岩男腐向け短編まとめ
わたしきっと絵なんか描かなくたって生きていけるし、星なんか見なくたって歩けるし、全部本気じゃなかったって言って、逃げ切れる。
「アシッドさん、見ました?」
「なにが」
「メッセージに送ったでしょ」
「知らないなぁ」
「アンタま〜た未読スルーする〜……コンクールですよ、映画の。アニメ部門で大学生が受賞したやつ」
「アニメ? 映画の演出も仕事にしてると聞いてたけど、きみそこまで業界チェックしてるのか」
「吸収できるもんはしといて損ないですから。でも今回は自主的に調べたんじゃなくて、先にSNSで流れてきちゃったっつうか」
「ふうん」
「フーンじゃなくて! おれは怪しんでるんですかンねアシッドさん」
「怪しむ? それこそなにを」
「とにかく一回観てみてくださいよ。いやあ、やっぱコレ、アンタのせいなんじゃないかと思うんだよなァ……」
きっと逃げ切る。
御勤品によろしく
薬液プールの半魚人は確かに存在した。
兄が時折電話で話してくれる、大学の科学者。アシッドマンはロボットだった。
「骨格構造式くらいは目にしたことがあるね?」
「こ、こっ……かくこうぞうしき……」
「オヤまいった。そこからか。ちょっと待てよ、いま紙に……ああ、すまない」
メモ用紙を探す彼に、わたしはカバンの中に持っていたクロッキー帳を新しいページにめくって差し出す。油性のボールペンを添えて。
「これは一例だが」
そう言って迷いなく幾何学を綴る彼。横からの照明。速筆なのに丁寧な正六角形。左側に置かれたアルファベット、N、O、O……オー・ノー。
「ああっ……教科書にいっぱい載ってたやつだぁ〜……」
「流石に見たことあるね?」
「はっ、はい。何を表しているのかついぞ理解することは叶いませんでしたけど……そんな名前だったっけ……骨格構造式……」
「ちなみにコイツはニトロベンゼン」
「にとろべんぜん」
まぬけな鸚鵡返しをする。
染料や香料のつなぎとして使われているらしい。わたしが口を開けてぽかんとしているあいだに、彼の簡易な補足が流れていく。
「これはいわゆる成分の顔(かんばせ)だ。単純かつ肉体的な化学式。分子を観察する際の、取扱説明書の一形式」
「は、はあ」
「我々の仕事はつまり、コイツらの顔で正しく福笑いしたり、掛け合わせて新しい顔を書いてやることにある」
「新しい顔……」
「『新薬』だよ。大学は研究のためにあるのだからね。未熟なこどもが遊びとモラトリアムの免罪符を発行するためにあるんじゃあない……が、人間ってやつはチャチい遊びのなかからも意外な貴石を見出すそうじゃないか」
青い水槽が不意に光って、アシッドマンの横顔を照らす。
ガラスと金属の彼の身体は光に祝福されて、くっきりと稜線を浮かばせた。魚だ。魚の……水棲のフォルムだ、理想的な。
「きみはどうだ」
「わたし……ですか?」
「美大志望だろう。それともおれの勘違いかな」
思いがけない言葉に肩が跳ねた。
どこだ? どこで、バレた? クロッキー帳? だけど絵のあるページは見えていない。表紙の使用感? そもそもクロッキー帳を持っていたこと自体がおかしかったか? 普通の、ふつうの学生なら、こういう時何を差し出すんだっけ。ノート? 生徒手帳?
誰にも言っていなかった。兄にも両親にも、友達にも高校の先生にも。わたしの描くものは、良くなかった。
それで、ミスを犯した。
わたしの手元は汗ダダ漏れで力なくて、紙の繊維に指が食い込まなくって、だったもので、受け取り損ねたクロッキー帳は綴じ面から床へ滑り落ちてしまったのだ。
「あ」
わさり、帳が開く。
だけではない。ページの合間に挟んでいた、薄紙のせの鉛筆デッサンがだらだら垂れるように溢れ出ていった。
魚のクロッキーだった。
子供がコップ満杯のジュースをひっくり返したように、あきらかになって、大変……。
「ああ、ああっ」
泳ぐ魚。浮く魚。溶ける魚。まな板の魚、ひられた身と、醤油漬けの卵、大きな目だけをくり抜いた吸い物。自殺する。ドラキュラパットの布団に笑顔で包まる。骨だけで踊る魚。詠う魚。飛ぶ魚。さかな!
