せめて、明日は晴れになれ
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* * *
「降ってきやがった……ツイてねえな……」
一仕事終え、スラム街にある事務所までもう少し、という所で雨に降られてしまった。
ダンテはどんよりと濁った雨雲を見上げ、その顔を濡らす。
服をうっすらと湿らせる程度の小雨だ。
この程度の雨量のためにどこかで雨宿りするのも癪だし、事務所まであと少しなのだから、と構わずダンテは歩き出す。
帰る前に事務所へ電話したらこのみが出たので、きっと彼女は帰りを待ってくれているだろう。
事務所へ戻ったらこのみの顔が見れると思うと、自然と急ぎ足になった。
雨が目に入らないよう、俯きがちに歩いていたダンテは、前方に人影があることに中々気が付かなかった。
視界の端にチラリと映り込んだ影が気になって顔を上げると、見覚えのある傘があった。
「このみ」
その名を呼んで傘の元へ駆ける。
このみは傘を軽く持ち上げて、空模様とは裏腹に晴れやかな笑顔をダンテに向けた。
「ダンテ、おかえり。傘持ってないだろうと思ってお迎えにあがりました」
このみは手に持っていたもう一本の傘を開いて、ダンテに差し出した。
それを受け取ったダンテは、濡れた体を傘の下へ収める。
「こっち向いて」
何かと思ってこのみを見下ろすと、鼻先にハンカチを押し付けられた。
どうやら精一杯腕を伸ばして雨に濡れた顔を拭いてくれているようだが、若干勢いが余りすぎている。
けれどそうされるのも悪い気はしなくて、ダンテは苦笑しながらそれを受け入れた。
このみのハンカチは洗い立ての良い香りがする。
彼女に似た匂いだ。
「サンキュー」
「帰ったらきちんと乾かそうね」
このみはまたにっこり笑うと、ダンテと並んで雨の降る街を歩き出した。
隣を歩くこのみの小さな歩幅に合わせて、ダンテはゆっくりと歩を進める。
ダンテ1人で歩く時よりも断然ゆったりとしたペースだ。
先ほどまであんなに早く家へ戻りたいと考えていたのに、今はそんなことは思わない。
雨にうっすら濡れた服が気持ち悪いはずなのに、このみがいさえすればそんなことはどうでも良いらしい。
「あ、ここ……」
それまで雨だというのに楽しげに歩いていたこのみは、寂れたスラム街の一角で立ち止まった。
事務所の近くの通りに当たるから見覚えがあるのは当然なのだが、そこはダンテとこのみにとって特別な場所だった。
「わたしとダンテが初めて会ったところだね」
11月の明け方近く……満月が不気味に輝いていたあの日。
悪魔に今にも襲われようとしていた少女を、偶然居合わせたダンテが助けた。
セーラー服をまとい、今よりも少し幼い顔をしたこのみは、ヘルと呼ばれる死神の姿に似た悪魔を前に固まっていた。
当時はテメンニグル事件の直後で瓦礫の海と化していたこの場所も、今はそれなりに復興を遂げつつある。
元の姿を取り戻すには、まだまだ年月がかかるだろうけれど。
「あの時、ダンテが現れなかったら……今ごろわたし、ここにいなかったんだろうね」
当時の恐怖を思い出したのか、このみはすがるように傘の柄を両手で握りしめる。
その手を取って安心させてやりたかったけど、傘が邪魔して無理だった。
「俺が通りかかったのは本当に偶然だったんだが、このみを助けることができて良かった」
一瞬でも悪魔の気配に感付くのが遅かったら、こうしてこのみと共にいることはなかったのだろう。
……彼女を好きになることも。
このみはそんなダンテの感傷的な思いに気が付いたのか、その表情を曇らせてダンテに尋ねた。
「ダンテ、わたしを助けて良かったって思ってる?
