3.その、手の温度は
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* * *
ぐちゃ、とこのみの足元で柔らかい何かが潰れるような音がした。
「ひいいいい!!バージルさん、な、何か踏みました!!」
引きつるような悲鳴を上げて、このみはバージルの腕にしがみついてくる。
不思議と鬱陶しく思う事はなく、ひたすら慌てる彼女が愉快ですらあって、バージルは少しからかってやろうと思った。
「これは……何かの肉片か、内臓のようだな」
「ひえっ」
「まあ今のは冗談だが」
「ええ……」
「魔界に群生する果実の一種のようだ」
バージルは足元にいくつか落ちている、熟れすぎた柿のような果実を拾い上げる。
押すと柔らかく、中から果汁が滴ってくる。
「バージルさん!こんな時に、そんな冗談なんて!からかうなんて!ひどい!ひどいです!笑えないです!ぜんぜん面白くないです!」
「そうか。俺にはジョークの才能はなかったようだ」
頭から湯気を出しそうな勢いで怒るこのみに、バージルは口の端に笑みを浮かべながら言う。
このみはしばらくバージルをなじっていたが、やがて語彙が尽きたのか大人しくなった。
バージルの手の中にある果実の匂いを嗅いで、尋ねる。
「このくだもの……食べられますか?」
「……毒はないようだ。食用に問題なさそうだが……お前は食べない方がいい。戻れなくなる」
魔界にある果実。
半魔であるバージルであれば大丈夫なものでも、このみのような人間が口にすれば、人界に戻れなくなる。
「……よもつへぐいっていうやつですね」
このみは何か思うところがあるのか、そう呟いたきり静かになった。
果実は辺りに生い茂る木に生っている。
腕を伸ばしてバージルはそれをいくつかもぎ取り、自分用に確保した。
これでしばらくはしのげるとして、問題はこのみの食料だ。
すぐに人界への道が見つかればいいが、もしそれが難しいようであれば、このみの目的は変わってくる。
せめて飲料水は確保しなければ、この魔界で長期間耐えるのは難しい。
かと言って、この魔界で人間が飲めるような水などそうそうあるわけない。
バージルが考えながら歩いていたその時、一歩足を踏み入れた先で悪魔特有の臭気が濃くなる。
このみも何か感じ取ったのか、鼻を押さえて辺りに首を巡らせている。
「悪魔……近くにいます?」
「身を隠しているようだが……臭いで判別できる。右前方300mといったところか」
傷ついた閻魔刀と、このみというお荷物がある上で無闇矢鱈に戦闘はしたくないので、バージルはなるべく敵との邂逅を避けていた。
今回も迂回しようとして、このみを連れて徐々に後退する。
以前ならば、悪魔を前にして逃げるなんて事は考えられないことだったが、このみに出会ったことで自らの心境に変化が生じたらしい。
あと少しで果実のなる木の群生地を抜けるというところで、背後から急速に禍々しい気配が迫ってきた。
「……気付かれたか」
バージルはすぐさま足を止め、逃走を断念した。
目の見えないこのみだけを先に逃すのは難しい。
ならば、いっそこの場で迎え撃った方がいいと考えての判断だった。
「このみ、その辺りで屈んでいろ。不用意に動くな」
「は、はい……」
指示に従って、このみはその場でしゃがみこんだ。
バージルが自分用に取っておいた果物をこのみに押し付ける。
バージルは自らの魔力を練り上げ、幻影剣と呼ばれる青白く光る剣を空中に生み出し、このみの周囲に展開させた。
このみを守るように、幻影剣は彼女の周りを円陣を組んでまわる。
それを確認したバージルは、その場にこのみを置いて悪魔の元へ走り出した。
フォースエッジもベオウルフもない今、バージルが扱えるのは亀裂の入った閻魔刀と、幻影剣のみだ。
閻魔刀はあまり用いたくないので、バージルは先手必勝とばかりに幻影剣を悪魔の方へ向かって飛ばした。
木々に阻まれて姿までは見えなかったが、呻くような鳴き声が辺りにこだました。
何かが落ちるような重たい音と、地響きがバージルに伝わる。
どうやら幻影剣は命中したようだ。
バージルは敵に命中した幻影剣に向かって、瞬間的に移動する。
エアトリックと呼ばれる、幻影剣と組み合わせてバージルが独自に編み出した技だ。
敵の頭上に現れたバージルは、一瞬の邂逅の間に悪魔を視認する。
サメやクジラに似た、巨大な魚のような悪魔だった。
テメンニグルにいたリヴァイアサンよりはだいぶ小さいが、それでも家一軒丸呑みできそうな大きさを誇っている。