真っ黒の、まんまるの、まっすぐの目が無数に散らかって、どうしよう、わたしたちを取り囲んでしまった。
「あわ、わあ、あああ、ああ……どうっ、あ………ううう……」
「落ち着きなさい。ほらそっちにも広がってる」
「だっ、あしっ……、だって、あわ、うわああ」
だって。間違っても『薬液プールの半魚人』に見せられるものではなかった。拙筆で秩序がなくて、あさましくって。なによりさかな。
大急ぎで紙を拾い集める。元からよれていた紙の端っこが指先に引っかかって、少しだけ皮膚を裂いた。そんなこと知らない。知らない。紙の角が折れてもちっとも知らない。
大騒ぎのわたしに呆れながら、アシッドマンも身を屈めて紙の回収を手伝ってくれた。
まだまだ床を悠々およぐ、たくさんの魚をながめて彼が訊く。
「魚が好きなのかい」
「すきです、はい、うう、はい、もちろん」
「どんなところが?」
「どっ、」
……どんなところが?
「い、きてるとぉ」
「生きてると?」
「魚は、光ったり、足し算をしたり、半分だけねむったり、雪を食べたり、して、時々水面から流れてくる無色の虹で火傷してしまったり、して」
「ああ」
「それでも泳ぐから好きです、だから。つよくて、さみしくて、すき」
何言ってるんだろう、本当に何を言ってるんだろう。頭の奥でブウウウンと音が鳴っていた。蝿が飛んでいるのか、水槽のヒーターが唸っているのか、わたしにはまったく区別がつかなかった。ブウウウン、途切れが無い、ドグラ・マグラであるまいし、じゃあきっと十六階の人が乾燥機をかけているんだ、そうじゃないかしら。そうに違いない。
「死んでいる場合は?」
アシッドマンの目は赤くて。
あれ赤かな。
ガラスか樹脂か分からない硬質のそれと、彼の体内を廻る蛍光グリーンがアシッドマンの顔を薄く薄く這っているから、もしかしたら見えてる赤は赤でないかもしれなくて、だけどもこちらを見つめてはじっと答えを待っていた。
「しんでいるばあいは」
急かされていなかった、のに、口が滑る。
「う、ういて、濁って、半額になったりするとこ、が、すきです、よわくてさみしく、て」
オー・ノー。もうおしまいだ。
わたしは今すぐくたばってしまいたかった。日照りで干からびるのを待つのは耐えられなかった。一刻の落ち着きもなかった。足裏にジェットエンジンが剥き出しに生えたみたいな、あ、そっか、ブウウウンって、そっか。何かが燃えて弾けつづける音だったのかも。ともかくもう、もう、もうだめなんだってば。
「ごめんなさい、こんなラクガキ、置いてくるべきだった、わざとじゃないんです、わざとじゃなくてもゆるされないけれど、ほんとうですごめんなさい」
「ダイナマイト漁というものがあってだな」
「ご……だぇっ……あ、えっ?」
アシッドマンは突然に言った。わたしが突然に発狂したのと同じ様に、現実から0.25mmずれた乱視の月みたいに、言った。
「水中でダイナマイトを爆発させて、衝撃波で魚をひとまとめに気絶、あるいはショック死させる。死んだ魚の多くは水面に上がってくるから、そのまま掻っ攫う。発破漁とも言うそうだ。危険なのでもちろん違法のものも多いが──そうそう、その様子じゃあダイナマイトの主剤に何が使われているかも知らないのだろ」
彼が先に拾い上げたデッサン用紙の端、魚たちの右下、わずかな空白へ、先ほどと等しく丁寧に一つの骨格構造式を書き足す。
「ニトロベンゼンの親戚のようなものさ。一目で似ているところが分かるだろうが、ニトロ基を多く持つ化合物は爆発しやすい性質をもっている。コイツの名前は」
先ほどより何倍にも増えたNとO。同じ文字なのに全く知らない顔かたち。
「ニトログリセリン」
「にとろぐりせりん」
まぬけな鸚鵡返しをした。
「な、なんで……そんなこと、ぉ、教えてくれるんですか」
今度はわたしが訊き返す。
彼は、どうしても暇そうには見えなかった。おしゃべりが好きそうにも見えなかった。どちらかといえば手を動かす方が似合ってくれるのだろうな、きっと普段はすごく気難しいだろうな、だから、どうして、こんな。
「人間が同じ妄想を共有する事を集団幻覚と言うんだろう? ロボット同士が同じ妄想を共有する時、そいつはハルネーションの誤共有だろう……」
(ハルネーション、はるねーしょん……ロボットの、というか搭載された人工知能による、高度な誤謬、だ……)
