2.穴から貴方をのぞくドーナッツ
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* * *
今日も往来に立って地道に聞き込みを行っていたこのみだが、情報がないことはもう分かり切っていた。
さすがに一年を軽く超える日数をかけて聞き込みを続けているのだ。
真新しい情報がないことにはもう慣れっこで、いちいち落ち込むような時期は既に過ぎ去っていた。
最近ではもう聞き込みというよりも散歩に近い。
まだ日は高いが今日のところはこれで切り上げて、家でゆっくりしようと思ったこのみは、事務所の方角へゆったりと足を向けた。
帰る道すがら、ドーナツ店が視界に入って、このみは足を止めた。
いくつか買って帰って、事務所にいるダンテと一緒に食べようと考えて、このみは店の中へと足を踏み入れる。
適当に見繕ったドーナツ数個を箱に詰めてもらっている間、手持ち無沙汰なこのみは、店のガラス張りの窓の向こう側に視線を注いでいた。
外はいい天気で過ごしやすく、丁度お茶の時間帯だ。
穏やかな午後の時間は、どことなくいつもよりゆっくりと時が流れているような気さえする。
するとそんな明るい日差しが降り注ぐ街路を、1人このみが見慣れた人物が歩いていることに気が付いた。
その人物はドーナツ店の中にいるこのみに気付いて、笑顔で軽く手を振る。
このみは店員から箱に詰め終わったドーナツを受け取ると、足早に店のドアを開けた。
「レディさん!」
「このみちゃん、偶然ね。今日も聞き込み頑張ってたの?」
レディに尋ねられてこのみは苦笑する。
「うん。けどやっぱり何の情報もなかったの。もう家に帰るところ」
「そう」
ほんの少し気遣わしげな笑みを浮かべて、レディは相槌を打った。
それから、このみが手から提げているドーナツの箱に目を止める。
「ここのドーナツ、美味しいわよね!生地の外側がサクサクで」
「うん!ダンテと一緒に食べようと思ってたの。レディさんも一緒にお茶にしない?」
このみがそう言うと、レディは心の底から残念そうな顔をした。
「すごく魅力的なお誘いなんだけど、これから行かなくちゃならない所があるの」
「そうだったの。じゃあお茶はまた今度にしようね」
「ええ。ありがとう」
笑顔で頷いたレディは、その顔にふと面白そうな表情を浮かべる。
その顔にどこかこのみをいじめるダンテの顔を思い出して、このみはびくりと一歩下がった。
「それに、ダンテとのお茶の時間を邪魔するわけにもいかないしね」
「そ、そんなの気にすることないのに……」
思わず赤くなるこのみを見て、レディは笑う。
レディはダンテの名前が出てくると、いつもこのみをからかうのだ。
「このみちゃん、途中まで一緒に歩かない?私の行き先、この向こうだから」
「……ダンテの名前出さないって約束するなら」
このみの言葉に口の端に笑みを浮かべたレディだったが、頷いてくれた。
ほっとしたこのみは、レディと並んで道を歩き出す。
眠気すら誘うような陽気の下で、他愛もないおしゃべりをしながらこのみ達は進む。
交差点を渡り、店が林立する大通りの歩道をレディと歩いていたこのみは、ふと心が騒いで足を止めた。
「このみちゃん?」
突然立ち止まったこのみに驚いて、先を行きかけたレディが振り返る。
このみは10メートル程先にある不動産屋のドアの下にじっと視線を注いでいた。
「レディさん……あそこに小さい人がいる……」
指摘されてレディが不動産屋に目を向けると、10センチもないほどの小さな人型の何かがチョロチョロ動き回っていた。
一見すれば人形か何かにしか見えないが、あれは……。
「あれ……悪魔だよね?」
明確な恐怖こそ感じないが、ざわざわと心が騒ぐようなこの感覚は、このみが悪魔に対して覚えるものだった。
「そうね、小物だけど……」
レディが真面目な顔つきで頷いたその時だった。
不動産屋から出てきた中年の男が、丁度小さな悪魔の横を通りかかる。
するとその悪魔は男のズボンの裾を掴むなり、体重を後ろへかけて引っ張った。