バージルは更に幻影剣を複数出現させ、それを悪魔の目に向かって射出した。
それを全弾受けた悪魔は、鋭い鳴き声を上げながら身を踊らせる。
尾びれがバージルを襲うが、彼は跳躍して難なくそれを回避し、その間も幻影剣で悪魔に攻撃を続ける。
痛手を負った悪魔は身をくねらせ、その場から逃げ去ろうとする。
とどめを刺すためにバージルはそれを追おうとするが、目が見えないこのみを残していることを思い出して踏みとどまった。
逃げる背に向かって幻影剣を打ち込むが、やがてその姿も見えなくなり、バージルは思わず舌打ちする。
……本当に、面倒だ。
面倒なのに、彼女を厭う気持ちになれないのは、何故だろう。
別に助けてくれと頼んだ覚えはない。
このみが勝手にバージルを助けて視力を失っただけだ。
けれど、先程果実を踏んで驚き、バージルに縋り付いてきた時のように、盲目のこのみが魔界で頼れるのは自分しかいない。
視力を失うことになった原因はバージルにあるのに、彼女がバージルを信頼しているというその状況と、彼女との他愛ないやりとりが、なぜか嫌ではないのだ。
打算を抜きにして、バージルが誰かと行動を共にするなんてことは、以前は考えられなかったのに。
胸の内側がもやもやする。
バージルは己の胸に手を当てて、その不思議な感覚に首を傾げた。
しばらくそうした後、バージルはこのみを迎えに行くために踵を返した。
言いつけ通り屈んで小さくなっていたこのみは、バージルの足音を聞きつけてビクリと肩を揺らした。
バージルはこのみの周囲に展開していた幻影剣を消す。
「……俺だ」
短くそう言うと、このみはほっとして、その顔に笑みを浮かべた。
「良かった、無事だったんですね。怪我してないですか?」
このみの言葉に、バージルは面食らう。
何故このみ自身ではなく、バージルの心配をするのか理解不能だ。
「……俺があの程度の悪魔に遅れをとるわけがない」
「でも、バージルさんもまだ万全の状態じゃないし、閻魔刀も傷がついてるって言ってたから」
「お前に心配されるほど落ちぶれたつもりはないが」
無愛想なバージルの言葉にも、このみは笑っている。
何故笑うのか、バージルには分からない。
「ただ、深手は負わせたがとどめはさせなかった。……逃げられた」
「もしかして、わたしがいるから戻ってきてくれたんですか?」
このみにそう尋ねられ、バージルは一瞬口ごもる。
事実を指摘され、ひどくいたたまれない気持ちになって、とっさに否定の言葉を吐き出す。
「……はぁ?何を、馬鹿なことを言っている。思い上がりも甚だしいな」
「バージルさんは、どうしてわたしを助けてくれるんですか?」
──そんなの、そんなもの、バージル自身が一番尋ねたい。
白灰色に濁った瞳が、バージルの方を見つめる。
彼女は目が見えないはずなのに、心の内側を覗かれているような感覚がして、落ち着かなかった。
このみに借りを返すだけ。
悪魔に母を殺された無力な自分を、思い出したくないだけ。
それだけだ、それだけのはずなのに。
「……俺がどうしようと、俺の勝手だ」
結局、そんな言葉しか出てこなかった。
* * *
バージルと共に歩きながら、カツカツとこのみは足元を木の枝で叩く。
林で、杖代わりの枝を見つけたのだとこのみは言う。
このみは両手にその杖を載せて、得意げにバージルにそれを見せてくる。
「これ、歩くのにちょうど良くないですか?」
「……おい、血が出ているぞ」
このみの手のひらに血が滲んでいた。
「ちょっとささくれ立ってたみたいですね。でもこれくらいならすぐ治るので大丈夫です」
そう言っている間に、このみの手のひらについた傷は塞がっていく。
このみは手のひらを何回か握り込んで痛くないことを確認し、再び杖を握ろうとする。
その杖を、バージルが取り上げた。
「また傷ができるだろうが。貸せ」
バージルはその場に腰を下ろし、鞘から閻魔刀を抜いて、ささくれ立った木の枝を削る。
閻魔刀で木の枝を削るなんて初めてのことだ。
ささくれを削り切り、手で持ってみたが握り心地がいいとは言えない。
ヤスリがあれば良かったが、生憎そんなものあるはずない。
「このみ、俺に巻いていた布があっただろう。まだ残っているか」
「鞄の中に、少し」
そう言ってこのみは鞄を探るが、目当てのものは中々見つからないようだ。
バージルはこのみから奪うようにして鞄を受け取り、中を探る。
その時、中に赤い液体を入れた小瓶があるのを見つけた。
