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21年間生きてきたうちの2年、というのは、長いとは言えないかもしれないが、短いとも言えないのではないかと俺は思う。
しかも人生の初めの数年間なんてほとんど記憶に残っていないわけで、しかも俺の言う2年は今から遡っての年数だ。
つまり、一番新しい。
何が言いたいかというと、伊勢このみが俺の前に現れてから、そろそろ2年が経とうとしているということだ。
出会った当初、19だった俺は今年で21になって、一つ年下のこのみは20歳だ。
……童顔のこのみは、とてもそうは見えないけれど。
このみの大嫌いな夏が終わった。
彼女が夏を嫌う理由は、虫が出るから。
蝶と、それとほとんど形が変わらない蛾、加えて羽のある虫は大体苦手だ。
夜になるとネオンに蛾がたかって、翌朝それが店先に落ちて死んでいるので、それを掃除するのが俺の役目。
秋も……またセンター出願できなかった、と嘆いていたから、好きな季節ではないだろう。
このみがこの世界にやってきたのは11月の頭だったから、秋は好きではないどころか、嫌いかもしれない。
とにかく、このみと俺の付き合いは2年目に突入しようとしている。
それは最初にも言ったように、俺の人生の中で考えると短くはない時間だ。
しかも同棲しているから、家族以外の普通の人間よりも、よっぽど濃い期間を過ごしていると言える。
だが、同棲といっても俺とこのみは恋人同士というわけではない。
世間様はそんな俺たちを見て「まさか」と言うだろう。
「どっからどう見ても恋人同士だ」とも言うかもしれない。
「なら恋愛感情はないのか?」と問われれば、それは違う。
俺はこのみが好きだ。(彼女は童顔だが断じて俺はロリコンではない。小さくなったこのみなら別だが)
それは俺自身が一番よく分かっているし、直接口にはしないが好意は隠していないので、このみも知っているはずだ。
そしてこのみも、俺には人並み以上の感情を抱いて……もっと言えば好きでいてくれていると思う。
つまり相思相愛というわけで、世間様はそんな空気を感じ取って俺たちを恋人だの何だの、そういう言葉で片付けようとする。
だが、俺たちは相思相愛だからといってめでたくお付き合いが叶うような関係ではなかった。
家柄だとか、身分だとか、そういうレベルの話ではない。
というか、その程度の障害であればどれだけ良かったことか、と今まで何度思ったか分からない。
俺たちの間に立ちはだかるのは、「世界」という突拍子もなくかつ途方もなく大きく、そして実にファンタジーめいたものだった。
このみは異世界からやってきた人間だ。
学校にあった不思議な鏡を通って、この世界へ訪れた客人。
蝶を操るジャン(仮称)という悪魔が、この件に関わっているらしい。
このみがいた世界は俺が住むこの世界と似ているが、その実、根本からして違う理から成り立ったものなのだそうだ。
何しろ彼女の世界に悪魔は存在しない。
この世界でも「知る人ぞ知る」という扱いの悪魔だが、何を隠そうこの俺が悪魔の血を引いているので、それを疑問に思う余地などない。
まあ彼女の世界に本当に悪魔がいないのかどうかなんて確かめようがないのだが、あながち間違ってもいないだろう。
このみには、悪魔を感知するという能力がある。
反応に関しては俺よりも感度がいいかもしれない。
それは彼女にとって悪魔という存在が全く異質のものだということを表している。
いわゆる「霊感持ち」なのか、と以前聞いてみたが、このみは違うと言っていたし。
それに、悪魔ではないただの人間に関しても、「上面だけ同じの自分とは違う別の何か」に見えるとも言っていた。
また、このみとは逆の立場の俺から見ても、このみは異常に目を引く存在だった。
惚れたせいだとかそういうわけではなく、出会った当初からとにかく気にかかる存在だったのだ。
これに関しては周囲の人間の反応からして明らかだった。
集団の中に身を置けば、このみはものすごく人目を引く。
さすがに2年経ってこの世界に馴染んできたのか、鈍感な人間はこのみを素通りするようになったものの、目立つことに変わりはない。
まあこれに関してはさほど大きな問題ではない。(悪い虫につかれやすいという点に関しては無視できないが。……虫だけに)
