重ねた身体の中に君はいない
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* * *
バイトから帰ったこのみは、誰もいない事務所に足を踏み入れた。
ダンテが事務所でゴロゴロしている確率は高いが、ふらりと出掛ける確率も同じくらい高い。
鞄を肩から下ろしていると、黒檀のデスクに置いてある電話が鳴り響いた。
このみは机に駆け寄り、受話器を手に取る。
「はい」
≪このみか?ダンテだけど。ちょっと依頼入ってさ。今夜晩飯いらないから、悪いけど1人で食べてくれないか≫
「分かった。お仕事頑張ってね」
≪……ああ≫
何だか妙な間があった気がしてこのみは首を傾げたが、深く考えることはせずに受話器を置いた。
ダンテがいないなら夕飯も簡単なものでいいや、と思ってこのみはメニューを考え始める。
するとまたもや電話のベルが鳴って、ダンテが何か伝え忘れたのだろうかと思いながら、このみは再び受話器を取った。
「もしもし?」
しかし、受話器の向こう側にいるのはダンテではなかった。
げほげほという咳払いと一緒に、聞き覚えのある声が用件を告げる。
「えっ、エンツォさん、風邪ですか!?」
≪そうなんだよ……冷蔵庫の中何もなくてさ……。何か病人でも食えそうなもの買ってきてくれない?≫
「分かりました、すぐ行きます!」
1人でいる時の風邪が、どれほど心細いかこのみは知っている。
それにこのみが熱を出した時、エンツォは親身になって看病してくれた。
今度はこのみが恩を返す番だ。
とりあえず冷蔵庫にあった滋養がつきそうな食材や、以前エンツォが買ってきてくれた風邪薬などを鞄に詰めて、このみは事務所を出た。
足りないものは道中買って行こうと思って、自転車を出す。
途中で入り用の物を購入して再び自転車をこぎ出したこのみは、
やや寂れた感のある街中で、見覚えのある後姿を見掛けた気がして、自転車を止めかけた。
(ダンテ……?)
依頼が入ったと言っていたが、この近くで仕事をしているのだろうか。
けれどここは事務所からそれほど遠いわけでもないし、夕飯を食べに帰れないほどの距離だとは思えない。
ただの見間違いかと思って、このみは緩めていた自転車のスピードを再び上げた。
エンツォの自宅についたこのみは、ノックをするものの中から反応はなかった。
恐らくエンツォはベッドで寝込んでいるのだろう。
鍵は開いていたので、お邪魔しますと声をかけながら、このみは大荷物を持って室内に足を踏み入れた。
階段に向かって声をかけると、返事の代わりに咳払いが聞こえたので、このみは階段を上る。
咳がドアの向こう側から響いて、ノックをして返事を待ってからこのみはドアを開けた。
「お邪魔します、エンツォさん。勝手に上がらせてもらいました。気分はどうですか?」
「よう、このみちゃん、わざわざ悪いな。熱はそれほど高いわけじゃないんだが、歩き回れるほど元気でもないんだな」
そう言いながらもエンツォはゴホゴホ咳払いする。
「あんまり近付くと、うつるから」
「じゃあ、下でご飯作りますね。キッチンお借りしてもいいですか?」
「もちろん。世話かけて申し訳ねえ」
「いいんです、困った時はお互い様です。エンツォさんもわたしが熱出した時、看病してくれたもの」
このみがそう言うと、エンツォは咳で苦しそうにしながらも笑ってくれた。
階段を降りてキッチンに立ったこのみは、風邪と言えばやっぱりチキンスープだろうかと思って、鍋を借りる。
そう言えばこのみが熱を出した時も、ダンテは四苦八苦しながら病人でも口にできそうなものを作ってくれた。
それを思い出すと心がほんわり温かくなって、このみは思わず微笑む。
エンツォのためにスープを作ったり、りんごをすりおろしたりするうちに、辺りはすっかり暗くなっていた。
このみはキッチンの窓からその暗さを確かめて、帰りはどうしようかと考える。
とりあえず出来たものをトレーに乗せて、このみは階段を上がった。
「エンツォさん、スープができました。食欲ありますか?」
「おお、うまそう」
サイドテーブルに置かれた食事を見て、エンツォは目を輝かせる。
食欲に関しては問題ないようだ。
「うまい、うますぎるっ!1人の風邪って虚しすぎるから余計うまいっ!」
「味、分かります?」
「このみちゃんが作ったものなら、例え舌が千切れてもうまく感じる」