「じゃあロボットと人間が、二体以上の異なる種族が同じ妄想を共有するとき、なんと言うのが正しいかね」
集めた紙の四辺を揃えて、そうっとクロッキー帳の合間へ戻されていく。今度は取りこぼさないよう、そっとわたしの手に預けてくれる。地響き音のなかで、彼のその一連の動作ばかりがとても穏やかで、スローモーションみたいに見えた。見た目よりずっと繊細な動きをする人だ。やさしいかもしれないおさかなだ。
でも、混ざるのは、暴の気配。
「想像してごらん。星よりつよく瞬く爆発が、白とも黒ともつかないさまではじけて、緑の水を吹き飛ばすんだ。魚の群れはこれまでのどんなときよりも高く跳んで、どんなときよりも熱く茹でられる」
液体が揺れるようにアシッドマンは笑った。さらりとして、何が入っているかわからないふうに笑っていた。
もうわかる。彼は劇薬だ。魚のかたちに酸を閉じ込めたのが彼だ。
「けれども一匹。たった一匹でも賢い魚がいたのなら、水上荒らしの不届者を馬鹿にして、誰よりも早く、逃げ切ったならば。生き残ったならば……」
「ならば……?」
「爆弾は大層くやしがるだろうねぇ」
アシッドマンの赤い目にちいさな爆光が混ざった。
このひとも逃げているのだなと、わたしは思った。愛しの発破を論うために、己を永遠にするために、だから、逃げ切ろうとしているのだと、おもった。
わたしは利用されている。利用せよとも、言われている。
「お好きなん、ですね」
「ああ。だから飽きられないように必死さ。必死でないふりをするのもな」
脳裏に浮かぶ、魚たちの影。
落ちる爆弾。人生への一撃。緻密な気まぐれ。
きらめきに目を灼かれて、忘れられないなって絶望して、それでももがく。湯掻く。泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ一匹の魚! 濁ってもソーダの海。
「さっ、……最高、です」
「だろ」
「でも、最低です」
「違いない」
ブウウウン。音は途切れの無く、だけれども静かに聞こえないところまで吸い込まれていった。わたしはようやく正体を知る。あれは爆発後に地と水の底で生き残った、長い長い地鳴りだったのだ。
「ああ。迎えが来たようだよ」
彼の細長い指がわたしの背後を示す。振り返れば、遠くの兄がこちらへ手を振っているのが見える。
そうだった、わたしは、兄に会いに来たのだ。大学を案内してもらう約束だった。
大学生になる自分が想像できなかった。仕事に就く自分も。歳の離れた兄は心配で声をかけてくれた。
見学中、兄に研究室での用事が入って、だから、待っていたんだ。
「あの、あ、拾ってくれて、ありがとう、ございました、紙」
「散らばりっぱなしにさせてもしょうがないからね。それに半分は渡したこちらのせいでもある」
「ちゃ、い、いいえ……それは……違うのでっ。ほんとうにありがとうございます、本当に」
クロッキー帳をカバンに入れる。何気ない行動でもやけに慎重になる。もう落とさない。落としたくない。このまま抱えて、わたしは。
「アシッドマン、わたし、人間ですけど、あなたみたいな半魚人になりたい」
「ロボットだってば」
御勤品によろしく
きっと逃げ切る。
「──しかも全部手描きアニメーション、ディジタル作品だけどCG未使用! それでここまでダイナミックな爆発を描写してんのスゲーよな。葛飾北斎は神の目でスロービデオがない時代に波飛沫の形を描いたって言うけど、この人にはダイナマイドがどんなふうに見えてんだろ〜な〜」
「緑の海、ハジける魚」
「ね。アンタっぽいでしょ。インタビューでも言ってるんですよ、作者自身が。『モデルになった“先生”がいる』って。しかもお兄さんがアンタんとこの准教授だっていうもんだから」
「はあ、なるほどね。もう五年も経っていたか。そうだな……。花丸をやってもいい。きみにも彼女にもね。確かに良い物をみたよ。はっきり言えば期待以上だ」
わたしきっと絵なんか描かなくたって生きていけるし、星なんか見なくたって歩けるし、全部本気じゃなかったって言って、逃げ切れる。
そうして逃げ切ったら。生き残ったら。
「ロボットと人間が同じ妄想を共有すると、そいつは夢になるらしい」
今度は死んじゃうくらい自由に泳いでみせる。そうしたらあなたたち、どれほど悔しがってくれる?
