たった一言で世界が変わるのに
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* * *
このみは猛スピードでこいでいた自転車を、小さな教会の前で止めた。
ひっそりと佇む教会を見上げて、その小さいながらも厳かな雰囲気に惹かれて自転車を降りる。
自転車を敷地の隅に置かせてもらい、このみは木でできた温かみのある扉を押し開いた。
静かな聖堂は、粛然としながらも不思議なぬくもりがある。
ステンドグラス越しに差し込む午後の光が、そうしているのだろうか。
入ってすぐの場所に、彫刻で作られた器があり、その中に水が溜まっていた。
日本の神社でいう手水舎みたいなものだろうかと思って、そろそろと手を伸ばす。
「おや、礼拝ですか?」
「わっ」
人がいることに気が付かず、このみは声を上げた。
驚いた拍子に器の中に手を突っ込んでしまい、水が服に飛び散る。
聖堂に驚きの声と水音が響くのを聞いてこのみは真っ赤になった。
慌てて首をめぐらせば、祭壇に黒衣を纏った神父が佇んでいる。
「ご、ごめんなさい。わたし、信徒じゃないんですけど……入ったら、ダメでした?」
「いいえ、そんなことはありませんよ。お御堂はどなたにも開かれていますから」
「こ、この水も触っちゃダメでしたか?」
「それは聖水盤といって、中の水は聖水です。信徒は聖堂へ入る際に指を浸して十字を切るのですよ。触っても構いません」
「そうなんですか……」
その言葉にほっとして、このみは濡れた服をハンカチで拭いながら、入り口から程近い長椅子の端っこに腰掛けた。
神父は祭壇に広げてあった細々としたものを片付けているようだった。
「すみません、私は用がありまして少し外しますが、構いませんか?」
「あ、はい。わたしも、しばらくここにいてもいいですか?」
「どうぞ。ここは考え事をするのに最適ですからね」
神父は穏やかに笑うと、静かに聖堂を出て行った。
このみは一人きりになった聖堂で、息をつく。
──ダンテから、逃げるようにしてここまで来たけど。
どうして、よりにもよって『浮気者』なんて彼に向かって言ってしまったのだろう。
いつから自分は……ダンテが好意を向けてくれるのを当然のように思っていたのだろう。
思い上がりも甚だしくて、恥ずかしい。
日本語で呟いたのは、不幸中の幸いだろうか。
今朝のダンテの様子を思い出す。
下着姿と言っても差し支えない格好の女とキスする場面を見てしまった。
早朝に女の部屋から出てくる、という行動が何を意味しているのか、流石に分からないほどこのみも純ではない。
昨日、ダンテは「依頼を受けたから夕飯はいらない」と言っていたけど。
あれも恐らく嘘なのだろう。
今までにも何度か、ダンテは朝方に帰ってくることがあった。
中には本当に仕事で出ていたのかもしれないが、多分全部が全部、そういうわけではないのだろう。
それまでは──あまり深く考えないようにしてきた。
事務所の近くの風俗店だとか、ストリップ劇場だとか……そういうのも、このみには生々しすぎて、直視できないから。
だからダンテが夜中何をして朝帰ってこようと、このみは精一杯、見てみぬふり、知らぬふりをしていた。
でも、今朝のあれだけは……見てみぬふりはできなかった。
思い出すとどうしようもなく胸が痛んで辛くて、涙が出そうなほど目頭が熱くなる。
何故こんなに辛く思うのか、その理由を心に問いかけることはできない。
涙を流せば自分の気持ちを認めてしまうことになりそうで、泣くこともできない。
唇を噛んで、このみは俯く。
聖堂で、神様の目の前で、こんな卑俗なことを考えている自分が嫌だ。
そうして、どのくらい経っただろうか。
