食べられるオブラート
タイムセールは人の本性が出ると思う。他人を押しのけてでも商品を得る人の顔を見ると、多少の人間不信を起こす程だ。パートの私には嫌な思い出しかない。フロア担当になれば戦場の後始末をしなければいけないし、レジ担当になれば一つ二つしか買わない血気盛んな客を何人も相手にしなければいけなくなる。買えなかった客からの嫌味の対応もパートの仕事だ。毎回、人員が足りずにてんやわんやで猫の手も借りたくなる。店員側でタイムセールを楽しみにしてるのは店長くらいなもんだった。
レジで卵一パックしか買わない客を五人連続で相手した後、私は気疲れを起こし顔を上げた。レジは全て埋まっていて、まだまだ奥まで人が並んでいた。思わず溜め息が出そうになる。こんな忙しい時にはいつも頭に浮かぶ人がいる。もう前の職場の人なのにも関わらず、あの子が来ないかなんて思ってしまう――。
目の端に、見覚えのある柔らかそうなヨモギ色の髪が入り込んだ。自分でも呆れるような速さでその方向を見てしまう。けど、その子は違う子だった。髪の色と垂れ目は一緒でどこか既視感がある気もするが、髪型がショートカットだし何より雰囲気が違った。身体中から不機嫌なオーラを漂わせて、後ろからスーツを着た男性が申し訳なさそうな様子で話しかけていた。その男性も垂れ目だったから、兄とかなのかもしれない。待っていた人に急かされ視線を外すと、次に見た時にはもういなかった。
帰宅の途上でも今日思わず目を引いたあの客のことが気にかかった。七草ちゃんのことを思い出している時に似ている人と会ったからなのかとも思ったが、それとは別の理由がある気がした。あの客をどこかで見たことがあるような。もちろん、あのスーパーの利用客なんだから見覚えがあるのは当たり前だとも思いつつ、それとは他のところで見たことのある気持ちが拭えなかった。
リビングの机には、私が作り置きしておいた夕飯が食べっぱなしで、ラップもせずに食卓に残っていた。食べ終わった皿もそのままだった。
「澪、食べ終わったら片づけてって言ってるでしょ」
「えー、はいはい」
澪は私のことを見ずにテレビを見ながら言った。まだ部屋着ではなく制服のままで絨毯に寝そべっていた。いつも通りのことだけど、言うだけで動こうとはしない。仕方なく横目で見ながら澪が食べ終わった皿を流しに持っていく。こういうとこ、ママ友からは甘いって言われるんだろうなって思う。私は注意したり叱ったりするのが苦手だった。人に強く物が言えない。押しにも弱い。今の職場も前の職場の店長に言われて移っていた。そのことを突きつけられるからか、今の職場は何となく好きになれないでいた。
その性格が仇となり、近頃澪に対する私の接し方がぎこちなくなっていた。最近帰ってくるのが遅くなりがちなことの理由を聞き出せないでいる。夫は彼氏でもできたんじゃないかって楽観的に言っていたが、一度直接聞いてみてもはぐらかされて理由は教えてくれなかった。その時に強く出れず、引き下がってしまった。それから、ずっと悶々として、気が付くと証拠を見つけようと澪の行動に注視してしまう。そういった目を光らせている自分には、嫌気が差してくるし疑っているようで申し訳なさも込み上げてくるが止められなかった。そういえば、帰ってくるのが遅くなったのと同じ時期に私の使わなくなった姿見を欲しいと言っていた。私が同じくらいの時には彼氏なんていなかったのに。
テレビではバラエティ番組をやっていた。何かミニゲームのような物をやっている。昔は楽しんで見ていた時期もあったが、本質的には私の子どもの頃からやっていることは変わらない。替えのきく似た人が同じ席に座っていることに気付くと、急速に興味が薄れ出演者の顔の違いも分からなくなった。
でも、その日は目を引く人が映っていた。雛壇芸人の雑ないじりに切れ味鋭く返している高校生くらいのアイドル。スーパーで見た時と雰囲気が少し違うが、あの子だと確信した。