「アシッドさん、見ました?」
「なにが」
「メッセージに送ったでしょ」
「知らないなぁ」
「アンタま〜た未読スルーする〜……コンクールですよ、映画の。アニメ部門で大学生が受賞したやつ」
「アニメ? 映画の演出も仕事にしてると聞いてたけど、きみそこまで業界チェックしてるのか」
「吸収できるもんはしといて損ないですから。でも今回は自主的に調べたんじゃなくて、先にSNSで流れてきちゃったっつうか」
「ふうん」
「フーンじゃなくて! おれは怪しんでるんですかンねアシッドさん」
「怪しむ? それこそなにを」
「とにかく一回観てみてくださいよ。いやあ、やっぱコレ、アンタのせいなんじゃないかと思うんだよなァ……」
きっと逃げ切る。
御勤品によろしく
薬液プールの半魚人は確かに存在した。
兄が時折電話で話してくれる、大学の科学者。アシッドマンはロボットだった。
「骨格構造式くらいは目にしたことがあるね?」
「こ、こっ……かくこうぞうしき……」
「オヤまいった。そこからか。ちょっと待てよ、いま紙に……ああ、すまない」
メモ用紙を探す彼に、わたしはカバンの中に持っていたクロッキー帳を新しいページにめくって差し出す。油性のボールペンを添えて。
「これは一例だが」
そう言って迷いなく幾何学を綴る彼。横からの照明。速筆なのに丁寧な正六角形。左側に置かれたアルファベット、N、O、O……オー・ノー。
「ああっ……教科書にいっぱい載ってたやつだぁ〜……」
「流石に見たことあるね?」
「はっ、はい。何を表しているのかついぞ理解することは叶いませんでしたけど……そんな名前だったっけ……骨格構造式……」
「ちなみにコイツはニトロベンゼン」
「にとろべんぜん」
まぬけな鸚鵡返しをする。
染料や香料のつなぎとして使われているらしい。わたしが口を開けてぽかんとしているあいだに、彼の簡易な補足が流れていく。
「これはいわゆる成分の顔(かんばせ)だ。単純かつ肉体的な化学式。分子を観察する際の、取扱説明書の一形式」
「は、はあ」
「我々の仕事はつまり、コイツらの顔で正しく福笑いしたり、掛け合わせて新しい顔を書いてやることにある」
「新しい顔……」
「『新薬』だよ。大学は研究のためにあるのだからね。未熟なこどもが遊びとモラトリアムの免罪符を発行するためにあるんじゃあない……が、人間ってやつはチャチい遊びのなかからも意外な貴石を見出すそうじゃないか」
青い水槽が不意に光って、アシッドマンの横顔を照らす。
ガラスと金属の彼の身体は光に祝福されて、くっきりと稜線を浮かばせた。魚だ。魚の……水棲のフォルムだ、理想的な。
「きみはどうだ」
「わたし……ですか?」
「美大志望だろう。それともおれの勘違いかな」
思いがけない言葉に肩が跳ねた。
どこだ? どこで、バレた? クロッキー帳? だけど絵のあるページは見えていない。表紙の使用感? そもそもクロッキー帳を持っていたこと自体がおかしかったか? 普通の、ふつうの学生なら、こういう時何を差し出すんだっけ。ノート? 生徒手帳?
誰にも言っていなかった。兄にも両親にも、友達にも高校の先生にも。わたしの描くものは、良くなかった。
それで、ミスを犯した。
わたしの手元は汗ダダ漏れで力なくて、紙の繊維に指が食い込まなくって、だったもので、受け取り損ねたクロッキー帳は綴じ面から床へ滑り落ちてしまったのだ。
「あ」
わさり、帳が開く。
だけではない。ページの合間に挟んでいた、薄紙のせの鉛筆デッサンがだらだら垂れるように溢れ出ていった。
魚のクロッキーだった。
子供がコップ満杯のジュースをひっくり返したように、あきらかになって、大変……。
「ああ、ああっ」
泳ぐ魚。浮く魚。溶ける魚。まな板の魚、ひられた身と、醤油漬けの卵、大きな目だけをくり抜いた吸い物。自殺する。ドラキュラパットの布団に笑顔で包まる。骨だけで踊る魚。詠う魚。飛ぶ魚。さかな!