ステンドグラスの影が徐々に間延びしていき、明るかった日差しもオレンジ色を帯びてきた。
もうすぐ夕方か、と思って立ち上がろうとしたところで、胸騒ぎがしてこのみは聖堂の扉を振り返る。
激しい音を立てて扉が開いたかと思うと、ダンテが聖堂の中へ飛び込んできた。
肩で大きく息をしている。
息の上がったダンテを見るのは初めてで、このみは驚きの瞳で彼を射る。
ダンテはこのみを見ると、その瞳を揺らし、駆け寄ってこのみの体を抱きしめた。
立ち上がりかけていたこのみは、そのダンテのあまりの勢いに押されて長椅子に尻餅をつく。
それでもなお、ダンテはこのみを強く抱きしめたまま、離そうとしない。
骨が軋んでしまうのではないかと思うほど力を込められて、このみは苦痛に顔を歪めた。
「ダンテ、痛い!」
このみが悲鳴を上げると、ダンテはやっと体を離した。
が、その手はこのみの両腕を掴んだままだ。
揺れる瞳でこのみを覗き込んで、尋ねる。
「このみ、何かあったのか!?」
「な、なにかって……?」
「お前の場所が、急に分からなくなったから……!」
そう言いながら、ダンテはこのみが聖水で濡らした服を見下ろした。
今はすっかり乾いているが、半魔の彼には何か感じるところがあるのだろうか。
「聖水……?」
「あ、入り口の聖水盤っていうところで、服を濡らしちゃって……」
「…………それでか…………」
はあーっ、と大きく息を吐いて、ダンテはこのみの肩に額を押し付けた。
彼に両腕を押さえつけられて身動きの取れないこのみは、訳が分からないままその様子をただ見ているしかない。
ようやく我を取り戻したダンテは、このみの腕を掴んでいた手を外し、このみの隣に座った。
ただ今度はこのみが逃げ出さないように、手を手繰り寄せて強く握る。
このみは朝のキスシーンと、先ほど『浮気者』と呟いたことを思い出して、不快なような、気まずいような気分になる。
ダンテは聖堂の祭壇の方を見つめながら、このみに呟いた。
「あの……ごめん」
「……それは何に対する謝罪?」
そんなつもりはなかったのに、ダンテを責めるような、冷たい声が飛び出る。
このみの手を握るダンテの指がピクリと反応した。
「えーっと……まず、昨日仕事が入ったっていうのは嘘で……」
「知ってる」
「それと今朝……」
「ビリヤードのバーの近くにあるお家からダンテが出てきたのも知ってる。お姉さんとキスしてたのも知ってる」
口から次々と好き勝手に言葉が飛び出して、このみは混乱した。
冷静に言ったつもりだったのに、声音は明らかに怒りを含んでいた。
このみと繋いでいるダンテの手が震えて、その振動がこのみにも伝わってくる。
「……ごめん」
「何でダンテが謝るの?ダンテがどこで誰と何してようが、わたしはどうこう言う権利なんてない」
──そうだ。
自分はいつか元の世界に帰らなければいけないから……。
ダンテがこのみ以外の女性に興味を持ってくれた方が、彼にとっても自分にとってもいいのではないだろうか。
なのにどうして、彼を責めるような言い方をしてしまうのだろう。
冷たい言葉を吐き出したこのみに向かって、ダンテは言う。
「……じゃあ何でこのみは俺に"浮気者"って言った?」
ダンテに指摘されて、このみは狼狽した。
「……それは、ダンテの空耳じゃないの」
我ながら苦しい言い訳をする。
ダンテは外していた視線をこのみに真っ直ぐ向けて、問いかけた。
「空耳じゃない、この耳でしっかり聞いた。意味も知ってる」
そう言われて、このみはますます混乱する。
顔がどうしようもなく熱くなって、ダンテと繋いだ手に汗が滲むのが分かる。
「何でこのみはそんなに怒ってるんだ?」
「……ダ、ダンテが仕事だって、嘘ついたから」
