまぁい!」
虎は本当に美味しそうに食べるから、ついたくさんあげたくなってしまうのが困るね、と視線で同意を求めようと詩音は陽太郎を見上げる。しかしなにやら様子がおかしい。
いつもは豪快に食べているみかんを、今日は薄皮についた白い筋をこれでもかときれいに取っては1粒ずつそろそろと口へ運んでいる。それに、縁側に落ち着いてから陽太郎はほとんど喋っていなかったではないか。こんなに大きな違和感に何故すぐ気付かなかったのか。詩音は自分の浮かれ具合に少しうんざりしながら陽太郎の方へ体を向けた。
「陽太郎、何かあったの?みかん、はずれだった?」
詩音の問いかけに、詩音の膝の上にいた虎も陽太郎を見る。虎も陽太郎の手にあるツルツルに筋を剥かれたみかんを見て、全部剥いた…だと…?と驚きを隠せない様子だ。
陽太郎はその問いかけに少し気まずそうに視線を彷徨わせてから、どこか恥ずかしげに理由を話し始めた。
「実は…顎に鍬の柄が当たって口の中が切れてしまって…口内炎になりそうなんです」
「それは…ご愁傷さまです…」
口内炎。それじゃみかんは警戒するよね、と詩音は納得した。なにせみかんは滲みる。自分の過去の体験を思い出せば、陽太郎の慎重さは当然のことだった。
陽太郎はといえば、今でも傷が痛むのに、更にこれから来るであろう口内炎持ちの不便な日々を思ってか、しょんぼりした顔で顎のあたりを擦っている。
そんな姿に、詩音が何かいい案はと思った矢先、虎が「いい案がある」と詩音の腕から身を乗り出して言った。
「コウナイエン?には蜂蜜がいい」
「蜂蜜?本当に?」
「いや、知らんけど」
えぇ…、となんとも言えない顔で陽太郎は笑った。
自信満々で「いい話」と言っていたのに、と二人笑えば、虎はあっけらかんと村人が話していたのを聞いただけだと教えてくれた。
「どうやら甘いが滲みるらしい」
「なるほど…一応覚えておくよ」
虎がたまたま耳にしただけの不確かな情報だが、陽太郎は頭の隅には置いておく事にした。
陽太郎の知る蜂蜜の効能には傷を治す、という項目はない。だが殺菌作用があることを考えるとあながちただの噂でもないのかもしれないなと一人納得したところで、ぐぅと誰かの腹の虫が鳴いたのだった。
喋ると傷が痛むのか夕食の準備中もやはりいつもより言葉の少ない陽太郎に、詩音は一人無心で切り刻んだ大根には醤油をかけないことにした。もちろん醤油のほかにも出来る限り刺激物をなくし、なんとなく傷に優しい食卓に着いて三人で手を合わせる。
『いただきます』
本当に慎重におかずを小さく掴み、ゆったりと口に入れてはモグ……モグ……と、例えて言うなら何かの師匠にでもなったような難しい顔で、陽太郎は静かにゆっくりゆっくり咀嚼する。
口内の僅かな傷だ。清潔にしていればあまり心配はいらないだろう。だから気の毒に思いながらも、普段は自分の怪我に無頓着気味の陽太郎のまるで玄人の様な厳かな食べ方に詩音と虎は肩が震えるのを止めることができなかった。さすがに笑ったら悪い。だが油断すれば笑い声が漏れてしまう。本日の食事は妙な緊迫感を伴う静かなものとなった。
食事が終わり、笑ってはいけない謎の雰囲気からの開放感と満腹感のせいか虎は座布団の上で船を漕いでいる。
仕方ないなと言いながらもそっと虎を抱えて寝床へ連れていく陽太郎の背中を見送りながら、詩音は何か陽太郎にしてあげられることはないかと視界を巡らせた。
「あ!陽太郎座って!」
詩音は程なくして居間に戻ってきた陽太郎に早く座るように座布団を指し示す。何やらぴかぴかした顔をしている詩音に逆らえるわけもなく、陽太郎は居間のいつもの定位置へと腰を下ろした。