問題は、彼女の世界にこのみの両親や、彼女を大切に思っている人間が大勢残されているということ。
そして異世界人であるこのみは、この世界では戸籍がないのだということの2つ。
このみはこのスラム街で暮らしている人間には眩しいくらいに品行方正の真面目ちゃんかつ、お嬢さんだ。
このみ本人はいたって普通だと主張するが、俺からすれば世間知らずでうぶなお嬢さん育ち。
性格と立ち居振る舞いからして両親に蝶よ花よと育てられたのがモロに分かるし、このみ本人も両親を大好きと言ってはばからない。
だからこのみは、当然彼女の世界に戻りたがっている。
俺と暮らしていくことを決意すれば、このみは二度と両親に会えなくなるということだ。
それはもはや、死に別れることに等しい。
両親だけではない……友達や、祖父母、先生……彼女の人生の18年間を共有して、そして付き合ってきた人間全てとの、別れ。
それはどれほど絶望的な状況だろう。
俺も……子供の頃に母さんを殺され、双子のバージルも行方知れずになり、世界に1人取り残された。
名前を隠して生きていた時代もあったから、戸籍がなくて苦労するこのみの気持ちも分かる。
あの時の俺と同じ絶望を、このみには味わわせたくない。
俺さえいればいいだろ、なんて自惚れたことは死んでも言えない。
それは両親の元へ必死に帰ろうとするこのみへの冒涜だ。
……まあその言葉を言いたくないといえば嘘になるが、家族を大切に考えることができる彼女に、俺は惚れたのだから。
両親を捨て置いて、両手を挙げて俺の所へ残るような女なら、最初から好きになってなどいない。
それに……このみには大学に行くという目標がある。
今年で3回目の浪人となってしまったわけだが、このみは未だ諦めずに勉強を続けている。
半ばこのみのアイデンティティになりつつあるそれを、俺は止めることができない。
このみは勉強をすることで、心の平穏を保っているようなふしがある。
無理もないだろう、2年間元の世界へ戻る方法を探しているものの、有力な情報は得られていないのだから。
だから必死に勉強を続けて、その勉強が無駄にならないように、
何が何でも帰る方法を探す……ほとんど意地に近いその思いで、このみはここにいる。
逆に言えば、このみが勉強を止めた時は、彼女が「帰るのを諦めた時」なのだろう。
今までだって、このみが勉強を止めようとしたことがないわけではなかった。
聞き込みの頻度が下がったことだってある。
どれだけ本人が固い意志を持ったつもりだったとしても、人間の心なんてものは簡単に変わってしまうものだ。
けれど、そうやって彼女が諦めかけるたびに、ふと両親を思い出すようなきっかけが生じる。
その度にこのみは、再び自分を戒めるのだ。
……弱い隙をついてこのみに愛を囁けば、彼女は折れてくれるかもしれない。
けれどそれをしないのは、それでも彼女に断られる可能性があることと、そんな弱みにつけ込むような真似はしたくないからだ。
このみが俺を好きでいることに間違いはないだろうが、彼女は「この世界で人を好きになってはいけない」と思い込んでいる。
だから例えこのみが俺を想っていてくれたとしても、拒絶される可能性はある。
このみには彼女の意思で俺を選んでほしい。
時間をかけてでもいいから。
……と思っていたのだが、さすがにそんな生活が2年も続くとなると、心も折れかけるというもので。
このみを諦めようとか、そういう話ではない。
むしろ時間を重ねれば重ねるだけ、それだけ想いも募るというものだが、その分色々と我慢の限界というものも感じる。
我慢というのは、とてもこのみに聞かせられないようなアレやソレなわけだ。
俺は逃げられると追いかけたくなる性格なのだが、このみの場合は手に入れられる場所にいるというのに、
意のままにしようと思えばできるほど傍にいるのに、とても手出しができないような存在だった。
同衾と頬へのキスまでは許された身なのだから、もしかしたらそれ以上だってOKなのかもしれない。
かといって試す勇気もない。
何せ頬っぺたのキスでさえあれほど照れて取り乱す彼女だから、それ以上のことをすれば家を飛び出しかねない。
けれど、俺だってこのまま何もせずにいるというわけにもいかない。
俺はこのみをいつまで待てばいい?
このみは向こうの世界で18年間過ごした。
それなら、この世界で2年過ごしたこのみは、あと16年経てばこの世界に留まってくれるのか?