「わっ!?」
突然足元を引っ張られた男は驚きの声を上げてつまづきかけたが、何とか転ばずにその場に踏みとどまる。
後ろを振り返る男だったが、その時既に悪魔は物陰に隠れていた。
男は首を傾げながら、その場をあとにする。
「み、みみっちい悪さする悪魔ね……。悪魔とも呼べないかも」
一部始終を見ていたレディは、そう一言感想を漏らした。
そうして小さな悪魔に近付いていくと、逃げようとするそれの襟首を掴んで持ち上げる。
このみは腰を引きながらも、レディがつまみ上げたその悪魔を覗き込んだ。
目つきの悪い、髭の生えた小さなおじさん、としか例えようがない。
白雪姫の小人だとか、映画で見たドワーフとかいう妖精のような形に近いだろうか。
「これ、どうしようかしら。殺すほど悪いやつではなさそうだけど」
「……でも、あんな転ばせ方して、打ちどころが悪かったら死んじゃうよ。人気のないところに逃がすとか」
「そうねえ……」
といっても、この辺りは市街地で人気のなさそうな場所は少ない。
しばらく考えた末、レディはその悪魔を街路樹の枝の上に乗せた。
悪魔は高いその場所から自力では下りられないようで、口髭を動かしながらキーキー喚いている。
「これなら大丈夫かしらね」
「うん」
「この状態でしばらく様子見して、下手に大きくなったり、これ以上の悪さをするようだったら私が殺すわ」
物騒な言葉を口にして、レディはその場を離れた。
「それにしても、このみちゃん、あんな小さいのによく気が付いたわね。言われなければ私も通り過ぎてたかも」
「わたし、悪魔が近付くと心臓がドキドキするの。だから分かったというか……」
「このみちゃんは、別の世界の人だから、この世界の人間よりも悪魔の気配に敏感なんだったかしら」
「そう」
レディは、このみが異世界の人間だということを知っている。
悪魔を信じていないエンツォとはできない話もできる貴重な人物だ。
最初に会った時には日本からやってきたテレポーター、
次に会った時には未来からやってきたタイムトラベラー、挙げ句の果てに別の世界からやってきた異世界人と、
このみの肩書きは二転三転しているが、そんな荒唐無稽な話にも付き合ってくれるレディは、このみの心の寄りどころになっている。
「ある意味便利と言えば便利ね。危険に巻き込まれる前に回避できるわけだし」
「突然現れると対処できないんだけどね」
このみは苦笑する。
ダンテに助けられた際に会った死神のような悪魔や、
古物堂を探している時に出会ったジャンに対しては、足が竦んでうまく動けなかったことを思い出したのだ。
「それに、悪魔の気配が分かるのはともかく、注目されるのは未だに慣れないし……」
「それもそうねぇ」
今だって、このみの横を通り過ぎた人がこちらを凝視して行った。
聞き込みをする時には便利でも、普段生活する上ではあまり嬉しくないことだった。
「このみちゃんが可愛いから、みんな見てるのよ」
「あはは……さすがにそこまでポジティブになれない」
「そんなことないと思うわ。私と初めて会った時よりも綺麗になった」
レディの言葉はどこまで本気なのだろう。
このみを見つめるその笑顔からは、彼女の心理は窺えない。
「それは……お化粧するようになったからじゃない?」
バイトが接客業ということもあって、化粧は身だしなみとしてそれなりに頑張っている。
「それもあるけれど……私が言いたいのは……」
そこまで言いかけて、レディは口を手で押さえた。
そして目をニヤリと細める。
「……あの人の名前、口に出しちゃいけなかったんだったわね」
レディと歩き出す前に、彼女とした約束。
確か「ダンテの名前を出すな」といったものだったはず。
つまりこのみが綺麗になったとかいう理由には、ダンテが絡んでいる、とレディは言いたいのだろうか。
そこに思い至ったこのみは、知らず知らずのうちにその頬を赤く染めていた。
「レ、レディさん!」
結局このみをからかうネタに使うのだとしたら、名前を出そうと出すまいと関係ないではないか!