陽太郎が座したことを確認した詩音は、トン、とちゃぶ台に瓶を置く。それからお楽しみを隠しきれない子供のような顔で笑いながら、自分がこれからやろうとしていることを提示した。
「それじゃ、塗ってあげるね!」
「蜂蜜…ですか?」
「そう!虎の聞いた話。早く治るかもしれないならやってみてもいいんじゃないかな」
「……えっ?!」
だいぶ間があって聞こえたのは陽太郎の驚愕と困惑の声だった。
傷が良くなればとほんの小さな親切のつもりで提案しただけ。だから陽太郎が大きく驚く意味が詩音にはよくわからなかった。
「どうしたの?そんなにびっくりして」
「いや確かに治るに越したことはないですけど…あの、口の中ですよ?」
「?そうだね?」
ああそんなことか。気にしなくて良いのに、と詩音は思った。だって治療なのだ。手が汚れるとか、そんなことどうでもいいことではないか。
詩音はちゃぶ台の上の瓶を手に取り蓋をを開ける。甘い香りが鼻孔をくすぐりうっかり食べてしまいたい気持ちを抑えながら、はちみつを小皿へと移していく。
さくさくと準備を始める詩音の様子をみて、陽太郎は「気にし過ぎなのか…?」とほんの小さな声で呟いてから詩音へ視線を向け、意を決して姿勢を整えた。
「………では、お願いします」
陽太郎の了承を得られたことに満足した詩音は、「任せて!」と陽太郎の少し硬い声には気付かないまま、いっそ鼻歌でも歌い出しそうな勢いで小皿の蜂蜜を指で掬った。
「はい、それじゃ少し口を開けてー」
と、詩音は右手に蜂蜜を乗せたまま陽太郎の正面へと移動し、膝をついて陽太郎を見下ろすような体勢になった。そして陽太郎の頬を左手でそっと支えると、詩音の指示に従って少しだけ開いた唇を確認する。塗るときに下唇を引っ張ったら傷が痛むかな、と様子を窺おうと口元から視線を上げれば、じっと詩音を見ている陽太郎と目が合ってしまった。まさに見つめ合っている状態だ。
「あ、えっ…と、め、目は閉じて…」
「わかりました」
陽太郎はごもってしまった詩音を気にした様子もなく、すっと意思の強い色を閉じた。見られている変な緊張がなくなったせいか少しだけ睫毛もはっきり見えるようになった気がして、まじまじと陽太郎の顔を見てしまう。このほくろがかわいいんだよね。前髪もちょっと跳ねててかわいい。
いつも心地よい声を聞かせてくれるその口も今はただ詩音の手当をじっと待っている。よく見れば唇は少し乾燥しているようだ。あとで自分の愛用している軟膏を貸してあげようか。
などと間近でじっくり観察してしまえば今になって急に、陽太郎の唇に、しかもその内側に触れることに対して羞恥心が湧き出す。心臓が早鐘を打ち始め、その振動なのか詩音の指先は静かに震え始めた。え、なにこれどうしよう。
「詩音さん?」
「は、はい!」
待てども手当の始まらない様子にうっすらと目を開けた陽太郎が見たのは、大きく肩を跳ねさせ、山のように盛り上がった大量の蜂蜜を指にのせて頬を林檎のように染めながら小さく震える詩音の姿だった。
自分の右頬に添えられている手のひら同様の指の振動のせいか、あるいは重力のせいか。山と盛られた蜂蜜がたらり、と指先から詩音の指に沿って垂れているのを見た陽太郎は、何故か硬直したままの詩音に声をかけてみた。
「蜂蜜、こぼれちゃいますよ?」
「え、」