……後悔してない?」
後悔。
その言葉を聞いて、一瞬頭に血が上りそうになった。
このみを助けて後悔するなんてこと、あるはずがない。
それはこのみを見捨てていれば良かった、ということと同じ意味だ。
「……あんまりバカなこと言ってると怒るぞ。助けられて良かったって言ったろ」
助けることができて良かった。
このみを助けて良かった。
想いが叶わない切なさも痛みも、一重はこのみに出会ったせいだ。
けれどその苦しみ以上に、ダンテはこのみを愛しく思うのだ。
だからこのみを助けたことを……彼女を好きになったことを後悔することはない。
「このみと初めて出会ったあの時は……後々こんなことになるなんて思ってもみなかったけど、
俺はあの時お前を助けた俺を褒めてやりたいね」
ダンテがそう言うと、このみは過去に思いを馳せるように遠くを見つめた。
それから何か思い出したのか、苦笑いしながらダンテに言う。
「……ダンテ、結構わたしのことめんどくさそうだったよ」
「あの時は……あの時だろ。今は違う。
そう言うこのみこそ、俺のことずっと警戒しまくりだったくせに」
「……うん、そうだね」
責めるような口調のダンテに構わず、このみはふわりと笑った。
ダンテが本気で責めているわけなどないことくらい、このみは既に分かっているようだ。
このみの場合、悪魔の気配に敏感になって怯えていた、という理由があるのだが、今ではもうそれすら彼女と笑い話にできてしまう。
「ダンテ、あの時わたしを助けてくれてありがとう」
唐突なこのみの感謝の言葉にダンテは面食らう。
彼女がくれる"ありがとう"の言葉はいつも真っ直ぐすぎて、ダンテは素直に受け止められない。
要は照れくさいだけなのだが、こればかりはいつまで経っても直らなかった。
「……何だよ今更」
「きちんとお礼言ってなかったなって思って。
だから、遅くなったけど今言うね。本当にありがとう」
傘を手にダンテを見上げるこのみは笑顔だ。
出会ったばかりの頃は見せることのなかった柔らかな表情。
今ではこのみが一番の笑顔を向けてくれるのは自分なのだと思いたい。
やっぱりこのみの言葉は気恥ずかしくて、ダンテは茶化すように言葉を口にする。
「女のピンチに駆けつける男ってシチュエーション、ドキドキしたか?」
「……正直悪魔もダンテもどっちも怖かったよ。
ある意味ドキドキしたと言えるかも」
──そう言えばこのみに襲いかかった悪魔を殲滅した後、悲鳴を上げて逃げられたっけ。
「悪魔なんてそれまで見たことなかったし、どっちかって言うと急に襲われて混乱してたの。
ダンテは……素直に危ない人だと思った」
「おい、仮にもお前を助けた男だぞ」
「だから今では感謝してますってば」
このみは苦笑しながらそう言った。
そして雨の中立ち止まっていた二人は歩き出す。
隣を歩くこのみは、さっきまで楽しそうだったというのに、俯いて何か考え事をしているようだった。
「悪魔か……。鏡もジャンも、見つからないね」
「……そうだな」
このみが初めてこの世界へ来た年のクリスマスイブの一件以来、全く音沙汰がない。
警察からの情報もなし。
あの時ホテルの浴槽で死んでいた、このみと同じ世界からやってきたと思われる男に関しても、当時以上の情報が入るわけがなかった。
もはや気力だけでジャンを探し続けるのは難しいくらいだ。
「やっぱりもう、この近くにはいないの……?