「嘘ついたことに対して怒ってるのか?女と一緒にいたことに対してじゃなくて?」
責めていたのはこのみの方なのに、いつの間にかダンテに問い詰められている。
このみは自分の体が震えていることに気が付いた。
あれほど泣いてはダメだと思っていたのに、喉の奥からせり上がる嗚咽を止めることができない。
瞳からとうとう零れ落ちた涙が、服に染みを作るのを見て、このみは絶望する。
振り解かなければいけないと思うのに、このみの手は痛いほどにダンテの手を握り締めている。
どうして涙が出るのか、こんなに胸が痛いのか。
その理由に、気付いてはいけないと思いながらも、もうとっくに気付いている。
ダンテにたった一言を口にするだけで、楽になれると知っている。
けれどそれを口にした瞬間、このみはたくさんのものを失うことになるから。
代わりに、今のこのみが伝えられる精一杯の気持ちを口にする。
「…………本当は、嫌だった。すごくすごく嫌だった」
何が嫌なのか、どうして嫌だと思うのか、その理由は聞かないでほしい。
自分以外の女性に心を向けた方が彼は傷つかずに済むのに、それを見るのは耐えられない。
相反する気持ちがぐちゃぐちゃに交じり合って、このみはただ涙を零す。
「……ごめん。このみを泣かせたかったわけじゃない」
ダンテは繋いでいない方の手で、このみの涙を優しく拭う。
その手つきだけで、何もかもを許してしまいそうな自分が恥ずかしい。
そんな優しい彼の気持ちに、このみはどうしても応えてあげられない。
こんなに辛い思いをするのなら、いっそ離れてしまった方がいいのではないか。
昨日エンツォの家から帰る際にも何もなかったし、恐らくジャンが逃げ出した今なら、
ダンテの事務所で守られていなくても、このみの身に危険はないだろう。
「ダンテ……わたし、考えたんだけど……。
エンツォさんに……安いアパート紹介してもらえないかな……」
「……何、それ、どういう意味」
氷のように冷たいダンテの声がこのみを射る。
このみは上辺だけをなぞるような口調で、言葉を舌に乗せた。
「……もう夜に蝶が襲ってくることもないだろうし、バイトもしてるから、贅沢しなかったら家賃も自分で払えると思うの。
い、今までダンテにお世話になりっぱなしだったけど……これからは、自分で……やるから。
ジャンも、わたし一人で探すから、もういいの」
「お前、本気でそれ言ってるなら……俺の目を見て言え」
……無理だ。
ダンテの目を見て言うなんて、絶対に無理だ。
だってこれは、このみの本心ではないから。
「このみを裏切っといて……いや、そもそも約束してないから、裏切るっていうのも変だけど。
後ろめたいことしてた俺が言える立場じゃないのは分かってる。
……でも、それは、俺が嫌だ」
繋いだ手を強く握られる。
まるでこのみを離すまいとするかのように。
「このみが……本当に元の世界に戻る時があるなら……最後まで傍にいるのは俺じゃないと嫌だ。
気付いたら帰ってました、とかになったらもう最悪。
お前が無事に両親と会えたら、元の世界に戻れたらっていうのも、本当の俺の気持ちだから」
核心に触れないように、言葉を選んでダンテは言う。
このみは顔を上げられないまま、呟いた。
「ダンテは……すごく自分勝手だ」
「そうだな。けど、これでも結構、我慢してるんだぜ」
我慢。
改めて本人の口から言われると、何だか恥ずかしいのを通り越して申し訳なくなる。
そのはけ口が別の女性に向かうのは物凄く嫌だけれど、かと言ってこのみはどうすることもできない。
「……よく考えたらわたし、戸籍ないから家借りられないね」
「お前に頼まれても名義人には絶対ならないからな。エンツォやレディに頼むのも全力で邪魔してやる。
