髭切先輩と膝丸くんとバレンタイン

* * *

 二月の頭のことだ。学期末試験が終わり、私は髭切先輩と膝丸くんと一緒に民俗学研究会の部室でとりとめもない話に花を咲かせていた。
 これから三月の末まで長い春休みがやってくる。
 ──でも、その前に。

「あのね……実は二人に相談があって……」

 私は重い口を開いた。これは彼らの友人として絶対に回避できないイベントだった。

「改まって、どうしたの?」
「俺たちにできることがあるなら何でも頼ってほしい」

 真面目な態度で、真剣に私の話を聞こうとしてくれる姿勢の二人には本当に申し訳なく思っている。

「……バレンタインのことなんだ」

 そう、この日本で長らく続く如月の伝統行事。女性から親しい男性にチョコレートを送るイベントだ。
 二人はますます真剣な顔で、なおかつ身を乗り出して私の話に耳を傾けている。

「あの……お、お金がなくて……」

 恥ずかしい話だが事実だった。
 一人暮らしのカツカツ極貧生活で、夏には引っ越しも行った私にはとにかくお金がなかった。

「そんなのいいんだよ。気にしないで」
「兄者の言う通りだ。君は自分の生活を一番に考えるべきだ」
「本当にごめんなさい。その、手作りも考えたんだけど、一人暮らしだとお菓子作る道具もなくて、ほんと、溶かして丸めるぐらいしか……!」
「むしろ十分すぎるんだが!?」

 立ち上がって声を大きくする膝丸くんに私は首を振る。
 この美男子兄弟は、きっと毎年大量に手作りから既製品まで女子の気合の入りまくったチョコをもらっているに違いない。駄菓子だとか、溶かして丸めただけのチョコなんてとてもじゃないが渡せない。

「なので、今年のバレンタインは……」

 ゴクリ、と二人が唾を飲み込んだ。

「……みんなで集まってチョコフォンデュパーティーしませんか?」

* * *

「いやあ、バレンタイン中止のお知らせだと思ってどきどきしたよ」

 ニコニコ顔でフォンデュ鍋に火を入れたのは髭切先輩だ。
 細かく刻んだチョコが徐々に鍋の中で溶けていって、部屋に甘い良い匂いが漂い始める。
 当初は私の部屋で開催する予定だったのが、参加人数が予想外に多かったので、髭切先輩と膝丸くんが彼らの家を会場として提供してくれたのだ。
 フォンデュ鍋は私が友達から借りたもので、チョコレートも予算と相談しながら専門店でそれなりのものを吟味して買ってきた。あとは参加する各々が好きな具材を持ち寄ることになっている。

「俺たちはクラッカーを用意した」
「あとはバナナとかキウイだね」

 チョコフォンデュの具材として定番である塩味の強いクラッカーと、一口大に切られたフルーツがお皿に盛られている。

「私は、チョコとお鍋だけだとあれなので、パイを焼いてきたよ」

 一人暮らしの家の設備だけで何か生み出せないか考えた結果、トースターでパイが焼けると閃いた。チョコフォンデュ用なのでパイ自体に特に手を加えてはいないけど、バレンタインだしそれっぽくハート型を使ってみた。膝丸くんが私が持ってきた一口サイズのパイを一緒にお皿の上に並べてくれる。
 準備している間に参加者がやってきたようだ。ドアホンが鳴る音が響いて、髭切先輩が玄関まで出迎えに行く。

「おーっす! 獅子王見参!」

 外の寒さに負けない声で元気いっぱいに現れたのは獅子王くんだ。膝丸くんが通っている居合道の稽古場には剣道場も併設されていて、そこの門下生である彼は現在高校二年生。膝丸くんを通して紹介してもらって、夏の引越しの時に荷運びを手伝ってもらった経緯がある。

「はい。ポテチな」

 獅子王くんがテーブルの上にぽんと放ったのは分厚めにカットされたタイプのポテトチップスの袋だった。

「ほら、チョコがけポテチとかあるだろ? いけるんじゃないかなって。あとそのまま食ってもうまい。甘いもんばっかだと飽きるし」
「早くも食べようとするな。まだ全員揃っていない」

 さっそくお菓子の袋を開けようとした獅子王君を膝丸くんが制す。
 唇を尖らせてむくれる獅子王くんが可愛くて笑っていると、どんどん参加者がやってきたみたいで、玄関の辺りが騒がしい。