だとしたら、わたしのやってることって無駄なのかな……」
「……………………」
このみはいまだに街での聞き込みとオカルトコレクターの屋敷を回り続けている。
彼女に"もう諦めろ"と言ったらどうなるだろう。
このみが鏡やジャンを捜すことを諦めて、この世界に留まってくれたとしたら……。
自分は素直に喜べるだろうか。
この先ずっとこのみが傍にいてくれるなら、それはすごく嬉しい。
けれどこのみがこれまで生きて築いてきた一切合切を捨てさせてまで、そんなわがままを通すことができるのだろうか。
最初から、このみの意思表示は決まっていた。
"何が何でも元の世界へ帰る。"
その決意を揺さぶるような真似をしていたのは他でもないダンテ自身だ。
だから仮にこのみが帰ることを諦めて、この世界に残るのだとしたら、その責任の一端はダンテにもある。
その重みを受け止めて、このみを支えてやることができるだろうか。
もちろん、一生このみを守りきる自信と意思はあるつもりだし、そうしたいと思っている。
けれど自分たちはまだどこか幼くて、これから先何十年と続いていくはずの人生を想像することは難しい。
それまでの人生を一度なくして何の後ろ盾もないこのみと、この世界で普通に暮らしていた女とではやはり違うと思う。
心の底から彼女を手に入れたいと思うけれど、今では考えつかないような苦労や苦しみが、この先いつあるかも分からない。
そんな思いをするのが自分1人なら良いが、恐らくそういうわけにはいかないだろう。
そしてそんな時、両親のいないこのみが頼りにできるのは、ダンテや少ない知人だけだ。
だから、強くこのみを引き止められない自分がいる。
ダンテは隣を歩くこのみを見下ろす。
いつの間にか誰よりも大切になって、自分が守ってやりたいと思ってしまった。
どこか寂しげな顔を俯かせて雨の中を歩くこのみを、抱き締めたくなる。
さっきまであんなに悩んでいたのに、このみの顔を見ると芽生えるのはただ純粋な愛情だ。
……不安もあるけれど、やっぱり一生をかけてこの人と共にありたい。
そう思えるくらい、彼女を好きになった。
(このみ……)
もう本当に我慢できなくなりそうだ。
だって今までずっと、このみを想い続けてきた。
自分の気持ちに反して、彼女が元の世界へ帰る方法を探し続けるジレンマに耐えるのもそろそろ限界だ。
この想いも、もう報われたっていいんじゃないか。
このみの小さな肩に手を伸ばしかけたその時、このみが振り返った。
自らに向かって中途半端に伸ばされたダンテの手を見て、一瞬苦しそうに眉を寄せた後、視線を逸らされた。
……また、拒絶された。
ダンテは行き場を失った腕をそっと下ろす。
「……何度も言ってるけど、やっぱりわたしはお父さんとお母さんに会いたいよ」
遠まわしにダンテを受け入れるつもりはないのだと、このみは告げる。
両親の名を出されると、ダンテは何も言えなくなってしまう。
このみの意思なんて無視できるくらい、自分勝手な恋ができたら良かったんだろうか。
そう考えるけれど、きっと無理だったろう。
だって、元の世界に戻りたいと願うこのみに協力したのは、家族をなくした自分と同じような苦しみを味わわせたくないという思いが始まりだったからだ。
家族を思い続ける彼女に付き合ううちに惹かれて、それがいつの間にか、このみを元の世界に帰したくないなんていうエゴを抱いてしまった。
「……別れる覚悟なんて、なかったから余計、執着しちゃうのかもしれないね。
事故とか、病気とか……そうやって唐突に訪れる別れもあるかもしれない。
だけど元の世界に戻ったら、もう一度お父さんとお母さんに会えるかもしれないって思うと、わたしは諦めきれないよ」
「……だったら俺とは二度と会えなくなってもいいのか。
俺とは別れる覚悟ができてるから、お前は帰ろうとするのか?」
今まで何度も言おうとして、飲み込み続けてきた言葉をとうとう口にしてしまった。
自分でも嫌になるくらい、意地の悪い言葉。
このみがその言葉を受けて動揺したのが分かって、ダンテは少しだけほっとする。
「……ダンテの所にお世話になり始めてから、もう二年と半年以上だっけ。
きっと、お別れとなったら寂しいだろうね」
まるで他人ごとのような口振りだったが、このみの声は震えている。
以前……初めてこのみと新年を迎えた時、彼女は似たようなことを言っていたが、あの時は心底寂しそうだった。