悲鳴のような声をひとつ上げると、レディは苦笑した。
「照れ屋ねー」
「もう!なんでいつもわたしをからかうの!」
「ごめんなさい。さ、行きましょうか」
顔を真っ赤にするこのみを置いて、レディは歩き出した。
このみはしばらく唸っていたが、やがて諦めてレディの背を追う。
「それじゃここで」と言って手を振るレディと別れて、このみは帰途についた。
* * *
「おかえりこのみ」
「ただいま。ドーナツ買ってきたよ!」
「お、やった」
「今コーヒー淹れるね」
ダンテが座っている目の前、黒檀の机の上にこのみはドーナツの箱を置いた。
早速箱を開け始める彼を見てこのみは少し笑い、キッチンで手を洗った後茶の用意を始める。
ダンテ用にコーヒー、自分のためにミルクティーを淹れて、このみはリビングへと戻る。
一応このみが戻るのを待っていたらしいダンテは、箱を覗き込みながらそわそわしていた。
「そんなにそわそわしなくてもドーナツは逃げないよ」
「丁度小腹が空いてたんだ」
ダンテはこのみからコーヒーを受け取り、それを一口飲んでからドーナツに手を伸ばした。
「お前、ここのドーナツ好きだな」
「おいしいから。ここに来て3日目の朝だったっけ。ダンテが買ってきてくれたのも、ここのドーナツだったよ」
このみがそう言うと、ダンテは目を見開いた。
「よく覚えてるな」
「……ダンテは忘れちゃった?」
そんな些細な出来事、忘れていたとしても無理はない。
このみとしても、特に覚えておいてほしい事柄ではないので、忘れていてくれても構わないのだが。
「うーん、お前が"この家にはお化けがいます!"って主張してたのは覚えてる」
「そ、それは忘れて!」
1人で留守番をしていた際、人語を話すアグニとルドラという双剣の声を聞いて、それを幽霊か何かの仕業だと思っていたのだ。
幽霊と悪魔、どっちも似たようなものだとこのみは思うが、ダンテからすると違うらしい。
「俺、あの時このみに"1人が怖いなら今晩一緒に寝る?"って言ったんだけど、お前覚えてるか?」
「そんなこと言ってたの!?」
「やっぱ聞き取れてなかったか」
笑いながらこのみに視線を寄越すダンテに耐えきれなくて、このみは照れ隠しにドーナツを手に取った。
面白そうな顔でこのみを眺めるダンテから、自分の顔を隠すようにドーナツを顔の前に掲げる。
けれど真ん中に穴の開いたドーナツは完全にこのみの顔を隠してはくれなくて、
その穴の向こう側で、こちらを見やるダンテがニヤリと笑っている。
「もうアグニもルドラも怖くないもの!」
「だってさ、お前ら良かったな」
ダンテが壁に飾られたアグニとルドラに視線を向けると、その双剣はパクパクと口を開けた。
「うむ。しかし慣れすぎも困る。はたきで埃を払われては敵わん」
「……わたしに文句言うのは筋違いだと思う。手入れをしないダンテに言うべきだよ!」
むしろ埃を掃除しているだけ感謝してもらいたい。
「このみ、余計なこと言うなよ。こいつらうるさいんだから」
「そう思うんだったら、たまには使ってあげたら?」
「いやだ。喋るもん」
とりつく島なくダンテがそう言うと、アグニとルドラは口々に文句を言い始める。
余計うるさくなった双剣を尻目に、ダンテはドーナツを口に運んだ。
このみはため息をつきながらも、彼に倣ってドーナツをかじる。
香ばしいその生地はさっくりと音を立てて形を崩し、次にはふわふわの中身が顔を出した。
薄くふりかけられた粉砂糖の、ほんのりとした甘さが舌に乗って消えていく。
シンプルな味だけれど、そのほっとした甘みがこのドーナツの魅力だ。
「おいしい……」
この味を知るきっかけをくれたのはダンテだったのかなあ、とこのみは考える。
彼からはいつも新しいことを教えてもらってばかりだ。
ドーナツを口にしてそのおいしさに悦に入るこのみを置いて、アグニとルドラは彼に文句を言い続けている。