かろうじて声を発するだけはできたものの相変わらず動きのない詩音に、少しのいたずら心が湧いてしまった陽太郎は詩音の右手首をゆるく掴んで、反対の指でじわじわと指から甲にかけ滴っている蜜を堰き止めた。それから自分の人差し指を詩音のそれに沿わせて、とっぷりとした琥珀色がこれ以上垂れないようにと、陽太郎はゆっくり丁寧に詩音の指の周囲を掬い取っていく。その感触に、蜂蜜はこんなに温かいものだったかな、と陽太郎は己に問うてしまった。詩音のいつもより高い体温のせいだと、答えなんてわかりきったことなのに。
ときには手を繋いだりすることだってある仲だ。別に初めて触られたわけでもない。だというのにただ指先同士が触れているだけでこんなに呼吸がままならなくなるものなのか、詩音は陽太郎の指の動きから目が離せなくなった。じ、と詩音は己の指から蜂蜜を取られていく様を見る。蜂蜜の軌道がきらきらと部屋の明かりに反射してますます目を奪われた。
火鉢から聞こえるパチパチと小さな音がやけに耳に響く。言葉はない。詩音はひたすら指先に集中して、陽太郎の指に甘く絡めとられる琥珀を見続けている。悪いことをしているような、静かな秘密を共有するような、そんな時間が流れていった。
パチン、と火鉢からひとつ大きく爆ぜた音でハッと詩音が我に返れば、大方の蜜を掬い終えた陽太郎の指が離れる瞬間だった。
それが名残惜しいと感じてしまった詩音は、今になってやっと自分の頬が熱を持っていると自覚してしまった。慌てて両手で頬を抑えれば思ったよりもずっと熱くて。
どうしよう、どうなってた?と陽太郎の顔をちらりと覗き窺えば、そこには畑から帰ったときに見た陽だまりはなく、あるのはまるで獲物を見つけた狩人のような少し雄々しい笑顔だった。
想定外の出来事に詩音があわあわして金魚のように口をパクパクしていると陽太郎はふっといつものように柔らかく笑って言った。
「顔、真っ赤ですよ」
それが陽太郎にしては珍しく揶揄いの強い言い方だったから、詩音は完全に陽太郎の変化に飲み込まれて、陽太郎が絡めとった蜂蜜をそっと自分の口内に侵入させたことに直ぐには気付けなかった。
陽太郎がいつもより男の人だ、と感じた詩音は恐らく正しい。なぜなら治療とはいえ自分の口内に触れることになんの意識もなかった詩音への仕返しもあったのかもしれないからだ。
なんか甘い。甘いけど少し塩っぽさもあるような、と考えたところで詩音は畑仕事で鍛えられている太くて長い指が、甘い蜂蜜を纏って口の中に入ってきたのだと理解した。理解はした。けどだからといってどうしたらいいのかがわからない。舌はどこに置けば?動かしていいの?ああ甘いな。でもここからどうしたら、と顔を赤くしたまま目を白黒させるしかできなかった。
「知ってましたか?蜂蜜には気持ちを落ち着かせる効能があるらしいですよ」
詩音の口から指を抜いて、してやったりといった雰囲気で話す陽太郎に詩音は何も答える術を持たなかった。だけど何か言わなくてはととりあえず陽太郎を視界に捉えて必死に頭を回転させていたのに。
「効果はありましたか?」
そう言って陽太郎がとろりと笑うから。
落ち着くわけがない。
陽太郎の傷口に塗る筈だった蜂蜜は何故か自分の口の中に消え、陽太郎の治療をする筈ががただひたすら自分が甘い体験をしただけなのだ。落ち着くわけがなかった。知っているだろうに、とプイと視線を外して詩音は言い放つ。
「わかってるくせに…!」
つまり裏返った声と赤みの引かない顔は逆に説得力しかなくて。
「ではもうひとくちどうですか?」
待って待って。
蜂蜜の瓶を手に取り逆に何故か余裕すら感じさせる陽太郎に詩音はお手上げだった。珍しい。今日はどうしちゃったの。でもたまにはこんな陽太郎も悪くないと思ってしまう自分がいるのも事実で詩音強く出られない。チラリと陽太郎の顔を見やると、サカモトの冬が裸足で逃げだすくらい熱い視線を一身に受けてしまい正直詩音は頭の中が真っ白になった。