恐らくその時はダンテをまだ1人の男として意識していなかった頃だろうし、
このみが頑なになった原因であるトニーと出会う前の話だから、ただ純粋に"寂しい"と思ってくれたのかもしれない。
今はダンテに真意を見せまいと冷静を装うのが精一杯といった様子だ。
手に入らないのならいっそ、このみとは距離を置いた方が良いのかもしれないけれど、ダンテにはどうしても無理だった。
彼女の傍にいる心地よさを知ってしまったらそんなことはできなくなった。
それにこのみの心ははっきりと自分に向いていると思えるから、余計離れがたい。
何かのきっかけがあれば、このみは落ちてくれると思ってしまって。
最近では手も抵抗なく繋いでくれるようになったし、頬へのキスやハグだって受け入れてくれる。
たまにだけれど、このみから気を持たせるような言葉だって聞けた。
……それでもまだ、このみは自分を選んでくれないのだろうか。
強くダンテを拒絶しないのは、このみだって憎からず思ってくれているからじゃないのか。
「ダンテ、雨足が強まってきたよ。早くうちに戻ろう」
この話はもうこれで終わりだとばかりに、このみは歩を速めて歩き出す。
前を行く傘を眺めながら、ダンテは諦めきれない思いで事務所への道を歩いた。
このみの言葉通り、先程から傘を叩く雨音が激しくなっている。
どんより濁っていた雨雲は、いつの間にその表情を変えたのか、暗雲というにふさわしい色をしていた。
遠くの空で稲光が走るのが見える。
夏を目前にして、天気が不安定になっているようだ。
なんとか土砂降りになる前に事務所へたどり着くことができた。
普段なら照明はいらない程度にまだ明るいはずのこの時間帯でも、雨のせいで室内は薄暗かった。
「……服、濡れてるよね。着替えてきた方がいいよ」
「……ああ」
このみは傘を片付けながら、窓を叩く雨足を確認していた。
腹に響くような、ゴロゴロとした雷の音がしきりにする。
ダンテはこのみと顔を合わせるのが辛くて、着替えに向かおうと足を動かした。
傘を片付け終えたこのみは、照明をつけようとスイッチに手を伸ばす。
その時、一瞬の稲光の後、激しい雷鳴が轟いて地が揺れた。
近所のどこかに雷でも落ちたのだろうか。
驚いて悲鳴を上げるこのみのもとに駆けつけたのは、もはや反射といった方がいいだろう。
室内だから安全だと分かっていても、このみの体を庇うようにダンテは抱き締めた。
雷にかこつけて、単に彼女を抱き締めたかっただけかもしれない。
びくりと小さな体が腕の中で揺れる。
柔らかな体を抱いて、このみの香りをかいでいると、体の奥底にある熱が疼いた。
「……このみ」
何かを確かめるように、ダンテは彼女の名を呼ぶ。
このみは急に抱き締められたことに混乱し、おどおどとダンテを見上げた。
その唇に吸い寄せられるように、ダンテはこのみに顔を近付ける。
もういっそ、強引に奪ってしまえたら。
強く抱き締められて身動きできないこのみは、精一杯の抵抗とばかりに顔を背ける。
唇に落とされようとしていたダンテのキスは、このみの頬を掠めるだけに終わった。
「……やめて」
静かな、けれど震える声が拒否する。
「本当に、帰れなくなるから……。だからやめて」
ならこのまま続ければ、このみはずっと自分のもとにいてくれるのか。
そう思って強引にこのみの顔を上向かせると、潤んだ瞳と目が合った。
今にも泣き出しそうに涙をいっぱい溜めたその瞳の中に、自分の姿が映っている。
辺りは薄暗いのに、涙が何かの光を反射しているのか、やけにそれがはっきり見えた。
ただ彼女を欲するひとりの男がそこにいる。
このみの瞳の中の自分の姿が見ていられなくて、ダンテは結局このみを解放した。
「…………」
ダンテから視線を外してうなだれたこのみは、逃げようとはせずにダンテの目の前に突っ立っている。
「……もう限界?」
静かに尋ねるこのみの言葉にダンテは答えられない。
「やっぱりわたしを助けなければ良かったって思う?」
「思うわけないだろ」
それだけは即答できる。
いくらこのみに拒絶されようとも、このみと出会ったことを後悔はしない。
「……わたし、この家を出た方がいい?」
「それは嫌だ」
「わたし、誰も好きになったりしない。……ダンテの気持ちには応えられないよ」
「……それでもいいから」
──ただお前に傍にいてほしいよ。
