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俗物なる月の香り

 踊っていた。月灯かりに照らされ、ただ踊っていた。
『イカルスが幾人も来ては、落っこちる』
 ふと、そんな一節が思い浮かぶ。国語の授業で習ったんだっけ。

『にちか、アンケートの回答そろそろよろしくな』
 通知の音がして見ると、こんなチェインが送られていた。CDショップでポップを作り終わって帰ろうとした時だった。なんだか、私がスマホを見る時間を狙われたようで少し腹が立つ。何も返信せずに、画面を消した。
 店長に挨拶をして外に出ると、夜の涼しい風が隣を通り抜けた。そういえば、今日の夕飯当番、私じゃん。一本目の電柱を越えた辺りで思い出す。最寄りのスーパーは事務所の近くにある。悩ましい。
 このまま返信せずにアンケートだけササッと回答しちゃって、もうやりましたけどーって言おうか。『すまんな』って返って来るのが目に浮かぶ。そんなことを考えながら自然に足は事務所の方へ向かっていった。
 普段のアンケートなら、チェイン上でのやり取りだけでもなんとかなるのに。今回のアンケートは手書きが必須とのことで。『アイドルをより身近に』という、たいそうなテーマらしいけど。それなら、今日私が描いたポップの方が身近だと思う。内容のアイドルとも共演したことあるし。もう283プロのホームページのURLを手書きで書いちゃおうか。手書きが身近だというなら、それで十分でしょ。
 事務所は明かりがついていなかった。ホッと胸を撫でおろす。階段を小走りで駆け上がる。玄関に入ると人感センサーが反応して明かりがついた。いやに温かな人工的な明かりが容赦なく照らしてくる。靴を脱ぐと足音を忍ばせて進んだ。
 リビングに入って電気をつけようとすると、手が止まった。返信していないチェインの画面が頭をよぎる。廊下の明かりが中に漏れていた。急いで人感センサーのスイッチを切りに向かう。
 改めて入るリビングは、外から差し込む光で、動くものもなく妙に鮮やかに思えた。魔法にかかって時が止まったような。静寂が耳にうるさく思わず息を潜める。今日は満月だった。
 鞄を扉の横に置いて、私はこのままアンケート用紙を探すことにした。 
 プロデューサーはどうやらファンレターの仕分け中にどこかに行ってしまったようだった。シーズ宛てのファンレターが半分ほどが山になったまま、テレビの前の机を占有していた。山の前には三つの箱があり、私宛と美琴さん宛とシーズ二人宛で分けられていた。私宛の箱に一番多く入っていた。
 例のアンケート用紙はプロデューサーの机の上に置いてあった。アンケート用紙を取ると下から、アンケートと同じ雑誌に載せる予定の写真が出てきた。この中から選んでくれと言われてもいたことを思い出す。よく見ると写真それぞれに小さな付箋がついていた。「手がキレイに映っている」「構図がいい」「優しい表情をしている」そんな中、ひと際目を引く写真があった。私が自分でもうまく撮ってもらったと思っている写真だった。その写真には二枚の付箋が貼ってあった。「第一候補」と書かれている付箋と「私もいいと思います 七草」と書かれていた。

 途端に私を取り巻く光が意識された。月が照らす事務所は砂漠のように静かだった。窓が縁取る光はスポットライトで、私は気が付くとステップを踏んでいた。1、2、3、4、5、6、7、8。慣れ親しんだ動きが、つい身体から出てくる。思わずフレーズを口ずさむ。
「ティ・タ・タ・ティ――」

 ガチャっと後ろで音がした。窓を向いていたから気が付かなかった。振り返るとそこには幽谷さんがいた。リビングの電気を躊躇いなくつけると、それから私に気づいたようで、息を飲んで驚いて言った。
「――ごめんなさい…」
 目を見開いて言葉にならない悲鳴が口の端から漏れていた。私は不自然な体勢で止まっていた身体を気を付けの姿勢に直した。やってしまった。
「い、いえ…」
 私は手に握ったままだったアンケート用紙を示しながら言った。
「…このアンケート取りに来ただけだったので」
 口が渇く。本当のことしか言ってないのに、声が震えそうになる。まずい。いたたまれない。叫んで逃げ出したい。美琴さんじゃなくてよかった、と思う気持ちと他の人に言われるんだろうかという不安で押しつぶされそうだった。幽谷さんは何で何も言わないんだろう。違うとか、そうなんだとか、何でもいいから言ってほしい。
「――失礼します」
 いや、さっさと帰ろう。変に勘ぐられない方がいい。鞄を拾って幽谷さんの隣を抜けようとした時、
「あの…」
 と、話しかけられた。何で今このタイミングで。
「はい?」
 つとめて、感情が混ざらないように返す。幽谷さんは私の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「踊ってても…いいんだよ。みんなの、事務所だから…。練習中…だったんだよね」
 顔がサッと熱くなる。頭の中で、誤魔化せって叫んでる自分がいる。幽谷さんの顔をまともに見れない。
「――え、えぇ。もちろん、シーズの七草にちかですので!」
 嘘。あぁ、なんでこんなこと言っちゃうんだろう。シーズを言い訳にしちゃった。美琴さんの感情の読めない顔が頭の中に飛来する。うつむいたまま、私はもう帰ろうと扉の方に身体を向けた。実は、幽谷さんがシーズのダンスじゃなかったと気付いてたらどうしよう。指摘、とかはしないだろうけど。そしたら、新曲で…って言えば…。
「好き…なんだね……」
 そう、微笑むと幽谷さんが言った。
 眠れなくて、リビングでぼーっとしていた時にだしぬけに起きてきたお姉ちゃんが作る温かいミルクを、なぜだか思い出した。

「…そ、それじゃ、これから寄るところがあるので! お疲れ様です!」
「お疲れ様です…!」
 幽谷さんは窓際の鉢植えへ向かっていった。
 スーパーに行くと、ちょうど惣菜の値引きのタイミングで夕食のおかずが一品増えた。店を出ると月が涼しげな視線を投げかけていた。太陽に灼かれ落とされたイカルスは月を目指していたらうまくいったのだろうか。そんなことが頭をよぎる。いや、私は、それでも、太陽への気持ちをなかったことにはできなかったんじゃないかって思う。
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