中身は、恐らく血液だろう。
その液体から、弟の──ダンテの魔力が感じられる。
バージルは、このみがどうやってダンテの魔力を取り込んでいたのかを悟った。
彼女から、ダンテの血のにおいがする理由も。
何故か、ひどく苛立つ。
バージルはその瓶を強く握り込み、鞄には戻さずに自らの懐にしまい込んだ。
鞄から布を見つけたバージルは、それを細く裂いて杖の持ち手部分に巻き付けた。
これで手のひらを傷つけることはないだろう。
「できたぞ」
「ありがとうございます!」
素直に礼を述べるこのみに、バージルは居心地悪いのを紛らすように鼻をならす。
作り直した杖を手に、バージルとこのみは再び歩き出した。
幻影剣で襲い来る悪魔を退けながら、バージルはテメンニグルと繋がっていた場所を目指す。
空中に浮かぶようにして時折存在する鏡が、魔界と魔界の別々の空間同士を繋いでいるのだ。
目の見えないこのみのためにそれを解説してやると、彼女はひどく驚いたようだった。
「わたし、鏡を通って異世界からこの世界へやってきたんです。やっぱり、鏡には不思議な力があるんですね」
バージルは、テメンニグルにアーカムが持ち込んだ大鏡のことを思い出した。
あの時は気にも留めていなかったが、そういえばアーカムはあの鏡は異世界同士を繋げうる力を秘めているというようなことを言っていた。
もしバージルの予想通りであれば、アーカムの言葉は誠だったのだ。
バージルとこのみは、不浄なる地獄の門と呼ばれる、魔界の入り口へとやってきた。
テメンニグルの最頂部と繋がっていたはずのその空間だが、もはや人界への道は失われていた。
沈黙したままのバージルに向かって、このみが問う。
「……人間界への道、やっぱりもう閉じてますか?」
「……ああ」
肯定するバージルに、このみは落胆するような顔を作る。
そんなこのみの顔を見て、バージルの胸の内側がモヤモヤする。
また、これだ。
再び味わうその感覚に首を傾げたその時、突然矢のようなものがバージル達に向かって飛んできて、バージルは思わずこのみを庇う。
「ちっ……」
「バージルさん!?」
矢はバージルの脇を掠め、火傷のような鋭い痛みが走り、バージルは舌打ちした。
バージルは振り返ると同時に矢を放ってきた悪魔に幻影剣を放つ。
幻影剣はその体躯を正確に貫き、悪魔は鋭い鳴き声を上げて消滅した。
どうやらバージルの索敵外の距離から攻撃されたようだ。
「バージルさん、怪我したんですか!?」
「掠めただけだ。問題ない。傷ももう塞がった」
「ごめんなさい、わたしを庇ってくれたんですよね?」
「…………」
このみの問いをバージルは無視する。
「……人間界の道が既に閉ざされている今、ここにはもう用はない。いくぞ」
バージルがこのみの腕を取って歩き出そうとすると、彼女はその場に踏み止まった。
「ま、待ってください!」
バージルに静止の声を投げかけたこのみは、しばらく何か考えるように俯いたあと、何かを決意したかのように顔を上げた。
「バージルさん、ここまでありがとうございました。後は自分でなんとかするので、もう大丈夫です」
その言葉に、バージルは驚きで目を見開く。
「目が見えないのに、一人でどうするつもりだ。人界に戻るのを諦めたのか?」
「諦めてません。杖があるから見えなくても歩けます。悪魔の場所も臭いでなんとなく分かります。もし悪魔に出会っても、鞄の中には聖水があるので何とかします」
「その目で1日と生き残れるほど、魔界は生易しいところではない。先程のように遠距離から攻撃を仕掛ける悪魔もいる」
何故、このみを引き止めるようなことを言うのか、バージル自身もよく分からなくて混乱する。
このみというお荷物を体良く厄介払いできる、いい機会だというのは分かっているのに。
恐らく、先程バージルがこのみを庇って傷を負ったことに責任を感じているのだろうということは理解している。
理解はするが、納得がいかない。
「……先程悪魔に攻撃を受けたのは、距離があったとはいえ気付かなかった俺の落ち度だ。お前が責任を感じるのは筋違いだ」
「……でも」
「遠慮は日本人の美徳か?確かにそういう面もあるかもしれないが、時と場合によるだろう。魔界で、その目で一人で行動するのは愚かだとしか言いようがない」
「でも、でも……バージルさんに迷惑が……」
尚も折れようとしないこのみに、バージルの怒りが頂点に達した。
自分から距離を置こうとするこのみがひどく腹立たしくて、声を荒らげて恫喝する。