そんな無茶な、と内心突っ込みつつ、このみは美味しそうに食事をしてくれるエンツォを見て微笑んだ。
エンツォがスープを最後の一滴まで飲み干すと、このみはすりおろしたりんごの皿を手に取る。
「いいねえ、可愛い女の子が看病してくれるシチュエーション。ダンテ、あいつ風邪引かないから泣いて悔しがるだろう」
ダンテが泣いて悔しがるところなんて想像できなくて、このみは思わず笑いを漏らす。
そんなこのみを、エンツォはチラチラと見やった。
「これですりりんごを食べさせてくれたら最高なんだけどなー……」
「勘弁してください」
「……おぅふ、その笑顔が逆にダメージでかいぜ」
と言いつつも、ダンテのようにゴネるでも言いくるめるでもなく、エンツォは素直にりんごを食べだした。
……ダンテもこのくらい聞き分けが良ければいいのに。
一度ダンテの名前が浮かぶと次々に彼のことが気になり出して、
このみはエンツォに薬を手渡しながら、ぼんやりとダンテの事を考えた。
ダンテ、今頃仕事頑張ってるのかなあ。
いつ頃帰ってくるんだろう。
帰ってきてすぐ何か食べられるように、簡単なものでも作っておこうかな。
エンツォが薬を喉奥に流し込み、コップをテーブルに置いた音でこのみはハタと気付く。
「悪いな、外暗くなるまで世話させて。ダンテに迎えに来てもらったら?」
「あ、今ダンテ依頼でいないんです」
「えっ!?そりゃ悪いことした。えっと……このみちゃんがいいならうちに泊まってってもいいけど……後でダンテが知ったら怖いな」
「大丈夫、1人で帰れます。まだ遅い時間でもないし、今日自転車で来たから」
それに、このみは蝶の悪魔に付け狙われている。
ジャンが消えた日から蝶の出現はパタリとなくなったのだが、万が一ということもあるのだ。
エンツォを巻き込んでしまっては申し訳が立たない。
「明日の朝、また来ますね。ゆっくり養生して下さい、お大事に」
「ちょっ……ちょっと待て、もし帰り道で何かあったりしたら……」
「大丈夫ですよ、心配性だなあ」
このみは苦笑いしながら部屋を出る。
階段を下りて、表へと繋がるドアを開けた。
辺りは真っ暗で、各家から漏れ出る照明や、街灯の頼りない明かりが道を照らしている。
……大丈夫とは言ったものの、夜のスラム街に向けて一人で帰るのは怖い。
いつもなら、遅くなるとダンテが迎えに来てくれていたが、今夜はその彼もいないのだ。
このみは急いで自転車に跨ると、力を込めてペダルを踏みしめた。
なるべく大通りを選んで、かつスピードを緩めることなく夜の道を走る。
幸いなことに何事もなく、このみはデビルメイクライの前に着いた。
事務所の中に足を踏み入れ、鍵をかけたところで、このみはほっと息を吐く。
こんな時平和な日本が恋しくなる。
日本にも治安のいい場所悪い場所はあるだろうが、日常的に銃撃音がするような場所は中々ないだろうから。
このみは照明をつけると、夕飯を用意するためにキッチンへ立った。
* * *
翌早朝、このみはエンツォの家を目指し、まだ静かなスラム街を歩いていた。
何だか早く目が覚めてしまったので、時間を潰すために自転車は使っていない。
結局、昨夜ダンテは帰ってこなかったので、このみは一人で夜を過ごした。
彼がふらりと出て行って朝に帰ってくることもよくあって、このみはもう慣れっこになっていた。
夜には華やかなネオンが輝き、金と人の欲が蠢く繁華街。
それも今は静かで、夜のあの賑やかさはどこへ行ってしまったのか、街にはある種の倦怠感のようなものが漂っている。
このみは薄汚い道を歩きながら、エンツォの容態を考えていた。
そしてとあるバーの横を通り過ぎようとしたその時、ざわりと心が騒いでこのみは足を止める。
視線を向けたその先に、今まさに集合住宅のドアから出てこようとするダンテがいた。
このみの姿には気付いていないのか、こちらに視線を向けることなく歩き出そうとする。
このみは、昨日この近くでダンテと思われる後姿を見かけたことを思い出した。
やはりあれは、彼だったのだろうか。
そんな彼を引き止めるように、一人の女がドアから飛び出して、ダンテの腕を取った。
薄いキャミソールを纏っただけの格好のその女。
遠すぎて顔まではよく分からないが、恐らくこの繁華街の近くで仕事をしているのだろう、派手な雰囲気を持っている。
ざわざわと不快な胸騒ぎがして、このみはぎゅっと拳を作った。
ダンテの腕にその胸を押し付けるようにして、女はダンテに何かを言っている。