「ダンテ、お主、我らの話を聞いておるのか?」
「黙ってたら使ってやるよ」
ダンテがそう言うと、アグニとルドラはピタリと黙った。
それを見たダンテはニヤリと笑い、彼らに聞こえないように小声で呟いた。
「……いつかな」
さすがにアグニとルドラが可哀想に思えて、このみが咎めるような視線をダンテに送ると、
彼は悪戯を見つかった子供のようにペロリと舌を出した。
「……いじめっこだなぁ」
呟くこのみを見ても、ダンテは面白そうな顔をしているだけだ。
これでは何を言っても無駄だろう。
ダンテと並んでドーナツをかじりながら、このみはアグニとルドラに同情したのだった。
* * *
ダンテとのティータイムの数時間後。
そろそろ晩御飯の用意を始めようかとこのみが思っていたその時、勢いよく事務所のドアが開けられた。
「このみちゃん!」
「はっはい、何でしょう!?」
突然名前を呼ばれて、このみは反射的に返事をする。
そこに立っていたのは、昼間に会ったレディだった。
彼女は入り口に仁王立ちし、恐ろしく真面目な顔つきでこのみを見つめている。
「お願いがあるんだけど」
室内に入るやいなやそう告げたレディに対し、状況が理解できないダンテとこのみは、彼女を見てぽかんと口を開けていた。
「このみちゃんの力を貸して欲しいの!」
***あとがき***
お菓子5題に挑戦中です。2つめはドーナツ!
お題はfisika様よりお借りいたしました。
お菓子5題、初めは一話読みきりのつもりで書いていたのですが、
思いのほか自分の中で話が広がってしまったので、続き物にしてしまいました。
黄昏蝶本編は、わりといつも切りのいいところで終わらせていたので、こういう引きはなんだか自分でも新鮮です。
今日も往来に立って地道に聞き込みを行っていたこのみだが、情報がないことはもう分かり切っていた。
さすがに一年を軽く超える日数をかけて聞き込みを続けているのだ。
真新しい情報がないことにはもう慣れっこで、いちいち落ち込むような時期は既に過ぎ去っていた。
最近ではもう聞き込みというよりも散歩に近い。
まだ日は高いが今日のところはこれで切り上げて、家でゆっくりしようと思ったこのみは、事務所の方角へゆったりと足を向けた。
帰る道すがら、ドーナツ店が視界に入って、このみは足を止めた。
いくつか買って帰って、事務所にいるダンテと一緒に食べようと考えて、このみは店の中へと足を踏み入れる。
適当に見繕ったドーナツ数個を箱に詰めてもらっている間、手持ち無沙汰なこのみは、店のガラス張りの窓の向こう側に視線を注いでいた。
外はいい天気で過ごしやすく、丁度お茶の時間帯だ。
穏やかな午後の時間は、どことなくいつもよりゆっくりと時が流れているような気さえする。
するとそんな明るい日差しが降り注ぐ街路を、1人このみが見慣れた人物が歩いていることに気が付いた。
その人物はドーナツ店の中にいるこのみに気付いて、笑顔で軽く手を振る。
このみは店員から箱に詰め終わったドーナツを受け取ると、足早に店のドアを開けた。
「レディさん!」
「このみちゃん、偶然ね。今日も聞き込み頑張ってたの?」
レディに尋ねられてこのみは苦笑する。
「うん。けどやっぱり何の情報もなかったの。もう家に帰るところ」
「そう」
ほんの少し気遣わしげな笑みを浮かべて、レディは相槌を打った。
それから、このみが手から提げているドーナツの箱に目を止める。
「ここのドーナツ、美味しいわよね!生地の外側がサクサクで」
「うん!ダンテと一緒に食べようと思ってたの。レディさんも一緒にお茶にしない?」
このみがそう言うと、レディは心の底から残念そうな顔をした。
「すごく魅力的なお誘いなんだけど、これから行かなくちゃならない所があるの」