「俺がいつ、お前と行動するのが嫌だと言った!!」
今まで生きてきた中で、恐らく一番大きい声を出したような気がする。
言った自分自身でさえ、その声の大きさに驚いたほどだ。
このみはバージルの剣幕に萎縮し、顔を青ざめて身を小さくした。
その様子に我を取り戻したバージルは、一つ息をついて気を鎮める。
「……俺を魔帝の下から連れ出し、傷を治した時点でそもそも余計な世話だし良い迷惑だったんだ。
お前が俺に恩を押し売ったのだから、それを返さずにいるのは俺の沽券に関わるだろう」
「わ、わたしは、別に見返りがほしくてバージルさんを助けたんじゃありません……!」
「くどいぞ。お前がどう思うかなんて関係ない。これは、俺の矜持の問題だ」
このみは何とか言い返そうと口を開けるが、結局言葉にはならなかったようだ。
唇を噛み締めて、俯く。
今、バージルが言ったのは本心だ。
けれど、本質は違うところにあるような気がする。
それをうまく、言葉に表すことはできないけれど。
未だ顔を上げないこのみを見て、その顔を、このみ自身を、すくい上げたい衝動に駆られる。
悪魔の標的になれば、簡単に潰えてしまうその命。
「このみ、俺を……」
俺を頼れ、と言いかけて、バージルは慌てて言葉を飲み込んだ。
これでは、まるで自分がこのみと一緒にいたがっているように聞こえる。
「……俺を、利用しろ。俺の本意だったわけではないが……お前は、俺を助けたのだから。お前にはその権利がある」
このみはようやく顔を上げた。
今にも泣きそうな顔で、色のない瞳を空中に泳がせている。
「……お前を元の世界線へ戻すのに、多くの人間が協力したのだろう?それをむざむざ無に帰すような真似をするのは、それこそ恩を仇で返すことにならないのか?
最善の策を選べ。お前が取るべき行動はひとつだ」
人間の肩を持つようなことを言うのは非常に癪ではあったけれど、恐らくこのみに一番効くのはこの言葉だ。
──人間。
バージルが口にしたその言葉の中にはダンテもいるだろうことは想像に難くない。
それはとても不愉快ではあったが、このみを説得するためには仕方のないことだった。
「……そう、ですね。そうでした。バージルさんの言う通りです。わたしは……もとの、もとの世界に帰らなきゃ……」
玉のような、涙がこぼれる。
色のない瞳から、無色透明な雫が頬を伝って流れ落ちる。
誰を思って、何のためにこのみは泣くのだろう。
彼女の心の底にいるのは、弟だろうか。
多分、そうなんだろう。
胸の奥が、またジクジクとした痛みに襲われる。
それでも、今のバージルの言葉で、このみが共に行こうと思ってくれるのならそれで良かった。
このみの泣き顔を見るのは嫌だった。
魔帝にやられ、瀕死だった自分の顔を覗き込み、涙を零す青い瞳を思い出すから。
あの時のこのみの涙は、バージルに向けられたものだ。
誰かが自分を思って涙を流すなんて、ひどく居心地が悪い。
──だから、このみを腕の中に閉じ込めて、その顔を自らの胸に押し付けた。
はずみでこのみの手から杖がこぼれ落ちる。
「……俺は、涙の止め方など知らん。勝手に泣き止め」
「……でも、胸は貸してくれるんですね」
「生憎と濡れた顔を拭くものがなくてな。不服か?」
「いえ、ありがとうございます」
このみはバージルの胸に両手をついて、コートをぎゅっと握りしめた。
元々ボロボロのコートだ。
皺ができるのも、このみの涙で湿るのも気にならなかった。
最初はそのぬるい雫を不快に思ったこともあったけれど、自分の中で何がどう変わったというのか。
けれどその変化は、不思議と悪い気はしなかった。
ひとしきり泣いてやっと落ち着いたこのみは、バージルの両手を取った。
自分より一回り小さい手が、バージルの手を包んでいる。
温かな温度が、心地よかった。
「バージルさん、お願いがあります」
改まった顔つきでこのみは言う。
彼女は目が見えないはずなのに、このみと目があったような気がした。
バージルの手を包む小さな手に力が込もる。
「……わたしを、助けてください」
助力を願うその言葉に、バージルは口の端を持ち上げる。
何故だか、心が満ち足りるようだった。
このみに必要とされている、その事実がどこか上ずった気持ちにさせる。
バージルはこのみの手を握り返して、言った。
「……心得た。お前がそれを、望むなら」
***あとがき***
恩を返し返されのいたちごっこですが、バージルは案外まんざらでもなさそう……どころか、内心デレまくり……?