だからこのみは、俺の家にいろよ」
はっきりとそう言われて、このみはうな垂れる。
このみは猛スピードでこいでいた自転車を、小さな教会の前で止めた。
ひっそりと佇む教会を見上げて、その小さいながらも厳かな雰囲気に惹かれて自転車を降りる。
自転車を敷地の隅に置かせてもらい、このみは木でできた温かみのある扉を押し開いた。
静かな聖堂は、粛然としながらも不思議なぬくもりがある。
ステンドグラス越しに差し込む午後の光が、そうしているのだろうか。
入ってすぐの場所に、彫刻で作られた器があり、その中に水が溜まっていた。
日本の神社でいう手水舎みたいなものだろうかと思って、そろそろと手を伸ばす。
「おや、礼拝ですか?」
「わっ」
人がいることに気が付かず、このみは声を上げた。
驚いた拍子に器の中に手を突っ込んでしまい、水が服に飛び散る。
聖堂に驚きの声と水音が響くのを聞いてこのみは真っ赤になった。
慌てて首をめぐらせば、祭壇に黒衣を纏った神父が佇んでいる。
「ご、ごめんなさい。わたし、信徒じゃないんですけど……入ったら、ダメでした?」
「いいえ、そんなことはありませんよ。お御堂はどなたにも開かれていますから」
「こ、この水も触っちゃダメでしたか?」
「それは聖水盤といって、中の水は聖水です。信徒は聖堂へ入る際に指を浸して十字を切るのですよ。触っても構いません」
「そうなんですか……」
その言葉にほっとして、このみは濡れた服をハンカチで拭いながら、入り口から程近い長椅子の端っこに腰掛けた。
神父は祭壇に広げてあった細々としたものを片付けているようだった。
「すみません、私は用がありまして少し外しますが、構いませんか?」
「あ、はい。わたしも、しばらくここにいてもいいですか?」
「どうぞ。ここは考え事をするのに最適ですからね」
神父は穏やかに笑うと、静かに聖堂を出て行った。
このみは一人きりになった聖堂で、息をつく。
──ダンテから、逃げるようにしてここまで来たけど。
どうして、よりにもよって『浮気者』なんて彼に向かって言ってしまったのだろう。
いつから自分は……ダンテが好意を向けてくれるのを当然のように思っていたのだろう。
思い上がりも甚だしくて、恥ずかしい。
日本語で呟いたのは、不幸中の幸いだろうか。
今朝のダンテの様子を思い出す。
下着姿と言っても差し支えない格好の女とキスする場面を見てしまった。
早朝に女の部屋から出てくる、という行動が何を意味しているのか、流石に分からないほどこのみも純ではない。
昨日、ダンテは「依頼を受けたから夕飯はいらない」と言っていたけど。
あれも恐らく嘘なのだろう。
今までにも何度か、ダンテは朝方に帰ってくることがあった。
中には本当に仕事で出ていたのかもしれないが、多分全部が全部、そういうわけではないのだろう。
それまでは──あまり深く考えないようにしてきた。
事務所の近くの風俗店だとか、ストリップ劇場だとか……そういうのも、このみには生々しすぎて、直視できないから。
だからダンテが夜中何をして朝帰ってこようと、このみは精一杯、見てみぬふり、知らぬふりをしていた。
でも、今朝のあれだけは……見てみぬふりはできなかった。
思い出すとどうしようもなく胸が痛んで辛くて、涙が出そうなほど目頭が熱くなる。
何故こんなに辛く思うのか、その理由を心に問いかけることはできない。
涙を流せば自分の気持ちを認めてしまうことになりそうで、泣くこともできない。
唇を噛んで、このみは俯く。
聖堂で、神様の目の前で、こんな卑俗なことを考えている自分が嫌だ。
そうして、どのくらい経っただろうか。
ステンドグラスの影が徐々に間延びしていき、明るかった日差しもオレンジ色を帯びてきた。