甘い雰囲気ではなかった。
女がダンテに何か文句を言っていて、それをダンテがあしらっているようだった。
女の腕を振り解こうと腕を動かすダンテに、更に絡みつくようにして女は縋る。
長い腕をダンテの首に回したかと思うと、彼の顔に女は自らの顔を寄せた。
このみは凍りついたようにその場から動けず、瞬きするのも忘れてその様子に見入っていた。
洋画のワンシーンのような熱烈なキス。
ダンテは特に抵抗するような様子も見せず、女にされるがままになっている。
ようやく満足した女が唇を離すと、距離を取るようにダンテは女の肩を押しのけた。
このみは自分の体が震えていることに気が付いた。
その時、ダンテが何かに気付いたかのように顔を上げたので、このみは弾かれたようにその場から走り出す。
今事務所には絶対に戻りたくなくて、エンツォの家を目指した。
スラム街を抜けてエンツォの家に着いたはいいが、誰とも顔を合わせたくなかった。
それにまだ朝早く、人の家を訪ねるには非常識な時間帯だ。
このみはドアを叩くことも事務所に戻ることもできず、家のドアの前に座り込んだ。
* * *
昨日の晩、このみが朝来ると言っていたので、エンツォは家の鍵を開けるために玄関へ向かった。
熱はほぼ下がっているが、喉はまだ少し痛む。
鍵を開けて、少し外の様子を見ようとドアを押すと、何かにぶつかった。
不審に思ってドアの隙間から窺えば、ドアの前に見慣れた黒髪の少女が座り込んでいた。
「え……このみちゃん!?どうした、調子悪いのか!?」
慌てて声をかけると、このみはゆるゆると顔を上げた。
今にも泣き出しそうな、それでいて不思議と艶っぽい表情をこのみから向けられて、エンツォは狼狽する。
このみは何か言いかけたが、唇を噛みしめると俯いてしまった。
「お、おい……」
そんな彼女の肩に触れようとして、エンツォは喉が痛んで咳き込んだ。
このみはハッと目を見開くと、小さく謝罪を呟きながら家の中へ入る。
「……あの、このみちゃん」
「……エンツォさん、朝ごはん食べました?」
「いや、まだだけど……」
「まだ寝てて下さい。わたし、何か作りますから」
少し引きつったような硬い笑顔を見せるこのみにエンツォは何も言えず、彼女に言われるままベッドルームへ戻った。
しばらくして、このみは部屋のドアを叩いた。
朝食を持って部屋へ足を踏み入れる。
エンツォが朝食を食べている間、このみは部屋の端にある椅子に腰掛け、俯いたきりでずっと黙っていた。
どうしたものか、とこのみが作ったリゾットを口にしながらエンツォは焦る。
「……エンツォさん」
「な、何!?」
唐突に名前を呼ばれて、エンツォは肩を跳ね上げた。
このみは顔を俯かせたまま、ぽつぽつとエンツォに尋ねる。
「エンツォさん、今好きな人います?」
「何、急に……」
「教えて下さい」
「え、えっと……。あ、そーだ、気になる女なら。グレッグの酒屋で働いてるモリー……」
何故律儀に名前まで答えているのだろう、と疑問に思いつつも、常ならないこのみの様子がそうさせていた。
やっと顔を上げたこのみは、憂いを含んだ切ない表情で、エンツォを見つめた。
「わたしが……キスしてほしいって言ったら……エンツォさん、できますか?」
「……………は?…………え、何、えぇっ!!??」
果てしない衝撃がエンツォを襲う。
何故いきなりこのみがそんな事を言うのかさっぱり事態が飲み込めなくて、ただひたすら混乱するしかない。
下がったと思っていた熱が再び上がりだしたかのように、顔が熱くなる。
「ま、まままっま待て待て待て!いくらこのみちゃんと言えどそんな……!!」
「じゃあわたしじゃなくてもいいです。すごくキレイで胸も大きくて、そんな人がキス迫ったら、エンツォさん抵抗できますか?」
「ちょっと……話が見えな……」
「モリーさんじゃない人からキスされたら、嬉しい?」
涙声になり始めたこのみを、エンツォは驚きの眼差しで見つめる。
そして一つの確信が胸を過ぎる。
「もしかして、ダンテとなんかあった……?」
その名を出すと、このみはビクリと反応した。
細い肩が細かく震えるのを見て、エンツォは更に焦る。
「わたしは……わたしだったら、いや、だな……」
ぼうっと呟いたこのみの表情は、少女というよりも女の顔だった。
今まで妹分だと思っていたこのみのそんな表情を垣間見て、エンツォは胸をドキリとさせる。
──わたしだったら、いや?