……さすがにそこまで、俺の気は長くない。
何か、動き出せるきっかけがあればいいんだが。
俺はひたすらそんなことを考えながら、一日また一日と日々を過ごしていた。
そんな秋の日。
このみはシーツの洗濯をするために、二階で何やらゴソゴソしていた。
俺はといえばいつもどおり机に足を乗せながらゴロゴロしていて、つまり何でもない日常の風景だった。
いつもと違っていたのは、このみがいつも洗濯用に使っていたかごの取っ手が取れてしまっていたことだ。
だから今日のこのみはかごを使わず、手でシーツを持ち運ぼうとしていた。
二人分のシーツを抱えたこのみの足元には、手の中に納まりきらなかったシーツの端が垂れ下がっていたのだ。
それに気づかずにそのまま階段を下りようとしたこのみは、当然シーツに足を取られる。
「あっ……」と悲鳴にもならないようなこのみの声を聞き取った俺を、俺は褒めてやりたい。
その声を聞くなり俺は考える間もなく椅子から飛び上がって、
多分普通の人間なら視認すらできないようなスピードで階段に向かって駆け寄っていた。
一呼吸する間もなかったように思う。
階段の上から投げ出されたこのみの体を、俺は階段を駆け上って受け止めようとした。
けれど俺自身が猛スピードで突っ込んだので、このまま立ち止まればこのみもかなりの衝撃を受ける。
だから俺はこのみの体を受け止めつつ、上体を反らして重力に身を任せた。
視界いっぱいに、驚いたような様子で飛び込んできたこのみの顔が目に焼きつく。
このみの黒い髪がさらりと俺の頬を撫でた。
ガツッと俺の歯が何かに当たる音がする。
柔らかな感触を確かに唇に覚えた後、俺は背中と頭に衝撃を受けた。
このみを抱えた……というよりは、下敷きになったと言った方が近い俺は、
階段の角ですりおろされるかのように、背中を下にして頭から数段滑り落ちた。
そして階段の中ほどで、俺たちは止まる。
俺は慌てて身を起こしながら、体の上に乗せたこのみを見た。
「このみ、無事か!?怪我は…………!!」
そう言いつつ、俺は自分の口の端が濡れていることに気がついた。
何気なく拭えばそれは血だった。
このみを庇った際に何かの拍子で切ったのだろうと思って、深く気には留めない。
「……っ、いたっ……」
シーツに纏わりつかれながら身を起こしたこのみは、片手で口を覆っていた。
その手の隙間から流れ落ちた赤い液体が、彼女の手を伝って、真っ白なシーツにまだら模様の染みを作る。
体に電流でも流されたかのような衝撃。
それを見た俺は、ただひたすら混乱するしかなかった。
「切ったのか!?」
「そうみたい……」
俺は自分でも驚くほど動揺しながら、口を覆うこのみの手首を取る。
手をどかしたそこにあったのは、下唇に傷を作って、裂傷部分から血を流すこのみの姿だった。
血はこのみの顎を伝い、今もなおシーツを汚していく。
真っ白なシーツがこのみの血で赤く汚れていくというのは、なぜだかひどく犯しがたいものを見ているようだった。
取るものも取りあえず、このみを抱きかかえて、俺は洗面所に向かった。
その傷口と血で汚れた口元を水で洗い流し、止血のためにガーゼを当てる。
結構ボタボタ流れていた血だったが、押さえているうちに幸いにも徐々に止まってくれたようだ。
このみはソファーの上で、俺にガーゼで傷口を押さえられながら休んでいる。
「ダンテ、止血ならわたし一人でできるから……。早くシーツの染み抜きしないと」
「ああ、ああ、分かってる……」
俺はこのみの下唇を押さえていた手を外して、階段に放置していたシーツを取りに行った。
それを抱えて、洗面所で汚れを落とす。
まだ新しかったせいか、比較的簡単に綺麗になっていく。
それを洗濯機の中に放り込んだ後、俺はすぐさまリビングへ戻った。
もうすっかり血は止まったのか、彼女はガーゼに移った血の跡を確認している。
このみは戻ってきた俺に気がついて、顔を上げて笑った。
「ダンテ、シーツの血、落ちた?洗濯させてごめ……」
「馬鹿、このみ!足元には気をつけろよ!今日は俺がいたから良かったけど、一人だったら大怪我だぞ!」
「ご、ごめんなさい……」
のん気にシーツの心配をするこのみを見て、俺の頭は沸騰したように熱くなって、気がつけばこのみを怒鳴っていた。