「あの!こ、今度こそ陽太郎に塗ってあげるから!」
これはマズイと急に我に返ることができた詩音は相変わらず裏返った声で、それでもやられっぱなしでなるものかと陽太郎から瓶を奪いとる。本当に滲みても知らないんだから、と詩音は赤くなった指でもう一度蜂蜜を掬いあげ、目の前でまだ笑顔のままの陽太郎に挑みに行った。
あの時の顔は、口内炎なんて忘れるくらいにとても可愛かったなと、陽太郎は思い出すたびに蕩けるような気持になるのだった。
そろそろ陽太郎が畑から帰ってくる時間なのではと詩音は夕飯の下ごしらえの手を止めた。大根をひたすら千切りにしていると時間の感覚って狂うんだなぁ…、といつの間にか迫っていた夕闇に独りごちると大根を皿に盛りつけた。
村にはしっかりと冬が来ていた。
雪こそ降っていないが、木々は衣を落とし高い空からは空風が吹き、人々は少し身体を丸めて歩いていく。
そんな毎朝誰もが「起きるか二度寝するか」争いを繰り広げるほどの寒さの中でも、陽太郎はいつも通りに起き、部屋を暖め配達をして、冬の野菜を美味しく作るのは農家の腕の見せ所だと畑仕事に精を出す。ここ数日の陽太郎の様子から、今日は何かを収穫して来るかもしれないなと詩音が陽太郎の得意顔を思い浮かべたところで縁側から重い籠を下ろすような音が聞こえてきたのだった。
いつだって変わらず仕事に励む陽太郎を労りたくて、詩音は熱いお茶とみかんを用意する。このみかんは甘いよと、村のご婦人に頂いた折り紙付きのものだ。今日は畑を手伝えなかったから、数時間ぶりに陽太郎に会うことにも心を浮き立たせる。それなりに長く共に暮らしているけれど、やっぱり陽太郎と顔を合わせている時間は特別なのだ。少しだけ早くなる鼓動に合わせるように、弾むような足取りで詩音は縁側へ向かった。
「みかんだ!」
先に陽太郎を出迎えていたのか陽太郎に抱えられていた虎が詩音の持つみかんに反応して振り返る。怪モノはやっぱり鼻が利くのか、これが甘いみかんだとわかっているちょっと悪い顔に「みんなで食べようね」と詩音は笑ってからこの家の主に声をかけた。
「陽太郎、おかえりなさい」
「はい、ただいま」
薄暗く寒風が吹く冬の寒さも吹き飛ばしてしまいそうな陽太郎の笑顔が詩音は好きだった。ただいま、と返事をくれる声も、虎を抱えながら縁側に腰を下ろす仕草も愛おしい。
「今日もお疲れ様でした。みかんもどうぞ」
思わずにやけてしまいそうな顔の筋肉に喝を入れながら甘いみかんを差し出して、詩音はいつもの定位置に座ると陽太郎から虎を引き受ける。
詩音がみかんを剥いて虎に渡せば、虎は待ちきれないといった面持ちで小さな手をいっぱいに広げて器用にひと房口に入れた。
「んん〜!あまぁい!」
虎は本当に美味しそうに食べるから、ついたくさんあげたくなってしまうのが困るね、と視線で同意を求めようと詩音は陽太郎を見上げる。しかしなにやら様子がおかしい。
いつもは豪快に食べているみかんを、今日は薄皮についた白い筋をこれでもかときれいに取っては1粒ずつそろそろと口へ運んでいる。それに、縁側に落ち着いてから陽太郎はほとんど喋っていなかったではないか。こんなに大きな違和感に何故すぐ気付かなかったのか。詩音は自分の浮かれ具合に少しうんざりしながら陽太郎の方へ体を向けた。
「陽太郎、何かあったの?みかん、はずれだった?」