「澪、今の子、名前なんて言うの?」
私は冷めてしまった夕飯を温めながら聞いた。食い気味な感が出てしまったことが否めない勢いだった。
「にっちーだよ。七草にちかちゃん」
澪は得意気に笑いながらこっちを見て言った。頭が少しくらくらする。
翌日、夫と澪の朝食とお弁当を作って見送ると私は二度寝した。次に目が覚めた時には十二時を回っていた。今日は特に予定がないから急がなくてよかった。朝ごはんの残りとお茶漬けで簡単に昼ご飯をすます。テレビのザッピングをしていると三分クッキングをやっていた。そういえば、もう野菜がなかった。曜日もちょうどいいし午後は買いに行こう。夜は何にしようか。最近作ってないし、澪の好きなハンバーグにでもするか。
タイムセールには負けるものの、馴染みの八百屋は十分に安かった。決まった曜日にしか店を開けないが、農家もやっているオーナーが形の悪いものを安く販売してくれていた。地元でも一部の人しか知らず、私も仲のいいママ友に教えてもらうまで知らなかった。スーパーを職場にすると、そのスーパーが使いにくくなる。ここ最近は専ら八百屋で野菜を買っていた。
その店で珍しい人に会った。七草ちゃんだった。
「久しぶり」
と話しかけると、意外なことに、七草ちゃんも私のことを覚えていてくれていた。もう辞めてからしばらく経つから、覚えていてくれたことに少し嬉しさを覚える。まぁ、最近何かと思い出してばかりで私としては久々な気はしないのだけど。
天気の話から物価の話、最近の仕事の話まで話をした。最近は事務の仕事が忙しくてスーパーには顔を出せていないと言っていた。今も事務の仕事の昼休みに買いに来ているとのことだった。八百屋では、私たちの他には店番の人しかおらず、店番の人が見ているテレビの音がここまで聞こえてきた。
「…そういえば、もし違ったら申し訳ないんだけど」
私は思い切って気になっていたことを聞いてみた。
「妹さんっていたりする?」
澪に名前を教えてもらった後、私はネットでその名前を検索して、姉がいるという情報を知った。さすがに、姉の名前までは分からなかったが、珍しい苗字、似た髪色と垂れ目から七草ちゃんじゃないかという考えがずっと私の頭を占めていた。失礼かと思ったが、この場を逃がすと一層もやもやしそうだった。
「えぇ、いますよ〜。あ、もしかして、テレビとかで見ました~?」
案外あっさり答えてくれた。若干拍子抜けする。ネットで読んだダンスが上手いという情報をさぞ見たかのように言うと、くすぐったそうに笑って、家でも暇さえあれば身体作りしてますよ〜と教えてくれた。思わぬ好反応に知ったかぶりをしたことを申し訳ない気持ちになる。これ以上続けて墓穴を掘るのが嫌だった私は、話題を自分の娘の話に移した。
「なんか、最近、娘のことが分からなくて。遠くに行っちゃった気がするのよね。私の娘も七草ちゃんや妹さんみたいに立派に自立した人になれればいいんだけど」
つい愚痴っぽくなってしまう。
「…自立した人、ですか~」
七草ちゃんは言い淀んだ。そして、それから小さく笑った。
「ふふ、実は私、最初から妹のことを応援できていた訳じゃないんですよ~」
「え? そうなの?」
ネットには、昔からアイドルになりたくて子どもの頃は家でライブごっこをよくしたと書いてあった。
「えぇ、そうなんですよ〜。家だと様子が違うと言うか――。それに、アイドルっていつまでも続けられる訳じゃありませんし、特に女性アイドルは」
七草ちゃんは下を向いて、キャベツに手を伸ばしていた。そのキャベツは形が非対称で歪になっていて、表面の葉は虫食いがひどかった。
「それで、最初は反対したんですけど、やっぱり変わらない部分ってあるな~って思うことがあったんですよね~。妹も私が反対するって分かっててアイドルになりたいって言ってたけど、でもそれは私のことが嫌いって訳じゃないから」