俺に怒鳴られ、しょんぼりと肩を落とすこのみを見て、今度は俺の眉が下がる。
厳しい言い方をしてしまったのは、このみが心配だったからだ。
俺はふっと溜息をついて、このみの隣に座り、彼女の顎に手を添えた。
「……痛いか?」
「口動かすと、少し。ダンテ、助けてくれてありがとう。
ダンテは怪我ない?すごい頭と背中打ってたけど……」
「俺を誰だと思ってる?お前を助ける王子様だぜ」
「冗談が言えるなら大丈夫だね」
このみは顎に添えた俺の手に彼女の手で触れて、その頬をすり寄せた。
「ありがと……」
「……ああ」
ひどく愛情を感じるその行為に、俺は無条件で幸せな気分になる。
にしても、唇とは言え女の子の顔に傷ができてしまったとなると、落ち着いてはいられない。
「すぐ直りそうな怪我だから、幸いだったというか……。
っつーか、何で唇に怪我したんだろうな?俺が庇ったのに」
「うーん、そうだよね。何かにぶつかった感触があったんだけど、目つぶっててよく分からなかった」
怪我をするなら、手か足にしそうなものなのに。
二人してソファに並びながら、首を捻る。
……そう言えば、このみを抱きとめた時に歯と唇に何か当たらなかっただろうか。
考えていた俺は、とんでもない結論にいきあたる。
俺の唇についていた血。
あれ、もしやこのみの血だったのでは……?
で、俺の歯が何かにぶつかったあの時に、このみは唇に怪我を負った……?
いやまさかまさかまさか、でもあの時唇に覚えたあの感触って──
「あっ……」
その時突然、小さな声を上げて、このみが火を付けたようにぼっと赤くなった。
あわあわとせわしなく動いたこのみの指先は、彼女の唇に触れる。
もしかして、このみも俺と同じこと考えたのだろうか。
いやいやいや、まさかそんなはず……ないだろ!?
俺が下になっていたあの状況で、このみが唇に怪我を負うなんてことはまず考えられない。
……俺が傷つけたんでない限り。
ってことは、やっぱり、つまり、そういうこと?
「このみの怪我……俺のせい、だよな?」
恐る恐る尋ねると、このみの顔はさらに赤くなる。
「あの……悪い」
怪我をさせたことへの謝罪なのか、不可抗力とは言え唇を奪ってしまったことへの詫びなのか。
俯くこのみを見て、俺はどうするべきか考える。
ここで変にぎこちなくなるのも俺らしくない気がして、ふざけた声音でこのみに言う。
「あー……もしかしてこのみ、初めてだったとか?
ファーストキスが血の味とかついてねーよな。仕切り直しにもう一回やっとく?」
うん、実に俺らしい返答ではなかろうか。
そう思いながらこのみを見下ろすと、彼女は微かに震えている……ような気がした。
「……どうせ初めてですよ」
「やっぱ?おっそ、日本人って奥手なんだな。相手が俺で良かっただろ?」
「………………」
あれ、黙り込んでしまった。
そっか、よく考えるとこっち来て2年はずっと俺のとこにいたんだから、キスする相手なんているわけないんだよな。
んで初めてってことは、日本にいた時もそーゆー男はいなかったってことか。
……ちょっと安心……というか、俺が初めて、ってかなり嬉しいかもしれない。
俺がにやにやしていたその時、このみの膝の上に作られた握り拳に、ぽたりと水が垂れた。
ぎょっと身を固める俺の隣で、このみは呟く。
「……ダンテのそういうところ、嫌い」
このみは袖で目元を拭い、立ち上がって階段を駆け上がって行った。
俺はと言えば、身動きできずにそれを見送るしかない。
な、泣かせてしまった……!
しかも嫌い、とまで言われてしまった……!
そうだ、このみは超がつくうぶなのだから、あんな言い方すれば引かれるに決まってんじゃん!
俺は頭を抱えて背を丸める。
ってゆーか、よく考えると俺こそこのみとのファーストキスがあんなんだなんて嫌だよ!
当初の予定としては、もっとこうロマンチックなシチュエーションでするつもり(妄想)だったのに!
柔らかさを味わう暇すらなかったっつーの!
しかも俺が怪我させたようなものじゃねーか!
このみからすれば初のキスがあんな流血を伴うものになってしまったわけで、それって女の立場からすればかなりショックだったんじゃ……!
マズいこと言ってしまった?
ぐるぐると頭の中で声に出せない叫びが走り回る。
あーもう、最悪!!