詩音の問いかけに、詩音の膝の上にいた虎も陽太郎を見る。虎も陽太郎の手にあるツルツルに筋を剥かれたみかんを見て、全部剥いた…だと…?と驚きを隠せない様子だ。
陽太郎はその問いかけに少し気まずそうに視線を彷徨わせてから、どこか恥ずかしげに理由を話し始めた。
「実は…顎に鍬の柄が当たって口の中が切れてしまって…口内炎になりそうなんです」
「それは…ご愁傷さまです…」
口内炎。それじゃみかんは警戒するよね、と詩音は納得した。なにせみかんは滲みる。自分の過去の体験を思い出せば、陽太郎の慎重さは当然のことだった。
陽太郎はといえば、今でも傷が痛むのに、更にこれから来るであろう口内炎持ちの不便な日々を思ってか、しょんぼりした顔で顎のあたりを擦っている。
そんな姿に、詩音が何かいい案はと思った矢先、虎が「いい案がある」と詩音の腕から身を乗り出して言った。
「コウナイエン?には蜂蜜がいい」
「蜂蜜?本当に?」
「いや、知らんけど」
えぇ…、となんとも言えない顔で陽太郎は笑った。
自信満々で「いい話」と言っていたのに、と二人笑えば、虎はあっけらかんと村人が話していたのを聞いただけだと教えてくれた。
「どうやら甘いが滲みるらしい」
「なるほど…一応覚えておくよ」
虎がたまたま耳にしただけの不確かな情報だが、陽太郎は頭の隅には置いておく事にした。
陽太郎の知る蜂蜜の効能には傷を治す、という項目はない。だが殺菌作用があることを考えるとあながちただの噂でもないのかもしれないなと一人納得したところで、ぐぅと誰かの腹の虫が鳴いたのだった。
喋ると傷が痛むのか夕食の準備中もやはりいつもより言葉の少ない陽太郎に、詩音は一人無心で切り刻んだ大根には醤油をかけないことにした。もちろん醤油のほかにも出来る限り刺激物をなくし、なんとなく傷に優しい食卓に着いて三人で手を合わせる。
『いただきます』
本当に慎重におかずを小さく掴み、ゆったりと口に入れてはモグ……モグ……と、例えて言うなら何かの師匠にでもなったような難しい顔で、陽太郎は静かにゆっくりゆっくり咀嚼する。
口内の僅かな傷だ。清潔にしていればあまり心配はいらないだろう。だから気の毒に思いながらも、普段は自分の怪我に無頓着気味の陽太郎のまるで玄人の様な厳かな食べ方に詩音と虎は肩が震えるのを止めることができなかった。さすがに笑ったら悪い。だが油断すれば笑い声が漏れてしまう。本日の食事は妙な緊迫感を伴う静かなものとなった。
食事が終わり、笑ってはいけない謎の雰囲気からの開放感と満腹感のせいか虎は座布団の上で船を漕いでいる。
仕方ないなと言いながらもそっと虎を抱えて寝床へ連れていく陽太郎の背中を見送りながら、詩音は何か陽太郎にしてあげられることはないかと視界を巡らせた。
「あ!陽太郎座って!」
詩音は程なくして居間に戻ってきた陽太郎に早く座るように座布団を指し示す。何やらぴかぴかした顔をしている詩音に逆らえるわけもなく、陽太郎は居間のいつもの定位置へと腰を下ろした。
陽太郎が座したことを確認した詩音は、トン、とちゃぶ台に瓶を置く。それからお楽しみを隠しきれない子供のような顔で笑いながら、自分がこれからやろうとしていることを提示した。
「それじゃ、塗ってあげるね!」
「蜂蜜…ですか?」
「そう!虎の聞いた話。早く治るかもしれないならやってみてもいいんじゃないかな」
「……えっ?!」
だいぶ間があって聞こえたのは陽太郎の驚愕と困惑の声だった。
傷が良くなればとほんの小さな親切のつもりで提案しただけ。だから陽太郎が大きく驚く意味が詩音にはよくわからなかった。
「どうしたの?そんなにびっくりして」