いつか、このみが振り向いてくれるかもしれないという、途方もない希望を抱いてしまっているから。
"ダンテの気持ちには応えられない"とはっきり告げたこのみの顔が、告げられた自分以上に苦しげに見えたから。
明日から何でもないような顔をして、これまでのようなダンテには少し物足りない幸せを与えてくれるなら、それでもいい。
だから、どうか。
「……俺の傍にいてくれ」
小声で呟いた願望は、雨音に包まれた世界に溶け消えて、このみの耳に届いたのかどうかは分からなかった。
***あとがき***
雨で始まって、雨で終わった短編でした。
"誰も好きになったりしない"という言葉を貫こうとしているヒロインですが、
本編27話で言った時と同じ気持ちで言えているのでしょうか。
曖昧な関係もそろそろこれで終わりです。
お題は反転コンタクト様よりお借りいたしました。
「降ってきやがった……ツイてねえな……」
一仕事終え、スラム街にある事務所までもう少し、という所で雨に降られてしまった。
ダンテはどんよりと濁った雨雲を見上げ、その顔を濡らす。
服をうっすらと湿らせる程度の小雨だ。
この程度の雨量のためにどこかで雨宿りするのも癪だし、事務所まであと少しなのだから、と構わずダンテは歩き出す。
帰る前に事務所へ電話したらこのみが出たので、きっと彼女は帰りを待ってくれているだろう。
事務所へ戻ったらこのみの顔が見れると思うと、自然と急ぎ足になった。
雨が目に入らないよう、俯きがちに歩いていたダンテは、前方に人影があることに中々気が付かなかった。
視界の端にチラリと映り込んだ影が気になって顔を上げると、見覚えのある傘があった。
「このみ」
その名を呼んで傘の元へ駆ける。
このみは傘を軽く持ち上げて、空模様とは裏腹に晴れやかな笑顔をダンテに向けた。
「ダンテ、おかえり。傘持ってないだろうと思ってお迎えにあがりました」
このみは手に持っていたもう一本の傘を開いて、ダンテに差し出した。
それを受け取ったダンテは、濡れた体を傘の下へ収める。
「こっち向いて」
何かと思ってこのみを見下ろすと、鼻先にハンカチを押し付けられた。
どうやら精一杯腕を伸ばして雨に濡れた顔を拭いてくれているようだが、若干勢いが余りすぎている。
けれどそうされるのも悪い気はしなくて、ダンテは苦笑しながらそれを受け入れた。
このみのハンカチは洗い立ての良い香りがする。
彼女に似た匂いだ。
「サンキュー」
「帰ったらきちんと乾かそうね」
このみはまたにっこり笑うと、ダンテと並んで雨の降る街を歩き出した。
隣を歩くこのみの小さな歩幅に合わせて、ダンテはゆっくりと歩を進める。
ダンテ1人で歩く時よりも断然ゆったりとしたペースだ。
先ほどまであんなに早く家へ戻りたいと考えていたのに、今はそんなことは思わない。
雨にうっすら濡れた服が気持ち悪いはずなのに、このみがいさえすればそんなことはどうでも良いらしい。
「あ、ここ……」
それまで雨だというのに楽しげに歩いていたこのみは、寂れたスラム街の一角で立ち止まった。
事務所の近くの通りに当たるから見覚えがあるのは当然なのだが、そこはダンテとこのみにとって特別な場所だった。
「わたしとダンテが初めて会ったところだね」
11月の明け方近く……満月が不気味に輝いていたあの日。
悪魔に今にも襲われようとしていた少女を、偶然居合わせたダンテが助けた。
セーラー服をまとい、今よりも少し幼い顔をしたこのみは、ヘルと呼ばれる死神の姿に似た悪魔を前に固まっていた。
当時はテメンニグル事件の直後で瓦礫の海と化していたこの場所も、今はそれなりに復興を遂げつつある。
元の姿を取り戻すには、まだまだ年月がかかるだろうけれど。
「あの時、ダンテが現れなかったら……今ごろわたし、ここにいなかったんだろうね」
当時の恐怖を思い出したのか、このみはすがるように傘の柄を両手で握りしめる。
その手を取って安心させてやりたかったけど、傘が邪魔して無理だった。
「俺が通りかかったのは本当に偶然だったんだが、このみを助けることができて良かった」
一瞬でも悪魔の気配に感付くのが遅かったら、こうしてこのみと共にいることはなかったのだろう。
……彼女を好きになることも。
このみはそんなダンテの感傷的な思いに気が付いたのか、その表情を曇らせてダンテに尋ねた。
「ダンテ、わたしを助けて良かったって思ってる?