「お邪魔しまーす!」

 口々にそう言って現れたのは、近所の中学校に通う弓道部の男の子たちだ。髭切先輩と膝丸くんの知り合いだそうで、この一年の間で縁あって仲良くなった子たちだった。

「あっ、もう火をつけてるんですね。お部屋から甘い良い匂いがしてます。ボクはマシュマロを持ってきたんですよー! はい、どうぞ!」

 フワフワ真っ白なマシュマロを差し出したのは物吉くん。チョコフォンデュには絶対外せない。

「俺はアイス! チョコ上にかけたら美味しいかなって!」
「私はバゲットを持ってきました」

 業務用の特大アイスのパックを持ってきた浦島くんに、紙袋に包まれたバゲットを用意してくれた篭手切くん。
 冷たいアイスの上にあったかいとろとろチョコを流すところを想像すると、口に入る前からほっぺたが落ちそうになる。バゲットはカリカリに焼いて、その触感を楽しみたいやつだ。

「じゃーん! 俺たちはたこ焼き器を持ってきましたー!」
「ホットケーキミックスもある」

 変化球を投げてきたのは鯰尾くんと骨喰くんだ。たこ焼き器でホットケーキを焼いて、それをチョコフォンデュにつけて食べようということらしい。
 みんなが持ってきてくれた個性豊かなお菓子たちにうきうきしていると、また一人、新たな参加者がやってきた。

「お邪魔します。たくさん集まってるね」
「桑名さん!」

 篭手切くんが嬉しそうな声を上げた。
 桑名くんは篭手切くんの親戚で、他大学の農学部に通う一年生だ。実家が農家で、彼自身も土いじりを得意としている。時折、家庭菜園をしている髭切先輩にアドバイスをしたり、苗を分けたりして交流がある。
 彼とは髭切先輩の紹介で知り合って、引越しの際に農作業用のトラックを出して私の荷物を運ぶ手伝いをしてくれた時からの付き合いだ。

「何を持ってくるか色々考えたんだけど、チョコにはやっぱりこれかなって」

 桑名くんが取り出したものを見て、一同からどよめきが上がる。

「はい、いちご。うちのビニールハウスで採れたやつだよ」
「神……」
「神だ……」

 チョコフォンデュに絶対合うと分かっている。でも人数分用意しようと思うとちょっと値段的に躊躇してしまう、苺だった。今回のMVPは間違いなく桑名くんだろう。
 みんなで桑名くんを崇め奉っているうちに、もう一組お客さんがやってきたようだ。

「髭切、膝丸はいるか! 邪魔するぞ!」
「お邪魔します」

 大包平さんと石切丸さんだった。大包平さんは以前お世話になったお巡りさんで、石切丸さんは近所の神社で神主を務めている。
 テーブルの上に並べられたお菓子やフルーツの数々を見て、石切丸さんが「随分賑やかだね」と笑った。
 大包平さんが鞄からタッパーを取り出し、石切丸さんは長細い箱をテーブルに置く。

「俺は薩摩芋だ。茹でてある」
「私はカステラにしてみたよ」
「どれも美味しそうだね」

 大包平さんと石切丸さんが持ってきたものを見て髭切先輩が笑う。
 もう十分すぎるくらいにチョコフォンデュの具材は集まったけど、まだ揃っていない人がいる。

「huhuhuhu……」

 どこからともなく怪しげな笑い声が聞こえてきた。姿はなくともその笑い声だけで誰か分かる。村正店長に違いない。
 振り返ったそこにいたのは予想通り、私のバイト先でもある喫茶店の店長……村正さんと、同僚の小竜さんだ。

「huhuhuhu……甘いものはもう十分でショウ。ワタシからはホットサンドの差し入れデス。トースターで温めて食べてください」

 店長が経営する喫茶店で好評を博しているハムチーズのホットサンドだ。温めるとチーズがトロトロに溶けて、分厚めのハムとの相性が最高なんだよなぁ。

「俺はナッツ類とか……あとは飲み物だね」

 小竜さんがナッツのアソートと、ペットボトル飲料を次々に取り出した。それを用意しておいた紙コップに入れて、みんなに回す。
 飲み物が全員に行き渡ったところで、私が乾杯の音頭をとることになった。

「みんな、今日のために色々用意してくれてありがとうございます。本来なら、バレンタインということで私が一人一人にチョコを配ってお礼を言いたかったんですが、ええと、恥ずかしながら先立つものがなく……」