「そうだったの。じゃあお茶はまた今度にしようね」
「ええ。ありがとう」
笑顔で頷いたレディは、その顔にふと面白そうな表情を浮かべる。
その顔にどこかこのみをいじめるダンテの顔を思い出して、このみはびくりと一歩下がった。
「それに、ダンテとのお茶の時間を邪魔するわけにもいかないしね」
「そ、そんなの気にすることないのに……」
思わず赤くなるこのみを見て、レディは笑う。
レディはダンテの名前が出てくると、いつもこのみをからかうのだ。
「このみちゃん、途中まで一緒に歩かない?私の行き先、この向こうだから」
「……ダンテの名前出さないって約束するなら」
このみの言葉に口の端に笑みを浮かべたレディだったが、頷いてくれた。
ほっとしたこのみは、レディと並んで道を歩き出す。
眠気すら誘うような陽気の下で、他愛もないおしゃべりをしながらこのみ達は進む。
交差点を渡り、店が林立する大通りの歩道をレディと歩いていたこのみは、ふと心が騒いで足を止めた。
「このみちゃん?」
突然立ち止まったこのみに驚いて、先を行きかけたレディが振り返る。
このみは10メートル程先にある不動産屋のドアの下にじっと視線を注いでいた。
「レディさん……あそこに小さい人がいる……」
指摘されてレディが不動産屋に目を向けると、10センチもないほどの小さな人型の何かがチョロチョロ動き回っていた。
一見すれば人形か何かにしか見えないが、あれは……。
「あれ……悪魔だよね?」
明確な恐怖こそ感じないが、ざわざわと心が騒ぐようなこの感覚は、このみが悪魔に対して覚えるものだった。
「そうね、小物だけど……」
レディが真面目な顔つきで頷いたその時だった。
不動産屋から出てきた中年の男が、丁度小さな悪魔の横を通りかかる。
するとその悪魔は男のズボンの裾を掴むなり、体重を後ろへかけて引っ張った。
「わっ!?」
突然足元を引っ張られた男は驚きの声を上げてつまづきかけたが、何とか転ばずにその場に踏みとどまる。
後ろを振り返る男だったが、その時既に悪魔は物陰に隠れていた。
男は首を傾げながら、その場をあとにする。
「み、みみっちい悪さする悪魔ね……。悪魔とも呼べないかも」
一部始終を見ていたレディは、そう一言感想を漏らした。
そうして小さな悪魔に近付いていくと、逃げようとするそれの襟首を掴んで持ち上げる。
このみは腰を引きながらも、レディがつまみ上げたその悪魔を覗き込んだ。
目つきの悪い、髭の生えた小さなおじさん、としか例えようがない。
白雪姫の小人だとか、映画で見たドワーフとかいう妖精のような形に近いだろうか。
「これ、どうしようかしら。殺すほど悪いやつではなさそうだけど」
「……でも、あんな転ばせ方して、打ちどころが悪かったら死んじゃうよ。人気のないところに逃がすとか」
「そうねえ……」
といっても、この辺りは市街地で人気のなさそうな場所は少ない。
しばらく考えた末、レディはその悪魔を街路樹の枝の上に乗せた。
悪魔は高いその場所から自力では下りられないようで、口髭を動かしながらキーキー喚いている。
「これなら大丈夫かしらね」
「うん」
「この状態でしばらく様子見して、下手に大きくなったり、これ以上の悪さをするようだったら私が殺すわ」
物騒な言葉を口にして、レディはその場を離れた。
「それにしても、このみちゃん、あんな小さいのによく気が付いたわね。言われなければ私も通り過ぎてたかも」
「わたし、悪魔が近付くと心臓がドキドキするの。だから分かったというか……」
「このみちゃんは、別の世界の人だから、この世界の人間よりも悪魔の気配に敏感なんだったかしら」
「そう」
レディは、このみが異世界の人間だということを知っている。
悪魔を信じていないエンツォとはできない話もできる貴重な人物だ。
最初に会った時には日本からやってきたテレポーター、