シリーズごとに微妙に性格が違うダンテに比べると、バージルは性格や台詞が掴みやすくて書きやすいです。(バージルらしく描写できてるかどうかは別として)
ぐちゃ、とこのみの足元で柔らかい何かが潰れるような音がした。
「ひいいいい!!バージルさん、な、何か踏みました!!」
引きつるような悲鳴を上げて、このみはバージルの腕にしがみついてくる。
不思議と鬱陶しく思う事はなく、ひたすら慌てる彼女が愉快ですらあって、バージルは少しからかってやろうと思った。
「これは……何かの肉片か、内臓のようだな」
「ひえっ」
「まあ今のは冗談だが」
「ええ……」
「魔界に群生する果実の一種のようだ」
バージルは足元にいくつか落ちている、熟れすぎた柿のような果実を拾い上げる。
押すと柔らかく、中から果汁が滴ってくる。
「バージルさん!こんな時に、そんな冗談なんて!からかうなんて!ひどい!ひどいです!笑えないです!ぜんぜん面白くないです!」
「そうか。俺にはジョークの才能はなかったようだ」
頭から湯気を出しそうな勢いで怒るこのみに、バージルは口の端に笑みを浮かべながら言う。
このみはしばらくバージルをなじっていたが、やがて語彙が尽きたのか大人しくなった。
バージルの手の中にある果実の匂いを嗅いで、尋ねる。
「このくだもの……食べられますか?」
「……毒はないようだ。食用に問題なさそうだが……お前は食べない方がいい。戻れなくなる」
魔界にある果実。
半魔であるバージルであれば大丈夫なものでも、このみのような人間が口にすれば、人界に戻れなくなる。
「……よもつへぐいっていうやつですね」
このみは何か思うところがあるのか、そう呟いたきり静かになった。
果実は辺りに生い茂る木に生っている。
腕を伸ばしてバージルはそれをいくつかもぎ取り、自分用に確保した。
これでしばらくはしのげるとして、問題はこのみの食料だ。
すぐに人界への道が見つかればいいが、もしそれが難しいようであれば、このみの目的は変わってくる。
せめて飲料水は確保しなければ、この魔界で長期間耐えるのは難しい。
かと言って、この魔界で人間が飲めるような水などそうそうあるわけない。
バージルが考えながら歩いていたその時、一歩足を踏み入れた先で悪魔特有の臭気が濃くなる。
このみも何か感じ取ったのか、鼻を押さえて辺りに首を巡らせている。
「悪魔……近くにいます?」
「身を隠しているようだが……臭いで判別できる。右前方300mといったところか」
傷ついた閻魔刀と、このみというお荷物がある上で無闇矢鱈に戦闘はしたくないので、バージルはなるべく敵との邂逅を避けていた。
今回も迂回しようとして、このみを連れて徐々に後退する。
以前ならば、悪魔を前にして逃げるなんて事は考えられないことだったが、このみに出会ったことで自らの心境に変化が生じたらしい。
あと少しで果実のなる木の群生地を抜けるというところで、背後から急速に禍々しい気配が迫ってきた。
「……気付かれたか」
バージルはすぐさま足を止め、逃走を断念した。
目の見えないこのみだけを先に逃すのは難しい。
ならば、いっそこの場で迎え撃った方がいいと考えての判断だった。
「このみ、その辺りで屈んでいろ。不用意に動くな」
「は、はい……」
指示に従って、このみはその場でしゃがみこんだ。
バージルが自分用に取っておいた果物をこのみに押し付ける。
バージルは自らの魔力を練り上げ、幻影剣と呼ばれる青白く光る剣を空中に生み出し、このみの周囲に展開させた。
このみを守るように、幻影剣は彼女の周りを円陣を組んでまわる。
それを確認したバージルは、その場にこのみを置いて悪魔の元へ走り出した。
フォースエッジもベオウルフもない今、バージルが扱えるのは亀裂の入った閻魔刀と、幻影剣のみだ。
閻魔刀はあまり用いたくないので、バージルは先手必勝とばかりに幻影剣を悪魔の方へ向かって飛ばした。
木々に阻まれて姿までは見えなかったが、呻くような鳴き声が辺りにこだました。
何かが落ちるような重たい音と、地響きがバージルに伝わる。
どうやら幻影剣は命中したようだ。
バージルは敵に命中した幻影剣に向かって、瞬間的に移動する。
エアトリックと呼ばれる、幻影剣と組み合わせてバージルが独自に編み出した技だ。
敵の頭上に現れたバージルは、一瞬の邂逅の間に悪魔を視認する。
サメやクジラに似た、巨大な魚のような悪魔だった。
テメンニグルにいたリヴァイアサンよりはだいぶ小さいが、それでも家一軒丸呑みできそうな大きさを誇っている。