何と返したらいいか分からなかった。少し心がざわつく。私も惹かれるようにキャベツに手を伸ばした。
「ですので、娘さんもきっと大丈夫ですよ~」
七草ちゃんは、私が忙しい時に思い出す想像通りに、頼りになる調子で言った。その横顔が陽光に照らされ眩しかった。
「…ありがとう」
私はそれしか言えなかった。
澪が産まれる前、私はずっと年を取っていない気がしていた。十七歳辺りから見えるものも見るものも見方も変わらず、成長している気がしない。私という人間はもう完成されたのだと思ってた。けど、澪が産まれてから成長するにつれ、私も一年一年とまた年を取り始めた。昔は洗顔のたびに鏡に映る自分の姿が普段思い描く自身のイメージと違っていることが嫌だったが、今では不思議な納得感すら生まれている。皺の一本一本でさえ、少し愛おしさを感じる程だった。
家に帰ってから、夕飯の準備の時刻までには時間があった。家の中の空気が澱んでいる気がして換気をする。そうすると、ついでに掃除もしたくなった。普段通り、私と夫の寝室、リビング、玄関、風呂場、トイレを掃除すると、澪の部屋だけ残った。いつもは何があっても入らないでって言われている澪の部屋には掃除でも入ることはしないのだけど、今日はなんだか気持ちを抑えられそうになかった。掃除機を片手に持ち、誰もいないと分かってはいるけど、一応部屋をノックして反応を見る。もちろん、返事はない。覚悟が決まった。恐る恐るゆっくりドアを開け中に入った。
部屋に入った瞬間、思春期特有のオレンジ色をイメージさせる匂いが鼻をついた。すかさず、窓を開け換気をする。部屋は案外キレイに片付けられていた。窓から入る風がカーテンを揺らし、その隙間から差し込む光が部屋に舞った埃を鮮やかに描き出した。ベッドが置かれ、衣装箪笥が置かれ、簡単な化粧台と姿見ち勉強机もあり、昔一人暮らしを始めた頃を思い出すような部屋だった。
と、窓際にあった勉強机の上で何かが風に吹かれ捲れそうになっているのを発見した。それは、書きかけの手紙だった。見るつもりはなかったけど、うっかり最初の一文が目に入ってしまった。
『最近、にちかちゃんの影響でダンスを始めました』
少し早い春を告げる陽気な風が手紙の端を揺らした。私はにちかちゃんのダンスを見てみようと心に決めた。
レジで卵一パックしか買わない客を五人連続で相手した後、私は気疲れを起こし顔を上げた。レジは全て埋まっていて、まだまだ奥まで人が並んでいた。思わず溜め息が出そうになる。こんな忙しい時にはいつも頭に浮かぶ人がいる。もう前の職場の人なのにも関わらず、あの子が来ないかなんて思ってしまう――。
目の端に、見覚えのある柔らかそうなヨモギ色の髪が入り込んだ。自分でも呆れるような速さでその方向を見てしまう。けど、その子は違う子だった。髪の色と垂れ目は一緒でどこか既視感がある気もするが、髪型がショートカットだし何より雰囲気が違った。身体中から不機嫌なオーラを漂わせて、後ろからスーツを着た男性が申し訳なさそうな様子で話しかけていた。その男性も垂れ目だったから、兄とかなのかもしれない。待っていた人に急かされ視線を外すと、次に見た時にはもういなかった。
帰宅の途上でも今日思わず目を引いたあの客のことが気にかかった。七草ちゃんのことを思い出している時に似ている人と会ったからなのかとも思ったが、それとは別の理由がある気がした。あの客をどこかで見たことがあるような。もちろん、あのスーパーの利用客なんだから見覚えがあるのは当たり前だとも思いつつ、それとは他のところで見たことのある気持ちが拭えなかった。
リビングの机には、私が作り置きしておいた夕飯が食べっぱなしで、ラップもせずに食卓に残っていた。食べ終わった皿もそのままだった。
「澪、食べ終わったら片づけてって言ってるでしょ」
「えー、はいはい」