次に会った時には未来からやってきたタイムトラベラー、挙げ句の果てに別の世界からやってきた異世界人と、
このみの肩書きは二転三転しているが、そんな荒唐無稽な話にも付き合ってくれるレディは、このみの心の寄りどころになっている。
「ある意味便利と言えば便利ね。危険に巻き込まれる前に回避できるわけだし」
「突然現れると対処できないんだけどね」
このみは苦笑する。
ダンテに助けられた際に会った死神のような悪魔や、
古物堂を探している時に出会ったジャンに対しては、足が竦んでうまく動けなかったことを思い出したのだ。
「それに、悪魔の気配が分かるのはともかく、注目されるのは未だに慣れないし……」
「それもそうねぇ」
今だって、このみの横を通り過ぎた人がこちらを凝視して行った。
聞き込みをする時には便利でも、普段生活する上ではあまり嬉しくないことだった。
「このみちゃんが可愛いから、みんな見てるのよ」
「あはは……さすがにそこまでポジティブになれない」
「そんなことないと思うわ。私と初めて会った時よりも綺麗になった」
レディの言葉はどこまで本気なのだろう。
このみを見つめるその笑顔からは、彼女の心理は窺えない。
「それは……お化粧するようになったからじゃない?」
バイトが接客業ということもあって、化粧は身だしなみとしてそれなりに頑張っている。
「それもあるけれど……私が言いたいのは……」
そこまで言いかけて、レディは口を手で押さえた。
そして目をニヤリと細める。
「……あの人の名前、口に出しちゃいけなかったんだったわね」
レディと歩き出す前に、彼女とした約束。
確か「ダンテの名前を出すな」といったものだったはず。
つまりこのみが綺麗になったとかいう理由には、ダンテが絡んでいる、とレディは言いたいのだろうか。
そこに思い至ったこのみは、知らず知らずのうちにその頬を赤く染めていた。
「レ、レディさん!」
結局このみをからかうネタに使うのだとしたら、名前を出そうと出すまいと関係ないではないか!
悲鳴のような声をひとつ上げると、レディは苦笑した。
「照れ屋ねー」
「もう!なんでいつもわたしをからかうの!」
「ごめんなさい。さ、行きましょうか」
顔を真っ赤にするこのみを置いて、レディは歩き出した。
このみはしばらく唸っていたが、やがて諦めてレディの背を追う。
「それじゃここで」と言って手を振るレディと別れて、このみは帰途についた。
* * *
「おかえりこのみ」
「ただいま。ドーナツ買ってきたよ!」
「お、やった」
「今コーヒー淹れるね」
ダンテが座っている目の前、黒檀の机の上にこのみはドーナツの箱を置いた。
早速箱を開け始める彼を見てこのみは少し笑い、キッチンで手を洗った後茶の用意を始める。
ダンテ用にコーヒー、自分のためにミルクティーを淹れて、このみはリビングへと戻る。
一応このみが戻るのを待っていたらしいダンテは、箱を覗き込みながらそわそわしていた。
「そんなにそわそわしなくてもドーナツは逃げないよ」
「丁度小腹が空いてたんだ」
ダンテはこのみからコーヒーを受け取り、それを一口飲んでからドーナツに手を伸ばした。
「お前、ここのドーナツ好きだな」
「おいしいから。ここに来て3日目の朝だったっけ。ダンテが買ってきてくれたのも、ここのドーナツだったよ」
このみがそう言うと、ダンテは目を見開いた。
「よく覚えてるな」
「……ダンテは忘れちゃった?」
そんな些細な出来事、忘れていたとしても無理はない。
このみとしても、特に覚えておいてほしい事柄ではないので、忘れていてくれても構わないのだが。
「うーん、お前が"この家にはお化けがいます!"って主張してたのは覚えてる」
「そ、それは忘れて!」
1人で留守番をしていた際、人語を話すアグニとルドラという双剣の声を聞いて、それを幽霊か何かの仕業だと思っていたのだ。