バージルは更に幻影剣を複数出現させ、それを悪魔の目に向かって射出した。
それを全弾受けた悪魔は、鋭い鳴き声を上げながら身を踊らせる。
尾びれがバージルを襲うが、彼は跳躍して難なくそれを回避し、その間も幻影剣で悪魔に攻撃を続ける。
痛手を負った悪魔は身をくねらせ、その場から逃げ去ろうとする。
とどめを刺すためにバージルはそれを追おうとするが、目が見えないこのみを残していることを思い出して踏みとどまった。
逃げる背に向かって幻影剣を打ち込むが、やがてその姿も見えなくなり、バージルは思わず舌打ちする。
……本当に、面倒だ。
面倒なのに、彼女を厭う気持ちになれないのは、何故だろう。
別に助けてくれと頼んだ覚えはない。
このみが勝手にバージルを助けて視力を失っただけだ。
けれど、先程果実を踏んで驚き、バージルに縋り付いてきた時のように、盲目のこのみが魔界で頼れるのは自分しかいない。
視力を失うことになった原因はバージルにあるのに、彼女がバージルを信頼しているというその状況と、彼女との他愛ないやりとりが、なぜか嫌ではないのだ。
打算を抜きにして、バージルが誰かと行動を共にするなんてことは、以前は考えられなかったのに。
胸の内側がもやもやする。
バージルは己の胸に手を当てて、その不思議な感覚に首を傾げた。
しばらくそうした後、バージルはこのみを迎えに行くために踵を返した。
言いつけ通り屈んで小さくなっていたこのみは、バージルの足音を聞きつけてビクリと肩を揺らした。
バージルはこのみの周囲に展開していた幻影剣を消す。
「……俺だ」
短くそう言うと、このみはほっとして、その顔に笑みを浮かべた。
「良かった、無事だったんですね。怪我してないですか?」
このみの言葉に、バージルは面食らう。
何故このみ自身ではなく、バージルの心配をするのか理解不能だ。
「……俺があの程度の悪魔に遅れをとるわけがない」
「でも、バージルさんもまだ万全の状態じゃないし、閻魔刀も傷がついてるって言ってたから」
「お前に心配されるほど落ちぶれたつもりはないが」
無愛想なバージルの言葉にも、このみは笑っている。
何故笑うのか、バージルには分からない。
「ただ、深手は負わせたがとどめはさせなかった。……逃げられた」
「もしかして、わたしがいるから戻ってきてくれたんですか?」
このみにそう尋ねられ、バージルは一瞬口ごもる。
事実を指摘され、ひどくいたたまれない気持ちになって、とっさに否定の言葉を吐き出す。
「……はぁ?何を、馬鹿なことを言っている。思い上がりも甚だしいな」
「バージルさんは、どうしてわたしを助けてくれるんですか?」
──そんなの、そんなもの、バージル自身が一番尋ねたい。
白灰色に濁った瞳が、バージルの方を見つめる。
彼女は目が見えないはずなのに、心の内側を覗かれているような感覚がして、落ち着かなかった。
このみに借りを返すだけ。
悪魔に母を殺された無力な自分を、思い出したくないだけ。
それだけだ、それだけのはずなのに。
「……俺がどうしようと、俺の勝手だ」
結局、そんな言葉しか出てこなかった。
* * *
バージルと共に歩きながら、カツカツとこのみは足元を木の枝で叩く。
林で、杖代わりの枝を見つけたのだとこのみは言う。
このみは両手にその杖を載せて、得意げにバージルにそれを見せてくる。
「これ、歩くのにちょうど良くないですか?」
「……おい、血が出ているぞ」
このみの手のひらに血が滲んでいた。
「ちょっとささくれ立ってたみたいですね。でもこれくらいならすぐ治るので大丈夫です」
そう言っている間に、このみの手のひらについた傷は塞がっていく。
このみは手のひらを何回か握り込んで痛くないことを確認し、再び杖を握ろうとする。
その杖を、バージルが取り上げた。
「また傷ができるだろうが。貸せ」
バージルはその場に腰を下ろし、鞘から閻魔刀を抜いて、ささくれ立った木の枝を削る。
閻魔刀で木の枝を削るなんて初めてのことだ。
ささくれを削り切り、手で持ってみたが握り心地がいいとは言えない。
ヤスリがあれば良かったが、生憎そんなものあるはずない。
「このみ、俺に巻いていた布があっただろう。まだ残っているか」
「鞄の中に、少し」
そう言ってこのみは鞄を探るが、目当てのものは中々見つからないようだ。
バージルはこのみから奪うようにして鞄を受け取り、中を探る。
その時、中に赤い液体を入れた小瓶があるのを見つけた。
中身は、恐らく血液だろう。
その液体から、弟の──ダンテの魔力が感じられる。
