Find a Way

◼︎あの子──

 竹之内が〔伽〕の常連の彼女たちに最初に榊のことを話した日は、ボックス席ではなくこのカウンターに座っていた。そのとき近場にいた店長にも、新しく来た榊龍時という教師の話題が聞こえていたのだろう。
 左右を彼女たちに陣取られながら、

『新卒で来た先生がいるんですけどもね』

 と彼の存在を語った時のことを回想する──

 竹ちゃんのいる高校って生徒は不良ばっかりで、先生はお爺さんしかいないんでしょ?とその時に確か、黒髪の彼女に言われたはずだ。それを受けて自分は、彼の容姿を語った。

『そうなんですよ、もう喧嘩は日常茶飯事。でね、新しい先生がこれがまた綺麗な人なんですよ、背のすらっとした、色白で顔立ちの端正な……はい、男性のβなんですけど。最初パッと見た時は年配の方かと……いえいえ顔は若い、でも銀髪なんですよ、生まれつきだそうで』

 その子に会ってみたいわ、と赤毛の彼女が興味を示した。

『……その人のそばにいると何故か気分がスッとするといいますか……違います違います、なんかそういう違法な、危ない薬とかじゃあないですって』

 その日の竹之内はすでに酔いが回っていて、いつになくよく喋った。

『体臭ですか?ごく普通の……フレグランス?市販のシャンプーと洗濯用洗剤の匂いくらいですかねえ、普通ですよ。でも、もしあれが香水の類いだったらこれ、すごいことですよ。ご存じありませんか、そういう気配のβの方って……ああ無い。いや、恋愛とかじゃなくて……俺が?そうなのかなあ……』

 好きだからそう感じるのよ、などと左右のどちらかに言われたような気がする。

『そりゃあ好きか嫌いかでいえば、好きですよ』

 榊という若者のことを好きだと明確に意識したのは、おそらくこの時だ。言葉が先か感情が先か、どちらなのか本人もよく分かっていない。

 竹之内は塩味のきいたクラッカーを齧りながら、ちびちびとワインを口にする。
 後方からは彼女たちの、また振られたとか、会わせたい子がいるとかそんな声が聞こえる。ここからでも意識すれば結構、会話の内容が分かるものだ。ならば店長も先程の話を耳にしていたことだろう。
「マスターも体臭でその人がどんな人間かなんて分かります?」
 初めて話しかけてみた。無愛想な男とはいえ客商売なのだから、まさか無視されるなんてことはないだろう。
「ええ、分かります。αとΩなら」
「βはどうですか」
「あまり、会ったことがありません」
 この男も彼女らと同じく、一般大衆の生活には無縁ということか。駐車場のあの黒い車の所有者はやはり、この店長なのかもしれない。 
「αでも我々のような、いや失礼、俺のような庶民的な生活をしている人は結構おりましてね。建築関係の人とか、なんでか不思議とわかっちゃいますよ。あれって仕事で使ってる木材や職場自体のにおいなんですかね。それと血気が盛んというか、喧嘩っ早い人などもねえ、ヤンキーっていうんですか」
「その人物の経験と……」
「経験というと、やはり普段から身の回りにある道具や消耗品の類ですかねえ」
「”おもい”のにおいで、それと知れるものでしょう」
「思い?」
「人間はいろいろ”おもい”ますから、それで」
「そ、れは……好きとか嫌いとかそういう感情、思いが、匂うってことですか」
「ええ」
 店長は、当然のことだ、とでも言うように浅く頷く。
「た、確かに疲れた時などは体臭が変化します。疲労時は身体から嫌な臭いがするといいますが、しかしそれは、疲労により体内で分解しきれなかったアンモニアが皮膚から放出されるからであって……疲れたっていう感情自体が香りの成分を分泌しているわけでは……」
 やや興奮気味なていで否定する竹之内に対して、目の前の男は少しばかり首を傾げた。分厚い前髪がほんの少し揺らいで、緑を秘めた琥珀色の瞳が覗く。年齢にそぐわぬ、純粋な幼児のような仕草に不安を掻き立てられる。
 この男は嘘や冗談で言ったのではない。本気で「そういうもの」だと信じ、その世界に意識を置いて生きている人間だと竹之内は直感した。
「あー、まあねえ……そういうことも、あるかもしれませんなあ」
 こういう奴らに対して一般常識だの科学だのを持ち出して対話をしても、こちらが消耗するだけだ。否定も肯定もせず曖昧にぼかして距離をとることにした。
「あなたも」
「はい?」
 適当に躱したつもりだったが、まだ何かあるのだろうか。
「あの子が、好きでしょう?」

 あの子──榊先生。

「みんな好きみたいで……」
 困るんですよ、と言ったその男の表情は複雑で怪奇に歪んでいた。こんなふうに顔を歪める人間を、竹之内はこれまで目にしたことがない。
 数十年間溜め込んだ喜怒哀楽を全部ごちゃ混ぜにしたような顔は、人外じみていて恐ろしかった。
 見ちゃいけないものを見てしまった気分だ。
 ボックス席の彼女たちが帰り支度を始めた。雇いの運転手が来たのだろう。
 竹之内もその波に乗って帰ることにした。急いでグラスに残ったワインとクラッカーをかっ込む。これくらい一口だ。
 彼女たちのブラックカードの後に、竹之内は丸っこい熊のイラストが描かれたデビットカードで支払いを済ませた。
「あ、そうだ、新しいボトルキープお願いね」
 どちらかの女性が店主に頼んでいる。
「じゃあまた来るわね、サナギさん」
 その呼びかけに軽く一礼した店主に見送られて、三人は店を後にした。
 
 へえ、あの店長サナギってんだ。
 この辺じゃ聞いたことがないな。
 珍しい苗字か、それとも名前か──いや、あだ名かも。
 なんたって自分は、竹ちゃんだものな。
 どこへ行っても。

 竹之内は細い裏路地を、彼女たちと同じ駐車場方面へは行かなかった。
 反対側の飲み屋の立ち並ぶ通りへ出る。
 赤提灯の掛かったおでん屋の、煤けた暖簾をくぐる。
「いらっしゃい、あれまぁ、竹ちゃん」
 割烹着の年老いた女将が親しげに名を呼ぶ。
 店自体に染みついた酒と煮物と、昭和から続く古びた時代の香り。
 心休まるあたたかい庶民の雰囲気。
 慣れ親しんだ世俗の匂いは〔伽〕での時間を早急に遠ざけ、安らぎを与えてくれる。

 それにしても、ああ、怖かったなあ。
 人のものならぬ、人の顔。

 記憶を清めるように日本酒をあおる竹之内だった。
 
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