……後悔してない?」
後悔。
その言葉を聞いて、一瞬頭に血が上りそうになった。
このみを助けて後悔するなんてこと、あるはずがない。
それはこのみを見捨てていれば良かった、ということと同じ意味だ。
「……あんまりバカなこと言ってると怒るぞ。助けられて良かったって言ったろ」
助けることができて良かった。
このみを助けて良かった。
想いが叶わない切なさも痛みも、一重はこのみに出会ったせいだ。
けれどその苦しみ以上に、ダンテはこのみを愛しく思うのだ。
だからこのみを助けたことを……彼女を好きになったことを後悔することはない。
「このみと初めて出会ったあの時は……後々こんなことになるなんて思ってもみなかったけど、
俺はあの時お前を助けた俺を褒めてやりたいね」
ダンテがそう言うと、このみは過去に思いを馳せるように遠くを見つめた。
それから何か思い出したのか、苦笑いしながらダンテに言う。
「……ダンテ、結構わたしのことめんどくさそうだったよ」
「あの時は……あの時だろ。今は違う。
そう言うこのみこそ、俺のことずっと警戒しまくりだったくせに」
「……うん、そうだね」
責めるような口調のダンテに構わず、このみはふわりと笑った。
ダンテが本気で責めているわけなどないことくらい、このみは既に分かっているようだ。
このみの場合、悪魔の気配に敏感になって怯えていた、という理由があるのだが、今ではもうそれすら彼女と笑い話にできてしまう。
「ダンテ、あの時わたしを助けてくれてありがとう」
唐突なこのみの感謝の言葉にダンテは面食らう。
彼女がくれる"ありがとう"の言葉はいつも真っ直ぐすぎて、ダンテは素直に受け止められない。
要は照れくさいだけなのだが、こればかりはいつまで経っても直らなかった。
「……何だよ今更」
「きちんとお礼言ってなかったなって思って。
だから、遅くなったけど今言うね。本当にありがとう」
傘を手にダンテを見上げるこのみは笑顔だ。
出会ったばかりの頃は見せることのなかった柔らかな表情。
今ではこのみが一番の笑顔を向けてくれるのは自分なのだと思いたい。
やっぱりこのみの言葉は気恥ずかしくて、ダンテは茶化すように言葉を口にする。
「女のピンチに駆けつける男ってシチュエーション、ドキドキしたか?」
「……正直悪魔もダンテもどっちも怖かったよ。
ある意味ドキドキしたと言えるかも」
──そう言えばこのみに襲いかかった悪魔を殲滅した後、悲鳴を上げて逃げられたっけ。
「悪魔なんてそれまで見たことなかったし、どっちかって言うと急に襲われて混乱してたの。
ダンテは……素直に危ない人だと思った」
「おい、仮にもお前を助けた男だぞ」
「だから今では感謝してますってば」
このみは苦笑しながらそう言った。
そして雨の中立ち止まっていた二人は歩き出す。
隣を歩くこのみは、さっきまで楽しそうだったというのに、俯いて何か考え事をしているようだった。
「悪魔か……。鏡もジャンも、見つからないね」
「……そうだな」
このみが初めてこの世界へ来た年のクリスマスイブの一件以来、全く音沙汰がない。
警察からの情報もなし。
あの時ホテルの浴槽で死んでいた、このみと同じ世界からやってきたと思われる男に関しても、当時以上の情報が入るわけがなかった。
もはや気力だけでジャンを探し続けるのは難しいくらいだ。
「やっぱりもう、この近くにはいないの……?
だとしたら、わたしのやってることって無駄なのかな……」
「……………………」
このみはいまだに街での聞き込みとオカルトコレクターの屋敷を回り続けている。
彼女に"もう諦めろ"と言ったらどうなるだろう。
このみが鏡やジャンを捜すことを諦めて、この世界に留まってくれたとしたら……。
自分は素直に喜べるだろうか。
この先ずっとこのみが傍にいてくれるなら、それはすごく嬉しい。
けれどこのみがこれまで生きて築いてきた一切合切を捨てさせてまで、そんなわがままを通すことができるのだろうか。
最初から、このみの意思表示は決まっていた。
"何が何でも元の世界へ帰る。"
その決意を揺さぶるような真似をしていたのは他でもないダンテ自身だ。
だから仮にこのみが帰ることを諦めて、この世界に残るのだとしたら、その責任の一端はダンテにもある。
その重みを受け止めて、このみを支えてやることができるだろうか。