真っ黒の、まんまるの、まっすぐの目が無数に散らかって、どうしよう、わたしたちを取り囲んでしまった。
「あわ、わあ、あああ、ああ……どうっ、あ………ううう……」
「落ち着きなさい。ほらそっちにも広がってる」
「だっ、あしっ……、だって、あわ、うわああ」
だって。間違っても『薬液プールの半魚人』に見せられるものではなかった。拙筆で秩序がなくて、あさましくって。なによりさかな。
大急ぎで紙を拾い集める。元からよれていた紙の端っこが指先に引っかかって、少しだけ皮膚を裂いた。そんなこと知らない。知らない。紙の角が折れてもちっとも知らない。
大騒ぎのわたしに呆れながら、アシッドマンも身を屈めて紙の回収を手伝ってくれた。
まだまだ床を悠々およぐ、たくさんの魚をながめて彼が訊く。
「魚が好きなのかい」
「すきです、はい、うう、はい、もちろん」
「どんなところが?」
「どっ、」
……どんなところが?
「い、きてるとぉ」
「生きてると?」
「魚は、光ったり、足し算をしたり、半分だけねむったり、雪を食べたり、して、時々水面から流れてくる無色の虹で火傷してしまったり、して」
「ああ」
「それでも泳ぐから好きです、だから。つよくて、さみしくて、すき」
何言ってるんだろう、本当に何を言ってるんだろう。頭の奥でブウウウンと音が鳴っていた。蝿が飛んでいるのか、水槽のヒーターが唸っているのか、わたしにはまったく区別がつかなかった。ブウウウン、途切れが無い、ドグラ・マグラであるまいし、じゃあきっと十六階の人が乾燥機をかけているんだ、そうじゃないかしら。そうに違いない。
「死んでいる場合は?」
アシッドマンの目は赤くて。
あれ赤かな。
ガラスか樹脂か分からない硬質のそれと、彼の体内を廻る蛍光グリーンがアシッドマンの顔を薄く薄く這っているから、もしかしたら見えてる赤は赤でないかもしれなくて、だけどもこちらを見つめてはじっと答えを待っていた。
「しんでいるばあいは」
急かされていなかった、のに、口が滑る。
「う、ういて、濁って、半額になったりするとこ、が、すきです、よわくてさみしく、て」
オー・ノー。もうおしまいだ。
わたしは今すぐくたばってしまいたかった。日照りで干からびるのを待つのは耐えられなかった。一刻の落ち着きもなかった。足裏にジェットエンジンが剥き出しに生えたみたいな、あ、そっか、ブウウウンって、そっか。何かが燃えて弾けつづける音だったのかも。ともかくもう、もう、もうだめなんだってば。
「ごめんなさい、こんなラクガキ、置いてくるべきだった、わざとじゃないんです、わざとじゃなくてもゆるされないけれど、ほんとうですごめんなさい」
「ダイナマイト漁というものがあってだな」
「ご……だぇっ……あ、えっ?」
アシッドマンは突然に言った。わたしが突然に発狂したのと同じ様に、現実から0.25mmずれた乱視の月みたいに、言った。
「水中でダイナマイトを爆発させて、衝撃波で魚をひとまとめに気絶、あるいはショック死させる。死んだ魚の多くは水面に上がってくるから、そのまま掻っ攫う。発破漁とも言うそうだ。危険なのでもちろん違法のものも多いが──そうそう、その様子じゃあダイナマイトの主剤に何が使われているかも知らないのだろ」
彼が先に拾い上げたデッサン用紙の端、魚たちの右下、わずかな空白へ、先ほどと等しく丁寧に一つの骨格構造式を書き足す。
「ニトロベンゼンの親戚のようなものさ。一目で似ているところが分かるだろうが、ニトロ基を多く持つ化合物は爆発しやすい性質をもっている。コイツの名前は」
先ほどより何倍にも増えたNとO。同じ文字なのに全く知らない顔かたち。
「ニトログリセリン」
「にとろぐりせりん」
まぬけな鸚鵡返しをした。
「な、なんで……そんなこと、ぉ、教えてくれるんですか」
今度はわたしが訊き返す。
彼は、どうしても暇そうには見えなかった。おしゃべりが好きそうにも見えなかった。どちらかといえば手を動かす方が似合ってくれるのだろうな、きっと普段はすごく気難しいだろうな、だから、どうして、こんな。
「人間が同じ妄想を共有する事を集団幻覚と言うんだろう? ロボット同士が同じ妄想を共有する時、そいつはハルネーションの誤共有だろう……」