バージルは、このみがどうやってダンテの魔力を取り込んでいたのかを悟った。
彼女から、ダンテの血のにおいがする理由も。
何故か、ひどく苛立つ。
バージルはその瓶を強く握り込み、鞄には戻さずに自らの懐にしまい込んだ。
鞄から布を見つけたバージルは、それを細く裂いて杖の持ち手部分に巻き付けた。
これで手のひらを傷つけることはないだろう。
「できたぞ」
「ありがとうございます!」
素直に礼を述べるこのみに、バージルは居心地悪いのを紛らすように鼻をならす。
作り直した杖を手に、バージルとこのみは再び歩き出した。
幻影剣で襲い来る悪魔を退けながら、バージルはテメンニグルと繋がっていた場所を目指す。
空中に浮かぶようにして時折存在する鏡が、魔界と魔界の別々の空間同士を繋いでいるのだ。
目の見えないこのみのためにそれを解説してやると、彼女はひどく驚いたようだった。
「わたし、鏡を通って異世界からこの世界へやってきたんです。やっぱり、鏡には不思議な力があるんですね」
バージルは、テメンニグルにアーカムが持ち込んだ大鏡のことを思い出した。
あの時は気にも留めていなかったが、そういえばアーカムはあの鏡は異世界同士を繋げうる力を秘めているというようなことを言っていた。
もしバージルの予想通りであれば、アーカムの言葉は誠だったのだ。
バージルとこのみは、不浄なる地獄の門と呼ばれる、魔界の入り口へとやってきた。
テメンニグルの最頂部と繋がっていたはずのその空間だが、もはや人界への道は失われていた。
沈黙したままのバージルに向かって、このみが問う。
「……人間界への道、やっぱりもう閉じてますか?」
「……ああ」
肯定するバージルに、このみは落胆するような顔を作る。
そんなこのみの顔を見て、バージルの胸の内側がモヤモヤする。
また、これだ。
再び味わうその感覚に首を傾げたその時、突然矢のようなものがバージル達に向かって飛んできて、バージルは思わずこのみを庇う。
「ちっ……」
「バージルさん!?」
矢はバージルの脇を掠め、火傷のような鋭い痛みが走り、バージルは舌打ちした。
バージルは振り返ると同時に矢を放ってきた悪魔に幻影剣を放つ。
幻影剣はその体躯を正確に貫き、悪魔は鋭い鳴き声を上げて消滅した。
どうやらバージルの索敵外の距離から攻撃されたようだ。
「バージルさん、怪我したんですか!?」
「掠めただけだ。問題ない。傷ももう塞がった」
「ごめんなさい、わたしを庇ってくれたんですよね?」
「…………」
このみの問いをバージルは無視する。
「……人間界の道が既に閉ざされている今、ここにはもう用はない。いくぞ」
バージルがこのみの腕を取って歩き出そうとすると、彼女はその場に踏み止まった。
「ま、待ってください!」
バージルに静止の声を投げかけたこのみは、しばらく何か考えるように俯いたあと、何かを決意したかのように顔を上げた。
「バージルさん、ここまでありがとうございました。後は自分でなんとかするので、もう大丈夫です」
その言葉に、バージルは驚きで目を見開く。
「目が見えないのに、一人でどうするつもりだ。人界に戻るのを諦めたのか?」
「諦めてません。杖があるから見えなくても歩けます。悪魔の場所も臭いでなんとなく分かります。もし悪魔に出会っても、鞄の中には聖水があるので何とかします」
「その目で1日と生き残れるほど、魔界は生易しいところではない。先程のように遠距離から攻撃を仕掛ける悪魔もいる」
何故、このみを引き止めるようなことを言うのか、バージル自身もよく分からなくて混乱する。
このみというお荷物を体良く厄介払いできる、いい機会だというのは分かっているのに。
恐らく、先程バージルがこのみを庇って傷を負ったことに責任を感じているのだろうということは理解している。
理解はするが、納得がいかない。
「……先程悪魔に攻撃を受けたのは、距離があったとはいえ気付かなかった俺の落ち度だ。お前が責任を感じるのは筋違いだ」
「……でも」
「遠慮は日本人の美徳か?確かにそういう面もあるかもしれないが、時と場合によるだろう。魔界で、その目で一人で行動するのは愚かだとしか言いようがない」
「でも、でも……バージルさんに迷惑が……」
尚も折れようとしないこのみに、バージルの怒りが頂点に達した。
自分から距離を置こうとするこのみがひどく腹立たしくて、声を荒らげて恫喝する。
「俺がいつ、お前と行動するのが嫌だと言った!!」
今まで生きてきた中で、恐らく一番大きい声を出したような気がする。