好きな人以外とはキスしたくない、という意味だろうか?
それなら、このみちゃんが思い浮かべた男って……──
エンツォが考えていると、このみは急に真っ赤になって慌てて立ち上がった。
そんなこのみの姿を見て、「彼女はこの世界で好きな男を作るつもりがない」という話をダンテから聞いたことを思い出す。
「このみちゃ……」
「変なこと聞いてごめんなさい。あの……わたし洗い物して、お昼も作ったら帰りますね!また何かあったら呼んでください」
「ちょっ……」
エンツォが止める間もなく、このみは空になった皿を手に持って部屋を出て行く。
追いかけようとエンツォはベッドから下りかけたが、やめた。
今このみに話し掛けた所で彼女は答えないだろう。
あのこのみの様子からすると……ダンテが何かやらかしたに違いなかった。
──どうする?
何かフォローしてやるべき?
けど具体的に何があったのか知らないのに?
面倒臭さと興味半分が交じり合う。
ダンテのために世話を焼くのは正直煩わしいが、このみにあんな辛そうな顔をさせておいて放っておくこともできない。
とりあえず……落ち着いたら少し調べてみよう。
エンツォはそう決意して、再びベッドの中へ入りなおした。
バイトから帰ったこのみは、誰もいない事務所に足を踏み入れた。
ダンテが事務所でゴロゴロしている確率は高いが、ふらりと出掛ける確率も同じくらい高い。
鞄を肩から下ろしていると、黒檀のデスクに置いてある電話が鳴り響いた。
このみは机に駆け寄り、受話器を手に取る。
「はい」
≪このみか?ダンテだけど。ちょっと依頼入ってさ。今夜晩飯いらないから、悪いけど1人で食べてくれないか≫
「分かった。お仕事頑張ってね」
≪……ああ≫
何だか妙な間があった気がしてこのみは首を傾げたが、深く考えることはせずに受話器を置いた。
ダンテがいないなら夕飯も簡単なものでいいや、と思ってこのみはメニューを考え始める。
するとまたもや電話のベルが鳴って、ダンテが何か伝え忘れたのだろうかと思いながら、このみは再び受話器を取った。
「もしもし?」
しかし、受話器の向こう側にいるのはダンテではなかった。
げほげほという咳払いと一緒に、聞き覚えのある声が用件を告げる。
「えっ、エンツォさん、風邪ですか!?」
≪そうなんだよ……冷蔵庫の中何もなくてさ……。何か病人でも食えそうなもの買ってきてくれない?≫
「分かりました、すぐ行きます!」
1人でいる時の風邪が、どれほど心細いかこのみは知っている。
それにこのみが熱を出した時、エンツォは親身になって看病してくれた。
今度はこのみが恩を返す番だ。
とりあえず冷蔵庫にあった滋養がつきそうな食材や、以前エンツォが買ってきてくれた風邪薬などを鞄に詰めて、このみは事務所を出た。
足りないものは道中買って行こうと思って、自転車を出す。
途中で入り用の物を購入して再び自転車をこぎ出したこのみは、
やや寂れた感のある街中で、見覚えのある後姿を見掛けた気がして、自転車を止めかけた。
(ダンテ……?)