21年間生きてきたうちの2年、というのは、長いとは言えないかもしれないが、短いとも言えないのではないかと俺は思う。
しかも人生の初めの数年間なんてほとんど記憶に残っていないわけで、しかも俺の言う2年は今から遡っての年数だ。
つまり、一番新しい。
何が言いたいかというと、伊勢このみが俺の前に現れてから、そろそろ2年が経とうとしているということだ。
出会った当初、19だった俺は今年で21になって、一つ年下のこのみは20歳だ。
……童顔のこのみは、とてもそうは見えないけれど。
このみの大嫌いな夏が終わった。
彼女が夏を嫌う理由は、虫が出るから。
蝶と、それとほとんど形が変わらない蛾、加えて羽のある虫は大体苦手だ。
夜になるとネオンに蛾がたかって、翌朝それが店先に落ちて死んでいるので、それを掃除するのが俺の役目。
秋も……またセンター出願できなかった、と嘆いていたから、好きな季節ではないだろう。
このみがこの世界にやってきたのは11月の頭だったから、秋は好きではないどころか、嫌いかもしれない。
とにかく、このみと俺の付き合いは2年目に突入しようとしている。
それは最初にも言ったように、俺の人生の中で考えると短くはない時間だ。
しかも同棲しているから、家族以外の普通の人間よりも、よっぽど濃い期間を過ごしていると言える。
だが、同棲といっても俺とこのみは恋人同士というわけではない。
世間様はそんな俺たちを見て「まさか」と言うだろう。
「どっからどう見ても恋人同士だ」とも言うかもしれない。
「なら恋愛感情はないのか?」と問われれば、それは違う。
俺はこのみが好きだ。(彼女は童顔だが断じて俺はロリコンではない。小さくなったこのみなら別だが)
それは俺自身が一番よく分かっているし、直接口にはしないが好意は隠していないので、このみも知っているはずだ。
そしてこのみも、俺には人並み以上の感情を抱いて……もっと言えば好きでいてくれていると思う。
つまり相思相愛というわけで、世間様はそんな空気を感じ取って俺たちを恋人だの何だの、そういう言葉で片付けようとする。
だが、俺たちは相思相愛だからといってめでたくお付き合いが叶うような関係ではなかった。
家柄だとか、身分だとか、そういうレベルの話ではない。
というか、その程度の障害であればどれだけ良かったことか、と今まで何度思ったか分からない。
俺たちの間に立ちはだかるのは、「世界」という突拍子もなくかつ途方もなく大きく、そして実にファンタジーめいたものだった。
このみは異世界からやってきた人間だ。
学校にあった不思議な鏡を通って、この世界へ訪れた客人。
蝶を操るジャン(仮称)という悪魔が、この件に関わっているらしい。
このみがいた世界は俺が住むこの世界と似ているが、その実、根本からして違う理から成り立ったものなのだそうだ。
何しろ彼女の世界に悪魔は存在しない。
この世界でも「知る人ぞ知る」という扱いの悪魔だが、何を隠そうこの俺が悪魔の血を引いているので、それを疑問に思う余地などない。
まあ彼女の世界に本当に悪魔がいないのかどうかなんて確かめようがないのだが、あながち間違ってもいないだろう。
このみには、悪魔を感知するという能力がある。
反応に関しては俺よりも感度がいいかもしれない。
それは彼女にとって悪魔という存在が全く異質のものだということを表している。
いわゆる「霊感持ち」なのか、と以前聞いてみたが、このみは違うと言っていたし。
それに、悪魔ではないただの人間に関しても、「上面だけ同じの自分とは違う別の何か」に見えるとも言っていた。
また、このみとは逆の立場の俺から見ても、このみは異常に目を引く存在だった。
惚れたせいだとかそういうわけではなく、出会った当初からとにかく気にかかる存在だったのだ。
これに関しては周囲の人間の反応からして明らかだった。
集団の中に身を置けば、このみはものすごく人目を引く。
さすがに2年経ってこの世界に馴染んできたのか、鈍感な人間はこのみを素通りするようになったものの、目立つことに変わりはない。
まあこれに関してはさほど大きな問題ではない。(悪い虫につかれやすいという点に関しては無視できないが。……虫だけに)
問題は、彼女の世界にこのみの両親や、彼女を大切に思っている人間が大勢残されているということ。