もちろん、一生このみを守りきる自信と意思はあるつもりだし、そうしたいと思っている。
けれど自分たちはまだどこか幼くて、これから先何十年と続いていくはずの人生を想像することは難しい。
それまでの人生を一度なくして何の後ろ盾もないこのみと、この世界で普通に暮らしていた女とではやはり違うと思う。
心の底から彼女を手に入れたいと思うけれど、今では考えつかないような苦労や苦しみが、この先いつあるかも分からない。
そんな思いをするのが自分1人なら良いが、恐らくそういうわけにはいかないだろう。
そしてそんな時、両親のいないこのみが頼りにできるのは、ダンテや少ない知人だけだ。
だから、強くこのみを引き止められない自分がいる。
ダンテは隣を歩くこのみを見下ろす。
いつの間にか誰よりも大切になって、自分が守ってやりたいと思ってしまった。
どこか寂しげな顔を俯かせて雨の中を歩くこのみを、抱き締めたくなる。
さっきまであんなに悩んでいたのに、このみの顔を見ると芽生えるのはただ純粋な愛情だ。
……不安もあるけれど、やっぱり一生をかけてこの人と共にありたい。
そう思えるくらい、彼女を好きになった。
(このみ……)
もう本当に我慢できなくなりそうだ。
だって今までずっと、このみを想い続けてきた。
自分の気持ちに反して、彼女が元の世界へ帰る方法を探し続けるジレンマに耐えるのもそろそろ限界だ。
この想いも、もう報われたっていいんじゃないか。
このみの小さな肩に手を伸ばしかけたその時、このみが振り返った。
自らに向かって中途半端に伸ばされたダンテの手を見て、一瞬苦しそうに眉を寄せた後、視線を逸らされた。
……また、拒絶された。
ダンテは行き場を失った腕をそっと下ろす。
「……何度も言ってるけど、やっぱりわたしはお父さんとお母さんに会いたいよ」
遠まわしにダンテを受け入れるつもりはないのだと、このみは告げる。
両親の名を出されると、ダンテは何も言えなくなってしまう。
このみの意思なんて無視できるくらい、自分勝手な恋ができたら良かったんだろうか。
そう考えるけれど、きっと無理だったろう。
だって、元の世界に戻りたいと願うこのみに協力したのは、家族をなくした自分と同じような苦しみを味わわせたくないという思いが始まりだったからだ。
家族を思い続ける彼女に付き合ううちに惹かれて、それがいつの間にか、このみを元の世界に帰したくないなんていうエゴを抱いてしまった。
「……別れる覚悟なんて、なかったから余計、執着しちゃうのかもしれないね。
事故とか、病気とか……そうやって唐突に訪れる別れもあるかもしれない。
だけど元の世界に戻ったら、もう一度お父さんとお母さんに会えるかもしれないって思うと、わたしは諦めきれないよ」
「……だったら俺とは二度と会えなくなってもいいのか。
俺とは別れる覚悟ができてるから、お前は帰ろうとするのか?」
今まで何度も言おうとして、飲み込み続けてきた言葉をとうとう口にしてしまった。
自分でも嫌になるくらい、意地の悪い言葉。
このみがその言葉を受けて動揺したのが分かって、ダンテは少しだけほっとする。
「……ダンテの所にお世話になり始めてから、もう二年と半年以上だっけ。
きっと、お別れとなったら寂しいだろうね」
まるで他人ごとのような口振りだったが、このみの声は震えている。
以前……初めてこのみと新年を迎えた時、彼女は似たようなことを言っていたが、あの時は心底寂しそうだった。
恐らくその時はダンテをまだ1人の男として意識していなかった頃だろうし、
このみが頑なになった原因であるトニーと出会う前の話だから、ただ純粋に"寂しい"と思ってくれたのかもしれない。
今はダンテに真意を見せまいと冷静を装うのが精一杯といった様子だ。
手に入らないのならいっそ、このみとは距離を置いた方が良いのかもしれないけれど、ダンテにはどうしても無理だった。
彼女の傍にいる心地よさを知ってしまったらそんなことはできなくなった。
それにこのみの心ははっきりと自分に向いていると思えるから、余計離れがたい。
何かのきっかけがあれば、このみは落ちてくれると思ってしまって。
最近では手も抵抗なく繋いでくれるようになったし、頬へのキスやハグだって受け入れてくれる。
たまにだけれど、このみから気を持たせるような言葉だって聞けた。
……それでもまだ、このみは自分を選んでくれないのだろうか。