「いや確かに治るに越したことはないですけど…あの、口の中ですよ?」
「?そうだね?」
ああそんなことか。気にしなくて良いのに、と詩音は思った。だって治療なのだ。手が汚れるとか、そんなことどうでもいいことではないか。
詩音はちゃぶ台の上の瓶を手に取り蓋をを開ける。甘い香りが鼻孔をくすぐりうっかり食べてしまいたい気持ちを抑えながら、はちみつを小皿へと移していく。
さくさくと準備を始める詩音の様子をみて、陽太郎は「気にし過ぎなのか…?」とほんの小さな声で呟いてから詩音へ視線を向け、意を決して姿勢を整えた。
「………では、お願いします」
陽太郎の了承を得られたことに満足した詩音は、「任せて!」と陽太郎の少し硬い声には気付かないまま、いっそ鼻歌でも歌い出しそうな勢いで小皿の蜂蜜を指で掬った。
「はい、それじゃ少し口を開けてー」
と、詩音は右手に蜂蜜を乗せたまま陽太郎の正面へと移動し、膝をついて陽太郎を見下ろすような体勢になった。そして陽太郎の頬を左手でそっと支えると、詩音の指示に従って少しだけ開いた唇を確認する。塗るときに下唇を引っ張ったら傷が痛むかな、と様子を窺おうと口元から視線を上げれば、じっと詩音を見ている陽太郎と目が合ってしまった。まさに見つめ合っている状態だ。
「あ、えっ…と、め、目は閉じて…」
「わかりました」
陽太郎はごもってしまった詩音を気にした様子もなく、すっと意思の強い色を閉じた。見られている変な緊張がなくなったせいか少しだけ睫毛もはっきり見えるようになった気がして、まじまじと陽太郎の顔を見てしまう。このほくろがかわいいんだよね。前髪もちょっと跳ねててかわいい。
いつも心地よい声を聞かせてくれるその口も今はただ詩音の手当をじっと待っている。よく見れば唇は少し乾燥しているようだ。あとで自分の愛用している軟膏を貸してあげようか。
などと間近でじっくり観察してしまえば今になって急に、陽太郎の唇に、しかもその内側に触れることに対して羞恥心が湧き出す。心臓が早鐘を打ち始め、その振動なのか詩音の指先は静かに震え始めた。え、なにこれどうしよう。
「詩音さん?」
「は、はい!」
待てども手当の始まらない様子にうっすらと目を開けた陽太郎が見たのは、大きく肩を跳ねさせ、山のように盛り上がった大量の蜂蜜を指にのせて頬を林檎のように染めながら小さく震える詩音の姿だった。
自分の右頬に添えられている手のひら同様の指の振動のせいか、あるいは重力のせいか。山と盛られた蜂蜜がたらり、と指先から詩音の指に沿って垂れているのを見た陽太郎は、何故か硬直したままの詩音に声をかけてみた。
「蜂蜜、こぼれちゃいますよ?」
「え、」
かろうじて声を発するだけはできたものの相変わらず動きのない詩音に、少しのいたずら心が湧いてしまった陽太郎は詩音の右手首をゆるく掴んで、反対の指でじわじわと指から甲にかけ滴っている蜜を堰き止めた。それから自分の人差し指を詩音のそれに沿わせて、とっぷりとした琥珀色がこれ以上垂れないようにと、陽太郎はゆっくり丁寧に詩音の指の周囲を掬い取っていく。その感触に、蜂蜜はこんなに温かいものだったかな、と陽太郎は己に問うてしまった。詩音のいつもより高い体温のせいだと、答えなんてわかりきったことなのに。
ときには手を繋いだりすることだってある仲だ。別に初めて触られたわけでもない。だというのにただ指先同士が触れているだけでこんなに呼吸がままならなくなるものなのか、詩音は陽太郎の指の動きから目が離せなくなった。じ、と詩音は己の指から蜂蜜を取られていく様を見る。蜂蜜の軌道がきらきらと部屋の明かりに反射してますます目を奪われた。