澪は私のことを見ずにテレビを見ながら言った。まだ部屋着ではなく制服のままで絨毯に寝そべっていた。いつも通りのことだけど、言うだけで動こうとはしない。仕方なく横目で見ながら澪が食べ終わった皿を流しに持っていく。こういうとこ、ママ友からは甘いって言われるんだろうなって思う。私は注意したり叱ったりするのが苦手だった。人に強く物が言えない。押しにも弱い。今の職場も前の職場の店長に言われて移っていた。そのことを突きつけられるからか、今の職場は何となく好きになれないでいた。
その性格が仇となり、近頃澪に対する私の接し方がぎこちなくなっていた。最近帰ってくるのが遅くなりがちなことの理由を聞き出せないでいる。夫は彼氏でもできたんじゃないかって楽観的に言っていたが、一度直接聞いてみてもはぐらかされて理由は教えてくれなかった。その時に強く出れず、引き下がってしまった。それから、ずっと悶々として、気が付くと証拠を見つけようと澪の行動に注視してしまう。そういった目を光らせている自分には、嫌気が差してくるし疑っているようで申し訳なさも込み上げてくるが止められなかった。そういえば、帰ってくるのが遅くなったのと同じ時期に私の使わなくなった姿見を欲しいと言っていた。私が同じくらいの時には彼氏なんていなかったのに。
テレビではバラエティ番組をやっていた。何かミニゲームのような物をやっている。昔は楽しんで見ていた時期もあったが、本質的には私の子どもの頃からやっていることは変わらない。替えのきく似た人が同じ席に座っていることに気付くと、急速に興味が薄れ出演者の顔の違いも分からなくなった。
でも、その日は目を引く人が映っていた。雛壇芸人の雑ないじりに切れ味鋭く返している高校生くらいのアイドル。スーパーで見た時と雰囲気が少し違うが、あの子だと確信した。
「澪、今の子、名前なんて言うの?」
私は冷めてしまった夕飯を温めながら聞いた。食い気味な感が出てしまったことが否めない勢いだった。
「にっちーだよ。七草にちかちゃん」
澪は得意気に笑いながらこっちを見て言った。頭が少しくらくらする。
翌日、夫と澪の朝食とお弁当を作って見送ると私は二度寝した。次に目が覚めた時には十二時を回っていた。今日は特に予定がないから急がなくてよかった。朝ごはんの残りとお茶漬けで簡単に昼ご飯をすます。テレビのザッピングをしていると三分クッキングをやっていた。そういえば、もう野菜がなかった。曜日もちょうどいいし午後は買いに行こう。夜は何にしようか。最近作ってないし、澪の好きなハンバーグにでもするか。
タイムセールには負けるものの、馴染みの八百屋は十分に安かった。決まった曜日にしか店を開けないが、農家もやっているオーナーが形の悪いものを安く販売してくれていた。地元でも一部の人しか知らず、私も仲のいいママ友に教えてもらうまで知らなかった。スーパーを職場にすると、そのスーパーが使いにくくなる。ここ最近は専ら八百屋で野菜を買っていた。
その店で珍しい人に会った。七草ちゃんだった。
「久しぶり」
と話しかけると、意外なことに、七草ちゃんも私のことを覚えていてくれていた。もう辞めてからしばらく経つから、覚えていてくれたことに少し嬉しさを覚える。まぁ、最近何かと思い出してばかりで私としては久々な気はしないのだけど。
天気の話から物価の話、最近の仕事の話まで話をした。最近は事務の仕事が忙しくてスーパーには顔を出せていないと言っていた。今も事務の仕事の昼休みに買いに来ているとのことだった。八百屋では、私たちの他には店番の人しかおらず、店番の人が見ているテレビの音がここまで聞こえてきた。
「…そういえば、もし違ったら申し訳ないんだけど」
私は思い切って気になっていたことを聞いてみた。
「妹さんっていたりする?」
澪に名前を教えてもらった後、私はネットでその名前を検索して、姉がいるという情報を知った。さすがに、姉の名前までは分からなかったが、珍しい苗字、似た髪色と垂れ目から七草ちゃんじゃないかという考えがずっと私の頭を占めていた。失礼かと思ったが、この場を逃がすと一層もやもやしそうだった。