 みんなから小さく笑い声が漏れる。すみません、本当にお金がないんです……。

「会場を貸してくれた髭切先輩と膝丸くんにも、感謝の気持ちでいっぱいです」
「いやいや、とんでもない。こうしてみんなで集まれて良かったよ」
「会場の提供くらいどうということはない」

 髭切先輩と膝丸くんの言葉に私は感謝を込めて頷いた。本当に二人には頭が上がらない。

「……それじゃあ、今日は楽しんでいってください。ハッピーバレンタイン! 乾杯!」
「かんぱーい!」

* * *

 パーティーが始まった。各々好きな具材を手に取って、チョコフォンデュを楽しんでいる。
 小竜さんが持ってきた飲み物の中には、ブランデーやウイスキーなんかのチョコに合いそうなお酒も混じっていて、それを見た獅子王くんが呆れたみたいに溜息を吐いた。

「ちゃっかり酒持ってきてる……」
「お子様はジュースでも飲んでな」

 挑発的な小竜さんの言葉に、獅子王くんは「俺平安の生まれなのに!」とよく分からないことを言う。

「明るいうちから飲むお酒は贅沢だけど、たまにはいいものだね。髭切さんはもうこっち側かな?」
「うんうん。最近になって知ったんだけど、洋酒もなかなか美味しいよねぇ」

 石切丸さんの問いに髭切先輩が頷いた。先輩は飲める口なのか。私や膝丸くんとご飯に行く時はこちらに合わせてくれていたのか、アルコール類を頼んだところを見たことがなかった。一つしか年齢は離れていないはずなのに、なんだかお酒が飲めるというだけでやけに髭切先輩が大人びて見える。
 私が羨望の眼差しで見つめていることに気付いた小竜さんが薄く笑って、

「キミは来年一緒に飲もうか。良いお店を知ってるんだ」
「ぜひお願いします。楽しみにしてます!」

 小竜さんが知っているお店って、絶対洒落てるんだろうなぁ。

「村正店長も! 私が飲めるようになったら行きましょうね」

 私がそう言うと、普段から常に含みのある笑みを浮かべている村正店長が、珍しく虚を突かれたみたいな顔をする。

「来年の約束デスか? それは……この先もうちで働いてくださるということデスか」
「もちろんです! ……いえ、あの、まだコーヒー淹れるの下手だし、全然戦力になってないかもしれないですけど、雇ってくださるなら」
「そんなに自分を卑下することはありませんよ。いつも助かってマス。そうですね……こういう約束ができるというのは、とても嬉しいことデスね」

 村正店長のしみじみとした言葉にみんな一斉にうんうん頷いた。

* * *

 散々飲み食いしてお喋りしながらチョコフォンデュをつついていたけど、段々、みんなが手を伸ばすのが獅子王くんのポテトチップスだとか村正店長のサンドイッチになってきた辺りで私は察した。みんな主催の私に遠慮して口にすることはないけど、これ絶対味に飽きてきたやつだ。

「……チョコ、飽きちゃったね?」
「それ言わないようにしてたのになぁ」

 のんびりした桑名くんの返事に私は苦笑した。やっぱり飽きてたみたいだ。
 お八つ時から始まったチョコフォンデュパーティだけど、そろそろ窓の外も暗くなってきた。

「用意してた材料も少なくなってきたし、今日はこれで……」

 私がそう言いかけると、鯰尾くんから「ええーっ」と不満げな声が上がった。

「この後何か用事あるのか? ……もう少し一緒にいては駄目だろうか」

 鯰尾くんに続いて骨喰くんからそんな声が上がる。普段口数の少ない彼からそんな言葉が出てきたことに私は驚いた。

「私は大丈夫だよ。でもほら、そろそろ暗くなってきたし家の人が心配するんじゃ……」
「あ、それは大包平さんが連絡してくれるんで大丈夫です!」
「は!? ……まあそれくらいは構わんが……」

 いきなり鯰尾くんに指名された大包平さんが、驚きつつも携帯を取り出した。確かに知り合いのお巡りさんに言われたら親御さんも安心だろう。

「せっかくこんなに集まったんだからここで解散なんて勿体無いですよ! ホラ、甘いものの後はしょっぱいものってことでたこパしません? ちょうどたこ焼き機もありますし」
「この人数だと一回で食べられるの一人一個ずつとかだね」
「みんながお腹いっぱいになるまで何回でも焼けばいいんだよ!」