そして異世界人であるこのみは、この世界では戸籍がないのだということの2つ。
このみはこのスラム街で暮らしている人間には眩しいくらいに品行方正の真面目ちゃんかつ、お嬢さんだ。
このみ本人はいたって普通だと主張するが、俺からすれば世間知らずでうぶなお嬢さん育ち。
性格と立ち居振る舞いからして両親に蝶よ花よと育てられたのがモロに分かるし、このみ本人も両親を大好きと言ってはばからない。
だからこのみは、当然彼女の世界に戻りたがっている。
俺と暮らしていくことを決意すれば、このみは二度と両親に会えなくなるということだ。
それはもはや、死に別れることに等しい。
両親だけではない……友達や、祖父母、先生……彼女の人生の18年間を共有して、そして付き合ってきた人間全てとの、別れ。
それはどれほど絶望的な状況だろう。
俺も……子供の頃に母さんを殺され、双子のバージルも行方知れずになり、世界に1人取り残された。
名前を隠して生きていた時代もあったから、戸籍がなくて苦労するこのみの気持ちも分かる。
あの時の俺と同じ絶望を、このみには味わわせたくない。
俺さえいればいいだろ、なんて自惚れたことは死んでも言えない。
それは両親の元へ必死に帰ろうとするこのみへの冒涜だ。
……まあその言葉を言いたくないといえば嘘になるが、家族を大切に考えることができる彼女に、俺は惚れたのだから。
両親を捨て置いて、両手を挙げて俺の所へ残るような女なら、最初から好きになってなどいない。
それに……このみには大学に行くという目標がある。
今年で3回目の浪人となってしまったわけだが、このみは未だ諦めずに勉強を続けている。
半ばこのみのアイデンティティになりつつあるそれを、俺は止めることができない。
このみは勉強をすることで、心の平穏を保っているようなふしがある。
無理もないだろう、2年間元の世界へ戻る方法を探しているものの、有力な情報は得られていないのだから。
だから必死に勉強を続けて、その勉強が無駄にならないように、
何が何でも帰る方法を探す……ほとんど意地に近いその思いで、このみはここにいる。
逆に言えば、このみが勉強を止めた時は、彼女が「帰るのを諦めた時」なのだろう。
今までだって、このみが勉強を止めようとしたことがないわけではなかった。
聞き込みの頻度が下がったことだってある。
どれだけ本人が固い意志を持ったつもりだったとしても、人間の心なんてものは簡単に変わってしまうものだ。
けれど、そうやって彼女が諦めかけるたびに、ふと両親を思い出すようなきっかけが生じる。
その度にこのみは、再び自分を戒めるのだ。
……弱い隙をついてこのみに愛を囁けば、彼女は折れてくれるかもしれない。
けれどそれをしないのは、それでも彼女に断られる可能性があることと、そんな弱みにつけ込むような真似はしたくないからだ。
このみが俺を好きでいることに間違いはないだろうが、彼女は「この世界で人を好きになってはいけない」と思い込んでいる。
だから例えこのみが俺を想っていてくれたとしても、拒絶される可能性はある。
このみには彼女の意思で俺を選んでほしい。
時間をかけてでもいいから。
……と思っていたのだが、さすがにそんな生活が2年も続くとなると、心も折れかけるというもので。
このみを諦めようとか、そういう話ではない。
むしろ時間を重ねれば重ねるだけ、それだけ想いも募るというものだが、その分色々と我慢の限界というものも感じる。
我慢というのは、とてもこのみに聞かせられないようなアレやソレなわけだ。
俺は逃げられると追いかけたくなる性格なのだが、このみの場合は手に入れられる場所にいるというのに、
意のままにしようと思えばできるほど傍にいるのに、とても手出しができないような存在だった。
同衾と頬へのキスまでは許された身なのだから、もしかしたらそれ以上だってOKなのかもしれない。
かといって試す勇気もない。
何せ頬っぺたのキスでさえあれほど照れて取り乱す彼女だから、それ以上のことをすれば家を飛び出しかねない。
けれど、俺だってこのまま何もせずにいるというわけにもいかない。
俺はこのみをいつまで待てばいい?
このみは向こうの世界で18年間過ごした。
それなら、この世界で2年過ごしたこのみは、あと16年経てばこの世界に留まってくれるのか?