火鉢から聞こえるパチパチと小さな音がやけに耳に響く。言葉はない。詩音はひたすら指先に集中して、陽太郎の指に甘く絡めとられる琥珀を見続けている。悪いことをしているような、静かな秘密を共有するような、そんな時間が流れていった。
パチン、と火鉢からひとつ大きく爆ぜた音でハッと詩音が我に返れば、大方の蜜を掬い終えた陽太郎の指が離れる瞬間だった。
それが名残惜しいと感じてしまった詩音は、今になってやっと自分の頬が熱を持っていると自覚してしまった。慌てて両手で頬を抑えれば思ったよりもずっと熱くて。
どうしよう、どうなってた?と陽太郎の顔をちらりと覗き窺えば、そこには畑から帰ったときに見た陽だまりはなく、あるのはまるで獲物を見つけた狩人のような少し雄々しい笑顔だった。
想定外の出来事に詩音があわあわして金魚のように口をパクパクしていると陽太郎はふっといつものように柔らかく笑って言った。
「顔、真っ赤ですよ」
それが陽太郎にしては珍しく揶揄いの強い言い方だったから、詩音は完全に陽太郎の変化に飲み込まれて、陽太郎が絡めとった蜂蜜をそっと自分の口内に侵入させたことに直ぐには気付けなかった。
陽太郎がいつもより男の人だ、と感じた詩音は恐らく正しい。なぜなら治療とはいえ自分の口内に触れることになんの意識もなかった詩音への仕返しもあったのかもしれないからだ。
なんか甘い。甘いけど少し塩っぽさもあるような、と考えたところで詩音は畑仕事で鍛えられている太くて長い指が、甘い蜂蜜を纏って口の中に入ってきたのだと理解した。理解はした。けどだからといってどうしたらいいのかがわからない。舌はどこに置けば?動かしていいの?ああ甘いな。でもここからどうしたら、と顔を赤くしたまま目を白黒させるしかできなかった。
「知ってましたか?蜂蜜には気持ちを落ち着かせる効能があるらしいですよ」
詩音の口から指を抜いて、してやったりといった雰囲気で話す陽太郎に詩音は何も答える術を持たなかった。だけど何か言わなくてはととりあえず陽太郎を視界に捉えて必死に頭を回転させていたのに。
「効果はありましたか?」
そう言って陽太郎がとろりと笑うから。
落ち着くわけがない。
陽太郎の傷口に塗る筈だった蜂蜜は何故か自分の口の中に消え、陽太郎の治療をする筈ががただひたすら自分が甘い体験をしただけなのだ。落ち着くわけがなかった。知っているだろうに、とプイと視線を外して詩音は言い放つ。
「わかってるくせに…!」
つまり裏返った声と赤みの引かない顔は逆に説得力しかなくて。
「ではもうひとくちどうですか?」
待って待って。
蜂蜜の瓶を手に取り逆に何故か余裕すら感じさせる陽太郎に詩音はお手上げだった。珍しい。今日はどうしちゃったの。でもたまにはこんな陽太郎も悪くないと思ってしまう自分がいるのも事実で詩音強く出られない。チラリと陽太郎の顔を見やると、サカモトの冬が裸足で逃げだすくらい熱い視線を一身に受けてしまい正直詩音は頭の中が真っ白になった。
「あの!こ、今度こそ陽太郎に塗ってあげるから!」
これはマズイと急に我に返ることができた詩音は相変わらず裏返った声で、それでもやられっぱなしでなるものかと陽太郎から瓶を奪いとる。本当に滲みても知らないんだから、と詩音は赤くなった指でもう一度蜂蜜を掬いあげ、目の前でまだ笑顔のままの陽太郎に挑みに行った。
あの時の顔は、口内炎なんて忘れるくらいにとても可愛かったなと、陽太郎は思い出すたびに蕩けるような気持になるのだった。