言った自分自身でさえ、その声の大きさに驚いたほどだ。
このみはバージルの剣幕に萎縮し、顔を青ざめて身を小さくした。
その様子に我を取り戻したバージルは、一つ息をついて気を鎮める。
「……俺を魔帝の下から連れ出し、傷を治した時点でそもそも余計な世話だし良い迷惑だったんだ。
お前が俺に恩を押し売ったのだから、それを返さずにいるのは俺の沽券に関わるだろう」
「わ、わたしは、別に見返りがほしくてバージルさんを助けたんじゃありません……!」
「くどいぞ。お前がどう思うかなんて関係ない。これは、俺の矜持の問題だ」
このみは何とか言い返そうと口を開けるが、結局言葉にはならなかったようだ。
唇を噛み締めて、俯く。
今、バージルが言ったのは本心だ。
けれど、本質は違うところにあるような気がする。
それをうまく、言葉に表すことはできないけれど。
未だ顔を上げないこのみを見て、その顔を、このみ自身を、すくい上げたい衝動に駆られる。
悪魔の標的になれば、簡単に潰えてしまうその命。
「このみ、俺を……」
俺を頼れ、と言いかけて、バージルは慌てて言葉を飲み込んだ。
これでは、まるで自分がこのみと一緒にいたがっているように聞こえる。
「……俺を、利用しろ。俺の本意だったわけではないが……お前は、俺を助けたのだから。お前にはその権利がある」
このみはようやく顔を上げた。
今にも泣きそうな顔で、色のない瞳を空中に泳がせている。
「……お前を元の世界線へ戻すのに、多くの人間が協力したのだろう?それをむざむざ無に帰すような真似をするのは、それこそ恩を仇で返すことにならないのか?
最善の策を選べ。お前が取るべき行動はひとつだ」
人間の肩を持つようなことを言うのは非常に癪ではあったけれど、恐らくこのみに一番効くのはこの言葉だ。
──人間。
バージルが口にしたその言葉の中にはダンテもいるだろうことは想像に難くない。
それはとても不愉快ではあったが、このみを説得するためには仕方のないことだった。
「……そう、ですね。そうでした。バージルさんの言う通りです。わたしは……もとの、もとの世界に帰らなきゃ……」
玉のような、涙がこぼれる。
色のない瞳から、無色透明な雫が頬を伝って流れ落ちる。
誰を思って、何のためにこのみは泣くのだろう。
彼女の心の底にいるのは、弟だろうか。
多分、そうなんだろう。
胸の奥が、またジクジクとした痛みに襲われる。
それでも、今のバージルの言葉で、このみが共に行こうと思ってくれるのならそれで良かった。
このみの泣き顔を見るのは嫌だった。
魔帝にやられ、瀕死だった自分の顔を覗き込み、涙を零す青い瞳を思い出すから。
あの時のこのみの涙は、バージルに向けられたものだ。
誰かが自分を思って涙を流すなんて、ひどく居心地が悪い。
──だから、このみを腕の中に閉じ込めて、その顔を自らの胸に押し付けた。
はずみでこのみの手から杖がこぼれ落ちる。
「……俺は、涙の止め方など知らん。勝手に泣き止め」
「……でも、胸は貸してくれるんですね」
「生憎と濡れた顔を拭くものがなくてな。不服か?」
「いえ、ありがとうございます」
このみはバージルの胸に両手をついて、コートをぎゅっと握りしめた。
元々ボロボロのコートだ。
皺ができるのも、このみの涙で湿るのも気にならなかった。
最初はそのぬるい雫を不快に思ったこともあったけれど、自分の中で何がどう変わったというのか。
けれどその変化は、不思議と悪い気はしなかった。
ひとしきり泣いてやっと落ち着いたこのみは、バージルの両手を取った。
自分より一回り小さい手が、バージルの手を包んでいる。
温かな温度が、心地よかった。
「バージルさん、お願いがあります」
改まった顔つきでこのみは言う。
彼女は目が見えないはずなのに、このみと目があったような気がした。
バージルの手を包む小さな手に力が込もる。
「……わたしを、助けてください」
助力を願うその言葉に、バージルは口の端を持ち上げる。
何故だか、心が満ち足りるようだった。
このみに必要とされている、その事実がどこか上ずった気持ちにさせる。
バージルはこのみの手を握り返して、言った。
「……心得た。お前がそれを、望むなら」
***あとがき***
恩を返し返されのいたちごっこですが、バージルは案外まんざらでもなさそう……どころか、内心デレまくり……?
シリーズごとに微妙に性格が違うダンテに比べると、バージルは性格や台詞が掴みやすくて書きやすいです。(バージルらしく描写できてるかどうかは別として)