強くダンテを拒絶しないのは、このみだって憎からず思ってくれているからじゃないのか。
「ダンテ、雨足が強まってきたよ。早くうちに戻ろう」
この話はもうこれで終わりだとばかりに、このみは歩を速めて歩き出す。
前を行く傘を眺めながら、ダンテは諦めきれない思いで事務所への道を歩いた。
このみの言葉通り、先程から傘を叩く雨音が激しくなっている。
どんより濁っていた雨雲は、いつの間にその表情を変えたのか、暗雲というにふさわしい色をしていた。
遠くの空で稲光が走るのが見える。
夏を目前にして、天気が不安定になっているようだ。
なんとか土砂降りになる前に事務所へたどり着くことができた。
普段なら照明はいらない程度にまだ明るいはずのこの時間帯でも、雨のせいで室内は薄暗かった。
「……服、濡れてるよね。着替えてきた方がいいよ」
「……ああ」
このみは傘を片付けながら、窓を叩く雨足を確認していた。
腹に響くような、ゴロゴロとした雷の音がしきりにする。
ダンテはこのみと顔を合わせるのが辛くて、着替えに向かおうと足を動かした。
傘を片付け終えたこのみは、照明をつけようとスイッチに手を伸ばす。
その時、一瞬の稲光の後、激しい雷鳴が轟いて地が揺れた。
近所のどこかに雷でも落ちたのだろうか。
驚いて悲鳴を上げるこのみのもとに駆けつけたのは、もはや反射といった方がいいだろう。
室内だから安全だと分かっていても、このみの体を庇うようにダンテは抱き締めた。
雷にかこつけて、単に彼女を抱き締めたかっただけかもしれない。
びくりと小さな体が腕の中で揺れる。
柔らかな体を抱いて、このみの香りをかいでいると、体の奥底にある熱が疼いた。
「……このみ」
何かを確かめるように、ダンテは彼女の名を呼ぶ。
このみは急に抱き締められたことに混乱し、おどおどとダンテを見上げた。
その唇に吸い寄せられるように、ダンテはこのみに顔を近付ける。
もういっそ、強引に奪ってしまえたら。
強く抱き締められて身動きできないこのみは、精一杯の抵抗とばかりに顔を背ける。
唇に落とされようとしていたダンテのキスは、このみの頬を掠めるだけに終わった。
「……やめて」
静かな、けれど震える声が拒否する。
「本当に、帰れなくなるから……。だからやめて」
ならこのまま続ければ、このみはずっと自分のもとにいてくれるのか。
そう思って強引にこのみの顔を上向かせると、潤んだ瞳と目が合った。
今にも泣き出しそうに涙をいっぱい溜めたその瞳の中に、自分の姿が映っている。
辺りは薄暗いのに、涙が何かの光を反射しているのか、やけにそれがはっきり見えた。
ただ彼女を欲するひとりの男がそこにいる。
このみの瞳の中の自分の姿が見ていられなくて、ダンテは結局このみを解放した。
「…………」
ダンテから視線を外してうなだれたこのみは、逃げようとはせずにダンテの目の前に突っ立っている。
「……もう限界?」
静かに尋ねるこのみの言葉にダンテは答えられない。
「やっぱりわたしを助けなければ良かったって思う?」
「思うわけないだろ」
それだけは即答できる。
いくらこのみに拒絶されようとも、このみと出会ったことを後悔はしない。
「……わたし、この家を出た方がいい?」
「それは嫌だ」
「わたし、誰も好きになったりしない。……ダンテの気持ちには応えられないよ」
「……それでもいいから」
──ただお前に傍にいてほしいよ。
いつか、このみが振り向いてくれるかもしれないという、途方もない希望を抱いてしまっているから。
"ダンテの気持ちには応えられない"とはっきり告げたこのみの顔が、告げられた自分以上に苦しげに見えたから。
明日から何でもないような顔をして、これまでのようなダンテには少し物足りない幸せを与えてくれるなら、それでもいい。
だから、どうか。
「……俺の傍にいてくれ」
小声で呟いた願望は、雨音に包まれた世界に溶け消えて、このみの耳に届いたのかどうかは分からなかった。
***あとがき***
雨で始まって、雨で終わった短編でした。
"誰も好きになったりしない"という言葉を貫こうとしているヒロインですが、
本編27話で言った時と同じ気持ちで言えているのでしょうか。
曖昧な関係もそろそろこれで終わりです。
お題は反転コンタクト様よりお借りいたしました。
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