依頼が入ったと言っていたが、この近くで仕事をしているのだろうか。
けれどここは事務所からそれほど遠いわけでもないし、夕飯を食べに帰れないほどの距離だとは思えない。
ただの見間違いかと思って、このみは緩めていた自転車のスピードを再び上げた。
エンツォの自宅についたこのみは、ノックをするものの中から反応はなかった。
恐らくエンツォはベッドで寝込んでいるのだろう。
鍵は開いていたので、お邪魔しますと声をかけながら、このみは大荷物を持って室内に足を踏み入れた。
階段に向かって声をかけると、返事の代わりに咳払いが聞こえたので、このみは階段を上る。
咳がドアの向こう側から響いて、ノックをして返事を待ってからこのみはドアを開けた。
「お邪魔します、エンツォさん。勝手に上がらせてもらいました。気分はどうですか?」
「よう、このみちゃん、わざわざ悪いな。熱はそれほど高いわけじゃないんだが、歩き回れるほど元気でもないんだな」
そう言いながらもエンツォはゴホゴホ咳払いする。
「あんまり近付くと、うつるから」
「じゃあ、下でご飯作りますね。キッチンお借りしてもいいですか?」
「もちろん。世話かけて申し訳ねえ」
「いいんです、困った時はお互い様です。エンツォさんもわたしが熱出した時、看病してくれたもの」
このみがそう言うと、エンツォは咳で苦しそうにしながらも笑ってくれた。
階段を降りてキッチンに立ったこのみは、風邪と言えばやっぱりチキンスープだろうかと思って、鍋を借りる。
そう言えばこのみが熱を出した時も、ダンテは四苦八苦しながら病人でも口にできそうなものを作ってくれた。
それを思い出すと心がほんわり温かくなって、このみは思わず微笑む。
エンツォのためにスープを作ったり、りんごをすりおろしたりするうちに、辺りはすっかり暗くなっていた。
このみはキッチンの窓からその暗さを確かめて、帰りはどうしようかと考える。
とりあえず出来たものをトレーに乗せて、このみは階段を上がった。
「エンツォさん、スープができました。食欲ありますか?」
「おお、うまそう」
サイドテーブルに置かれた食事を見て、エンツォは目を輝かせる。
食欲に関しては問題ないようだ。
「うまい、うますぎるっ!1人の風邪って虚しすぎるから余計うまいっ!」
「味、分かります?」
「このみちゃんが作ったものなら、例え舌が千切れてもうまく感じる」
そんな無茶な、と内心突っ込みつつ、このみは美味しそうに食事をしてくれるエンツォを見て微笑んだ。
エンツォがスープを最後の一滴まで飲み干すと、このみはすりおろしたりんごの皿を手に取る。
「いいねえ、可愛い女の子が看病してくれるシチュエーション。ダンテ、あいつ風邪引かないから泣いて悔しがるだろう」
ダンテが泣いて悔しがるところなんて想像できなくて、このみは思わず笑いを漏らす。
そんなこのみを、エンツォはチラチラと見やった。
「これですりりんごを食べさせてくれたら最高なんだけどなー……」
「勘弁してください」
「……おぅふ、その笑顔が逆にダメージでかいぜ」
と言いつつも、ダンテのようにゴネるでも言いくるめるでもなく、エンツォは素直にりんごを食べだした。
……ダンテもこのくらい聞き分けが良ければいいのに。
一度ダンテの名前が浮かぶと次々に彼のことが気になり出して、
このみはエンツォに薬を手渡しながら、ぼんやりとダンテの事を考えた。
ダンテ、今頃仕事頑張ってるのかなあ。
いつ頃帰ってくるんだろう。
帰ってきてすぐ何か食べられるように、簡単なものでも作っておこうかな。
エンツォが薬を喉奥に流し込み、コップをテーブルに置いた音でこのみはハタと気付く。
「悪いな、外暗くなるまで世話させて。ダンテに迎えに来てもらったら?」
「あ、今ダンテ依頼でいないんです」
「えっ!?そりゃ悪いことした。えっと……このみちゃんがいいならうちに泊まってってもいいけど……後でダンテが知ったら怖いな」
「大丈夫、1人で帰れます。まだ遅い時間でもないし、今日自転車で来たから」
それに、このみは蝶の悪魔に付け狙われている。
ジャンが消えた日から蝶の出現はパタリとなくなったのだが、万が一ということもあるのだ。