……さすがにそこまで、俺の気は長くない。
何か、動き出せるきっかけがあればいいんだが。
俺はひたすらそんなことを考えながら、一日また一日と日々を過ごしていた。
そんな秋の日。
このみはシーツの洗濯をするために、二階で何やらゴソゴソしていた。
俺はといえばいつもどおり机に足を乗せながらゴロゴロしていて、つまり何でもない日常の風景だった。
いつもと違っていたのは、このみがいつも洗濯用に使っていたかごの取っ手が取れてしまっていたことだ。
だから今日のこのみはかごを使わず、手でシーツを持ち運ぼうとしていた。
二人分のシーツを抱えたこのみの足元には、手の中に納まりきらなかったシーツの端が垂れ下がっていたのだ。
それに気づかずにそのまま階段を下りようとしたこのみは、当然シーツに足を取られる。
「あっ……」と悲鳴にもならないようなこのみの声を聞き取った俺を、俺は褒めてやりたい。
その声を聞くなり俺は考える間もなく椅子から飛び上がって、
多分普通の人間なら視認すらできないようなスピードで階段に向かって駆け寄っていた。
一呼吸する間もなかったように思う。
階段の上から投げ出されたこのみの体を、俺は階段を駆け上って受け止めようとした。
けれど俺自身が猛スピードで突っ込んだので、このまま立ち止まればこのみもかなりの衝撃を受ける。
だから俺はこのみの体を受け止めつつ、上体を反らして重力に身を任せた。
視界いっぱいに、驚いたような様子で飛び込んできたこのみの顔が目に焼きつく。
このみの黒い髪がさらりと俺の頬を撫でた。
ガツッと俺の歯が何かに当たる音がする。
柔らかな感触を確かに唇に覚えた後、俺は背中と頭に衝撃を受けた。
このみを抱えた……というよりは、下敷きになったと言った方が近い俺は、
階段の角ですりおろされるかのように、背中を下にして頭から数段滑り落ちた。
そして階段の中ほどで、俺たちは止まる。
俺は慌てて身を起こしながら、体の上に乗せたこのみを見た。
「このみ、無事か!?怪我は…………!!」
そう言いつつ、俺は自分の口の端が濡れていることに気がついた。
何気なく拭えばそれは血だった。
このみを庇った際に何かの拍子で切ったのだろうと思って、深く気には留めない。
「……っ、いたっ……」
シーツに纏わりつかれながら身を起こしたこのみは、片手で口を覆っていた。
その手の隙間から流れ落ちた赤い液体が、彼女の手を伝って、真っ白なシーツにまだら模様の染みを作る。
体に電流でも流されたかのような衝撃。
それを見た俺は、ただひたすら混乱するしかなかった。
「切ったのか!?」
「そうみたい……」
俺は自分でも驚くほど動揺しながら、口を覆うこのみの手首を取る。
手をどかしたそこにあったのは、下唇に傷を作って、裂傷部分から血を流すこのみの姿だった。
血はこのみの顎を伝い、今もなおシーツを汚していく。
真っ白なシーツがこのみの血で赤く汚れていくというのは、なぜだかひどく犯しがたいものを見ているようだった。
取るものも取りあえず、このみを抱きかかえて、俺は洗面所に向かった。
その傷口と血で汚れた口元を水で洗い流し、止血のためにガーゼを当てる。
結構ボタボタ流れていた血だったが、押さえているうちに幸いにも徐々に止まってくれたようだ。
このみはソファーの上で、俺にガーゼで傷口を押さえられながら休んでいる。
「ダンテ、止血ならわたし一人でできるから……。早くシーツの染み抜きしないと」
「ああ、ああ、分かってる……」
俺はこのみの下唇を押さえていた手を外して、階段に放置していたシーツを取りに行った。
それを抱えて、洗面所で汚れを落とす。
まだ新しかったせいか、比較的簡単に綺麗になっていく。
それを洗濯機の中に放り込んだ後、俺はすぐさまリビングへ戻った。
もうすっかり血は止まったのか、彼女はガーゼに移った血の跡を確認している。
このみは戻ってきた俺に気がついて、顔を上げて笑った。
「ダンテ、シーツの血、落ちた?洗濯させてごめ……」
「馬鹿、このみ!足元には気をつけろよ!今日は俺がいたから良かったけど、一人だったら大怪我だぞ!」
「ご、ごめんなさい……」
のん気にシーツの心配をするこのみを見て、俺の頭は沸騰したように熱くなって、気がつけばこのみを怒鳴っていた。