「えぇ、いますよ〜。あ、もしかして、テレビとかで見ました~?」
案外あっさり答えてくれた。若干拍子抜けする。ネットで読んだダンスが上手いという情報をさぞ見たかのように言うと、くすぐったそうに笑って、家でも暇さえあれば身体作りしてますよ〜と教えてくれた。思わぬ好反応に知ったかぶりをしたことを申し訳ない気持ちになる。これ以上続けて墓穴を掘るのが嫌だった私は、話題を自分の娘の話に移した。
「なんか、最近、娘のことが分からなくて。遠くに行っちゃった気がするのよね。私の娘も七草ちゃんや妹さんみたいに立派に自立した人になれればいいんだけど」
つい愚痴っぽくなってしまう。
「…自立した人、ですか~」
七草ちゃんは言い淀んだ。そして、それから小さく笑った。
「ふふ、実は私、最初から妹のことを応援できていた訳じゃないんですよ~」
「え? そうなの?」
ネットには、昔からアイドルになりたくて子どもの頃は家でライブごっこをよくしたと書いてあった。
「えぇ、そうなんですよ〜。家だと様子が違うと言うか――。それに、アイドルっていつまでも続けられる訳じゃありませんし、特に女性アイドルは」
七草ちゃんは下を向いて、キャベツに手を伸ばしていた。そのキャベツは形が非対称で歪になっていて、表面の葉は虫食いがひどかった。
「それで、最初は反対したんですけど、やっぱり変わらない部分ってあるな~って思うことがあったんですよね~。妹も私が反対するって分かっててアイドルになりたいって言ってたけど、でもそれは私のことが嫌いって訳じゃないから」
何と返したらいいか分からなかった。少し心がざわつく。私も惹かれるようにキャベツに手を伸ばした。
「ですので、娘さんもきっと大丈夫ですよ~」
七草ちゃんは、私が忙しい時に思い出す想像通りに、頼りになる調子で言った。その横顔が陽光に照らされ眩しかった。
「…ありがとう」
私はそれしか言えなかった。
澪が産まれる前、私はずっと年を取っていない気がしていた。十七歳辺りから見えるものも見るものも見方も変わらず、成長している気がしない。私という人間はもう完成されたのだと思ってた。けど、澪が産まれてから成長するにつれ、私も一年一年とまた年を取り始めた。昔は洗顔のたびに鏡に映る自分の姿が普段思い描く自身のイメージと違っていることが嫌だったが、今では不思議な納得感すら生まれている。皺の一本一本でさえ、少し愛おしさを感じる程だった。
家に帰ってから、夕飯の準備の時刻までには時間があった。家の中の空気が澱んでいる気がして換気をする。そうすると、ついでに掃除もしたくなった。普段通り、私と夫の寝室、リビング、玄関、風呂場、トイレを掃除すると、澪の部屋だけ残った。いつもは何があっても入らないでって言われている澪の部屋には掃除でも入ることはしないのだけど、今日はなんだか気持ちを抑えられそうになかった。掃除機を片手に持ち、誰もいないと分かってはいるけど、一応部屋をノックして反応を見る。もちろん、返事はない。覚悟が決まった。恐る恐るゆっくりドアを開け中に入った。
部屋に入った瞬間、思春期特有のオレンジ色をイメージさせる匂いが鼻をついた。すかさず、窓を開け換気をする。部屋は案外キレイに片付けられていた。窓から入る風がカーテンを揺らし、その隙間から差し込む光が部屋に舞った埃を鮮やかに描き出した。ベッドが置かれ、衣装箪笥が置かれ、簡単な化粧台と姿見ち勉強机もあり、昔一人暮らしを始めた頃を思い出すような部屋だった。
と、窓際にあった勉強机の上で何かが風に吹かれ捲れそうになっているのを発見した。それは、書きかけの手紙だった。見るつもりはなかったけど、うっかり最初の一文が目に入ってしまった。
『最近、にちかちゃんの影響でダンスを始めました』
少し早い春を告げる陽気な風が手紙の端を揺らした。私はにちかちゃんのダンスを見てみようと心に決めた。