エンツォを巻き込んでしまっては申し訳が立たない。
「明日の朝、また来ますね。ゆっくり養生して下さい、お大事に」
「ちょっ……ちょっと待て、もし帰り道で何かあったりしたら……」
「大丈夫ですよ、心配性だなあ」
このみは苦笑いしながら部屋を出る。
階段を下りて、表へと繋がるドアを開けた。
辺りは真っ暗で、各家から漏れ出る照明や、街灯の頼りない明かりが道を照らしている。
……大丈夫とは言ったものの、夜のスラム街に向けて一人で帰るのは怖い。
いつもなら、遅くなるとダンテが迎えに来てくれていたが、今夜はその彼もいないのだ。
このみは急いで自転車に跨ると、力を込めてペダルを踏みしめた。
なるべく大通りを選んで、かつスピードを緩めることなく夜の道を走る。
幸いなことに何事もなく、このみはデビルメイクライの前に着いた。
事務所の中に足を踏み入れ、鍵をかけたところで、このみはほっと息を吐く。
こんな時平和な日本が恋しくなる。
日本にも治安のいい場所悪い場所はあるだろうが、日常的に銃撃音がするような場所は中々ないだろうから。
このみは照明をつけると、夕飯を用意するためにキッチンへ立った。
* * *
翌早朝、このみはエンツォの家を目指し、まだ静かなスラム街を歩いていた。
何だか早く目が覚めてしまったので、時間を潰すために自転車は使っていない。
結局、昨夜ダンテは帰ってこなかったので、このみは一人で夜を過ごした。
彼がふらりと出て行って朝に帰ってくることもよくあって、このみはもう慣れっこになっていた。
夜には華やかなネオンが輝き、金と人の欲が蠢く繁華街。
それも今は静かで、夜のあの賑やかさはどこへ行ってしまったのか、街にはある種の倦怠感のようなものが漂っている。
このみは薄汚い道を歩きながら、エンツォの容態を考えていた。
そしてとあるバーの横を通り過ぎようとしたその時、ざわりと心が騒いでこのみは足を止める。
視線を向けたその先に、今まさに集合住宅のドアから出てこようとするダンテがいた。
このみの姿には気付いていないのか、こちらに視線を向けることなく歩き出そうとする。
このみは、昨日この近くでダンテと思われる後姿を見かけたことを思い出した。
やはりあれは、彼だったのだろうか。
そんな彼を引き止めるように、一人の女がドアから飛び出して、ダンテの腕を取った。
薄いキャミソールを纏っただけの格好のその女。
遠すぎて顔まではよく分からないが、恐らくこの繁華街の近くで仕事をしているのだろう、派手な雰囲気を持っている。
ざわざわと不快な胸騒ぎがして、このみはぎゅっと拳を作った。
ダンテの腕にその胸を押し付けるようにして、女はダンテに何かを言っている。
甘い雰囲気ではなかった。
女がダンテに何か文句を言っていて、それをダンテがあしらっているようだった。
女の腕を振り解こうと腕を動かすダンテに、更に絡みつくようにして女は縋る。
長い腕をダンテの首に回したかと思うと、彼の顔に女は自らの顔を寄せた。
このみは凍りついたようにその場から動けず、瞬きするのも忘れてその様子に見入っていた。
洋画のワンシーンのような熱烈なキス。
ダンテは特に抵抗するような様子も見せず、女にされるがままになっている。
ようやく満足した女が唇を離すと、距離を取るようにダンテは女の肩を押しのけた。
このみは自分の体が震えていることに気が付いた。
その時、ダンテが何かに気付いたかのように顔を上げたので、このみは弾かれたようにその場から走り出す。
今事務所には絶対に戻りたくなくて、エンツォの家を目指した。
スラム街を抜けてエンツォの家に着いたはいいが、誰とも顔を合わせたくなかった。
それにまだ朝早く、人の家を訪ねるには非常識な時間帯だ。
このみはドアを叩くことも事務所に戻ることもできず、家のドアの前に座り込んだ。
* * *
昨日の晩、このみが朝来ると言っていたので、エンツォは家の鍵を開けるために玄関へ向かった。
熱はほぼ下がっているが、喉はまだ少し痛む。
鍵を開けて、少し外の様子を見ようとドアを押すと、何かにぶつかった。
不審に思ってドアの隙間から窺えば、ドアの前に見慣れた黒髪の少女が座り込んでいた。