俺に怒鳴られ、しょんぼりと肩を落とすこのみを見て、今度は俺の眉が下がる。
厳しい言い方をしてしまったのは、このみが心配だったからだ。
俺はふっと溜息をついて、このみの隣に座り、彼女の顎に手を添えた。
「……痛いか?」
「口動かすと、少し。ダンテ、助けてくれてありがとう。
ダンテは怪我ない?すごい頭と背中打ってたけど……」
「俺を誰だと思ってる?お前を助ける王子様だぜ」
「冗談が言えるなら大丈夫だね」
このみは顎に添えた俺の手に彼女の手で触れて、その頬をすり寄せた。
「ありがと……」
「……ああ」
ひどく愛情を感じるその行為に、俺は無条件で幸せな気分になる。
にしても、唇とは言え女の子の顔に傷ができてしまったとなると、落ち着いてはいられない。
「すぐ直りそうな怪我だから、幸いだったというか……。
っつーか、何で唇に怪我したんだろうな?俺が庇ったのに」
「うーん、そうだよね。何かにぶつかった感触があったんだけど、目つぶっててよく分からなかった」
怪我をするなら、手か足にしそうなものなのに。
二人してソファに並びながら、首を捻る。
……そう言えば、このみを抱きとめた時に歯と唇に何か当たらなかっただろうか。
考えていた俺は、とんでもない結論にいきあたる。
俺の唇についていた血。
あれ、もしやこのみの血だったのでは……?
で、俺の歯が何かにぶつかったあの時に、このみは唇に怪我を負った……?
いやまさかまさかまさか、でもあの時唇に覚えたあの感触って──
「あっ……」
その時突然、小さな声を上げて、このみが火を付けたようにぼっと赤くなった。
あわあわとせわしなく動いたこのみの指先は、彼女の唇に触れる。
もしかして、このみも俺と同じこと考えたのだろうか。
いやいやいや、まさかそんなはず……ないだろ!?
俺が下になっていたあの状況で、このみが唇に怪我を負うなんてことはまず考えられない。
……俺が傷つけたんでない限り。
ってことは、やっぱり、つまり、そういうこと?
「このみの怪我……俺のせい、だよな?」
恐る恐る尋ねると、このみの顔はさらに赤くなる。
「あの……悪い」
怪我をさせたことへの謝罪なのか、不可抗力とは言え唇を奪ってしまったことへの詫びなのか。
俯くこのみを見て、俺はどうするべきか考える。
ここで変にぎこちなくなるのも俺らしくない気がして、ふざけた声音でこのみに言う。
「あー……もしかしてこのみ、初めてだったとか?
ファーストキスが血の味とかついてねーよな。仕切り直しにもう一回やっとく?」
うん、実に俺らしい返答ではなかろうか。
そう思いながらこのみを見下ろすと、彼女は微かに震えている……ような気がした。
「……どうせ初めてですよ」
「やっぱ?おっそ、日本人って奥手なんだな。相手が俺で良かっただろ?」
「………………」
あれ、黙り込んでしまった。
そっか、よく考えるとこっち来て2年はずっと俺のとこにいたんだから、キスする相手なんているわけないんだよな。
んで初めてってことは、日本にいた時もそーゆー男はいなかったってことか。
……ちょっと安心……というか、俺が初めて、ってかなり嬉しいかもしれない。
俺がにやにやしていたその時、このみの膝の上に作られた握り拳に、ぽたりと水が垂れた。
ぎょっと身を固める俺の隣で、このみは呟く。
「……ダンテのそういうところ、嫌い」
このみは袖で目元を拭い、立ち上がって階段を駆け上がって行った。
俺はと言えば、身動きできずにそれを見送るしかない。
な、泣かせてしまった……!
しかも嫌い、とまで言われてしまった……!
そうだ、このみは超がつくうぶなのだから、あんな言い方すれば引かれるに決まってんじゃん!
俺は頭を抱えて背を丸める。
ってゆーか、よく考えると俺こそこのみとのファーストキスがあんなんだなんて嫌だよ!
当初の予定としては、もっとこうロマンチックなシチュエーションでするつもり(妄想)だったのに!
柔らかさを味わう暇すらなかったっつーの!
しかも俺が怪我させたようなものじゃねーか!
このみからすれば初のキスがあんな流血を伴うものになってしまったわけで、それって女の立場からすればかなりショックだったんじゃ……!
マズいこと言ってしまった?
ぐるぐると頭の中で声に出せない叫びが走り回る。
あーもう、最悪!!