もうすぐ夕方か、と思って立ち上がろうとしたところで、胸騒ぎがしてこのみは聖堂の扉を振り返る。
激しい音を立てて扉が開いたかと思うと、ダンテが聖堂の中へ飛び込んできた。
肩で大きく息をしている。
息の上がったダンテを見るのは初めてで、このみは驚きの瞳で彼を射る。
ダンテはこのみを見ると、その瞳を揺らし、駆け寄ってこのみの体を抱きしめた。
立ち上がりかけていたこのみは、そのダンテのあまりの勢いに押されて長椅子に尻餅をつく。
それでもなお、ダンテはこのみを強く抱きしめたまま、離そうとしない。
骨が軋んでしまうのではないかと思うほど力を込められて、このみは苦痛に顔を歪めた。
「ダンテ、痛い!」
このみが悲鳴を上げると、ダンテはやっと体を離した。
が、その手はこのみの両腕を掴んだままだ。
揺れる瞳でこのみを覗き込んで、尋ねる。
「このみ、何かあったのか!?」
「な、なにかって……?」
「お前の場所が、急に分からなくなったから……!」
そう言いながら、ダンテはこのみが聖水で濡らした服を見下ろした。
今はすっかり乾いているが、半魔の彼には何か感じるところがあるのだろうか。
「聖水……?」
「あ、入り口の聖水盤っていうところで、服を濡らしちゃって……」
「…………それでか…………」
はあーっ、と大きく息を吐いて、ダンテはこのみの肩に額を押し付けた。
彼に両腕を押さえつけられて身動きの取れないこのみは、訳が分からないままその様子をただ見ているしかない。
ようやく我を取り戻したダンテは、このみの腕を掴んでいた手を外し、このみの隣に座った。
ただ今度はこのみが逃げ出さないように、手を手繰り寄せて強く握る。
このみは朝のキスシーンと、先ほど『浮気者』と呟いたことを思い出して、不快なような、気まずいような気分になる。
ダンテは聖堂の祭壇の方を見つめながら、このみに呟いた。
「あの……ごめん」
「……それは何に対する謝罪?」
そんなつもりはなかったのに、ダンテを責めるような、冷たい声が飛び出る。
このみの手を握るダンテの指がピクリと反応した。
「えーっと……まず、昨日仕事が入ったっていうのは嘘で……」
「知ってる」
「それと今朝……」
「ビリヤードのバーの近くにあるお家からダンテが出てきたのも知ってる。お姉さんとキスしてたのも知ってる」
口から次々と好き勝手に言葉が飛び出して、このみは混乱した。
冷静に言ったつもりだったのに、声音は明らかに怒りを含んでいた。
このみと繋いでいるダンテの手が震えて、その振動がこのみにも伝わってくる。
「……ごめん」
「何でダンテが謝るの?ダンテがどこで誰と何してようが、わたしはどうこう言う権利なんてない」
──そうだ。
自分はいつか元の世界に帰らなければいけないから……。
ダンテがこのみ以外の女性に興味を持ってくれた方が、彼にとっても自分にとってもいいのではないだろうか。
なのにどうして、彼を責めるような言い方をしてしまうのだろう。
冷たい言葉を吐き出したこのみに向かって、ダンテは言う。
「……じゃあ何でこのみは俺に"浮気者"って言った?」
ダンテに指摘されて、このみは狼狽した。
「……それは、ダンテの空耳じゃないの」
我ながら苦しい言い訳をする。
ダンテは外していた視線をこのみに真っ直ぐ向けて、問いかけた。
「空耳じゃない、この耳でしっかり聞いた。意味も知ってる」
そう言われて、このみはますます混乱する。
顔がどうしようもなく熱くなって、ダンテと繋いだ手に汗が滲むのが分かる。
「何でこのみはそんなに怒ってるんだ?」
「……ダ、ダンテが仕事だって、嘘ついたから」
「嘘ついたことに対して怒ってるのか?女と一緒にいたことに対してじゃなくて?」