「え……このみちゃん!?どうした、調子悪いのか!?」
慌てて声をかけると、このみはゆるゆると顔を上げた。
今にも泣き出しそうな、それでいて不思議と艶っぽい表情をこのみから向けられて、エンツォは狼狽する。
このみは何か言いかけたが、唇を噛みしめると俯いてしまった。
「お、おい……」
そんな彼女の肩に触れようとして、エンツォは喉が痛んで咳き込んだ。
このみはハッと目を見開くと、小さく謝罪を呟きながら家の中へ入る。
「……あの、このみちゃん」
「……エンツォさん、朝ごはん食べました?」
「いや、まだだけど……」
「まだ寝てて下さい。わたし、何か作りますから」
少し引きつったような硬い笑顔を見せるこのみにエンツォは何も言えず、彼女に言われるままベッドルームへ戻った。
しばらくして、このみは部屋のドアを叩いた。
朝食を持って部屋へ足を踏み入れる。
エンツォが朝食を食べている間、このみは部屋の端にある椅子に腰掛け、俯いたきりでずっと黙っていた。
どうしたものか、とこのみが作ったリゾットを口にしながらエンツォは焦る。
「……エンツォさん」
「な、何!?」
唐突に名前を呼ばれて、エンツォは肩を跳ね上げた。
このみは顔を俯かせたまま、ぽつぽつとエンツォに尋ねる。
「エンツォさん、今好きな人います?」
「何、急に……」
「教えて下さい」
「え、えっと……。あ、そーだ、気になる女なら。グレッグの酒屋で働いてるモリー……」
何故律儀に名前まで答えているのだろう、と疑問に思いつつも、常ならないこのみの様子がそうさせていた。
やっと顔を上げたこのみは、憂いを含んだ切ない表情で、エンツォを見つめた。
「わたしが……キスしてほしいって言ったら……エンツォさん、できますか?」
「……………は?…………え、何、えぇっ!!??」
果てしない衝撃がエンツォを襲う。
何故いきなりこのみがそんな事を言うのかさっぱり事態が飲み込めなくて、ただひたすら混乱するしかない。
下がったと思っていた熱が再び上がりだしたかのように、顔が熱くなる。
「ま、まままっま待て待て待て!いくらこのみちゃんと言えどそんな……!!」
「じゃあわたしじゃなくてもいいです。すごくキレイで胸も大きくて、そんな人がキス迫ったら、エンツォさん抵抗できますか?」
「ちょっと……話が見えな……」
「モリーさんじゃない人からキスされたら、嬉しい?」
涙声になり始めたこのみを、エンツォは驚きの眼差しで見つめる。
そして一つの確信が胸を過ぎる。
「もしかして、ダンテとなんかあった……?」
その名を出すと、このみはビクリと反応した。
細い肩が細かく震えるのを見て、エンツォは更に焦る。
「わたしは……わたしだったら、いや、だな……」
ぼうっと呟いたこのみの表情は、少女というよりも女の顔だった。
今まで妹分だと思っていたこのみのそんな表情を垣間見て、エンツォは胸をドキリとさせる。
──わたしだったら、いや?
好きな人以外とはキスしたくない、という意味だろうか?
それなら、このみちゃんが思い浮かべた男って……──
エンツォが考えていると、このみは急に真っ赤になって慌てて立ち上がった。
そんなこのみの姿を見て、「彼女はこの世界で好きな男を作るつもりがない」という話をダンテから聞いたことを思い出す。
「このみちゃ……」
「変なこと聞いてごめんなさい。あの……わたし洗い物して、お昼も作ったら帰りますね!また何かあったら呼んでください」
「ちょっ……」
エンツォが止める間もなく、このみは空になった皿を手に持って部屋を出て行く。
追いかけようとエンツォはベッドから下りかけたが、やめた。
今このみに話し掛けた所で彼女は答えないだろう。
あのこのみの様子からすると……ダンテが何かやらかしたに違いなかった。
──どうする?
何かフォローしてやるべき?
けど具体的に何があったのか知らないのに?
面倒臭さと興味半分が交じり合う。
ダンテのために世話を焼くのは正直煩わしいが、このみにあんな辛そうな顔をさせておいて放っておくこともできない。
とりあえず……落ち着いたら少し調べてみよう。
エンツォはそう決意して、再びベッドの中へ入りなおした。