 浦島くんはたこパに乗り気だ。他の人からも異論は出ない。膝丸くんが冷蔵庫の中を確認しに行く。

「たこ焼きをするなら材料が足りないが」
「材料費は私が持つから、配送サービスを頼もうか」
「石切丸さん、ありがとう。えーっと、この近くのスーパーは……」

 篭手切くんが携帯で近くのスーパーを検索する。が、途中でその手が止まった。

「オンラインのシステムメンテナンス中みたいだ。宅配が使えない」
「もう直接買いに行った方が早いんじゃない?」

 浦島くんの言葉に、鯰尾くんから「この寒空にあったかい部屋から出るの嫌だよー!」と不平の声が上がる。

「じゃあここは公平にじゃんけんで決めませんか?」

笑顔の物吉くんの提案に、一瞬部屋の空気が固まる。
物吉くんは幸運の申し子である。彼がじゃんけんに負けることなどあるはずがない。
けれど結局良い方法も思いつかず、みんなでじゃんけんをすることになり、そして……。

* * *

 ──私、髭切先輩、膝丸くんがじゃんけんに負けた。

「まさか民俗学研究会の部員が三人揃って負けるとはねぇ」
「全くだ。……しかし、今夜は冷えるな。俺と兄者で行けるから君は中で待っていても良かったんだぞ」
「ううん、元はバレンタインの集まりだったし、私が主催だもん。私が行くよ」

 私たちは髭切先輩と膝丸くんの家を出て、寒空の下をスーパーへ向けて歩く。その時、ポケットに入れていた私の携帯が着信を知らせた。

「あ、吉行からだ」

 画面を確認した私がそう呟くと、髭切先輩と膝丸くんがジェスチャーで私に電話へ出るよう促した。その厚意に甘えて私は通話ボタンを押す。

「もしもし?」
「もしもし、姉やん? チョコ届いたぜよ! ありがとう。勉強の合間に食べちゅうよ」
「どう? 美味しかった?」

 私の問いに元気よく肯定の返事が返ってくる。吉行には郵送でチョコを送ったので、そのお礼の電話だったようだ。
 こっちでは髭切先輩や膝丸くんたちとチョコフォンデュをしたのだと伝えると、吉行からみんなで撮った写真を送ってほしいと頼まれた。

「吉行の知らない人もいるよ?」
「ええんじゃ! 姉やんがどんな人らと仲良うしとるのか気になるし……それにわしは人が楽しそうにしとる所を見るんが好きやき」

 写真はさっきみんなで一緒に何枚も撮ったけど、勝手に他人に送るのはまずいよなぁ。

「じゃあ、みんなに一度断りを入れてから吉行に送るね」
「おう! 待っちゅうよー」

 通話を終えると、髭切先輩が「写真を頼まれたの?」とニコニコしながら聞いてきたので、私は頷いた。

「僕たちの分は送っても大丈夫だよね。ね?」
「ああ」
「あ、じゃあお言葉に甘えて」

 私は携帯で二人を撮る。今撮るのか、と苦笑する膝丸くんをよそに、「買い出しに行く髭切先輩と膝丸くん」と添えて吉行の携帯に送った。それを笑顔で見守っていた髭切先輩が、突然私の携帯を取り上げた。

「はい、君はここ。弟はここで僕はここ。撮るよー」

 立ち位置を指定した髭切先輩は、私の携帯で自撮りする。

「それ、吉行くんに送ってあげて。きっと君が入ってる方が嬉しいよ」

 私に携帯を返して、髭切先輩はそう言って笑った。
 本当に私が吉行に送るまで携帯の画面を髭切先輩がガン見しているので、私は苦笑いしながら追加の一枚を送った。
 今日撮った写真を見返しながら、自然と笑顔になる。

「なんだか懐かしいなぁ」
「懐かしい?」

 膝丸くんの問いに私は頷く。

「あんなに大勢で集まってワイワイ騒ぐの。懐かしいなぁって……」

 言ってから、私にそんな大勢で集まって遊んだような記憶なんてあっただろうか、とふと疑問に思う。
 髭切先輩と膝丸くんは、ただ黙ってその顔に笑顔を浮かべていた。

「……ほら、いつまでも立ち止まっていないで早く買い出しに行こう。風邪を引くぞ」
「うん」

 膝丸くんに急かされて、私は携帯をポケットにしまった。

 三人で寒い寒いと言い合いながら(主に言ってたのは私と髭切先輩だけど)、冬空の下を急ぐ。
 ──大学一年生、バレンタインデーの思い出だ。

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