責めていたのはこのみの方なのに、いつの間にかダンテに問い詰められている。
このみは自分の体が震えていることに気が付いた。
あれほど泣いてはダメだと思っていたのに、喉の奥からせり上がる嗚咽を止めることができない。
瞳からとうとう零れ落ちた涙が、服に染みを作るのを見て、このみは絶望する。
振り解かなければいけないと思うのに、このみの手は痛いほどにダンテの手を握り締めている。
どうして涙が出るのか、こんなに胸が痛いのか。
その理由に、気付いてはいけないと思いながらも、もうとっくに気付いている。
ダンテにたった一言を口にするだけで、楽になれると知っている。
けれどそれを口にした瞬間、このみはたくさんのものを失うことになるから。
代わりに、今のこのみが伝えられる精一杯の気持ちを口にする。
「…………本当は、嫌だった。すごくすごく嫌だった」
何が嫌なのか、どうして嫌だと思うのか、その理由は聞かないでほしい。
自分以外の女性に心を向けた方が彼は傷つかずに済むのに、それを見るのは耐えられない。
相反する気持ちがぐちゃぐちゃに交じり合って、このみはただ涙を零す。
「……ごめん。このみを泣かせたかったわけじゃない」
ダンテは繋いでいない方の手で、このみの涙を優しく拭う。
その手つきだけで、何もかもを許してしまいそうな自分が恥ずかしい。
そんな優しい彼の気持ちに、このみはどうしても応えてあげられない。
こんなに辛い思いをするのなら、いっそ離れてしまった方がいいのではないか。
昨日エンツォの家から帰る際にも何もなかったし、恐らくジャンが逃げ出した今なら、
ダンテの事務所で守られていなくても、このみの身に危険はないだろう。
「ダンテ……わたし、考えたんだけど……。
エンツォさんに……安いアパート紹介してもらえないかな……」
「……何、それ、どういう意味」
氷のように冷たいダンテの声がこのみを射る。
このみは上辺だけをなぞるような口調で、言葉を舌に乗せた。
「……もう夜に蝶が襲ってくることもないだろうし、バイトもしてるから、贅沢しなかったら家賃も自分で払えると思うの。
い、今までダンテにお世話になりっぱなしだったけど……これからは、自分で……やるから。
ジャンも、わたし一人で探すから、もういいの」
「お前、本気でそれ言ってるなら……俺の目を見て言え」
……無理だ。
ダンテの目を見て言うなんて、絶対に無理だ。
だってこれは、このみの本心ではないから。
「このみを裏切っといて……いや、そもそも約束してないから、裏切るっていうのも変だけど。
後ろめたいことしてた俺が言える立場じゃないのは分かってる。
……でも、それは、俺が嫌だ」
繋いだ手を強く握られる。
まるでこのみを離すまいとするかのように。
「このみが……本当に元の世界に戻る時があるなら……最後まで傍にいるのは俺じゃないと嫌だ。
気付いたら帰ってました、とかになったらもう最悪。
お前が無事に両親と会えたら、元の世界に戻れたらっていうのも、本当の俺の気持ちだから」
核心に触れないように、言葉を選んでダンテは言う。
このみは顔を上げられないまま、呟いた。
「ダンテは……すごく自分勝手だ」
「そうだな。けど、これでも結構、我慢してるんだぜ」
我慢。
改めて本人の口から言われると、何だか恥ずかしいのを通り越して申し訳なくなる。
そのはけ口が別の女性に向かうのは物凄く嫌だけれど、かと言ってこのみはどうすることもできない。
「……よく考えたらわたし、戸籍ないから家借りられないね」
「お前に頼まれても名義人には絶対ならないからな。エンツォやレディに頼むのも全力で邪魔してやる。
だからこのみは、俺の家にいろよ」
はっきりとそう言われて、このみはうな垂れる。