(ハルネーション、はるねーしょん……ロボットの、というか搭載された人工知能による、高度な誤謬、だ……)
「じゃあロボットと人間が、二体以上の異なる種族が同じ妄想を共有するとき、なんと言うのが正しいかね」
集めた紙の四辺を揃えて、そうっとクロッキー帳の合間へ戻されていく。今度は取りこぼさないよう、そっとわたしの手に預けてくれる。地響き音のなかで、彼のその一連の動作ばかりがとても穏やかで、スローモーションみたいに見えた。見た目よりずっと繊細な動きをする人だ。やさしいかもしれないおさかなだ。
でも、混ざるのは、暴の気配。
「想像してごらん。星よりつよく瞬く爆発が、白とも黒ともつかないさまではじけて、緑の水を吹き飛ばすんだ。魚の群れはこれまでのどんなときよりも高く跳んで、どんなときよりも熱く茹でられる」
液体が揺れるようにアシッドマンは笑った。さらりとして、何が入っているかわからないふうに笑っていた。
もうわかる。彼は劇薬だ。魚のかたちに酸を閉じ込めたのが彼だ。
「けれども一匹。たった一匹でも賢い魚がいたのなら、水上荒らしの不届者を馬鹿にして、誰よりも早く、逃げ切ったならば。生き残ったならば……」
「ならば……?」
「爆弾は大層くやしがるだろうねぇ」
アシッドマンの赤い目にちいさな爆光が混ざった。
このひとも逃げているのだなと、わたしは思った。愛しの発破を論うために、己を永遠にするために、だから、逃げ切ろうとしているのだと、おもった。
わたしは利用されている。利用せよとも、言われている。
「お好きなん、ですね」
「ああ。だから飽きられないように必死さ。必死でないふりをするのもな」
脳裏に浮かぶ、魚たちの影。
落ちる爆弾。人生への一撃。緻密な気まぐれ。
きらめきに目を灼かれて、忘れられないなって絶望して、それでももがく。湯掻く。泳ぐ、泳ぐ、泳ぐ一匹の魚! 濁ってもソーダの海。
「さっ、……最高、です」
「だろ」
「でも、最低です」
「違いない」
ブウウウン。音は途切れの無く、だけれども静かに聞こえないところまで吸い込まれていった。わたしはようやく正体を知る。あれは爆発後に地と水の底で生き残った、長い長い地鳴りだったのだ。
「ああ。迎えが来たようだよ」
彼の細長い指がわたしの背後を示す。振り返れば、遠くの兄がこちらへ手を振っているのが見える。
そうだった、わたしは、兄に会いに来たのだ。大学を案内してもらう約束だった。
大学生になる自分が想像できなかった。仕事に就く自分も。歳の離れた兄は心配で声をかけてくれた。
見学中、兄に研究室での用事が入って、だから、待っていたんだ。
「あの、あ、拾ってくれて、ありがとう、ございました、紙」
「散らばりっぱなしにさせてもしょうがないからね。それに半分は渡したこちらのせいでもある」
「ちゃ、い、いいえ……それは……違うのでっ。ほんとうにありがとうございます、本当に」
クロッキー帳をカバンに入れる。何気ない行動でもやけに慎重になる。もう落とさない。落としたくない。このまま抱えて、わたしは。
「アシッドマン、わたし、人間ですけど、あなたみたいな半魚人になりたい」
「ロボットだってば」
御勤品によろしく
きっと逃げ切る。
「──しかも全部手描きアニメーション、ディジタル作品だけどCG未使用! それでここまでダイナミックな爆発を描写してんのスゲーよな。葛飾北斎は神の目でスロービデオがない時代に波飛沫の形を描いたって言うけど、この人にはダイナマイドがどんなふうに見えてんだろ〜な〜」
「緑の海、ハジける魚」
「ね。アンタっぽいでしょ。インタビューでも言ってるんですよ、作者自身が。『モデルになった“先生”がいる』って。しかもお兄さんがアンタんとこの准教授だっていうもんだから」
「はあ、なるほどね。もう五年も経っていたか。そうだな……。花丸をやってもいい。きみにも彼女にもね。確かに良い物をみたよ。はっきり言えば期待以上だ」
わたしきっと絵なんか描かなくたって生きていけるし、星なんか見なくたって歩けるし、全部本気じゃなかったって言って、逃げ切れる。
そうして逃げ切ったら。生き残ったら。
「ロボットと人間が同じ妄想を共有すると、そいつは夢になるらしい」
今度は死んじゃうくらい自由に泳いでみせる。そうしたらあなたたち、どれほど悔しがってくれる?