幽霊と悪魔、どっちも似たようなものだとこのみは思うが、ダンテからすると違うらしい。
「俺、あの時このみに"1人が怖いなら今晩一緒に寝る?"って言ったんだけど、お前覚えてるか?」
「そんなこと言ってたの!?」
「やっぱ聞き取れてなかったか」
笑いながらこのみに視線を寄越すダンテに耐えきれなくて、このみは照れ隠しにドーナツを手に取った。
面白そうな顔でこのみを眺めるダンテから、自分の顔を隠すようにドーナツを顔の前に掲げる。
けれど真ん中に穴の開いたドーナツは完全にこのみの顔を隠してはくれなくて、
その穴の向こう側で、こちらを見やるダンテがニヤリと笑っている。
「もうアグニもルドラも怖くないもの!」
「だってさ、お前ら良かったな」
ダンテが壁に飾られたアグニとルドラに視線を向けると、その双剣はパクパクと口を開けた。
「うむ。しかし慣れすぎも困る。はたきで埃を払われては敵わん」
「……わたしに文句言うのは筋違いだと思う。手入れをしないダンテに言うべきだよ!」
むしろ埃を掃除しているだけ感謝してもらいたい。
「このみ、余計なこと言うなよ。こいつらうるさいんだから」
「そう思うんだったら、たまには使ってあげたら?」
「いやだ。喋るもん」
とりつく島なくダンテがそう言うと、アグニとルドラは口々に文句を言い始める。
余計うるさくなった双剣を尻目に、ダンテはドーナツを口に運んだ。
このみはため息をつきながらも、彼に倣ってドーナツをかじる。
香ばしいその生地はさっくりと音を立てて形を崩し、次にはふわふわの中身が顔を出した。
薄くふりかけられた粉砂糖の、ほんのりとした甘さが舌に乗って消えていく。
シンプルな味だけれど、そのほっとした甘みがこのドーナツの魅力だ。
「おいしい……」
この味を知るきっかけをくれたのはダンテだったのかなあ、とこのみは考える。
彼からはいつも新しいことを教えてもらってばかりだ。
ドーナツを口にしてそのおいしさに悦に入るこのみを置いて、アグニとルドラは彼に文句を言い続けている。
「ダンテ、お主、我らの話を聞いておるのか?」
「黙ってたら使ってやるよ」
ダンテがそう言うと、アグニとルドラはピタリと黙った。
それを見たダンテはニヤリと笑い、彼らに聞こえないように小声で呟いた。
「……いつかな」
さすがにアグニとルドラが可哀想に思えて、このみが咎めるような視線をダンテに送ると、
彼は悪戯を見つかった子供のようにペロリと舌を出した。
「……いじめっこだなぁ」
呟くこのみを見ても、ダンテは面白そうな顔をしているだけだ。
これでは何を言っても無駄だろう。
ダンテと並んでドーナツをかじりながら、このみはアグニとルドラに同情したのだった。
* * *
ダンテとのティータイムの数時間後。
そろそろ晩御飯の用意を始めようかとこのみが思っていたその時、勢いよく事務所のドアが開けられた。
「このみちゃん!」
「はっはい、何でしょう!?」
突然名前を呼ばれて、このみは反射的に返事をする。
そこに立っていたのは、昼間に会ったレディだった。
彼女は入り口に仁王立ちし、恐ろしく真面目な顔つきでこのみを見つめている。
「お願いがあるんだけど」
室内に入るやいなやそう告げたレディに対し、状況が理解できないダンテとこのみは、彼女を見てぽかんと口を開けていた。
「このみちゃんの力を貸して欲しいの!」
***あとがき***
お菓子5題に挑戦中です。2つめはドーナツ!
お題はfisika様よりお借りいたしました。
お菓子5題、初めは一話読みきりのつもりで書いていたのですが、
思いのほか自分の中で話が広がってしまったので、続き物にしてしまいました。
黄昏蝶本編は、わりといつも切りのいいところで終わらせていたので、こういう引きはなんだか自分でも新鮮です。